隧道レポート 恋路海岸の古隧道

所在地 石川県能登町
探索日 2018.10.26
公開日 2018.11.17


場所は37.368837, 137.241805

地図上には表示されていませんが、人が通る程度の大きさのトンネルがあります

写真を撮っていたのですがどこに行ったか分からないので添付できませんが、確か石造りであったかと思います

ストリートビューで、近くの道からわずかに入口を見れます

読者のなやはる様から、以上のような情報が寄せられた。

なんでも、人が通れる程度の大きさの石造隧道があるという。
しかもそれは、googleストリートビューでも僅かに見えるというので、教えられた座標を入力して見てみると…

確かに、見える!

かなり小さく、坑門のアーチの一部が見えるだけだが、これは無視しがたい。
石造隧道はもとより大好物だし、何より、このストリートビューの“見え方”は扇情的すぎる。あと数歩だけ前に進めば、全貌が見えるだろうというこの“見え方”に、好奇心を刺激されて仕方がない。
そんなわけで、先日の能登遠征探索の途中に立ち寄ってみたのだ。


【位置図(マピオン)】

レポートの前に、位置の確認。
この隧道情報の現場は、能登半島のかなり突端に近い能登町の北部海岸沿いにある。
とても細長い半島だけに、半島の基部にある県庁所在地の金沢からは、おおよそ130km離れている。これは、道路が相当整備された現在でもなかなか遠いと思える距離であり、半島的な不便さを無視できない位置にあるといえる。

そしてもうひとつ印象的なのが、地名の珍しさだ。現場は恋路(こいじ)という集落であり、大字である。
色恋に関する文字は、あまり地名に採用されないれていない印象があるだけに、目を惹いた。
以下は、『角川日本地名辞典石川県』に掲載されていた、「恋路海岸」の解説文だ。

恋路海岸珠洲(すず)郡内浦町の東北端,恋路地内の海岸。尾ノ崎から北方,小恋路ノ浜(ここいじのはま)に至る1.4kmで,能登半島国定公園第3種特別地域。尾ノ崎・矢倉崎・弁天島など,中新世の玄武岩からなる岩石海岸に,複雑な浸食作用を受けた凝灰岩類からなる奇岩・砂浜海岸が調和して美観をなす。悲恋物語の伝承があり,「能登名跡志」に「夫より恋路の村の名ありといへり」とある。この伝承にちなむ恋路観音像と男女のブロンズ像がある。昭和42年町営海水浴場が造られ,以後,景観美と地名からくる浪漫的なイメージから,毎年多くの観光客が訪れ,民宿村となった。毎年7月17日に行われる恋路の火祭りは奇祭として有名。
『角川日本地名辞典石川県』より転載

これを読むと、近年に観光目的から付けた地名ではなく、近世以前からあったことが分かる。
そんな恋路の地にあって、高度なチラリズムでもって私を誘った魅惑の隧道の姿を、ご覧いただこう。



恋路に禁じ手は無いということが分かる隧道


2018/10/26 6:58 《現在地》

これは、恋路ロマンチックパークと銘打たれたビュースポットから見る、恋路海岸の風景だ。
能登国定公園を構成する景勝の一つであり、特に若い層に人気のスポットという触れ込みだが、
朝日が眩いこの時間、恋人たちはまだねぐらの中にいるのか、この美景を前にしているのは、私と釣り人ひとりだけだった。

目の前の海上に浮かんでいる小島が、この風雅な地名命名譚の舞台となった弁天島であり、
奥に見える半島のようなシルエットが、これから向かう隧道発見譚の舞台である尾ノ崎である。



せっかく来たのだから、このロマンチックパークを単なる探索場最寄りの便利な駐車場として使うだけではなく、少しは希少な地名のロマンに触れてみたいと思う。

沖合に浮かんでいる弁天島が、この地の景観の主役ではあるようだが、陸上にも奇岩が林立しており、中でも異彩を放っていたのが、この「ソフトクリーム岩」だ。
周囲を取り囲むようにフェンスがあり、立ち入り禁止にされているのだが、その注意書きの文面が奮っていて、印象的だった。

あなたの恋も砕けるおそれがあるので中には入らないでください。

――これは、大変な“人質”を取られたものである。
世の道路管理者もこれを見習い、各地の通行止め表示にこの文言を追加するのはどうだろう。特に廃トンネルの壁面にスプレーで相合い傘を書く層に絶大な効果があるかもしれない。

地名の由来を知りたい人には、こちらの案内板が役目を果たしてくれる。(→)

約700年前というから、鎌倉時代の悲恋物語に端を発する地名であるらしい。
内容としては各地に同型のものがしばしば見られる、3人の男女の三角関係を扱ったものだ。
隣に英語版の解説文があるのも親切だが、日本語版では修正されて「能登町」になっている地名が、合併以前の「内浦町(UCHIURA TOWN)」のままになっているのが惜しい。
あと、日本語版よりだいぶ解説が丁寧である。例えば、日本人には説明不要と思われる「恋路」という言葉の意味を、“The road to love” と解説してくれたりしている。これは直截にすぎ、ますます愛欲の濃い地名と思われそうだ。

…って、いつまで恋路の説明をしているのか。無縁なんだから、さっさと愛する隧道へ行け。



7:02 《現在地》

ロマンチックパークから300mばかり海岸沿いの道(旧国道)を南下して、尾ノ崎の小半島の付け根までやってくると、ご覧の分岐地点が現われた。

旧国道は左の道で、海岸線に沿って迂回するようについているが、ストリートビューで隧道の片鱗を見たのは、右の道の奥である。
地図を見れば明らかなとおり、右の道は尾ノ崎の蛇行に一切付き合わず、極めて直線的に稜線を乗り越える進路を採っている。
両者の道は尾ノ崎を越えた先で再び一つになるが、そこまでの距離は左が約600m、右が約400mという差がある。
端的に言って、右の道がより古道っぽいルートだと感じるが、分岐の風景もそのことを裏付けるようだった。



右の道は、狭くて険しい道のりであるようだ。
(←)入口に立つ、一部の文字が消えかけた看板が、そのことを予告していた。
はっきり見える「通行注意」の前行には、「急坂・道幅狭い!」と、書かれてあった。

(→)そして実際に足を踏み入れてみると、看板に偽りなしということを、すぐさま理解した。
現代の進化した自動車ならば、こんな道でも登っていけるのに違いないが、人力や畜力は無論として、非力だった一昔前の自動車も、この坂道の登攀は大変だったと思う。
そんな理由から遠回りだが平坦に近い新道が車馬のために作られて、それがいまの旧国道なのだと想像できた。
ちなみに2001年に切り替えられた現在の国道は、内陸側の丘陵上をもっともっと直線的に貫いていて、もはや尾ノ崎の小さな凹凸には少しも拘泥していなかったりする。



ちなみに今回も自転車を車から降ろして探索しているが、急坂の入口から50mばかり進んだ左側に、脇道があった。
いま上っている道も急ではあるのだが、それが霞むほどの急坂で、半ば落ち葉に埋もれたような階段が続いていた。
そして傍らには、「恋路観音参詣道」と書かれた標柱が、これまた目立たぬ感じで棒立ちしていた。

恋人の聖地的な演出がなされていて、ロマンチックであると同時に少し軽薄な雰囲気も漂わせていた冒頭の“恋路”と比べて、こちらは“戀路”と、敢えて旧字体で表現したくなるような重厚な雰囲気があった。少なくとも、カップルがサンダル履きで行くような所ではなさそうだった。
アマノジャクの私などは、多少興味を惹かれはしたものの、目指すべき隧道の位置がなまじ分かっているだけに、そこから離れる寄り道をする気にもならず、スルーした。

右の写真は、急坂をさらに進んでいったら見つけた、路上のマンホールの蓋。
「ROMANTIC TOWN 内浦町」と書かれているから、平成17(2005)年に能登町になる以前のものだ。海と山が合わさって大きなハートマークの意匠を作る、なかなか凝ったデザインだった。



7:04 《現在地》

いくら急坂とは言えども、本気で相手にするようになるには、あまりにも短かった。
入口から約100mといったところで、早くも「ストリートビュー」で見た分岐地点

――隧道の入口がチラリズムしていた、あの分岐――

が、見えて来たのである。 今回はもう決着がつく。



間違えようもないが、ストリートビューの場所は、ここである。

道は二手に分かれているが、どちらも尾ノ崎の尾根を越える方向へ上っているところは共通している。
右の道はこれまで通りの急坂を維持したまま、峠の頂上を間もなく極めんとしていた。明るさと地形と地図から、それが分かった。

対して、隧道の存在を教えられており、現に肉眼でその姿が見え始めている左の道は、この先の上り方はだいぶ緩やかであって、尾根を少し低い位置で潜り抜けようとしているようだった。




右図は、最新の地理院地図を拡大したものだが、隧道や、ここから隧道へ続く道は描かれていない。
チェンジ後の画像に、それらを書き加えている。

さて、ここで分かれる2本の道の関係性を、どう見るべきか。
もしも別々の目的地を持つ無関係の道なら無駄な考察になるが、そうでないとしたら、これはいかにも、峠越えの新旧道の関係を思わせる。
もちろん、新道は隧道がある左側の道だ。
しかし、現在も使われ続けているのは、旧道のように見える右の道だという捻れた現実があった。これは、ちょっと興味深い。



確かに、隧道は存在している!

事前にストリートビューで見られたのは、この距離までだった。
勿体ぶるわけじゃな…… いや、嘘は止そう。私はいつもこうして、自分を勿体ぶらせながら、見つけた隧道を咀嚼している。
まずはこの位置から、ファーストインプレッションの観察だが……

大丈夫か、この隧道?

五体満足か? なんというか、半身しかないように見える。
それが単に、手前にある大きなコンクリート擁壁の影になっていて見えないだけなら問題ではないが、ここから見る限り両者は相当に近接しているし、隧道の中に光が見通せないことも、不安材料だった。
もっとも、封鎖されている様子がないことから、単純な廃隧道にも見えないが…。
隧道までの道の様子も、なんとも微妙だった。



貫通もしてるッ!

これで、ホッと一安心。

地形から予想はしていたが、かなり短い隧道である。
そしてサイズも小さい。「人が通れるくらい」という事前情報の通りだ。
自転車やバイク、小型四輪までならば車両も通れるが、どちらにしても小型のトンネルである。

また、ここから見えるシルエットで、覆工がなされていることが分かる。素掘りではない。
これも事前情報通りであれば、石造隧道ということになるが、まだそこまでは確認できない。

坑口前の道は一応舗装がされているが、腐葉土や落ち葉、枯れ枝に半ばまで埋もれている。
また、右側のコンクリート擁壁が、道路を圧するように高く、近い。そのため、隧道の存在感が食われている。この上には民家がある。

さあ、坑口前に到着!




7:05 《現在地》

石造隧道だ!!

それも、坑口だけが石造というのではなく、内壁も含めて石造りによる、純石造隧道である。
地域差はあるものの、全国的に見て道路用の石造隧道は希少であり、これは嬉しい!

坑口は、坑道のアーチリングがそのまま地上へ突出したような、壁のない造りになっている。
石造隧道としてはかなり珍しい形態だ。そして、アーチリングは石巻だが、後年の補修であろう、
左半分が場所打ちされたコンクリートに置き換えられており、アーチの美観という意味では著しく失点している。
石造隧道が文化財と評価される以前に、道として効率的に生きることを優先された外見だった。



遺存している石アーチ部分の近影。
使われているのは、しばしば土木構造物に用いられる、凝灰岩の石材とみられる。有名な大谷石や、かつて房総の鋸山などで産した房州石(いずれも凝灰岩)に似ている。
また、表面に目立つノミの痕がないので、石切鋸のようなもので成形したのだろう。これは加工の容易な軟質の石であることを示す。

坑門のアーチリングを構成する石を迫石(せりいし)といい、そこは隧道の顔であるだけに、しばしば装飾的な加工が施されるが、この隧道にはそれがなく、無造作だ。
芸術点という意味では減点だが、質実剛健と好意的に評価したい。石材で隧道を覆工したいという目的に照らせば、何ら問題にはならないのだ。

この隧道は見るからに土被りが浅く、それだけ地中も風化していて軟弱そうである。したがって圧壊を免れる必要性に迫られて、手間のかかる覆工を全体に行った可能性が高い。
そこに石材を用いた理由は、単純にコンクリート出現以前というほど古いせいなのか、それ以外の理由もあるのかはまだ分からないが、いずれにしても理には適っている。
恋路は昔から観光地だったと思われるが、この隧道は伊達や酔狂ではなさそうだった。




内部から北口を振り返る。

巨大なコンクリート擁壁が、隧道断面を僅かに圧迫していることが分かる。
これが通常の道路における擁壁と坑門の関係であれば、酷くちぐはぐな施工だと思うが、両者の施工時期には非常な隔たりがあると考えられることと、そもそもここが私道ではない保証もないので、なんとも言えない。
しかしいずれにせよ、この巨大な擁壁のために隧道北口は本来の全景を喪失している。




隧道内部の様子。

隧道内もアスファルトかコンクリートで舗装されており、これも後年の改修によると思う。

内壁は全面的に石積みであったようだが、現在は広い範囲にわたって目地だけでなく表面にまでモルタルが薄くコーティングされており、まるでコンクリートトンネルのようにつるりとした風合いになっている部分が多い。これもやはり後年の補修によるのだろう。

この写真でも、内壁の模様は石造隧道のそれというよりも、コンクリートの養生に当てられていた実板(さねいた)の跡のように見えると思う。
特に補修が濃い部分は、石材由来の模様がほとんど失われていた。

……というか、ちょっとおかしいのである。

私は、気付いてしまった。

この隧道の石の積み方って……



なんかじゃないっすか?!

いや、「変」というのは、ちょっと語弊がある。
これだとなんとなく劣るイメージがつきまとってしまう。「独特」と言おう。

今までいろいろな石造隧道を見てきたが、これは、なんとも独特な積み方がなされている。

といっても分かりづらいかも知れないので、先に一般的と思える石造隧道の積み方を見てもらいたい。
右写真は、おそらく日本一有名な石造道路隧道である、天城山隧道(静岡県、明治38(1905)年完成、国の重要文化財)の内部だ。

天城山隧道の石材の積み方は、石造隧道では一般的な「布積み」である。石の長さは均一ではないが(均一の場合もある)、目地がトンネルの進行方向に揃っていて、断面方向には不揃いである。このように、水平方向にのみ揃った目地を「馬目地」と呼ぶ。

改めて、恋路の隧道の石材の積み方を見て欲しい。
目地は、トンネルの進行方向に不揃いだが、断面方向に揃っている。これは天城山隧道と逆だ。
このような目地の呼称を知らないが、ようは1列(1段ではなく)ごとに完結したアーチになっている。
アーチ構造としての最低限の強度は確保されているだろうが、隣り合う列と噛み合うことによる摩擦がないので、明らかに天城山隧道より脆弱だろうし、この積み方で天城山隧道のように大きな断面の隧道を作ることは難しいと思われる。
何かメリットがあるとしたら、施工の容易さが想像できるが、石造隧道としてはとても変った積み方だ。(同じ積み方の隧道を知っている人がいたら、ご一報ください。)


やべぇぞ(笑)

禁断の
“芋目地”出現だ!

芋目地とは、目地が単純な十字路になっているものを言う。
イモという名前だが、別に馬鹿にしたネーミングではなく、美観と施工性に優れることから、実際塀などではよく見かけるオーソドックスな積み方だ。しかしその場合も、だいたいは補強用の鉄筋が入れられている。
芋目地は、噛み合うところが少ないので、構造として弱い。だから、土木構造物には用いられないというのが、原則である。
実際私が、石材や煉瓦やコンクリートブロックで芋目地ができる積み方をしているトンネルを目にするのは初めてである。そのくらい珍しい。


面白くなって目地の観察を続けると、アーチ部分だけではなく、側壁についても、芋目地になっている部分が多数発見された。

土木の教科書的な評価をするならば、だいぶ稚拙な造りという誹りを免れないかも知れないが、安易に決めつけるのもどうだろうか。
この隧道の竣工は、決して最近ではないだろう。
それが、長い年月をこうしてちゃんと道路としての形を留めて使えているのだから、結果的にこの積み方で大丈夫だったということかも知れないのだ。

もっとも、よくよく見ると、目地にはモルタルによる補強だけでなく、巨大なホチキスのような金属部材によって固定されている場所もあり、これなどはまさに部材同士が十分に接着していない芋目地の弊害と思えるだけに、やはり問題がないとは言えない気もするが(苦笑)。




命名! 「禁断の芋目地隧道」

私の中では、石造隧道ということ以上に、目地に興奮を憶えてしまった感はあるが、いずれにしても楽しめた。
しかし隧道の長さは30mにも満たないほどであり、あっという間で通り抜けてしまう。

出口は、入ってきた北口以上に廃道然としていた。
切り通しに続いているようだが、見るからに藪っぽい。
しかし、古隧道としての雰囲気は、北口より遙かに良いものが期待できそうだ。

脱出!




7:08 《現在地》

オオッ! 坑門がある!

アーチリングだけが斜面から突出するようになっていた北口とは異なり、
この南口には、よく見慣れた壁としての坑門が存在していた。
しかし、壁があるのは左右だけで、アーチの上部は土の斜面になっている。
このような形の施工は不自然なので、上部は崩壊したまま復旧されずにいるのが、
現状の姿である可能性が高いと思う。そこには、隧道名などを記した扁額が
あったかも知れないので、とても悔やまれる崩壊だ。おかげで名前が分からないぜ。

またこうなると、北口についても、現在の姿は後年の崩壊によるもので、
もともとはこの南口と同じような普通の姿をしていた可能性が高いように思う。



かなり掘り込まれている、隧道南口に通じる切り通し。
昼なお暗いという表現がぴったりである。
緩やかな、下り坂になっている。

チェンジ後の画像は、振り返って撮影した南口遠景。
隧道が小さいので、これでも立派に隧道をしているが、切り通しにされても不思議ではないくらいの小さな土被りであった。




隧道から道はまっすぐ下ってきて50mほど離れると、切り通しを脱出するが、同時にもそっとした緑が邪魔をする。
そしてこの強烈な緑の向こうには、民家の屋根が見えて来た。

道を辿っているはずが、人の家の裏庭に突然現われることになりそうな気配に、少々の気まずさと緊張を強いられた。突然飼い犬に吠えかかられたりすることがあるので、こういう場面はいつでもビクビクだ。



7:10 《現在地》

道の両側に立ち並ぶ数軒の家屋や小屋は、どれも無人のようだ。
いずれも空き家となってから相当に時が流れているのか、人気が感じられなかった。

隧道へ通じる唯一無二の道は、隧道を頂点とする小さな谷戸の中央を貫通しており、両側に4〜5軒の家屋が建ち並んでいる。
この小集落の住人は、隧道の最大の利用者であった可能性が高いばかりか、建設とも関わりがあったかもしれない。少なくとも、隧道の晩年を見届けた記憶者ではあったはずだ。




小“廃”集落をまっすぐ通り抜けると、谷の出口が見えて来た。
道は相変わらず、道というよりも、庭先の路地っぽい。植えられた庭木の隙間みたいな所を潜り抜けていく。

そして最後は…




まだ新しそうな2車線道路にぶつかって、路(ジ)・エンド。

この2車線道路は、旧国道と現国道を繋いでいるもので、詳しい来歴は不明だが、現国道と同年代、すなわち平成に整備された道である。
潜り抜けてきた隧道とは時代的にミスマッチな終着点であり、本来ならこのままもう少し直進して写真奥に見える旧国道とぶつかるか、あるいは写真の外だが、ここから3〜40m右側を並走している峠越えの町道【ここ】を右に行った先の道)と合流して終るのが、相応しいと思う。
もっとも、この2車線道路による地形の攪乱が激しいため、現実的に辿りうる一連の道は、ここで終わりという判断を下した。
昔の道の形の詮索は、机上調査に委ねるとしよう。




7:11 《現在地》

隧道のある道の南側出口を、2車線の町道側から望む。

封鎖はされておらず、出入りが可能だが、隧道の通行というよりは、
空き家が建ち並んでいた小集落へのアプローチ用なのだろう。
ここから隧道までは僅か100mほどであり、到達は容易だが、北口がより平易である。

能登半島で初めて目した石造隧道は、珍しい芋目地の石造構造物であった。
しかし、肝心の来歴や名前を知ることのないまま、探索を終えた。




机上調査編 〜石川県最古の道路トンネルである可能性〜


なかなか個性的な姿を見せてくれた、恋路の古隧道。
純石造であることや、周囲の道の雰囲気からしても、相当に古い……具体的には明治の遺物である可能性を色濃く伺わせた1本であったが、実際はどんな来歴を持つ隧道だったのか。


まずはいつものように歴代地形図からチェックしてみたのだが、早速にして興味深い成果が得られた。
次図は、歴代の4枚の地形図を上から新しい順に並べている。時代を遡りながら、見てみよう。

@
地理院地図(現在)
A
平成5(1993)年
B
昭和28(1953)年
C
明治43(1910)年

まずは、@地理院地図A平成5(1993)年版の比較から。
今回探索した隧道は、それがある道も含めて、どちらの地図にも描かれていない。
これらの地図から分かるのは、本編中でも説明した新旧国道の変遷である。Aには、平成13(2001)年に開通することになる新国道の一部が、「建設中の道路」として描かれているし、同じ年に廃止されることになる「のと鉄道」(旧国鉄能登線)の線路がまだ生き残っている。鉄道から道路へ主力が移り変わってきた交通の趨勢を縮図としたような風景になっている。

続いてB昭和28(1953)年版を見て欲しい。
この地図でも、今回探索した隧道は描かれていない一方で、私が現地で「より古い道ではないか」と古道説を称え尾ノ崎越えの急坂道は、はっきりと描かれている。
あの道は恋路集落の生活道路として、今も昔も欠くことのできないものなのだろう。そんな中で、隧道がどんな役割を果たしていたのか、この地図では見えてこないし、そもそも描かれていないから存在したのかも分からないのである。

が! 遡ることができる最古の地形図となる、C明治43(1910)年版を見たときには、思わずガッツポーズが出た。
隧道が載っているではないか!

隧道は、地図に表記されうる限界くらいの小ささで描かれていた! 隧道の前後の道は「里道(連路)」という、3種類有る里道のグレードの中では中くらいの重要度を持つ記号で表現されており、かつ荷車が通行可能な表現になっている。
また、これだけ遡っても尾ノ崎を迂回する現在の旧国道は太く描かれており(府縣道の記号)、こちらも私の想像以上に古い道であったことが分かる。

以上、歴代の地形図調査からは、今回探索した隧道が明治隧道であることが判明した。
完成当初から石造隧道であったとは断定できないが、その可能性は高そうで、まさに隧道の古さを図るバロメータである“石造であること”の説得力を感じる。
ちなみに、ここに掲載はしていないが、大正2年版の地形図にも隧道は描かれていて、その後昭和28年版までのどこかの版で表記が削除されているようだ。とはいえ、この期間に隧道が早々と廃止されたと判断するのは危険だろう。隧道の現状を見る限り、もっと遙かに最近まで継続的に維持管理されていたことが伺えるから。




次に私は、さらに肉付けされた情報を求めて、『内浦町史 第3巻 (通史・集落)』(昭和59年発行)を調査した。
そしてここでも重大な記述を発見する。


松波地区近代史年表 『内浦町史 第3巻』より転載。

右図は、「松波地区近代史年表」との表題がある年表の一部なのだが、この明治10年の項目を見て欲しい…。

明治一〇 この頃、恋路トンネル開通

やべぇぞ。

超短い記述だが、明治10(1877)年完成が事実なら、石川県最古のトンネルである可能性が出てくる!

これまで私が資料などで把握していた石川県内最古の道路トンネルは、小松市内にある明治25年竣工の釜清水隧道(「日本道路史」による)である。
また、鉄道用トンネルは、県内に初めて鉄道(北陸本線の敦賀〜小松間)が敷設された明治30年にはじめて開通しているので、道路トンネルよりも遅い。
恋路トンネルは、明治10年「頃」の竣工とされているので、多少は前後する可能性はあるが、それでも明治25年よりも古い可能性は高い。
県内最古であるばかりか、北陸全体で見ても最古級のトンネルである可能性が一気に高まる記述だった。

また、年表に出ている「恋路トンネル」という名称が、今回探索した隧道の正式名と判断することもできるだろう。
以後、「恋路隧道」と呼ぶことにしたい。



『内浦町史 第3巻』より転載。着色は著者。

同書には、恋路地区の詳しい地図も掲載されており(→)、そこにも恋路隧道の姿がはっきりと描き出されていた。

この地図は、町史が刊行された昭和50年代の状況を示していると思われ、今回の探索の終着点となった真新しい2車線道路(桃破線)はまだない。したがって、その建設に攪乱される以前における、旧国道(青)、恋路隧道の道(赤)、峠越えの道(緑)という尾ノ崎越えの3本のルートの位置関係がよく分かる。

果たして、それぞれの道はどんな経緯で建設されたものなのか。
さらなる町史の記述に期待したが、残念ながら、その答えは、どこにもなかった。
石川県最古級の隧道であり、しかもその存在が知られていないというわけでもないのに、町史の記述からはもれていた。

決して、町史が交通史に冷たいわけではなかった。
その証拠に、それまで私が把握していなかった、能登地方における準最古級隧道の情報が得られた。それは松峯隧道だ。
現在も国道249号の現道として活躍している、能登町宇出津(うしつ)の松峯トンネル(昭和35年完成)だが、実は明治37(1904)年に初めて完成したのだという。現在のトンネルはそれを拡幅改修したもののようである。

そしてこの松峯隧道があった道は、明治37年当時、既に(仮定)県道であったという。
県道は、飯田(珠洲)―恋路―松波―宇出津―穴水という、現在の国道249号と同じ径路で内浦地区を横断していた。つまり、恋路を通る道も県道だったわけだ。これは先ほど見た明治43年の地形図とも一致している。ただし、恋路隧道が県道であった時期があるのかは分からない。

町史の情報は豊富だった。
だが、恋路隧道について、その来歴を明確にする記述はなかった。
まるで、この隧道が昔から当然のようにそこに存在していて、誰も敢えて語らないような印象さえ受けた。




『石川県珠洲郡誌』より転載。

古いことは古い資料に聞けというセオリーに則って、次に私は珠洲郡役所が大正12(1923)年に発行した『石川県珠洲郡誌』を手にした。

成果はあった。
右の写真は、同書に掲載されていた前述「松峯隧道」の完成当時の姿だ。
おそらくは煉瓦だろうか。
冠木門式の見事な坑門工が写っている。
奥能登とも呼ばれる、都会から遙かに隔たったこの地方にも、当時既に高度な加工技術を持った技術者がいたことが窺われる風景だと思う。
この隧道を作った人びとが、それより20年以上も昔に、最古の恋路隧道と関わりを持っていた可能性も、ゼロではない。

だが、ここでも恋路隧道に関する情報を手にすることはできなかった。
地方のエポックを画する隧道として、かつては著名であった――ということはなかったらしい。

さあ、困ったぞ。

公開されている国会図書館デジタルライブラリや、同館が提携図書館へ提供している図書館送信資料を、しばし跋渉した。
地誌だけでなく、恋路海岸を訪れた古い紀行にも、いくつか目を通した。
だが、恋路隧道の話は見つけられなかった。
現地で戸を叩いてでも住人の話を聞き出さなかったことを、少し悔いた。

そんな状況に一歩の進展をもたらしてくれたのは、石川県教育委員会が平成9(1997)年に発行した『歴史の道調査報告書第4集 能登街道II』であった。
道路や廃道の愛好者よりは、街道や古道の愛好者にバイブルとして愛用されている、各都道府県の教育委員会が発行した『歴史の道調査報告書』のシリーズは、道に特化した詳細な現地報告の書であり、メインターゲットは近世以前の古道であっても、それが今日に至るまでにどう変化したかという記述が多くあるため、必然的に我々オブローダーの欲する情報へリーチすることがあるのだ。

以下が、同書における恋路隧道に関する記述であり、現時点で私が把握している最深の情報だ。

恋路集落に入り、昔は村の中央から観音坂と称する坂を上って越したものだと言われる。明治になってややさがった所より隧道が出来て此處を通るようになり、その後、矢倉崎の海岸廻りになったと言われる。隧道は小さいものだが小木石を積んであり当時の石工の技術を残す記念建造物と言えると思う。昔は観音坂の麓に悲恋の男女のために建てた観音堂があったが今は山の中腹に移動している。
『歴史の道調査報告書第4集 能登街道II』より



『内浦町史 第3巻』より転載。着色は著者。

小さな一歩かも知れないが、前進できた。

隧道のある山越えが、昔は観音坂と呼ばれていたこと。

3本の道が誕生した順序は、左図の@→A→Bの通りであったこと。

そして、隧道に用いられている石材が、小木石という石であること。

文中の「隧道は当時の石工の技術を残す記念建造物」というのも、全くの同感である。ただ、その技術が必ずしも高度なものであったとは言えないことも、芋目地の嵐を目にした私は思うが、それは一つの常識に囚われた見方に過ぎないかも知れない。

ここで私が初めて知った「小木石」について、最後に少し補足したい。
小木石はその名の通り、小木で産する石だった。「だった」というのは、もう既に産出していない。
小木は現在の能登町の東部にある港町で、近世には北前船の風待港として、また近代以降は日本海有数の漁業基地として、その名を知られた。

ここで産出する石材については、『内浦町史』にも記述があった。一部抜粋すると、「小木石材は、風雨に堪ふるの力強からざるも、防火の耐力に於いては日本第一とも称され、且つ湿気の引くの虞なきにより、竈の製作に適当なるは勿論、又倉庫建築の用材として遥かに煉瓦に勝るを以て、販路次第に拡張し、付近各所七尾及富山県下は勿論、遠く函館、樺太に迄輸出せられるるに至り…

軟質で空洞が多く加工もしやすい凝灰岩系の小木石は、耐熱性に優れており、耐火煉瓦の代わりとして広く利用されていた。
しかし、コンクリートの普及に圧され、昭和20年代を最後に生産を終了。今日では過去の建設用材となっている。
現在も小木地区では、小木石で造られた建造物をたどる探訪会(参考)を行うなど、町おこしへの活用を進めているようだ。


観音坂の恋路隧道。今のところ封鎖もされておらず、誰もが気軽に訪れることが出来る。
決して派手ではないが、珍しい石材の積み方がなされた、石川県最古の可能性が高い貴重な隧道だ。
まだまだ分からないことは色々とあるが、恋路とは、それほど明解なものではないのかもしれない。
なんてね。




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