国道135号旧道 宇佐美峠  第4回

所在地 静岡県熱海市網代〜伊東市宇佐美
公開日 2007.9.17
探索日 2007.7.25


閉ざされ 忘れ去られた “スポット” 

 片二号へ


 2007/7/25 15:36 

 片三号を潜り抜けた時点で、前方100mほどの位置に次の洞門が見えていた。
だが、そこへ少しでも近づこうとすると、猛烈なススキの丘に阻まれる。
かつて道であったはずの場所が、ことごとく盛り土され、ススキの原野に変わっている。
廃道化工事の魔手が、このような洞門と洞門の間などという奥地まで、及んでいようとは…。

こんな展開はうんざりだったが、最初にチラリと見えた洞門の姿には、万難を押してでも辿り着きたい魅力があった。



 これまで、チャリ同伴で突破した草藪としては、距離こそ短いが、最悪に近い密度だった。

都会に住む現代人には、言葉では知っていても嗅ぐ機会のない「草いきれ」という匂い? 或いは熱気というべきものを、鼻腔のみならず痛覚を含めた全身で味わう。

“味わう”なんて生やさしいな。

むしろ、溺れたんだ。 草の海に溺れた。
リアルに呼吸の苦しささえ感じる。



 しかし、苦闘の甲斐があって、目指す洞門は着実に接近してきた。
どうやら、ここまでの様子を見るに、この道で行われた廃道化工事というのは断片的であり、道を何箇所かのグリーンベルトで塞ごうとしたようだ。
通り抜ける人が無くなれば、道というものは、たとえ立派な舗装路といえど意外なほど早く自然へ復るという事を、我々オブローダーならよく知っている。
意外に低コストで効果的な、廃道化の手法であろう。(←悔しい)

 余談だが、この道が行政の手による廃道化で葬られようとしていると、そう考える根拠として、地形図という公的な図から表記が消されている事が上げられる。
航空写真から制作される現代の地形図の場合、これだけの大規模な旧道がすっかり見落とされるわけはない。(まして先代までの地図には描かれているのだから)
それがすっかり地形図から削除されているということは、つまり“要らない道”というわけだ。



 15:42

100mに5分というたっぷりの時間を要し、どうにか道無き道を突破!
この間、殆ど車輪を回転させることの無かったチャリは、ペダルやサドルにいっぱいのツタを絡ませた無惨な姿となって、私の足元に転がっていた。

 夏草の洪水によって、洞門から隧道へと、その姿を変えてしまった「片2号」が、いま目前に迫る。
遠目からは違いが分からなかったが、こうしてみると片一号とはまた、微妙に坑門の意匠が異なっている。
こちらはややギリシア風といった面持ちだ。
この洞門も短く、その向こう側を見通すことが出来る。
これほどまで藪に没してはいるが、その姿は白く一層に際だっており、高潔ささえ感じさせた。




 忘れられた“スポット” 片二号 


 藪を掻き分け辿り着いた片二号。
そこには乾いた路面があり、藪から逃れる屋根がある。
一息着けるかと、そう思った矢先、私は奇妙な居心地の悪さを感じた。

まず初めに目に付いたのは、壁のそこら中に書き殴られたスプレーの落書きだ。
海風に晒され続けた壁は白化し、一部は剥離崩壊が始まっている。壁の文字もかなり薄まってはいるのだが、赤だけはいつまでも消えそうにない。
私は直感的に、この洞門がかつて悪ガキ達の溜まり場になっていたことを、感じ取った。




 私の感じたささくれ立つような居心地の悪さは、落書きのせいだけではなかったかも知れない。

洞門の熱海側坑口脇に、周囲を藪に覆われた石碑を見付けた。
背後は断崖で、その下は海岸線だが、波音が聞こえるのみだ。
表面には、和歌のようなものが大変達筆な文字で陰刻されており、薄暗かったこともあり、読み取れなかった。
(写真には納めてあるので、解読したい方はこちらからどうぞ→石碑画像

洞門の脇にあることだし、開通記念碑のようなものであろうと、その発見に喜んだ私だったが、すぐに消沈することになる。




ここ宇佐見峠は昭和三十八年三月十三日○(人名)○
同○○○姉妹が自動車事故による遭難の地なり
本日その一周忌に当り地元有縁及び遺族の発願に
より供養の碑を建立し霊魂の冥福を祈るとともに
よく通行衆人の行路安かれと念じてこの碑を建立
するものなり 東京都大田区○○○○○○○
(以下 関係者氏名列列挙)

 それは、この地で事故死した姉妹に対する、慰霊の碑であった。
異常な落書きの量と、慰霊碑の存在は、私の中ですぐに繋がった。
洞門が所謂「心霊スポット」として、心ない者達の遊び場になっていたのだということを、私は理解した。
そして手向けの一つもない慰霊碑が、もはや縁故の者でさえ、ここを訪れることは困難になったことを教えてくれる。
新しい落書きが全く見られないのも、連中が遊び半分で近づけなくなったからだろう。

せめて、碑面に太陽の光が当たるように、周囲を少しだけ刈り払ってあげたいと思ったが、実行する余力はなかった。
もう一度碑の正面に向き合い、軽く黙祷を捧げて後にした。



 妙にしんみりしてしまい、続々と洞門を手にした興奮は、醒めた。

これまでも、廃道となった道で慰霊碑などの故人を思わせる物を見ることはあったが、そこが徒に汚されたような場面は、僅かだった。
膨大な人口を背景にした土地柄、色々な者が集まってくるのだろうが、落書きの放置されたまま崩壊の日を待つ洞門も悲しいし、何より、彼らが敢えて慰霊碑の近くを目指して集まったことに、空しさを感じた。

と同時に、碑自体が汚されたり破壊されていないことに、ほんの少しではあるが安堵を覚えたのも、また事実だった。
あくまで悪い遊びであって、悪意ではなかったと、そう思えたからだ。



 片三号に比べ、格段に崩壊の度合いの高い片二号。
特に、海側の支柱は根本から崩壊が始まっており、鉄筋が露出している。
支柱の間には、かつては欄干が有って転落防止の役を果たしていたようだが、何故か無くなっている。
片三号よりも崖に直接面しているだけに、塩害の作用が大きいのだろう。

 また、何故かここは蚊が物凄く多かった。
大きなヤブカが、洞門の日影を好んで集まっていた。
初め気付けずに慰霊碑の前でしゃがんで写真を撮ったりしていたので、気付いたときには数ヶ所刺されていた。



 ここまで歩いてきた熱海側を振り返る。
洞内にも泥と水溜まりが侵入しており、ヤブカ繁殖の原因になっている感じもある。
とても幹線道路だったとは思えないような緑一面の景色だが、電柱と架線だけはしっかりと道をなぞっている。
電線は廃止されている様子がないので、今でも巡視の対照にはなっているのだろう。大変だ。

 片二号、全長17m。
片三号とは、高さ、幅、長さの全てが同一である。
しかし、居心地は段違いに悪かった。



 「隧道リスト」は教えてくれる。

この茂みの向こうに、もう一つの洞門が眠っている事を。

行こう。

遺構を探しに、行こう。   …なんちゃって。









 むぐぁー!

どうやら、この藪は人為的なものではなく、自然に路面に流入した土砂がそうさせたものらしい。
草藪ではなく、既に林に変わり始めている。
健気に電線もこの中を貫通しているが… 平気なのか。

よそを心配している場合ではないが。
チャリが悲鳴を上げている。 いや、悲鳴の主は俺だった。




 片シリーズの長兄 片一号 


 15:44 

 スボッ! と藪を突き抜けると、目の前に洞門が!

激アツぅ〜!!

二号と、この一号との間は30mほどに過ぎなかった。

三本中でもっとも長い39mの長さを誇る?この片一号は、内部で少しカーブしており、見応えがある。
坑門の意匠は二号と同様である。また、坑門両側にペイントされた「危険」「徐行」の二つ看板?が、鮮明に残っている。



 熱海側を振り返って撮影。

藪の上に、僅かだが片二号の上辺が見えていた。

本洞門は3本中もっともよく保存されている。
落書きも殆ど見られず、内壁など最近塗り直されたのではないかと、そう錯覚を憶えるほどに綺麗である。
ほぼ同じような地形にありながら、不思議なものである。
しかし、蚊が多いのは相変わらずだったので、長居はしなかった。



 ここになぜか、一台のママチャリが放置されている。
しかも、ポンプ式のよく見る「空気入れ」が、すぐ傍に置かれている。
チャリはそう古くないように見えるが、ポンプの方は錆び付いていてもう使えなさそうだ。
人臭を感じさせない廃洞門の中で、スタンドで行儀良く立ったままのチャリと錆び付いた空気入れの取り合わせに、奇妙な感じを受ける。
まるで、主を待つ忠犬のようだ?



 洞門に置き去りにされたチャリは、ママチャリだけではなかった。
もう少しスポーティーな感じのフレームだけが、干し草の中に埋没するようにして棄てられていた。

 それにしても、この白線で区切られた幅員の狭さは、異常である。
狭さを分かりやすくするために、こんな写真を撮ってみた。



 私のチャリの全長(約170cm)よりも、もっと狭いではないか。(チャリが少し前輪を傾斜させていることに注目)

前回は「2m無い」などと書いたが、それどころか、普通車でもはみ出さずには走れぬ車が続出する幅である。
無理に白線を曳いてしまったために、余計、その狭さが際だっている。
どう考えても、相互通行には不安な幅なのである。

こんな極狭の洞門が、200m以内に三本も連続してあるこの場所。
伊豆を代表する幹線道路だったことを考えると、まさに「トンデモ」国道だった?!



 海側の支柱の一角に、見たこともない金属製の箱が取り付けられているのに気付いた。
それは一つだけで、電線が引き込まれている。
ガラス製の扉の中には、精密そうな幾つものレンズが入っている。



 …とのことである。

廃道と思われた本旧道も、まだ完全に捨てられたのではなかった訳だ。
少なくとも、この片一号に限っては。
(考えてみれば、他の二本も、電線を通すという役目がある)



 まるで遺跡のような荘厳な三本の洞門を抜け、なお旧道を進む。



 拷問のような藪は終わりを告げ、舗装路の確かな堅さが、サドル越しに伝わってきた。



 トンネル前で旧道へと入った直後に、行く手を海に遮られて右に大きくカーブした。
それから、藪の濃い部分も洞門の連続地帯も、ずっと道自体は真っ直ぐ南を目指していた。
それが、ここで進路を再び山側へ向けた。

この方向は現道がある。
道の状況も改善する一方だし、どうやら現道との接触が期待できそうだ。



 来た。
現道だ。

 現道のアスファルトとは、ガードレールによって完全に途絶されてはいたが、ともかく現道との再合流である。
この間の旧道は、約700mほど。
思いがけず藪が深く、また見所もあって、通行に30分を要した。

 御石ヶ沢トンネル一本が開通したことで、歴史有る三本の片洞門たちは全て用済みになったのだった。
今は、人知れず地震予知の特命を帯び、複眼のような銀の目を光らせている。



 15:49

 地形図から削除された旧道部分は、左図の通り。

 現道の喧噪に揉まれる間もなく、すぐに旧道は次なるステージへと移る。
合流地点から伊東側を見ると、背にしている御石ヶ沢トンネルよりもさらに大きな断面の、近代的なトンネルが口を開けている。
これは新宇佐美トンネルであり、大正14年に開通した宇佐美峠の道を、約68年ぶりに改新した。




 次回、最終回。


  走りの舞台は、天籟の海道へ。