国道135号旧道 宇佐美峠  第1回

所在地 静岡県熱海市網代〜伊東市宇佐美
公開日 2007.9.13
探索日 2007.7.25


 熱海と伊東の間に、初めて車道の建設が始められたのは明治40年である。
この道が現在の国道135号の前身となるが、予算不足と関東大震災による建設中道路の大破などにより、全通は実に19年越しの大正14年だった。
ようやく出来上がった県道も、幅2.7mほどと極めて狭く、なお伊豆の陸上交通は発展途上の状況にあった。

 大正14年12月には静岡県会によって「伊豆大循環道路促成改築案」が議決され、初めて半島の海岸沿いを循環する車道を体系的に整備するプランが立てられた。この工事は西伊豆(現:国道136号)、東伊豆(現:国道135号)の各所で進められ、現在の東伊豆町トモロ岬が昭和8年6月に開通したことで全通を見た。

 昭和5年に北豆大地震が発生し、大正14年以来の熱海伊東間の県道は数ヶ所で大破した。
しばらくは徒歩連絡を余儀なくされたが、国庫補助が適用され、より強い道として甦った。
昭和28年二級国道135号下田小田原線認定。
昭和40年一般国道135号へ改称。現在に至る。


 今回は、大正時代に建設された、熱海市網代から伊東市宇佐美までの旧道を辿りたい。



立岩の3代道路

 熱海市網代より出発


 網代(あじろ)と宇佐美(うさみ)の間の国道135号には約7.5kmの距離がある。
この間の殆どは、相模灘と天城山脈がせめぎ合う絶壁の道であり、トンネルもしくは蛇行が続く。
そのうちでも旧道が存在するのは、熱海市網代町〜立岩の「前半区間」と、市境を挟み伊東市御石ヶ沢〜宇佐美町の「後半区間」である。
私は網代側から南下したので、まずは網代の旧国道をご覧頂きたい。

 右の地図には網代地区の旧道の全体が無着色で表現されているが、勘の鋭い人やオブローディング経験者であれば、旧道がどこにあるかを見付けていただけるだろう。
ヒントは、「長いトンネルに旧道あり」「バス道は生活道路=旧道?」。

 地図の左隅より出発。右下へ向け、レポート開始!





2007/7/25 14:20 

 国道135号新網代トンネル前の交差点。
この三叉路が旧道の入口である。
現道はトンネルで一気に網代旭町をスルーして海岸線へ出るが、ここは旧道を進むことにする。



 大洋を渡る廻船が物流の中心であった江戸時代の網代は、「京大阪に、江戸、網代」と持て囃されるほど栄えた港町だったという。
今も網代漁港が地区の中心地に有るが、巨大な帆船が風待ちで何日も滞在し、市場に半島中の人たちが群がったという賑わいは既に無い。
時代は陸上の交通を覇者とし、そして生まれた道路も鉄道も、網代の町を掠めて過ぎていった。
だが、細い路地が複雑に入り組み、少しの余地もなく2階建ての民家や商店が連なる網代旭町の町並みには、活気の残滓のようなものを感じることが出来る。
熱海と伊東を結ぶ路線バスも、この細い旧国道をすれ違いに苦労しながら通る。

現在、熱海と伊東を結ぶ路線バスは廃止されており存在せず、熱海発のバスはこの少し先で終点だそうです。昭和40年代の資料を基に執筆しておりました。修正してお詫びいたします。
2007/9/14 読者さま情報による


 全長525mの新網代トンネルに対し、旧道はコの字型に迂回しており、約800mの道のりとなる。
しかし、自転車や歩きならば確実に旧道をオススメする。
なんというか、網代の風景は私の心の琴線に触れた。
訪問したときには歴史なんて知らなかったが、猫やカモメが人間と一緒に暮らしている、そんな街だ。
網代という名前がまず、イイよね。
漁師達の使う網を置く小屋が有った浜が、天然の良港だという事で次第に人が集まり町場を形成していったのが網代の始まりであり、また名の由来でもあるという。
好きだなー、網代。



 家並みが途絶え、今度は大きくクズの茂みが路上に張りだすやや狭めの2車線路を、片側に海を見ながら登っていくと、唐突な感じで現国道にぶつかる。
新網代トンネルの出口が旧道の横っ面にぶち空けられており、のんびりした雰囲気も一瞬で飛んでしまった。
しかし、この現道もまた見所のある、道路好きを唸らせる景色だったので、私は不満を感じる暇もなかった。

 ここから一旦、現道に入る。



 これが平成17年に完成したばかりの新国道。
この先にある網代隧道が狭隘にして交通の隘路たること著しかったため、計画されたバイパスである。



 「網代パノラマバイパス」と名付けられ、伊豆路の新しい名所となっている。
新網代トンネルから飛び出した道は、そのまま海に架かる橋へと、滑らかに繋がっている。
この海上へダイナミックに張りだした道が、旧道の赤茶けた舗装路と平行しつつさらに大きな弧を描き、真新しいトンネルへと延びている姿は、なるほど素晴らしい。
ひっそりと塞がれた向かいの旧道入口を見逃すことはないが、こればかりは真新しい橋の方を通ってみたくなった。
一つ珍しいと思ったのは、道路愛称名の標識の下に、中国語とハングルの訳が付けられていたことだ。
「パノラマ=全景」、「バイパス=迂回道路」 … 違和感有るな〜。



 この網代パノラマバイパス(事業名:網代バイパス)は、全長が815mの局所改良であり、そのほぼ全線がトンネル及び橋となっている。
網代側から辿れば、順に朝日大橋(264m)、立岩トンネル(284m)、朝日橋(92m)と続く。
まさに近代土木力の粋を結した未来型バイパスと言える。

 朝日大橋の終わりは、そのまま立岩トンネル。
隣には、古くて狭くて疎まれた、旧来の網代隧道が口を開けているのも見える。
新旧のトンネルが並ぶ景色は結して珍しいものではないが、これだけ統一感のないデザインは面白い。
でも、普段なら“恥ずかしい”などとこき下ろしそうな「イラスト坑門」も、今回は大目に見れる気がした。むしろイイ。
伊豆の開放的な景色や頬をナデナデする潮風がそうさせたのか。



 マグロと思われる魚が、放物線を描いて海へと飛び込んでゆく意匠。
白く塗られた平板の坑門に、大胆なデザインを採用した担当者のセンスは素晴らしい。
微妙に魚のデザインがカワイイのも、家族ドライブのプチ・インパクトになりそうだ。
「あのおサカナさんのとんねる」なんて言う子供もいるだろう。

 気持ちのいい道だなぁ。




 ハッ。



…見てはいけないものを、見てしまったようなカンジ…。




 立岩トンネル坑口脇には、意味深なスペースが斜面伝いに続いている。
それは、見るからに道のようだが、入口から余りにも藪が深く、進入を断念した。
(この日の朝一番でトモロ岬を攻略しており、もう藪は… ね。)

地形図には記載がないが、状況的に考えればこれが旧隧道よりももっと古い、初代の道だろう。
つまり、明治40年から工事を始め大正14年までに開通したという、熱海〜伊東間の最初の車道(県道)の跡だろう。
ちなみに、明治以前にも両者を結ぶ徒道はあったが、それは海岸伝いではなくて山の上を通る道だったらしい。
江戸時代の記録には、東海道と小田原で別れて熱海・伊東(いずれも現在の名称)の諸村を経由し、下田の奉行所に至る伊豆東海岸の脇往還「東浦筋」が登場している。



 古道の入口から朝日大橋を振り返る。
段階的なグラデーションを描く山の影と、織るような海岸線が、如何にも日本的な風景に思われる。

絶景だ。



 14:33 【網代隧道】

少し浮気したが、もちろん潜るのはこちら、旧隧道だ。

一旦引き返し、車止めで簡単に塞がれた旧道へ入る。
立ち入り禁止になっているわけではなく、車の通行も反対側からなら可能である(通り抜けは不可能)。
まだ旧道になって2年足らずだが、既にクズの大群が路傍の全てを呑み込みつつある。
「試験中」となった立派な道路情報板が再び使命を取り戻す日は来るのだろうか。
かつて山形の山中で見た、悲運の短命国道バイパスを思い出させる光景だ。

もっとも、こちらは昭和7年に開通した記録があるから、70年以上も活躍した道だ。(道路情報板は短命であったかも知れないが)


 達人が筆を振るった一服の墨絵のような、完成された形式美を見せる網代隧道坑門。
その全てが切り出した自然石で構成され、坑門建築の教本のように一通りの装飾物が揃っている。
道路トンネルにあって、ここまで各種意匠が律儀に表現されたものは、意外に珍しいように思う。
例外と言えば、扁額が坑門中央の額にあたる場所になく、両側壁柱(ピラスター)に二枚、左右対称に配置されていることか。

昭和7年に、その2年前に発生した北豆大地震の復旧事業として開通したという記録があり、年号は扁額にも刻まれている。
おそらく、震災によって海岸沿いの旧道は破壊され、安全に通行が出来なくなったのだろう。(あの藪の様子では、ありそうだ)

如何にも堅牢な外見の通り、内壁の補修を受けながらも本来の姿のまま70年余りを大交通に耐えたが、如何せんこの幅員は厳しかった。
お馴染み「隧道リスト」には、幅5.5mとある。
普通車同士なら離合も可能だが、大型車が絡めば途端に難しい。全長は292mと結して短くないから、混み合う休日、対向待ち合わせの観光バスを先頭にした大渋滞の多発は、容易に想像できる。



 色々なレポの度に書いているが、私はこんな「古い造りの隧道が現代的な付属品に埋もれている」光景が、とても好きだ。
この隧道の場合は、高さ制限4mの標識二つと、あとは照明や電線の類だ。

私はこれらを、“戦いの痕”と表現したい。
幸い、本来的な意味での傷痕(車との接触によるアーチの欠損など)は見られないが、元々の意匠を隠してまで取り付けられた付属品は全て、近代交通という“戦い”に耐えるための、精一杯の装備であった。
不格好になっても不釣り合いになっても、彼は黙々と職務に耐えたのだと思えば、愛らしい。
役目を終えた今も、元の綺麗な姿に戻っていないことに同情を感じるが、このままの方が好きかも。



 壁柱に取り付けられた二枚の青銅製扁額。
片方には「昭和七年六月竣工」。
もう一つは「網代隧道」と、大変達筆に刻まれている。

 蛇足だが、網代バイパス開通以前のある時期には、国道は新網代トンネル→網代隧道と言う風に通行していたことになる。
新旧両方の同名トンネルを通るという、珍しいパターンだ。




 忘れてた。
“戦いの痕”には、こんなものもあった。
坑門脇に設置された、非常電話ボックス。
扉を開けると、中にはゴツイ電話機が。
まだ使えるのだろうか…?

 非常口も避難路も当然無い古隧道が出来た、精一杯の安全への備えは、両側坑門に備え付けられた非常電話機と小さな消火器だ。
お役目、お疲れ様です。




 坑門をたっぷりと鑑賞した後は、いよいよその内部へ。

伊東側へ向けて結構な勾配で登っており、それは平行する立岩トンネルも同じなのだが、狭さと暗さのせいで余計に厳しい坂に感じる。
また、外では頬を撫でるくらいの潮風も、トンネルを風洞にして押し寄せてくるものだから、辛い。
救われるのは、いくらノロノロと走っても誰の邪魔にもならないと言うことだ。
現役当時には、軽くクラクションの洗礼を受けたかも知れない。



 封鎖されていないことからも分かるとおり、隧道は別に崩壊しそうだとか、そういう感じはない。
一応、照明も三分の一くらいだが点灯されており、一般開放を主張。
(しかし、手持ちのライト無しだと足元も見えにくいくらい暗いので、注意)

ただし、地下水のせいか内壁の吹きつけがブヨブヨと膨らんで見える場所があり、手入れを怠れば早晩剥離してきそうな感じがある。





 隧道をサクッと抜けて、伊東側の坑門。

坑門時代の意匠は熱海側と変わらないが、両側が石積擁壁に囲われた掘り割りになっているので、余計に重厚な印象を受ける。
また、装備品もさらに多い。
熱海側では坑門から少し離れたところでクズに絡まれていた電光掲示板が、こちらでは額の部分に。
こちらは精々四文字しか表現出来なそうなので、向こうのと表示内容は異なっていたのかも。
最近のバスのデジタル行き先表示よろしく、ここに「網代隧道」なんて表示(デジタル扁額)したら、カッコイイかも!(←バカだろ)
照明類の制御ボックスも、こちらの坑門だけのものだ。




 上の写真だと気付かないが、少しカメラを引くと、急に俗っぽい感じになるのが玉に瑕?
サカナをデザインした坑門とは無関係だと思うが、右側にちらっと見える建物は生魚の加工工場っぽい。
新道と旧道の隙間という、微妙な位置に立地している。



 坑門から新旧道の伊東側合流地点までは200mほどで、加工工場の専用道路的になってはいるが、一般の人も問題なく通行できる。
右に写るトラス橋は朝日橋だ。



 ……

 何となく気になって、見に来てしまった…。

現道の立岩トンネルの伊東側坑口脇に、きっと口を開けているだろう…、大正道の片割れを…。

ちなみに、こちらの坑門にはお魚は居らず、シンプルな凸凹タイル張りだった。
これも砂浜のイメージで綺麗な坑門だ。(古びて変色すれば、汚い坑門になりそうだが。)




 あー  

 道有るな。

しかも、先ほど見た入口に比べれば大分広く、如何にも車道があったという雰囲気だ…。

うむぅー、後ろ髪を引きやがる。
でも、踏み込めば最後は“あの藪”確定なんだろー。 嫌だなー。
280mほどのトンネルを迂回するこの旧道の、予想される距離は精々300mそこらだが…。 嫌だなー。

 まあ、折角だから行ってみるかぁ…。




 どうしても、「気持ち良い」だけで終われない、私の悲しい定め。

予期せぬ旧旧道との遭遇。

短いけれど、案の定、藪に泣かされる道だった。