道路レポート 旧県道満島飯田線 “竜東線探索@” (金野〜千代 区間)

所在地 長野県天龍村〜泰阜村〜飯田市
探索日 2023.04.11
公開日 2023.04.26

 天竜川大峡谷に挑んだ“幻の県道”のゆくえ

マイナー&マニアック廃道の世界へ、ようこそ。

今宵は、私が10年越しの攻略を終えたばかりの筋金入廃道の出番だ。

ただ、いきなり全てをレポートしようとすると全30回とかになりそうなんで、今回はその中でも特徴ある区間を一つ紹介しようと思う。

それでは、スタート。




県道飯田富山佐久間線は、道路ファンにはちょっと知られた路線である。
この県道、正式名「長野県道・愛知県道・静岡県道1号飯田富山佐久間線」は、全国に13000本以上もある県道の中で唯一、3県に跨がる「整理番号1番の県道」なのだが、それだけに距離も長く、全長は90kmを越える。そして、実際に全線を通して走ろうとすると、この数字よりも遙かに長く感じられるかと思う。なぜなら、沿道は山と川と山と川と山と川がひたすら続き、カーブと坂道がただただ多く、たまに小さな市街地を通るが、1.5車線以下の狭い区間もまだ結構残る“険道”であるからだ。
(山行が読者的には、こちらの壮絶廃道の対岸にある狭い道という印象が強いか)

そんな県道飯田富山佐久間線の大部分は、天竜川に沿っている。
諏訪湖より太平洋へ流れ出る210kmを越す長い天竜川を見渡すと、上流の伊那盆地と下流の浜松平野の間にある中流部のほぼ全てにあたる100km以上が、中部山岳地帯を横断する大峡谷となっている。日本の河川でこれより長い峡谷が他にあるだろうか。そんな長すぎる峡谷に沿う道は、自然と険しく狭いものになり、“険道”とならざるを得なかったのだが、それでももし近くに代替となる幹線道路が皆無だったならば、今日までには完備された道路となっていたことだろう。

悲しいかな、ここはあくまでも“県道レベル”の幹線道路だ。
中部山岳地帯を南北方向に縦断して、信(信濃=長野県)・遠(遠江=静岡県)・三(三河=愛知県)を結ぶ幹線は、近世以前よりいくつもあり、それらは今日において国道151号(遠州街道)、国道152号(秋葉街道)、国道153号(三州街道)など、いずれも国道の格を以て、この重畳たる大山岳地帯を越えている。
全体として国道151号と152号の間を通る県道1号は、将来的にこれらを代替するほどの重要性を獲得することはなさそうだし、加えて今日では高規格幹線道路である国道474号“三遠南信自動車道”も並行路線となって、前記した各種国道を上回る整備水準で完成されつつある。

申し訳ない。少し話が回りくどくなってしまった。
そろそろ本題の道に登場願おう。
左の図の桃色の枠の部分を拡大したのが、右の地図である。今度はこちらを見て欲しい。(→)

この地図にも緑色で県道1号をハイライトしたが、全体として天竜川に沿ってはいるものの、この縮尺で見ると、多少川から離れているところもあることが分かる。特に下伊那郡泰阜(やすおか)村内では、川から2km以上離れるところがあり、高低差も350m近くになるので、この辺りを走っている時だけは、天竜川のことを忘れることができる。

しかし実は県道1号には“旧道”が存在しており、その距離が尋常でなく長かった。
図中の「竜丘」から「平岡」までおおよそ25kmにも及んだ(ほぼ全線で現県道と別ルート)。

それが、目立つ赤色で描いた線であるが、その特徴として、全線を通じてめっちゃ、天竜川の近くを通っている!

これを見て、「あれ? もしかして今の県道よりも線形が優秀」と思った方は、正解だ!
これだけ川に寄り添っているおかげで、実は距離とアップダウンの両面で、現県道よりもだいぶ優秀だった。なにせ地形に対する迂回がほとんどない。現在の県道1号はもちろん、なんなら国道151号(遠州街道)よりも高低差の少ない恵まれたルートだった。

この長大な旧道、厳密には、今の県道1号飯田富山佐久間線ではなく、その前身にあたる県道満島飯田線の旧道だ。
長大な飯田富山佐久間線は、昭和46年から47年にかけて、3県に跨がる4本の県道をつなぎ合わせて認定されたものであり、このうち最も北側(起点側)を構成していた路線が、長野県道満島飯田線だった。
満島飯田線の県道としての歴史はとても長く、旧道路法時代の大正12(1923)年に初めて認定されて以来ずっと存続し、昭和34年に現道路法下の県道として再認定後、昭和47年に上記の路線統合により消滅した。

旧道路法時代の満島飯田線は、下伊那郡天龍村(旧平岡村)の中心地満島(みつしま)を起点に天竜川沿いを遡り、天竜峡から伊那盆地へ出て、下伊那地方の中心都市である飯田市(道路元標)に至るもので、飯田市竜丘(旧竜丘村)の時又(ときまた)から先は国道151号(旧道路法時代は県道飯田本郷線)と共用していた。

大正時代に県道認定されたこの道が整備された時期はさらに古く、明治29(1896)年に下伊那郡会の企画によって沿道各村が着工し、同33年に完成した幅6尺(約1.8m)の「枢要里道竜東線」に起源を持つ。『泰阜村誌 下巻』から、同村内での難工事ぶりを伝える一節を紹介しよう。

工事は明治30年秋に我科地区の万古まんご川境より着工し、3ヶ年の日時を費し、33年に完成をみた。工事の労務は村方針に示す村税率による夫役とし、毎年1戸3日あて就労した以外は、雇人労務が主力であった。工事は天竜沿岸のため難場や硬岩地帯が多く、「大畑トウネンバ」、「黒見ボッキ」のほか最大の難所は「唐笠ボッキ」より「金野ヨケ」に至る間で工事も一時停滞する状況であった。また当初より資金不足の請負であり、請負者の出費も多額にのぼったが、ついにこれを完成し、後年県道満島飯田線の素地をつくったのである。

『泰阜村誌 下巻』より

という具合で、険しい険しい“ボッキ”の大連続である。

この竜東(りゅうとう)線という名前は、今日では郷土史家や古老しか口にしないかもしれないが、開通からしばらくは日の通行者数が500人を超え、季節によっては馬背で道が埋まったと言われるほど賑わいがあったと伝わる。郡道竜東線とも呼ばれ、別名平岡街道とも呼ばれた。県道への認定後も通称としてこれらの名はしばらく生き続けた。
(※「竜東」は今日、伊那盆地における天竜川東岸の地域称として伊那市などで多く使われているが、天竜峡よりも下流においてもかつては竜東線(現県道1号)、竜西線(現国道151号))の呼称があった)

賑わいに満ちていた県道満島飯田線だったが、長野県は昭和25(1950)年に、路線名をそのままでルートを大幅に変更し、現在の県道飯田富山佐久間線のルートとした。
なぜ、このような変更を行う必要があったのだろうか。
そして、元の県道(郡道竜東線)は、どうなってしまったのだろう?



「なぜ」の答えは……、右の図を見て欲しい。

鉄道のJR飯田線が、ほぼ同じ位置に存在している!!

……これが、県道の路線が大幅に変更となった、最大の理由だ。

明治33(1900)年に完成した竜東線は、歴史上初めて天竜川の峡谷に沿って整備された(やや)近代的な道路だった。それだけに大変な難工事であったが、完成後はその利便性が高く評価されて大いに利用された。

道路だけではなく、信・遠・三を結ぶ鉄道をこの地方に開設する動きも明治期から存在したが、道路以上に費用がかかることで一朝一夕ではなかった。
それが実現へ向かったのは、天竜川の地形に着目した企業家による水力発電計画と密接な関わりがある。
昭和初期、天竜川水力(社長は福沢桃介)によって泰阜村門島の地に天竜川を堰き止めるダム式発電所(泰阜発電所)が計画されたが、その資材運搬および不通となる天竜川舟運の補償を目的とした鉄道の敷設が、同社と東邦電力および接続が予定される私鉄3社などを株主として設立された三信鉄道によって進められたのである。


『泰阜村誌 下巻』より

三信鉄道(三河川合駅〜天竜峡駅)の計画線は、その敷設目的からして、天竜川との近接を当然とした。
竜東線が川沿いに既設であった区間では、これが工事用道路として活用されたので、なおさら近くを通行することになった。

建設は急ピッチに進み、昭和7年の天竜峡〜門島の開通を皮切りに、昭和11年までには竜東線と並行する全区間にあたる平岡(当初は満島駅)まで開業している(全線開通は昭和12年)。この三信鉄道が戦時中の昭和18年に接続する前後私鉄とともに国有化され国鉄飯田線となったのである。

左の画像は、建設中の三信鉄道を写したもので、引用元の『泰阜村誌 下巻』によると、撮影場所は「金野ホッキ」と書いてある。
そしてよく見ると、トンネルが連なる鉄道と絡むように1本の擦り傷程度の道形が見えるが、これが当時の竜東線(旧県道)の姿である。

哀れ! 竜東線はその敷地を鉄道に奪われたことで廃道となったのか!

これは当たらずとも遠からず。
厳密には、開通時点の三信鉄道は、並行する竜東線(当時は天下の県道でもあった)を不通にはさせていないとされる。ちゃんと道は残したとされている。
ただ、あまりにも近接していたので、それまでの利用者の多くが、鉄道に乗り換えたのである。
結果、竜東線は利用度が激減し、もともと険しい川岸の道だったので、自然荒廃に帰することに……。

昭和25年の県道ルート変更は、当時既に旧ルートの利用度が極めて少なく、かつ荒廃が進んでいたことを念頭に、翌昭和26年に完成予定だった平岡ダムによって一部の区間が水没することを受けた処置だった。
新ルートは泰阜村内で大きく川から離れて山手を通ったが、これは地元の要望を受けて村役場がある平島田地区の近くを通るようになったもので、最後まで自転車が精一杯だった狭隘な旧ルートとは違い、路線バスを含む自動車も通れる道となったのである。それでも当初は狭かったが、令和の現代ではかなり整備された道路となっている。

少し話が変わるが、飯田線といえば、多数の“秘境駅”があることで有名だ。
提唱者である牛山隆信氏の最新2023年度版秘境駅ラインキングにも、同線からは8駅もランクインしており、うち6駅は50位圏内にある。
そして、この50位圏内の屈強な秘境駅のうち、千代(20位)、金野(6位)、田本(5位)、為栗(13位)の4駅が、旧竜東線との並行区間に存在している。

ずばり現地探索後だから言えるが、このうち金野駅前、田本駅前、為栗駅前を、竜東線が通っていた!
だから、これらの秘境駅を訪れてホームを降りた経験のある人は全員が、知らずのうちに竜東線の跡を踏んでいることに……。
この3駅とも今では道の行き止まりにポツンとある感じだが、実は竜東線の途中にある、元は行き止まりの駅ではなかったのである。(信じられない?)
オマケに、国有化時に廃駅となった我科駅も駅前を竜東線が通っていた。

秘境駅ファンの興味もグッと掴んだ(よね?)ところで、いよいよ探索の話へ移ろう。



私はこの竜東線(旧県道満島飯田線)という長大すぎる廃道(おそらく廃道化して放置された川沿いの区間は15kmくらいある)の存在を、平成24(2012)年頃に『泰阜村史』などの文献から知ったことで興味を持ち、探索を始めた。

第一次探索は平成25(2013)年3月で、2日間をかけて終点の天龍村平岡から泰阜村温田までと、同村内の門島から唐笠までを歩いた。
そしてそれから時間が空いたが、つい先日の令和5(2023)年4月11日に第二次探索として、残る温田から門島の間と、唐笠から飯田市の天竜峡までを歩いた。
これで、飯田線と並走する廃道化区間をほぼ全て歩き終えた筈だ。
探索における各起点や終点には例外なく飯田線の駅があり、駅から廃道を歩き始めて、目指す駅に辿り着いたら電車で戻るという利便性があった。(ただし日中の運行は4〜5時間空くことがあるので行程は自由ではない)

全体の感想を一言で述べるならば、面白いハードモードだ。


そんな記念すべき全線踏破達成記念として(?)、今回初めて山行がで紹介したいのは、先日探索したばかりの区間の中から、金野(きんの)〜千代(ちよ)という、ちょうど飯田線の名だたる秘境駅同士を結ぶ一駅間の廃道だ。
公表されている駅間距離は約1.2kmと、ローカル線の割に駅間が近い(平均駅間2.1km)飯田線の中でもかなり短い区間であるが、駅と駅を短距離で結ぶ道路は存在せず、自動車だと最短ルートを選んでも8.2kmは走らないと移動できない区間である。

これは不便で仕方がないよね?

竜東線があるよ!




 金野駅の片隅にひっそり残る“竜東線”の遺構


2023/4/11 15:12 《現在地》

ここは「秘境駅ランキング2023」第6位の栄誉に輝く金野駅。最寄りの集落から1km以上狭隘な1車線道路を走ってようやく辿り着けるとされる有名な秘境駅だが、これより上のランクの各駅とは異なり、駅前まで一応乗用車で入れる。
駅名標にあるとおり所在地は長野県飯田市で、隣は唐笠駅と千代駅となる。そして私はこれから歩いて千代駅を目指そうとしている。

この駅の特徴としてしばしば語られる、単線S字カーブの途中にある小さなホームには、いかにも秘境駅っぽい扉なき前面開放の待合所がポツンとあって、乾いた木の椅子の片隅には何冊もの駅ノートが置かれていた。




掲示された時刻表に目を向けると、日中時間帯のダイヤの粗さが目を引く。
この金野駅、普通列車なのに素通りする列車が結構あるので、思いのほか止る電車が少ない。とはいえ、既に廃止されてしまったような超絶閑散鉄道の記憶に照らせば【参考:岩泉線岩泉駅の時刻表】、飯田線はまだ元気そう。終電は夜10時台だし、どこかで遅くまで飲み食いした後でもちゃんと帰宅できるね。

話は変わるが、私はここまで歩いてきた。
今朝早くに隣の泰阜村にある温田駅前から線路沿いを歩き始め、なんだかんだあって約9時間半が経った今、温田から4駅目の金野駅へ歩き着いた。
この後は引き続きあと2駅歩いて、天竜峡駅で温田に戻る電車へ乗れば、10年越しの“ゲームクリア”(竜東線完全踏破)となる予定だ。
この日歩く道は、ほとんど全てが竜東線(旧県道満島飯田線)に由来するもので、廃道が大部分を占めている。

訳あってこのレポートを一連の竜東線探索レポートの第1作目としたが、私の肉体は、このレポートの冒頭時点でもうヘトヘトだった。私をそこまで消耗させた途中経過の内容はいずれ紹介できると思うが、そんな疲れ切った私が、そろそろ帰りの電車の時刻を気にしつつも、「あともう一息!」と自分を奮い立たせながら頑張って歩いたのが、この金野〜千代の区間だった。

――では、スタート。 



金野駅の狭いホームに立って、飯田線の他の秘境駅と同じく間近を流れる天竜川の上流方向(進行方向)を見る。
やや高低差があるので水面はあまり見えないが、両岸の険しい地形が見て取れる。
ただ、その先には、今日これまで訪れた4つの駅には見られなかった“明るさ”が感じられた。それは言い換えれば、谷の広さだった。

小縮尺の地図を見れば一目瞭然だが、金野駅がある辺りはもう、天竜川の中流を占める長い長い(100km!)峡谷のほぼ上端である。
次の次の天竜峡駅までは峡谷が続くが、そこからは伊那谷という名の広闊な内陸盆地が始まる。
ここから上流に見て取れる空の明るさと広さは、その雄大な地形の変化を予告しているのだった。

そのことに思い至ると、私はひどく感激した。
皆さまにとっては今始まったばかりの探索だが、私には違う。10年前の第一次探索を含め、ここまで歩いた竜東線はどこも深い谷底の道という印象で、こんな明るさとは無縁だった。長旅のゴールが近いことを察した。
このとき私の中では、実は竜東線だけではなく、さらに昔に探索した下流の佐久間ダム湖畔の廃道までも想起していた。



ホームに列車の到着を報せる無機質な予告音が鳴り響いた。15:17に豊橋行き普通列車がここに停まる。
その音をたった一人で聞きながら、ホームの前まで伸びてきている道路を見る。
写真奥が豊橋方向、すなわち私が歩いてきた道だ。

この道は狭かったが、駅のすぐ手前までは舗装されており、今回歩いた竜東線の中では数少ない現役区間だった。その今の道路名は泰阜村道1号金野停車場線という。栄えある泰阜村道のファーストナンバーなのである。長野県道ファーストナンバーの旧道として相応しい番号かも知れない。

もっとも、泰阜村道の終点であるこの駅だが、泰阜村の領域は写真奥にある米川の向こう側までで、駅があるこの場所は飯田市である。駅名になった金野集落があるのも泰阜村だが、駅は越境したところに設置されている。

『泰阜村誌』によれば、この金野駅は、飯田線の前身である三信鉄道の開業当初に泰阜村と千代村、それに天竜川対岸の下条村が協力して請願したことで実現した駅らしい。本来なら駅名の通り金野集落の近くに設置したかっただろうが、おそらく地勢上それができず、やむなく隣村の千代村に入ったところに設置されたようである。また、対岸の下条村も駅設置に協力はしたものの、天竜川を横断する橋が架けられた形跡がないので、利用圏とはならなかったようだ。(←悲しみ)



果たして電車は遅れずにやってきた。

ホームにいるとたぶん、「乗るなら早く乗れ」って車掌に思われるだろうから、少し遠巻きに見守っている。予期したとおり、ここでは誰も乗らず、誰も降りずず、電車はまもなく米川の向こうのトンネルへ消えていった。たちまち駅には元の静けさが戻った。数年前までは、この駅前に誰も使っていない自転車置き場があったそうだが、撤去後は真にがらんどうの駅頭になっている。寂しい。

うん、頃合いだ。
長歩きで疲れきった足も、この長めの休息で少しは回復できた気がする。
ぼちぼち、竜東線の続きを歩くとしよう。
向かうべきは、いま来た道とは逆の……




ここだな!

これが竜東線の続きに違いあるまい。

おそらく、ここへ来る人のほとんど(100%?)が金野駅を目的にしていると思うので、その先へ道が続いていることは、あまり知られていない気がする。
ましてやそれが、飯田市の道路元標へと至る大正以前の由緒ある県道だとは、思うまい。

凸るぞ!




道は天竜川ベリへ降りていくかのような、結構な下り坂で始まった。
やや草生しているが、見て取れる道幅は3mくらいもあり、ここまで歩いてきた竜東線のうち、廃道化した区間の大部分が建設当時の道幅として伝わる6尺(1.8m)しかなかったことに比べると、明らかに広い。
今なお現役の区間がその最たる例だが、竜東線の中にも明治の開通以降大掛りな改良を受けた区間があり、ここもたぶんそうなのだろう。

上手くすれば、ここから千代村までの一区間は、これまでより状況が良いかも知れない。
距離的にもたった1.2kmしかない駅間であり、歩いて移動する需要が最近まであっても、案外不思議ではないだろう。



ホームのある平場を見上げる形で進んでいくと、ホームが尽きた辺りで下り方が落ち着いて、ほぼ水平に。
まだ天竜川との落差はたくさん残っている。
あまり近づかないのは、得策だと思う。(これまでの区間でも、川に近づくと大抵ろくでもない荒れ方をしていたから…)

依然として、道ははっきりしっかりと見分けられる。
今が春先だというのも大きいだろうが、ときおり刈払いをされているのだと思う。
ますます、この区間の状況に期待を寄せる私がいた。荒れていた方が面白いなどとは、実は思っていない。面白い荒れ方なら喜ぶこともあるのだが、この道ではここまででさんざん辛い荒れ方をされてきたので、むしろ綺麗なままで残っている区間を見たいと思っていた。

なお、最新の地理院地図の道は金野駅で行き止まりだと先述したが、厳密にはこの辺りまでを軽車道として描いていて、その行き止まりはちょうどこの先だ。
気になるのは、そこから先の状況だ。




15:19 《現在地》

駅を歩き出して2分後――

なんか見えてきた。



これ、

俺、

たぶん、凄い興奮する予感がする。


いいか?





あーーーー!(歓喜)

めっちゃコレ熱い!!



おそらく大半の皆さまが、

こんな平凡な現役の鉄道橋に何を騒いでいるのかと不思議に思われただろうが、

この橋には、私を強く興奮させる理由があった。

もちろんそれは、竜東線絡みのことである。


――説明しよう。




「金野架道橋」

それがこの橋、この飯田線にある現役の橋梁の名前だった。

注目すべきはもちろん、架道橋というところ。

この橋は、昭和7(1932)年に三信鉄道の最初の開業区間として天竜峡〜門島駅間が開業した当初から存在する橋(桁は更新されているかもしれないが)であって、当時はれっきとした県道だった竜東線こと、県道満島飯田線を跨ぐために架けられたものなのだ。

この橋の存在こそは、三信鉄道が竜東線に直接手を下して不通にしてしまったわけではないということを証明しうる、極めて貴重な生き証人だと私は思う。三信鉄道は、わざわざコストが掛る架道橋を設置してまで道の往来を確保しようとしていたことを物語っている。

この橋が三信鉄道時代に作られたことは、昭和12(1937)年の全線開業時に同社が発行した『三信鉄道建設概要』にも、次のように明記されている。

――金野停留場(川合起点六四粁五分)を置き米川に沿ふて進み百三十二分の一、三百分ノ一、六十分ノ一等を以て上下し天龍川岸を北進し府縣道満島飯田線を(径間二十呎一連)にて横断し――

『三信鉄道建設概要』より

20フィートは約6mであり、長さ約6mの架道橋で県道満島飯田線を横断していたのである。
昭和18(1943)年に国有化されて飯田線となった後も、そのまま橋は存在して今に至っている。
県道自体は、昭和25(1950)年にルートが大幅に変更され、ここを通る道ではなくなってしまったわけだが……。



(↑)これは、昭和26(1951)年の地形図だ。

金野駅のすぐ北側で、鉄道と道路が立体交差しているのが分かる。
ここに存在が示されている跨道橋が、そのままの姿で現存していたのである。
そしてこの地図で赤く着色したのが、県道から降格した直後の竜東線の姿だ。
これからこの道を「千代駅」目指して北上しようとしている。

チェンジ後の画像は最新の地理院地図で、跨道橋も、その先の道も、全く描かれていない。
(今の地図には描かれていないってところがまた、一層魅力的だよねッ!)



大袈裟と思うかも知れないが、感無量だった。

だって、10年歩いて(←これは大袈裟)初めての遭遇だぞ。竜東線の存在を明確に感じさせる鉄道との交差。
実はここまでにも飯田線と竜東線の交差箇所は何度もあったが、基本的に平面交差の跡には何も残されていなかった。

おそらく、三信鉄道時代には平面交差部分にも踏切が用意されていて、往来が確保されていたはずだが、飯田線となって久しい、そして何より県道が廃止されて久しい今となっては、踏切など跡形もなくなっているところばかりだった。
しかしこの架道橋に限っては、竜東線は無視されていなかった! あった!! 嬉しい!




(↑)
橋台を支える道路脇の石垣も、久々に竜東線を意識して通ろうとする人間の出現を、無言で喜んでいるかも知れない。
そんな自由な想像をして私は楽しんだ。

(→)
頭上を跨ぐこの桁も、喜んでいるでしょう。
この橋が平凡な谷川を渡るものではなかったという本分を知る通行人の登場を!

金野架道橋、潜って参る!

その先は




やぶ