2020/12/23 15:52 《現在地》
だいぶヒヤヒヤさせられる崩壊地だったが、距離は短かった。時間的には5分はかからず突破している。
山側のコンクリート壁(隧道の側壁だったものだ)が途切れると同時に、その崖を高い落石防止ネットが覆うようになり、崩壊地を突破したことが分かった。
同時に足元も平らになったが、ススキやセイタカアワダチソウが繁っていて、もはや道に見えない。
しかし真の問題は、この藪を超えた先であろう。
この先は九龍城だ。 いや、九龍城はさすがに言い過ぎたが、とにかく紅葉橋の袂のごく狭い土地に、もの凄い頭でっかちな、おそらく利用者のほとんどがこういう形の建物とは思っていないだろう形の観光施設が軒を競っていて、私は隙間を縫って現道へ脱出しなければならない。上手く抜けられればいいが、探索中に現住家屋の近くを通るのは、いつも緊張する。
(なお、建物の間を抜けて、そのまま湖面まで降りていく階段が写真には写っている。現地ではこの正体が分からなかったが、前回のミニ机上調査編の内容を踏まえれば、あれは旧遊覧船乗り場への通路だったのだろう。私もその一部を使って、現道への脱出を図ることになったわけだ)
少し進んだところで振り返った。
激藪区間にも手摺りがあるのは、隧道が崩落する廃止の直前まで遊歩道的に利用されていたからだろう。
道幅は、車道として大正末に開通した当時のままだったと思う。だから遊歩道としては広々としていただろう。
チェンジ後の画像は、旧々4号隧道付近のズームだが、隧道はものの見事に側壁だけを残して完全に消滅している。
側壁の範囲が隧道の長さと考えられるから、全長3〜40mのやはり短い隧道だったようだ。
しかし、あまりにも綺麗に側壁だけ残っているのは、崩落後も多少は人手が入っていて、これ以上湖面に大きな崩落が及ばないように、今にも崩れそうな部分を故意に壊したのかも知れない。
キター……
廃道を塞ぐフェンスは、嫌いではないのだが、ここはテンションの上がる場面ではない。
とりあえず、施錠はされていなかったので、こそーっと開けて通過します。
人目、ないよね? ないね。
まあむしろ、住人の人目ならばあった方が、これ以上こそこそ行動で気を揉む必要がなくて楽だったかも知れないが。
この扉から先は、旧々道というよりは、旧遊覧船乗り場と現県道を結ぶ通路である。
ならば旧々道はどこへ行ったかと言えば、このまま水平に斜面をトラバースして、50mほど先の紅葉橋の旧々橋台に達したはずなのだが、この間は建物の土台に埋没して完全に形跡を失っているので、踏査は断念した。
ドキドキしながら登っていった階段通路。
登り切れば、そこは現県道である。
よく見ると、階段の途中で少しだけ向きが変化しているが、そこを左折するとトイレがある。
このトイレまでは開放されているので(こちら側を塞ぐようにロープが張ってあった)、そこを過ぎれば大手を振って現県道へ出ることが出来た。
なお、左に見える看板は私の位置からしか読めないので、旧遊覧船乗り場が現役だった時代のものだろう。
階段を上りきれば、ひとまず一連の旧々道の景色とはおさらばなので、最後にもう一度見返してみる。
旧々3号と旧々4号隧道に挟まれた岬の突端に建つ旅館、貸しボート乗り場、大崩壊跡、旧遊覧船乗り場への階段などが、狭い範囲にあった。
山間部の風景としては稀な密さを感じるところである。そしてこの傾向は、この先もまだ続く。
ところで、私はさっきから追われているようだ。
警察?
ではない。一羽のトリに。
あの優雅な姿は、ハクチョウだろうか?
3枚前の写真にも写っていて、その時点ではずっと遠くに浮かんでいたのに、それから脇目もふらない感じでまっすぐ私の元へ近づいてきていた。
私に何か用がありそうだった。
……たぶん言葉が通じないので、待たずに先を急ごうと思う。
15:56 《現在地》
ドーン!と脱出!
旧々3号隧道を出たときからずっと見えていた湖面を渡る赤い橋、紅葉橋に到達した。3代目の紅葉橋とみられる。
その累代の時間の重みを表わすように、橋の規模と較べても異様に巨大な橋名を刻んだ石のモニュメントが、親柱の代わりに置かれていた。
また、(移転後の)遊覧船乗り場も、この橋の袂にある。
ちょうどそこは旧紅葉橋と現紅葉橋の間だったところで、旧紅葉橋の橋台はもう少し左だが、建物の下敷きだ。
改めて、ここは現県道である。
現県道との再会は、12:50以来であるから、実に3時間以上ぶりである。
この間の進捗を現県道にある構造物で表わせば、神龍湖トンネル(533m)の1本分に過ぎない。
たったこれだけの進捗に3時間もかかったのは、レポートの内容を皆様は読んでいるから分かるだろうが、旧道だけでなく旧々道があり、さらに廃遊歩道への寄り道までしていたからだ。
これでようやく、安泰な現県道に復帰出来たのだが――
対岸に立つ瀬なし!
紅葉橋を渡れば即座に
旧道と旧々道が、
おい〜でおい〜でし〜てる〜♪
キリッ (←踵を返した音)
ゴメン。まだ行けないんだ。
自転車を取りに戻らないと。
自転車を旧々3号隧道の出口に置いてきたままだから、今から取りに戻る。
ただし、来た道を戻るのではなく、らくをする。
旧道を経由していく。少し遠回りだが、絶対にこっちが楽だ。
紅葉橋の袂で振り返ると、このような景色である。
左が現県道の神龍湖トンネル(平成4(1992)年開通)、右が旧道の「三号隧道」だ。
旧々道は一段下なので、建物が邪魔で見えない。しかし私が旧々道から上がってきた階段の入口は見えている。
ここから犬瀬へ行くには、この交差点を右折すれば最短距離だが、青看は敢えてトンネルを潜ってから右折するという、露骨に遠回りなルートを案内している。
別に旧道に一方通行規制はないのだが、この先の旧道トンネルが狭いのと、トンネル前での右直事故を防ぐために、そうしているのだろうか。
本当だったら(旧々道を見つけなければ)、お前たちがこの探索の主役になるはずだったんだが、ごめんな、刺身のつまみたいな扱いになっちまって。
旧道世代の隧道も久々3時間ぶりに潜るが、『道路トンネル大鑑』に記載の「一号隧道」「二号隧道」以来となる、これが「三号隧道」である。
西口は、直上からの落石に備えるべく、隧道と同じ断面のロックシェッドが10mほど延伸されていた。
『大鑑』のデータによれば、全長101m、幅4.7m、高さ4.0m、竣功は大正15年とのことで、全長以外はこれまでの2本と同一だ。しかし、前述の通り、この大正15年竣功という数字はおそらく間違いで、実際は昭和5年頃の竣功であると考えている。
右写真は、坑口前から見下ろした旧々道だ。
僅かに建物と坑門の間に隙間があり、唯一旧道から旧々道を見ることが出来る。
目測ではあるが、優に道幅の10倍はある垂直の崖がそそり立っていて、なんとも恐ろしい所を通行していたものだと思う。
それと較べれば、旧道もだいぶ進歩した安全なルートと思えるし、おかげでまだ頑張っている。
おわっ!
ちょっと驚くことが起こった。
トンネルに入る前の写真と、この写真を見較べて貰えば、起こった“異変”が分かると思う。
なんと、私が隧道へ入った瞬間に、洞内の照明が点灯したのだ。メカニズムとしては簡単な事だろうが、全く予期していなかったし予告もなかったので、びっくりした。
(一度点いたら、しばらく点いたままになっていた)
ミニサプライズがあった隧道内は、これまでの(私と読者諸兄の記憶から早くも薄れつつある…)「一号」「二号」とそっくりだった。
素掘りのコンクリート吹き付けと、コンクリートの壁面を交互にした、古びた造り。断面の形は、大型観光バスに媚びたように四角かった。
なお、この三号隧道という名称は、現行のものではない可能性が高い。
『平成16年度道路施設現況調査』には、三号隧道の代わりに(それがあるべき位置に)「紅葉隧道」という隧道が記載されている。
そのスペックは『大鑑』の三号隧道とは少し違っていて、全長116m、幅5.2m、高さ4.7m、そして竣功が昭和33(1958)年となっている。
スペックだけを見れば別のトンネルとしか思えないところだが、消去法的にも、名前的にも、途中で改築と改名があったものと考えている。
おそらく、観光地のメインストリートとしての体裁を整えるべく、改築されたのだろう。西口のロックシェッド部分はこのとき延伸されたのだろう。
16:01 《現在地》
隧道を抜けると見覚えのある場所。ほんのり淋しげな犬瀬のお土産物屋街へ帰還した。
なんか薄暗くなり始めている気がする。早く自転車を回収して、次へ!
自転車回収してきた!
そして遂に紅葉橋を渡橋中!
神石高原町から東城町へと、探索の舞台は移った。
うおーー!
逃げ道、脇道、一切許さぬ神龍トンネルの面構え!!
道から逸脱しなければ戦えない!
今こそ常軌を逸しろ!!!
2020/12/23 16:07 《現在地》
日没まで残り50分少々という余裕のない状況で、街灯を点灯させ始めた紅葉橋の上にいる。神龍湖を横断する100mほどの鉄橋の中央で、神石高原町から東城町へ舞台は移った。
振り返ると、直前まで探索していた神石高原町の崖と、そこに穿たれた神龍湖トンネル(平成4(1992)年竣功)が見えた。
次に進行方向に向き直ると、東城町の崖に穿たれた神龍トンネル(昭和58(1983)年)が大きな口を開けている。
これら2本のトンネルを繋ぐ紅葉橋は、昭和60(1985)年の竣功である。
人造湖の誕生で強制的な溺れ谷となった地形ゆえ、両岸共に険しいが、より険しいのは東城町側だ。
なにせこちらには、土産物屋も、遊覧船乗り場も、新旧道の分岐地点も、こうした足を止めるような場所は全く用意されていない。
取り付く島のない、さっさと目の前のトンネルに入れと言われているような岸壁だった。
が、おそらくこの世の中でオブローダーという人種だけが、ここを素直に素通りできない。
神龍トンネルの数メートル上流側の岸壁に、上下に並ぶ2世代の旧隧道が、どうやって手中に収まるかを考えてしまう。
2世代の旧隧道のうち、目に付きやすいのは、現道と同じ高さにある旧隧道だ。
こちらのデータは、探索前に確認した『大鑑』に、次のように記載があった。
トンネル名 | 延長 | 車道幅員 | 限界高 | 竣功年度 | 素掘・覆工 | 舗装 |
---|---|---|---|---|---|---|
三坂第一 | 74.0m | 4.0m | 4.0m | 昭和5年 | 素掘 | 済 |
旧道世代としては本日の通算4本目となる「三坂第一隧道」の姿は、これまでの3本とよく似ているように見えたが、初めて“廃隧道”となって登場した。
繋がる橋がないのだから、わざわざそうする必要もなさそうなのに、しっかり天井までコンクリートの屏風のような壁で塞がれてしまっているのが辛い。
そのために、反対から隧道を潜り抜けて来るという選択肢が潰されてしまっているのが、とても痛かった。
そして、最も奇妙なのが、下にある隧道だ。
間違いなく旧々道の隧道と思われるが、旧隧道の(本当の)真下にあるというのがまず驚きだし、坑口が旧紅葉橋の橋台の内部に収納された状態になっていることなどは、正しく前代未聞である。
しかし、敢えて橋台で塞いでしまわず坑口を残したことには、意味があったのだろうか。もし意味があったなら、隧道は貫通しているのだろうか。
望遠で覗いても、角度のせいで奥の様子は全く分からない。ただ、洞内にも大量の岩石が散乱している感じであり……、直上の旧隧道が封鎖されている状況だけに、やはり旧々隧道も内部は塞がれている可能性は高そうな気はする…。
今なによりも確かめたいのは、この旧々隧道の内部の様子である。
そして目的を達する最も手っ取り早い手段は、見えている坑門に潜り込むことだ。ここから直接辿り着けるならば、それが最良である。
辿り着けるかどうかを、今から調べようと思う。
簡単でなさそうなのは分かる。
紅葉橋と神龍トンネルの間には、ほとんど隙間がなかった。
ここから路外に出てから、斜面を数メートルトラバースし、旧隧道へ到達しようというのが、考え得る唯一の直接接近の手段であったが、その出鼻を挫かれた。
なんぴとたりともここからは出さないし、その気さえも起こさせないよ。
……そういうメッセージが込められていそうな隙間のなさだった。
とりあえず手近なところにある神龍トンネルの黒ずんだ銘板を、恨みがましい目で眺めた。
旧紅葉橋が架かったままであったら、それを渡って旧隧道や旧々隧道へ簡単に近づけただろうに……、
うっかり撤去されちまいやがって……、
そんな不当極まる不平を持った。
しかし実は旧紅葉橋は今も健在であって、この私の狼狽ぶりを同じ湖面に眺めていたのである。
このことは現地を訪れた人なら皆知っていると思うが、旧紅葉橋は、神龍橋と名前を変えて、ここから600mほど上流の湖畔を巡る遊歩道上に移設されている。
橋自体も後述の通り凄いものだが、移設に際し、橋台から外した橋をそのまま巨大な足場船に乗せたまま移設先まで移動させたというのが今も語り草になっていて、近くの案内看板にも誇らしげに書かれてあった。
右写真は、犬瀬から帝釈峡遊歩道へ寄り道した際に通りがかりって撮影した、旧紅葉橋(神龍橋)の勇姿である。(別アングル、解説板1、解説板2、地図)
旧紅葉橋は、三坂第一隧道と同じく昭和5(1930)年に完成した。つまり、共に帝釈川ダムの嵩上げ工事による第二期付替道路の一員である。
そして55年間勤め上げ、昭和60(1985)年に現在の紅葉橋が完成したことで役目を終えたときに、わざわざ移設されてまで保存されることになったのは、大きな理由がある。
この径間82.9mもあるペンシルバニアトラス型式(分格トラスの一種)の橋は、完成当時はむろん戦前を通じて日本最長の道路用トラス桁であったという、記念すべき土木遺産なのである。(土木学会選奨土木遺産および国の登録有形文化財指定を受けている)
帝釈川ダムにかけた関係者の意気込みが伝わってくるような橋だと思う。
――なんてことを解説している余裕は、現地の私にはもちろんなくて、
絶賛、橋の外に身を乗り出しながら、可能性の捜索中。
とりあえず、安全な範囲内での偵察として、“☆印”の位置まで行ってみよう。
あそこまで行けば、神龍トンネルのデカ坑門に邪魔され見えない崖が見られるはず。
駄目そうなら、諦めて反対側の坑口を探しに行こう。
16:09 逸脱開始!
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
うぅ…
やっぱり、険しいなぁー…
で も …
行けるかも!
まずはこのまま岩場を蟹歩きで横断して、旧隧道へ。(←@)
それからルンゼ状になったところを下って、旧々隧道!(←A)
この二段構えで一挙に攻略できる気がする。もちろん、自転車はまた置き去りになるが。
意を決して、足を踏み出した!
まずは、神龍トンネル坑門の側面にへばり付いて進み、奥の崖に取り付かないといけない。
足場は、何かのケーブルが這わされている、靴がギリギリ乗るくらいの狭い犬走りだけである。
とても分かり易く“高所の恐ろしさ”を感じる場面なのだが、足場自体はしっかりしているのと、
身体を沿わせる坑門側面に、偶然良い手掛かりとなる溝があったので、安全な三点支持が可能。
足元にある何かのケーブルも、私と同じ目的地へ通じているようなので、
それも励みにしながら、ほんの数秒間、たった数歩、前進した。
無事に前半フェーズを突破した。写真は振り返って撮影したもの。
奥の角のところで全天球画像を撮影し、そこから歩き出したのである。
残る半分、後半フェーズを超えれば、とりあえず旧隧道に到達できる。
ただし、戻ってくる羽目になる可能性も高いので、引き返せる範囲で行動することが念頭だ。
これが後半フェーズで、目的地まであと5mほど。内容は天然の崖のトラバースだ。
その手前半分はいいところに樹木が生えているので、それを足場に進めそうに思えた。
問題は奥側で、裸ん坊の岩場を横断する必要がある。普通なら私には無理な地形だと思うが、
なんという幸運だろう。いい位置に落石防止ネットがある。
その頑丈なネットに張り付きながらトラバースが出来そうだ。
行けると判断し、行動を開始。
―― 2分後 ――
(来てる…)
(また、ヤツが近づいて来てる…)
(まるで何か、私に伝えたい重大な事実を持っているかのようだ…)
この一羽だけが、私の必死を見ていた。 私はいま――
坑口前へ辿り着いた!!
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
2020/12/23 16:12 《現在地》
ほぼ垂直の崖に貼り付けられた落石防止ネットを、ゲジゲジのように這いつくばって横断するという行為も、初めてではなかったが、頻繁でもなかった。
長時間やれば体重を手足が支えきれなくなるため、長居の出来ない刹那の行為であり、数秒後に首尾良く“地面”に辿り着いたときには、極度の緊張から解放された安堵から、思わず座り込むほどだった。
滑落の恐怖はそう感じなかったが、小心者であるため、もしも人に見つかれば看過されなそうな行為を見つかりうる場所で行っていることが、とても苦痛だった。
ここまで来れば、とりあえず一安心だ。 (すぐ戻る羽目になるかもしれないが……)
(もしも、残り時間に十分な余裕があれば、先に反対側の坑口の状況を確かめたうえで、必要に応じて同じ行為を行った可能性が高い。しかし、ここまでの探索で極めて興奮度を高めていた現地の私は、この楽しい探索が途中で時間切れになることを恐れていて(今年の中国地方遠征は今日で最終日であった)、可能な限り効率的な径路で探索を進めたいという思惑から、一定のリスクを取る判断をした。もちろん、行けるという自信を持って挑んだものであり、無謀とは思っていない)
改めて、辿り着いた現在地は、旧紅葉橋の東城町側橋頭部だ。
周囲全てが、探索によって勝ち取った特別な風景と思えるから、まずは全天球画像で余すことなく伝えたい。
私の周りは宝の山だ。
それでは、個別に説明しよう。
眼前に立ち塞がるのは、三坂第一隧道。
『大鑑』記載のスペックは前回紹介したので割愛するが、昭和5(1930)年に旧紅葉橋の開通と同時に供用開始し、昭和60(1985)年に現紅葉橋の開通と同時に供用廃止となった隧道だ。
片割れである旧紅葉橋には移設という第二の生き場が用意されていたが、残念ながら隧道の移設はあり得ないことで、哀れ閉口の末路であった。
もっとも、封鎖された隧道の内部が何かに転用されている可能性は残るが、こちら側からでは確かめられない。
そして、封鎖の壁は妙に新しいものに見えた。自然石風の模様が、観光地の修景を重視した“今風”だし、案外最近まで開口していた可能性がある。
あとは、見るべき物は何があるか…?
この朽ちて傾いた電源ボックス……、かつては洞内に照明があったのだろう。…それくらいか。
見ての通り、奥行きなく封鎖されてしまっている坑門で、扁額のように近づかねば読めない要素もない。形状も平凡だ。
それだけに、果たしてこの崖に孤立していたのが、この坑門だけであったとしたら、私は直前の“大立ち回り”を演じたろうかということを考えた……が、多分やったと思う。
こうして実際に路上に立ち、坑門に触れることは、私にとって特別に充実感があることだ。自己満足だが、私が廃道探索でやりたいことの中心が、1メートルでも多く、最後かも知れない道の“通行人”となることだ。
だからこそ、このように人が滅多に訪れなさそうな廃道には、格別の魅力を感じる。
……とはいえ、ここへ来た主目的がこの隧道でないことは確かだ。
主目的へ向けて、速やかに踵を返す。
振り返った先に、旧紅葉橋の橋台がある。
30数年分の落葉に覆われているが、手前の路面はアスファルトで舗装され、奥の橋台はコンクリートで出来ている。
親柱が残っていないかと思ったが、残念ながら見当たらない。橋と一緒に移設先へ行ったのか。
路面よりも橋台は50cmほど低い位置にあるが、これは橋台に乗せられていた戦前最長のペンシルバニアトラス【旧紅葉橋】の床板の厚みに他ならない。83mのワンスパンで湖を一跨ぎにした記録的長大橋も、床板は意外に薄かった。
また、橋台の幅の狭さも印象的だ。
橋台の幅は橋桁の幅に等しいはずで、だとすれば4.6mという記録がある。
つまりここでは、幅4.0mの三坂第一隧道(長さ101m)と、幅4.6mの旧紅葉橋(長さ83m)が、間隔を空けず連続していたことになり、昭和60(1985)年当時の主要地方道としてのスペック不足は明らかだ。ともに昭和5年という自動車交通黎明の生まれなのだから、やむを得ないことだが。
これは単に歴史的に貴重な橋の橋台というだけでなく、むしろそれ以上に、私にとって興味深い要素を秘めた橋台である。
私の心は足の下へ逸ったが、その前に橋台先端からの眺めを見ておこう。
一人舞台のような橋台の突端に近づいた。
細い灌木が邪魔で対岸の視界はあまりクリアでないが、最近の崩壊によって大きく姿を変えてしまった旧々道の跡地を見渡すことが出来た。
いまから約30分前、初めて“此処”を見つけて恐慌に近いほどの衝撃を受けた現場を、今度は見返している。
私は今、【此処】に立っている。
そこから視線へ左にずらすと、現代の紅葉橋の全容を仰ぎつつ、此処と対になる対岸の旧橋台を見ることが出来た。
時間不足のため近づいての観察は出来なかった橋台を、望遠で確かめた。
対岸の橋台も、こちらと同じく2階建てになっている。
上段が旧橋で、下段が旧々橋の橋台だ。
隣にある今の橋台と比較すると、どちらも半分以下の幅しかない。
昭和60年に旧橋が撤去されてからは、役に立っていなかったこれらの橋台が、今は遊覧船乗り場への歩道橋を支える役割を担っていた。
旧橋だけでなく旧々橋の橋台まで役割を与えられている。
あるものは何でも活用してやろうという、観光の熱を帯びた土地利用の凄まじさである。
遊覧船通路のおかげで、橋台に近づいて観察するのは容易だが、難しいことを優先したために、私は結局それをすることができなかった。
しかし、後日の机上調査により、これらの橋を撮した“極めて驚くべき写真”を入手したので、最後の机上調査編をお楽しみに……。
16:14
さて、核心部。
一番気になるものは、この橋台の“下”にある。
もう一度だけ、道を逸脱せねばならない。
旧道から旧々道へ、時代を遡る。
旧道の橋台の高さは約6m(目測)あるが、その下へ降りる。
飛び降りる訳にはいかないので、岩壁と橋台が鋭角に綴じたルンゼ状になっている部分を、
慎重に下ることにした。もちろん、同じルートを戻ってこられることも確かめながら。
写真では伝わりづらいと思うが、ここの傾斜はもの凄く急だ。私の足が怖さを物語っている。
しかも落葉が堆積していて、土と岩の部分の区別が、外見からは難しかった。
うっかり岩場でスリップしようものなら、そのまま湖まで真っ逆さまもあり得るだけに、緊張した。
(湖面付近は絶壁で、落ちると登り直せない)
万が一滑った場合、あそこに見える太い木を抱きかかえるのが唯一の生還ルートだが、
よく見ると、その木の幹は地獄の針山を模した禍々しいものであった。
この地での二度目の難行も、成功。
現道を外れてからの一連のルートを、対岸より眺めた風景に重ねて表示すれば、上記の通りだ。
この場所へ湖面側からアクセスできる機会は、水位の上下に拘わらず、おそらくない。
橋台側から湖面を見下ろしてみても、【このように】非常に険しく、往来は不可能だ。
身を置いてみて改めて、これほど険しい岩場で3世代の隧道や橋が作られてきたことには、驚きを感じる。
両岸共に非常に険しく、特にこの東城町側は半島状に突出した岩峰の側壁に直に取り付く形状であって、
土木技術も未熟だった大正から昭和初期にこのルートを採ったのは、極めて意欲的な決定だったと思う。
ちょうど湖が細くなっている場所なので、それで架橋地点に選ばれたのだろうが、本当に大胆だ。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
16:16 《現在地》
こうして辿り着いた旧々紅葉橋の橋台は、旧紅葉橋のそれに増して窮屈だった。
あまりに狭いので、こうした超広角の全天球画像でなければ、物の配置を上手く伝えられない。
私の目の前で、鉄のように重い存在感を放っているのが旧紅葉橋の橋台で、
その湖に向かう正面側には、対岸の橋台にはないトンネル状の開口部が存在している。
さらにその開口部の奥に、旧々隧道があることが、対岸や紅葉橋上からの展望で確認しているが、
この隧道内部への進入を妨げていた障害は私に攻略されて、今は完全に丸裸となった。
たまらん!
うわーっ!
旧々紅葉橋の親柱が、1本現存していた!!
これは、とんでもなく熱い発見ではないか?!
ここにあった2代前の紅葉橋は、帝釈川ダムと同時期の大正末期に完成したものだ。
第1世代の付替道路の一員として活躍を始めるも、僅か数年後にダムの嵩上げが決定し、昭和5年には第2世代の付替道路に役目を譲って、早くも廃止されたとみられる、いわば―― 幻の橋。
移設なんてことも(おそらく)なく、歴史の闇に消えてしまった哀れな旧々橋。その橋台以外の唯一の遺物が、親柱ではなかろうか。
しかも、こんな老兵の頬骨のような弱者に鞭打って、航路標識らしき三角板を固定する役割が与えられていたのも、涙を誘う。
旧々紅葉橋について、唯一の救いと思えることは、絵葉書という形で、この時代の橋としては稀に見る多くの写真が残されていることだろう。
ここに掲載したのは、広島県立文書館が公開している絵葉書のうち、「帝釈峡 神龍湖紅葉橋附近」と銘打たれたもので、撮影年は記されていないが、大正13年から昭和5年の間であることは間違いない。
ここに写る2径間の下路プラットトラス橋が、旧々紅葉橋である。
注目すべきは、中央の高い橋脚の特異な構造で、橋桁と同じように鋼材を組み立てたトレッスル橋脚である。現存していれば、これもまた間違いなく近代土木遺産として表彰されていたに違いない。
紅葉橋の変遷については、後に机上調査でもう少し追求するので、ここでは親柱を見つけたという興奮を伝えるに留めておこう。
あとは…
あとはもう……
振り返るだけで!
橋台内の隧道へ!
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|