国道7号旧線 三崎峠

公開日 2006.03.13
探索日 2006.03.11

 北日本の環日本海交通のメーンルートである国道7号線(新潟〜秋田〜青森間)。
この道が山形県と秋田県の境で越える峠が、三崎峠である。
だが、現在の国道を車で走る限り、県境を示す巨大な標識さえ無ければ、そこがかつて難所と呼ばれた峠であることは窺い知れないだろう。

 この三崎峠の沿革を簡単に述べれば、国道7号線の前身であるところの藩政時代以前の羽州浜街道に端を発する。
当時の道は海岸線に近い位置を通っており、かの俳聖松尾芭蕉も「奥の細道」紀行で通った道であるが、明治期に入って馬車交通の要請には応えらぬ難路であったという。参考写真:三崎峠の旧街道(歩道)
この道は当時の雰囲気を残した遊歩道となっており歩くことが出来る。

 そして、この峠に文明開化をもたらしたのは、またしてもこの男。初代山形県令三島通庸である。
彼は、これまで山行がでも繰り返しその業績を(文字通り)辿ってきたわけだが、秋田山形両県間の交通路としてはこの三崎峠と、内陸の雄勝峠に馬車が通れる新道の開削を行った。
それぞれ、三崎新道・雄勝新道と呼ばれ、それぞれ従来の羽州浜街道・羽州街道の改良に止まらない新道であった。
 余談ではあるが、秋田山形県間の交通路は、今日においても未だこの2本より他は無いに等しい。その県境線の長さは90km近くあるが、鳥海山や奥羽山脈から鳥海山へと伸びる丁(ひのと)山地が巨大な障壁となっているためだ。(厳密には車道としては、三崎峠・雄勝峠の他、観光道路である鳥海山ブルーライン、加えて裏鳥海山を連絡する林道手代線の4本があるが、手代林道は自動車通行困難)

 さて、三島県令が三崎新道を開削したのは、明治9年のことである。
この道はその後、昭和12年に吹浦(ふくら)から県境へと北上を開始した国道一次改築が昭和27年の三崎峠の現道開通によって結するまで、環日本海の大路として利用されていた。(国道に指定されたのは、大正9年の「国道10号線」認定が最初で、その後に「7号線」に改められた)
今回紹介するのは、この三崎峠の旧国道(明治9年〜昭和27年)である。


三島県令の痕跡を探して

秋田県側より旧国道へと入る

06/03/11
10:20

 小刻みなアップダウンを延々と繰り返しながら、無惨に立ち枯れた松が目立つ海岸線に沿って、多くの集落を結んで走る国道7号線。
県都秋田を経って約90kmの県境までの間に経由する市町村は、この平成の大合併によって、わずか3市だけ(秋田市・由利本荘市・にかほ市)となっており、尚更に道中の単調さが際だってしまったように思える。

 それはともかくとして、三崎峠の旧国道の秋田県側の入口は、県境のほんの100mほど南にあって、山側へと分かれている。
現国道は殆ど峠というものを意識させないような起伏に過ぎないが、これより入る旧国道に、かつて難所と言われた三崎峠攻略のムードがどれほど残っているのかを楽しみにしながら、初めて入る。(自分でも意外だったが、2006年春のこの日まで、幾度となく現道を通っているのに、旧国道には触れてこなかった。大した理由もなく)



 現道から分かれるとまず、JR羽越線の下を立体交差する。
羽越線が吹浦〜象潟間を開通させたのは大正10年のことで、三崎新道が国道10号線に指定を受けた翌年である。
当初から踏切ではなく立体交差としたのは、地形的な要因だけではなく、この道が重要な路線であった事も影響したものと思われる。
ただし、クランク状に屈曲した立体交差部分は見通しが悪いばかりか、地上高制限3.7mの標識が取り付けられており、迂回路が一切無かった事を考えれば、この区間が国道7号線としても極めて早い時期(昭和12年〜27年)に一次改築区間に指定されたことも頷ける。(太平洋戦争を挟む期間の施工である)



 石造りの橋台は茶色く日焼けしており、年期を感じさせる。
乗せられたガーダーには緑色のペイントが施され、塗装銘板には「三崎跨道橋」と橋の名前が書かれていた。



 おそらくは現役当時のものかと思われる、リベット打ち込みのプラットトラスによる高さ制限ゲートが両側に一基ずつ残っている。
強烈な潮風に浸蝕されて、重厚そうなトラスも穴が空くほど錆びている。
傍には3.7mの制限高標識も残る。

 この、一級国道と本線鉄道との競演を思い出させる跨道橋が、秋田県側唯一の旧道遺構である。



 鉄道の下をくぐると、まだ現道の車音は聞こえるものの、一気に旧道らしい雰囲気となる。
だが、この三崎峠の旧道が旧道らしい姿で残るのは、残念ながらここまでの僅かな区間だけである。
この先は、営林局の林道として利用されているのみならず、大規模な採石場が幾つも連なっており、ダンプが頻繁に往来する場所もある。



溶岩流の道

10:23

 広場から道が二手に分かれる。
多数の轍が左の上り坂へ向かっているが、これは採石場へ続く道で旧国道ではない。
正解は直進で、いまも僅かに鋪装の痕跡が残る。

 県境線はちょうどこの広場の辺りを横切っている。
峠の最高所が県境ではなく、極めて機械的に地形を無視した直線の県境線が引かれており、鳥海山周辺の県境線はほぼ全てこうだが、全国的には珍しい。



 歴史の道として好ましい整備をされた(「好ましい」は必ずしも快適な整備という意味ではない)旧街道筋と比較して、どうしても旧国道の使われ方は雑と言うか、三島新道云々という案内板一つあるわけで無し、至って普通の林道となっている。
不法投棄禁止の標識ばかりが目立ち、興ざめする。



 緩やかに丘を上っていくと、あまりの景色に愕然とする。
旧道から海側の山林は全て切り払われ、広大な荒れ地になっていた。
かなり遠くには松林が見えており、そのさらに向こうには、まるでグランドキャニオンがエアーズロックかというような、台形状の砕石の山が聳えている。
 一般的な新旧道からの景色の有り様とは逆で、この三崎峠では、海沿いの断崖に築かれた現道からの景色の方が遙かに自然色が残る。
内陸の旧道は、当地が安山岩の一大産地であることから地形が著しく改変されており、往時の雰囲気は悲しいほど薄れているようだ。



 間もなく三叉路となるが、正解は真ん中の道である。
左右には、相変わらず荒涼たる景色が広がっている。



 そんな荒んだ旧道ムードにあって、私に新鮮な驚きと喜びを与えてくれたのは、広大な採石場を旧道から隠すように残された法面に生える、不思議な成長を見せる木々であった。
一帯は、鳥海山によってもたらされた溶岩流そのものの上にある地形で、ゴツゴツした巨石がゴロゴロと点在しているが、そんな岩を噛むように根を伸ばした木が多数見られた。



 旧道入口から約1km。
そろそろピークであるが、その前に一汗掻かせられる。
直線的な急坂が眼前に現れたのだ。

 

 この辺は余り通行量が多くないようで、荒れた路面には大きな石が幾つも浮いており、乗用車では大変そうである。
現役当時から未舗装だったようで、とても国道7号線の旧道だなどと言われてもピンとこない道である。
しかし、実際にここは国道7号線として、昭和27年まで使われていた。
路線バスも通った道である。



 短いが厳しい上りを過ぎると、標柱一つ無いものの景色からそれと分かる、三崎峠である。
峠の一角からは、足元から続く裾野が緩やかに鳥海山の真っ白な頂へと迫り上がっていく様を見渡すことが出来る。
なんとなく松尾芭蕉や菅江真澄あたりが一句詠んでいそうな景観だが、明治以降の新しい道である。
 峠は海抜80mほどで、県境の峠という風に見れば至って低いのだが、これでも現道よりは40mほど高い位置にある。
海岸線ぎりぎりの旧街道では広い道に改良することは困難と考え、三島がその知恵を働かせて、敢えて山側に移した峠道だろう。



 峠の海側には、相変わらず荒れ地が広がっているが、よく見ると松の苗が整然と植えられていた。
いずれは、この峠も他の旧道の峠のように、静かな余生を送る日が来るのだろうか。
いまは、まるで砂漠のような三崎峠である。



 峠付近にも分岐路がいくつかあって、それぞれが採石場に通じている。
この日も頻繁に大型ダンプが吹浦側との間を往来していた。
故に、峠より吹浦側の路面状況は、良く均されていて半鋪装のようである。



 そう思っていると、間もなく鋪装が復活し、一車線の急な下り坂へと続いていった。
向こうには海原が広がっており、いかにも海沿いの峠の景色にテンションは高まる。

 そう言えば、ものの本に因れば、この旧国道沿いには三島の新道建設を顕彰した石碑があるとのことであったが、今回は発見できなかった。
どこにあるのだろうか。



 峠からは約700mほどで、いよいよ吹浦側の集落である女鹿(めが)が足元に見えてきた。
黒い瓦屋根が多く輝いて見え、そこが海の村であることを感じさせる。

 秋田県側よりも全体的に急勾配な山形側の下りは、この先に道中唯一のヘアピンカーブを持つ。
常に海を見晴らしながらの下り坂は、気持ちいいことこの上ない。
峠までの景色に感じた残念さも忘れられる。



 再び羽越線と交差する。
今度は旧道が鉄路の上を短い橋で渡っている。
橋の上から酒田側の見晴らしが特に良くて、鉄道写真を撮るにも適しているかも知れない。

 この跨線橋のすぐ先には、ヘアピンカーブが控えている。



 左の写真は、いずれも同じヘアピンカーブを撮影したものだ。
カーブの外側には、女鹿の集落へと直接降りていくもの凄く狭く急な道が分かれている。
このヘアピンの景色は、おそらく現役当時からそう変わっていないように想像され、とても好ましい。
三崎峠の難所だったことをいまに伝える貴重な景色の一つだろう。



 現国道への最後の下りは、古びたコンクリート鋪装がいまもそのまま使われていた。
右に写るのは、先ほど跨いだばかりの羽越線の線路である。
かなりトリッキーな線形を描いて国道が通されていたことが分かるだろう。


10:37

 約2kmの短い旧道であったが、それなりに一つの峠を越えてきたという充実感を感じさせる道であった。
三島が関与した新道建設のなかでも、栗子峠と並んで今日最も重要な改良の一つだったと思われる三崎峠。
地形的には選択の余地は少なく、たとえ三島がそれをしなくても遠からず新道は拓かれたのではないかと想像はされるが、彼の偉大さは、明治の初期にあって既に先見の明を持ちこれらの新道建設を進めた点にあろう。
 三島の道を辿る私のメモに、また一つ「済」の文字が追加された。




 なお、現道はご覧のようなおだやかな“峠越え”の道となっている。
写真は、吹浦側から峠を俯瞰(?)。
冬でも緑色をした林には松もあるが、多くはタブという常緑樹であり、この大群生は天然記念物に指定されている

 現国道もまた、天気の良い日であれば気持ちのよい道である。