道路レポート 函館山の寒川集落跡への道 第3回

所在地 北海道函館市
探索日 2022.10.27
公開日 2022.11.15

 穴澗吊橋(寒川集落側橋頭)へ


2022/10/27 6:42 《現在地》

これは楽しすぎる!!

まるで、吼える怪物の口をへつって行くような道じゃないか!
脚下は余地なく、直ちに海。
黒と青による尋常ならざるコントラストだ。

全くもって、言語に絶する道路景色! これが道路だ! 道路!
もし道路でなければ、私とこの岩場は永久に没交渉だったに違いない。道路があることで、私はこの岩場のトリコとなった。

そして、語弊を恐れず率直な感想を述べると、ここは存外に安全だ。
なにせここには、容易に崩れぬことを強烈なオーバーハングで示す、ミサイルが直撃しても壊れなそうな巨岩の庇が、頭上を守っている。
足元も同様で、この上なく堅牢な路面……地面であろう。

……もちろん、波が穏やかであればという条件付きではあるが…、今日のこの道で見た目の印象に引きずられて恐怖を語るのは、実感とは異なってしまう行為だ。



こんなに楽しく、エキサイティングな片洞門なら、ずっと続いてくれても良かったが、それは命がけで岩場から道を削り出した屈強すぎる石工にとっても、酷すぎる要求だ。人道に反する。
隧道も、オーバーハングも、人の手で作るのは、とっても大変だ。もし私なんかがノミとツルハシをぽいと渡されたとしても、一人生を費やして数メートル掘り進めるのがやっとだろう。いや多分その前に波にさらわれて異世界行きだろう。

長さ15mほどの隧道から直ではじまった頭上カバー率100%オーバーの完全なるオーバーハングは、人力の限りを窺わせる雰囲気で30mくらいも続いたのだが、遂に終わりを迎え、雨が降れば濡れるし石が落ちれば決死となる、これまで以上に恐ろしい道が始まった。

それでも海面との位置関係だけは変化せず、相変わらず直ちに海だ。それも絶対に足が着く余地のない、真っ青な海。万が一滑り落ちたら、泳げたとしても、陸に上がる場所がなくて困窮するだろう。そのくらい波打ち際はどこも切り立っていた。




片洞門を振り返る。

ここへ通じる穴澗の吊橋の墜落以降、人の往来はほぼ完全に消えた道だが、このフレームに収まった景色は、おおよそ50年前に終わった寒川集落健在の当時と、ほとんど変化していないのではないかと思える。

一般的な廃道における経年による外観変化の最も大きな要素は、植物の侵入だ。
だが、この穴澗を越える“勘七落し”の崖道は、岩と波による植生防壁が完全に機能していて、植物は完全にシャットアウトされている。そのため、岩の浸食以外、景色が変化する要素がほとんどない。そしてこの岩は、容易く形を変えるような柔なものではない。そうでなければ、このように突出した岬として何千年何万年も形を留めてこなかったであろう。

ところで、さきほどからこの道の周囲に、ささやかな「優しさ」の名残りが写っていたことには、お気づきだろうか。



山側の側壁の所々に埋め込まれた金属環。
すっかり潮風と波飛沫で錆びついているが、それでも形を留めているこれらは、かつて通行人に与えられた唯一の安全防護施設であった。
当時は、この環と環を巡るようにロープが通されていたのである。

現代でも、登山道などではしばしば見かける“ロープ手摺り”が、この道の最も危険な部分には設置されていた。(反対に、海側に手摺りは置かれなかった。きっと設置しても直ちに壊されるからだ)

こうした手摺りはおそらく最初からあったものではなく、人命尊重が盛んに叫ばれる世の趨勢となってからだろう。人命尊重でない時代などあったのかと突っ込まれそうだが、これについては正直、「あった」と言うよりない。
「人命軽視」は、時と土地とを或る程度限定しながらも、半世紀くらい前までは日本各地に存在した。そうとしか思えない実態が、この道にはあった……(後述)。



穴澗の岬のほとんど垂直に切り立った海崖線は約200mの長さがあり、道はこの200mを、1本の隧道と1本の橋の部分を除いては、海面から3mほどの高さに切り開かれた幅1〜1.5mの歩廊として攻略する。
まるで地形という名の嵐を、身を縮こめながらやり過ごすような道。…そんな印象を受ける。
人が行った地形の改変は、地形全体より見ればしごく小さいが、人力としては畏怖すべき威力を見せている。

ところで、私はカヤックを利用する都合上、圧倒的に波穏やかな日を選んで探索している。
それは探索の成功という意味では功労だが、昔日の日常であった過酷を知るという意味では不利だった。
リアリティは、この景色よりも遙かに過酷なところにあったはずだ。

しかし、それをナマで見たいと思っても、波の荒い日にここへ上陸することは出来ない。仮に決死の航海に成功し、今日と同じ地点に上陸できたとしても、高い波間を縫って、あの【隧道前の磯場】を越す手段が思いつかないからである。




勘七なる漁師が墜死したことから勘七落しと呼ばれるようになったという、函館山火山の名残である大岩脈。
海面に近い部分だけでなく、目の届く高さには一木一草(ほぼ)存在しない、凶悪な崖だ。

しかし、なぜこの岩場に人が落ちた由来を持つ名前があるのかを冷静に考えると、
浮かび上がってくるのは、いま通っている波打ち際の道とは異なる、崖上の道の存在だ。

これは机上調査に属する話だが、実際、波の高い日に(やむなく)通る迂回路が、
高さ70mもあるこの崖の上には存在していたそうである。
集落の裏山である函館山が、要塞地帯で絶対に通過が許されなかったが故に、
人は暮らすために、このような崖の上を越さねばならなかったというのである。




6:44

さらに進むと、道の高さにゴツゴツとした磯の平場が現われた。
この平場は、大部分が天然の地形だと思われる。
その証拠に、平場の中央部にごく浅い切り通しのような“道”が特別に用意されている。

このようにゴツゴツした磯場を歩行するのは、大人はもちろん、身体の小さな子供にとっては大変なことである。
寒川にも分校に相当するものがあったというから、子供が頻繁に通る道ではなかったかも知れないが、いずれにしても住民なり作道者なりの愛情を感じる、小さな切り通しだった。

ところで、この天然の平磯の存在から翻って見ると、直前に通行してきた崖道も、片洞門や隧道の部分を除いては、天然の地形を十分活かしたものだったものだったろうと気付く。
そうでないなら、もっと片洞門の区間は長かったと思う。
昔の職人たちの地形の機微を見抜く目の確かさ、険阻を最小限の労力で貫くツボを見抜く力が、こういう大胆な土木仕事を少人数かつ短期間で実現させしめたのだろう。この手の驚きは、古い時代の険しい道では良く感じることである。



この海は変わっていない。  ……に違いない。

函館湾は、函館の人々にとっては、とても生活に近い存在だと思う。この町ほど、港町のアイデンティティを強く保ちながら活き活きと生きている街を私は知らない。
海と船が大好きな私(「山行が」管理人おい…)にとって、函館はとても魅力的だ。いままで、探索に偏重して行動してきたために辿り着かなかったが、寒川は、私を函館に誘う最高の口実だった。

そんな私の事情はさておき、ここから対岸に見える北斗市(旧上磯町)の海岸の穏やかさと、そこに長閑に建ち並ぶ街並みを、かつてここを往来した寒川の人々は、どういう心境で眺めたろうかというのは少し気になる。

早くに(例えば江戸時代よりも前)に移住してきた人々が、広く便利な土地に大きな街を作り、後から(明治時代)に富山から移住してきた自分たちは、陸路では辿り着きがたい崖裏の浜辺に暮らした。そういう現実があって、この土地への愛着を深めていくのに難しさはなかったろうか。住めば都などという綺麗過ぎる言葉は、都に住む人が口にしても説得力がない気がする。




あ。 見えてきた。



6:45 《現在地》

到達! 穴澗の吊橋の寒川集落側。

おそらく通常手段では到達困難の核心部と見做されているであろう、絶海に落ちた吊橋の対岸だ。

今回、カヤックというウラワザ的手段に出て、かつ海の状況がベスト過ぎたために、
読者諸兄にとっては拍子抜けなほど容易く短時間で到達しているように思われるかも知れないが、
個人的な印象としてはしっかり遠かったぞ。上陸してからの道は短かったが密度が濃すぎたし、
そもそもカヤックを浮かべるまでの日和見を含めた周到な準備や、秋田からの距離を考えると、
とても拍子抜けなどとは言えない道だった。私の天運と周到さを、誉めて欲しいくらい。

橋の近くの岩場に、赤っぽい石標がモルタルで固定されていた。
上面に十字が刻まれ、側面は(風化のためか)何も刻まれていない。
こいつの正体だが、立地から考えて、漁業関係の境界標であろう。
特に北海道内では頻繁に目にする気がするが、たぶん全国の海岸にある。



現在遺構として残っている穴澗吊橋(正式名不明)の構造は、
とてもシンプルな鋼主塔、金属ケーブル、木製床板の人道用吊橋であったようだ。

短い橋で、耐荷重も人道用ということで小さかったから、主塔も細く高さも小さい。
ケーブル(主索)は橋と共に海の藻屑に消えてしまったようであるが、岩盤に埋め込まれた
アンカーボルトにはケーブル側の連結リング部分が残っていた。やはり細そうだった。

正直、北海道の冬の海の荒さを前にしては、頼りになりそうな橋ではない。



海上からの観察でも述べたことだが、現在ある吊橋の両側は、主塔のアンカーと橋高確保を兼ねた
コンクリートの階段になっていて、渡るためにはまずこの階段を上らねばならない。

この時代の屋外の階段では全く珍しくないことだが、“バリアづくし”の急階段だ。
しかも、波の破壊力の恐ろしさよ。あまり抵抗も大きくなさそうなこの階段の段でさえ、
ヤスリをかけたみたいに削り取ってしまっていて、海側は半ば使用不能である。



(←)
なお、なんとなく嫌な予感がして段数を数えてみたら、11段だった。
てっぺんに立つ、錆び付いた首吊り台かギロチン台を思わせる主塔の姿と相まって、
13段だったらどうしようかと思ってしまったが、運良くその符号は回避した

……聞くところによると、この橋の場所では何人も亡くなっているそうだ……。だから、あまり笑えない冗談である。

(→)
一番上の段、主塔が建っている段に間もなく立つが、これはちょっと狭すぎだろ……。

そして安定の、主塔の腐朽っぷり!
これは、対岸の主塔がものの見事に失われているのも納得の、いつ折れても不思議はない朽ちっぷりだ。触っちゃいけない気配がありあり。

もし、両岸の主塔だけでもしっかり残っていたら、あらかじめ両岸に人を配置し、それから頑丈なロープを架け渡して簡易な橋を架けるようなアドヴェンチャーも出来そうだが、その危険の芽は既に摘んである。穴澗の親心を感じる。



6:46

さあ、準備はいいかい?

って、なんの準備だよッ!! と、一人ノリツッコミをしながら、

次の一歩が永遠に失われた橋頭で道を想う。

橋板をぶら下げていたワイヤーも切断されていて、リングだけが残っていた。
(このリングが生きているので、対岸のリングとの間にロープを架ければ…)



青い。

ミリンダ細田氏なら容易く泳いで行き来できるだろうが、私は足が着かないのは怖くて無理だ。



そして…



エモい。

道の途絶としては、ここまでスッキリと諦めを感じさせてくれるのはレアだ。

たった10〜15mそこらの途絶なんだけど、後ろ髪がなびかない。

同じ幅でも、川だとこうはいかないんだよな。やはり海は、途絶感が強い。
ドラクエでもファイファンでも船がなければ渡れないからね。





最後にちょっとだけフライングして、この橋について、机上調査の成果を出すが……


函館市中央図書館所蔵『寒川集落 改訂版』(中村光子著)には、

↓ こんな写真が、掲載されている。↓





『寒川集落 改訂版』(中村光子著)より

↑ 彼らは、アスレチックで遊んでいるのでもなければ、

工事関係の鳶職人でもありません。

穴澗に最初に架けられた橋は、こういう
ケーブル2本を上下に渡しただけだったそうな。

長年古い橋の写真を見てきたが、一般人が渡っている橋で、
俺無理かも…。 と思ったのは初めてかも知れない……。


……お、 恐るべし、寒川住民。




 上陸地点から、改めて寒川集落跡を目指す


7:00 《現在地》

カヤック上陸地点へ戻った。

このままカヤックをここに残して、引続き徒歩で寒川集落跡地を目指すことにする。
『深夜航路』によれば、集落跡に人の暮らした痕跡はほとんど何も残っていないらしいが、穴澗という最大の関門を突破しながら、見にいかないという選択肢はない。
“あれほど”の道を作り上げた人々が住まった土地、その力の根源となった繁栄の跡地を、しっかりとこの目に焼き付けて帰りたい。

この上陸地点から、集落の入口にあたる北端部までは約500m。そこから集落の南の外れまでさらに400mくらいの距離があるはずだ。
それでは、写真奥方向へ向けて、前進スタート!




7:03

歩き出して間もなく、たくさんの大岩が海岸線を雑然と埋める荒磯となった。
ここを通過するためには、アスレチックをするような動きで岩から岩へ跳び進むか、波打ち際を素早く走り抜けるような必要がある。

今日の穏やかな天気であれば通過は容易いが、日常的に往来するには、あまりにも不親切だった。普通に考えれば、もっと楽に通過できる道があって良さそうな場面なのだが、見当らない。
集落が廃絶してから半世紀以上も経過していて、波打ち際の地形自体も変化している可能性がある。




さらに進むと、今度は海面に近い高さにある平磯を行くようになる。いわゆる波蝕棚の地形であろう。
足元にたくさん海水が残っていることからも分かるように、ここは潮間帯で、潮の満ち引きや高波によってしばしば浸水しているようだ。
この先に集落があったなんて、(しかもこの道が出入りのメインルートだったなんて、)普通だったら考えないような地形だと思う。

またここは小さな岬になっていて、回り込むように進む。
ここを越えれば集落のあった海岸線まで視界が通ると思う。
ちなみに先ほどから海の向こうに白く霞んだ陸地が見えているが、この辺りから見えるのは本州の津軽半島だ。




無名の小岬を回り込むと、地続きである陸地の視界が一気に伸びて、函館山を頂くこの“函館半島”の南端にあたる、大鼻岬まで見通せた。

函館で岬と言えば、市街地に近く観光名所になっている立待岬が著名であるが、同じ半島の南端にある大鼻岬は辿り着く道がなく、寒川以上の秘境地帯になっている。
私としてもあそこまで行く用事は無く、目指す寒川集落跡はそれよりも手前の海岸線一帯に長細く広がっていたはずである。
間もなく、その辺りの地形も良く見えるようになるだろう。




波蝕棚地帯が終わり、またゴロタの浜辺となった。
角ばった岩礫が分厚く堆積していて歩きづらいが、焦らず一歩一歩着実に踏みしめていく。山側は常に地形が切り立っていて、背丈よりも高い草藪が繁茂しているので、歩くのは岩石の上ばかりである。距離以上に遠く感じるが、それはひとえに歩きにくいからだ。

ここまで来ると、大鼻岬まで大きく弓なりにカーブした海岸線が一望され、海岸線に隠されている部分はほとんどない。
寒川集落は、このカーブした海岸線に沿って長さ400mも(断続的に)続いていたそうだから、いま見えている半分くらいは集落跡地ということになるはずだが、案の定、遠望した程度でそれと分かるような目立つ遺構はないようだ。今のところ景色から集落の存在は全く感じ取れない。全くの無人境、原始のままの海岸風景に見える。

……というか、そもそも人が住居を構えるような平たい土地があるようには見えないんだけど……。



望遠で覗いた大鼻岬辺り(厳密にはその少し手前)の大断崖。

函館山の先端部が、津軽海峡の激浪に突出している海陸鬩ぎ合いの最前線だけあって、

穴澗の岬を遙かに上回る規模の大断崖が直立している!

その先端部の奇怪な岩峰は、かつて私を驚嘆させた雷電海岸の刀掛岩を彷彿とさせるものがあった。あれよりはまだ小さいけれど…。

なるほど、確かに寒川集落への出入りは穴澗の岬越えしかなかったろうと思わせる、圧倒的拒絶の風景だった。




が! が!! が!!!

見るからに隧道っぽい穴がッ!!!

海蝕洞というには、位置にも、海面との高低差にも、違和感がある。

それに、私はこの穴について、“思い当たる情報”を事前に得ていたじゃないか!

前説で紹介した、sdtm氏に提供いただいた情報の中に――

(集落跡から)東へむかうと、未成の廃隧道があります。潮位が低かったため、少し中をのぞくことができました。

――とあったのは、この穴のことなのではないだろうか。

とすれば……、この隧道は未成?!?!

『深夜航路』には情報がなかった謎の“未成隧道”を、集落跡とされる土地の頭越しに早くも発見してしまった?!

楽しすぎる!!



7:16

ここで地図を確認しよう。

「現在地」は、寒川集落跡地の少し北の小さな沢がある辺りで、
「坑口が見えた」場所は、900mくらい先の海岸線で、大鼻岬へ連なる大断崖地帯の入口のあたりだ。

そもそも、「未成隧道」とされている根拠がまだ分からないし、内部の様子も長さも不明であるが、
とにかく、あそこまでは行く必要が出た!
確実に集落の先まで行かなければならなくなったぞ!




近景より先に遠望で大騒ぎしてしまったが、

これが現在地の近景。

「小さな沢」が、すぐ先で海に注いでいるのが見えるでしょう?
地形図には、水線こそ描かれていないが、等高線でそこが谷であることが分かる。
そして、実際に河口へ近づいてみると……




谷があるだけでなく、チョロチョロという量ではあるが、透き通った水が伏流気味に砂利と土の狭間から流れ出していた。

こんなことは、わざわざ取り上げるような特異なことではないと思われるかも知れないが、もしも函館山が、この規模のまま本土と繋がらない離島だとしたら、この規模の離島には、常に水が流れる沢は存在しない可能性の方が高いだろう。一般に、小島になればなるほど河川が存在する確率は下がる。島の広さは集水域の上限そのものであるから当然だ。

だが、この狭隘な寒川の地には、住民たちの生活用水となっていた貴重な沢や水場が何箇所もあったという。
水にまつわる好条件が、このような絶海の陸地に人々を定着させる大きな理由であったことは想像に難くない。

これは机上調査に属する内容だが、函館市中央図書館所蔵の資料『寒川』(平成12(2000)年/大淵玄一著)の冒頭に、「寒川はむかし、「サブカワ」や「三本川」と呼ばれていたという。不思議なことに、函館山の麓で、小川とはいえ、3本も川のある場所はここにしかない」とある。続いて地学に明るい著者による謎解きがなされているのだが、とにかくこの一帯の海岸は函館山随一の水湧きの土地であったということで、いま目にしている地形もそうした谷の一つだと思う。



小さな沢の河口を過ぎてから、また少し大岩が散らばった浜を歩いて行くと、玉石ばかりの砂利海岸となった。
こうして波打ち際にやや広い土地が出て来たものの、依然として山側は急傾斜で、物理的に不可能とまではいわないが、集落へ出入りできる感じがしない。
そもそも、寒川集落の家屋がどこにあったかというのが、探索当時はよく分かっていなかったのだが、普通に考えて、漁師の番屋や船小屋でもない普通の住居は、波打ち際ではなく、もう少し山手の高い土地に立地していたはずだから、山手にもう少し平坦な土地があるところが真の集落跡だろう。

……と、このように集落の立地について推測していて、これはおそらく誤りではなかった。
もう集落跡地に近づいてはいるが、ここはまだギリギリ、その外だと思う。




集落に直接繋がるような痕跡を何も見つけぬまま、ジャリジャリの浜歩きが数分続き、今度はゴツゴツの露岩が海上に多く散らばる場所へ。

寒川の始まりは、近海漁業に従事した漁師たちの根拠地だったそうだから、当然、漁船が生活の要であった。
だから、集落の目の前に船溜まりや船繋りがあったはずだ。
遠目に見た一帯の海岸線は単調な弓形をしていて、波除けになりそうな入江や大岩、小島も無さそうに見えたのだが、こうして近づいてつぶさに観察すると、なるほどこの海岸には、天然の波消しブロックのような露岩がとても多いのである。
今日用いられるような大型漁船はとても陸に近づけないだろうが、昔ながらの小舟には都合の良い地形だったのだろう。そう考えるのは、私が小舟であるカヤック乗りになったせいもあるかもしれない。

9:23

そんなことを考えていたら、見つけた!

たぶん、寒川集落の初めての痕跡発見!

……まあ、そんな期待されるような大発見ではないが……

めっちゃサビサビの係船アンカーらしきリングが、海岸の岩盤に埋め込まれるように残っているのを見つけたのだ。

この地に港……という言葉から現代人が想像する光景ではなかったと思うが、集落と関係した船繋りがあった証拠ではないだろうか。
多分一つだけではなく探せばもっとあったと思うが、礫浜と同化しているのを偶然1個だけ見つけられた感じがする。
当たり前のようにコンクリの埠頭なんてものはなく、自然の岩場を利用した船着場だったのだろう。
道が道だったから驚きは少ないが、港もやっぱりワイルドだー。


それからまた5分ほど、歩きづらいゴロタの浜を歩いて行くと、さっきの小沢以上に【鮮烈に水を迸らせている】【第2の小沢】”に出会い、そこを過ぎて間もなく何気なく振り返った眺めは――



9:29 《現在地》

おおおっ! 廃村跡の定番、スギ植林地が見えた!

海の民のような印象の寒川の跡地に杉が植えられていることについて、多少の違和感はあったが、
いい加減GPSが指し示している位置的に、この辺りが集落の“さなか”であるはずだから、
今まで角度的に決して目が届かなかった“第2の小沢”の上にあるスギ林の発見には、
いよいよ集落跡到達の確信を得たのだった!


というか、本当に函館山の真裏だな。

砲台を建設するため削られて扁平になった山頂部が、スギ林の背後に聳えていた。

こんな隠れ里のような風景が、【あの夜景】の正反対に隠されていたとは……!