道路レポート 長野県道55号大町麻績インター千曲線 差切峡 第3回

公開日 2015.09.29
探索日 2014.10.28
所在地 長野県麻績村〜筑北村〜生坂村

3号隧道脇での旧道捜索


2014/10/28 13:07 《現在地》

さて、こんな目立つ大岩(←)に穿たれた差切3号隧道であるが、近付いて驚いた。
なんと、トンネル脇に家がある。
見上げれば大岩で、左手は差切峡の断崖が麻績川に落ち込んでいる。
こんな場所にただ一軒だけ、家があるのだ。
しかも、看板やら駐車場やらも見あたらないので、これは普通の民家?なのかな?

道から玄関に通じる通路のうらぶれた雰囲気や、窓の閉め切られたカーテンなどから見て取るに、どうやら無人のようではあるが、廃屋みたいに崩れている所はなく、見たところ綺麗である。



3号隧道のスペックは、昭和43年発行の「大鑑」曰く、全長40m、幅4.1m、高さ4.4m、竣工昭和28年で、一連の隧道群では最も長い。

また、昭和27年の旧版地形図(→)には、既にこの地点の隧道が描かれている。
したがって、ここにも旧道があって、その旧道上に隧道でも見つからない限り、3号隧道は、既に見てきた5号や4号隧道よりも古い起源を持っていると判断出来る。

逆に言えば、ここに旧道がもし見つけられたならば、未知の隧道が期待できるということだ。

それはとても魅力的なオプションだったが、東口には民家(?)があるので、直接確かめる事が出来ない。
旧道の有無は、3号隧道の西口で改めて点検することにした。


3号隧道の東口は、既に見た5号隧道の東口と非常によく似ている。
尋常ではないほどに激しくスキューしている点や、上部に落石防止フェンスを載せた出っ張りのある坑門のデザイン、扁額の位置など、まるで双子だ。
だが、スキューの度合いはこちらの方がさらに強くなっており、約4mの道幅に対する坑口左右の前後差は、3mくらいもある。
ここまで斜めになっている坑門は、私もはじめて見る気がする。


これが3号隧道の内部だが、これまでの2本の隧道と同様、素掘の岩盤にコンクリートを吹き付けただけの簡易な施工になっている。
また、断面の形が一般的なアーチ型でなく、四角形に近いことも特徴である。
隧道は一枚岩の堅い岩盤に穿たれているので、掘削は大変であったろうが、かなり安定していそうだ。

その一方で、洞内の一角にはなぜか小さなテラス状に凹んだ部分があり、そこにポツンと小さな石塔のようなものが立っていた。
良く見ると舟形をしており、地蔵のような気もするが、風化したのか、もともとこういう形だったか、或いはコンクリートを吹き付けられてしまったのか、いずれはっきりとした形状を示していない。
なにがしかの信仰的な意味合いでもって安置されているものだと思うが、全く由来不明の不思議な物である。
ちなみに、外部から脚立でも持ち込まない限り、手を届かせることも出来ない。



出口の向こうには、早くも次の隧道の入口が迫っていた。
歪な素掘の坑口に、巨大な金属製の落石シェッドを取り付けた、差切2号隧道の物々しい姿である。

これまでは散発的に現れていた隧道が、生坂村に入るなり、いきなり2連続で出現した。
このことは、差切峡に道路を貫通させる上での“最大の難関”が、この場所にあったことを想像させた。
道は文句も言わずに巨巌を次々潜り抜けていくけれど、絶対に易からぬ工事の成果だ。

道にアップダウンはさほど無く、自転車を漕ぎ進める事は容易いが、路外へと意識を向ける活動を専らにする私は、厳しい緊張感を強いられていた。
もしこの地形に旧道があったとしても、もはや私を寄せ付けないのではないかという、そんな畏れから来る緊張感だった。
この道の外では、とても生きていける気がしない。



隧道を抜けて短い明かり区間に出た時だった。
ふと、背後に自動車の音。
これまでずっと往来がなかったので、もう誰も来ないと油断していた矢先だったが、反射的に振り返ると、確かに一台のワゴン車が、背後の隧道を驀進してきていた。
私は道の端に寄り、その車をやり過ごす。
そして、その遠ざかる車体に書かれた文字を見て、もう一度驚いた。

車体に書かれていたのは、「筑北村営バス」という文字だった。
このせいぜい8人乗り(←12人乗りだそうです)が定員と思われるワゴン車が、村営バスなのか。
空港シャトルバスとか、民間の送迎バスとかならば分かるが、幾ら小さな村の話とはいえ、公営の路線バスがワゴン車というのは、驚いた。

筑北村の公式サイトにこの村営バスの路線図や時刻表が掲載されている。
それによると、ここを走るバスは1日4往復で、筑北村の役場周辺と、差切峡を抜けた先にある中込集落を結んでいる。
中込は生坂村に属する集落だが、生坂村側からはバスなどの公共交通機関が設定されておらず、専ら筑北村の生活圏に属していることが伺える。またそのため、この路線は冬季も閉鎖されない。

このように自治体が路線バスを運行するのは、その多くは民間のバス事業者が不採算を理由に撤退した路線であるという。また、そういう路線ではしばしば廉価なワゴン車を採用して、コストの圧縮を図っているようだ。詳しくは、wiki「廃止代替バス」の項を参照されたし。



13:10 《現在地》

やや呆気にとられつつ、隧道に吸い込まれていく“バス”の後ろ姿を見送った私だが、それに付き物の後続車は全く無く、あっという間に元の静寂が戻って来たことで、ますます幻を見たような感じを受けたのであった。

が、間もなく我に返って、私の本来すべきことを始めるのであった。

それは、今くぐった3号隧道の脇に、旧道の有無を確かめること。

もし見つかれば、昭和28年以前に使われていた隧道が出てくるやもしれない、そんな期待のある旧道探しだった。


然るに果たして――



それはあった。

坑口右側の現道より1mばかり高い位置に、ぶった切られた平場を発見。
凄まじく張り出した“片洞門”と、東口で目にしたものと同様の作りをしたフェンスの存在が、この平場を道と教えていた。
どうやら、旧道は廃止後に、東口で見た民家の裏口として、使われていたようだ。

4号隧道脇の旧道にも立派な片洞門があったが、こちらのものはさらに張り出し方が激しく、道の全幅にわたって限界高を2.5m程度に限っている。
現道も結構な“険道”だと思うが、この旧道と較べれば、確かに段違いの進歩である。

それはさておき、何度も言うが、この旧道には隧道があってもいい。




強烈な片洞門のカーブ(むろん片側は絶壁で、ガードレールも何も無い、決死のブラインドカーブだ)を、期待に胸ときめかせて曲がった私の目に、初めに飛び込んできたものは、目立つ白い色に塗られた何かのタンクだった。

タンク?

その場違いなタンクの正体は、雪国で暮らす人には馴染み深い、いわゆる灯油タンクであった。
だが、私の脳はその事を了解するよりも先に、タンクの後ろにタンクと同時に見えていたものの解析を終え、或いは解析を終えぬ前から本能的に、優先して知覚させしめたのである!

白いタンクの背後にある、黒い空間。

それこそはまさしく、私がここから数百キロも離れた自宅の机の上で、数ヶ月以上前に、2枚の地図の比較から、はじめてその存在に期待を感じた、“そのもの”であった。



廃隧道発見のお知らせ。

ここで発見された隧道だが、後日の調査で(詳細は最終回にて)、正真正銘の明治隧道と確認された。

まさに快哉を叫ぶべき場面だが、単に短い一洞の素掘隧道を発見しただけでは、これほどの興奮もなかっただろう。
今回は読者さまの情報などに頼らず、きっかけを含めて自力で見つけ出した喜びも、もちろんある。
でもそれだけではない。
一番の興奮は、この隧道の類い稀なる冒険的立地にある。
それと、昔の道を彷彿とさせる、岩場へ直付けにされた電線の碍子。
これも私の「昔の道路を知りたい」という欲求を満足させた。



ああ、私の拙い文章力がもどかしい!

こんなに素晴らしいシチュエーションは頻繁に出会えるものでは無いというのに、私の力では、カメラに収められた1枚1枚の写真だけが、その力を伝える術になってしまう。
カメラを構えた私が、今居る回廊のような狭い道の上へと向ければ、そこには交通を阻むことを喜びとするような巨大な岩峰が、青空を背にして紅葉に見え隠れし、まさに隧道を圧するように峻立していた。

いい景色だった。




また、隧道のように名前を付けてもらえる存在では無いかもしれないが
私の背後にある片洞門も、絶対に見過ごしてはならない重要な道路遺構だ。
これを穿つ困難は、素掘の隧道を貫通させるに全くひけを取らないであろう。

私がこれまで目にしてきた片洞門の中でも、張り出し方の大胆さにおいては、“本家”片洞門にも後れをとらず、
今では古い写真や絵の中でしか見れなくなった、“本家”の往昔の勇姿を彷彿とさせるものさえあった。



隧道そのものは、短い素掘であり、長さ、幅、高さなど、特筆すべきことはない。それでも記録するならば、目測で長さ6m、幅2.4m、高さ3.6m程度か。
扁額などもちろん見あたらず、机上調査を終えた現在でも、正式な隧道名は明らかでない。とりあえず、「旧差切3号隧道」と称しておく。

内壁も路面も乾ききっており、岩場の突端にあることから、風の通りはすこぶる強い。
車の通じた形跡である轍は完全に掻き消えており、まるで天然の風穴に等しい遺跡だが、前述の白タンクと天井を這う一条の送電線が、やや新しい時代の痕跡を留めていた。否、電線にあっては現役で、なぜか現隧道ではなくこちらを通過していた。そういう意味では、まだ完全なる廃ではない。

なお、隧道の東口から外を見れば、やや離れて前方に“民家”あり。
これは現隧道の東口脇で目にした民家で、それが建つ猫額の平場もまた、旧道であったことが理解される。民家が旧隧道を秘匿していた。白タンクの所有者も、民家の主だろう。灯油を補給する度に、隧道を潜る生活がここにあった。(灯油=冬=雪=死ねる…)



隧道から東へ出ることは、結構な危険行為である。

そこには木製の桟橋が架かっていたようだが、既に端っこの板きれ1枚だけを残して陥落し、おそらくは民家の主が、崩れゆく橋を必死に補強すべく継ぎ足しただろう雑多な木材が、余計に悲愴感を強めていた。

今やこの橋に体重を乗せることは危険以外の何ものでも無く、その山側に辛うじてある、人一人が辛うじて歩ける狭い地べたを歩いた方が無難である。

この道が道路として現役であった昭和28年以前にも、やはり危うい桟橋が架かっていたのであろうが、見下ろされる谷の深いこと、既に見た4号隧道脇の“ドの淵”旧道にあった人道橋の比ではない。
仮に、絶対に対向車が来ないと保証されていたとしても、私はここで四輪車を運転するのだけは絶対に嫌である。
墜落死を免れたとしても、確実に寿命が縮みそうだ。



危橋の縁をへつって、民家の裏手に到達。
この平屋の向こうに現道があり、建物の脇に見覚えあるスキュー坑門の見覚えない脇腹が見て取れた。これで絶壁の短い旧道を一巡したことになる。
短くとも、深かった。濃かった。

それにしても、この民家の主はどのような心境をもって、この山峡に起居していたのであろう。
やはり初めはなにか民宿か展望台か、そういう旅人相手の商売を志して(或いは実際に経営して)いたのだろうか。
飾り気のない建物ではあるが、渓谷に面する一室だけは大きな窓が三方に巡らされ、さぞ眺めも佳かろうと思う。

そして、改めて振り返れば一門の隧道が危うい風体を晒しているのだ。
敢えてその向こう側に灯油タンクを設置した隧道愛(?)の主であるだけに、その正体には大いに興味を感じるところである。(しかし残念なことに、今のところ不明である)



こうして私は3号隧道の脇に、1本の廃隧道を発見した。

続いては、先ほどバスを呑み込んだきり静まりかえっている2号隧道へと移るのだが、
旧版地形図での描かれ方や、隧道のデータ、地形の条件などなど、
非常に多くの点が3号隧道と似通っている2号隧道にも、果たしてそれは “ある” のか?