2014/5/20 10:30 《現在地》
全長48.3kmの島根県道23号斐川一畑大社線は、この塩津集落内から再び自動車が通行可能な状況に復活する。
データ上では、本県道の自動車通行不能区間の長さは1.9kmとなっているようだが、現在の車止めや道路状況等の要素を加味すれば、実際に車で通れない長さは、峠からこの地点までのほぼ1kmであった。
数字の上では大した長さではないが、しかしこの1kmがあるおかげで、50km近い主要地方道は、そのほぼ中間地点で二分されてしまっているのである。
しかも、将来にわたっても、当分は改善しそうにない。
まあ、第1回にも書いたように、ほんの2kmほど市道に遠回りすることを受け入れれば、問題無くこの区間を迂回して、主要地方道としての役割を全うすることが出来るので、このままでも大きな問題は無いわけだが…。
10:33 《現在地》
上の写真を見ても分かるように、県道は集落内にある道の“途中”に出た。
正しい進行方向は分かっていたのだが、敢えてその反対方向へも行ってみることにした。
この道はもしかしたら、どうしょうもない“階段県道”の代わりに、車道として峠を目指した一種の“未成道”なのかもしれなかったから、その行く先を確かめておきたかった。
だがその試みは、ほんの僅かな距離と時間で終わってしまう。
塩津集落の一番上手にある民家の前まで道は立派に通じていたが、それで終わりだった。
行き止まりであるということ以外には、特に県道や未成道を思わせるものはなかった。
とりあえず、こちら側の探索はこれで終了。引き返して、先へ進もう。
戻る最中に見上げると、険しい山肌がそそり立つように集落を圧倒していた。
そしてそこには、少し前に通ったばかりの道が、白いガードパイプの列を見せていた。
現在地とあの道の高低差は、約40mもある。先ほどの“階段県道”が、その差を無理やり破壊して、道をここまで下らしめた。
それにしても、こうして下から見上げてみてはじめて気付いたが、道には結構しっかりとした路肩の施工がされていたのであった。
あの実際の狭さには似つかわしくないと思った。
それに路肩だけではない。その下にも幾段もの雪崩や落石を防止するための工作物が、自然の驚異から集落を護る目的のために、居並んでいた。
山陰地方は、日本地図の中では明らかに西国であり、そのままに温暖というイメージがあるが、冬場はかなり雪が積もることもある。雪国なみに頑丈そうな雪崩防止柵が、その事を思い出させた。
10:34 《現在地》
分岐地点に戻って来た。
今度は左の道へ行く。
海岸線から海抜40mの山腹までの斜面に、田舎らしからぬ濃い密度で並べられた家々の集合体が、塩津集落の姿である。
かつては、そんな家々の隙間を縫うように敷かれた小径が、集落内の交通路として、唯一無二のものであったと思う。
だが、いつしかこの地にも、全国の他の集落並みに自動車の恩恵を求める声が高まって…、そして車道の建設にあたっては、集落内の少なくない家が移転や土地の縮小を受け入れたのであったろう。
そうして現在の集落内には、車道同士の分岐が全くないただ1本の車道が、おおよそ500mにわたって九十九折りを描きながら走り、海岸沿いの幹線道路と集落の一番奥の家の玄関前までを結んでいる。
車道とはいえ全体が急傾斜で、幅も1車線に限られるが、その恵沢は住人にとって計り知れないと思う。多くの軒先に自動車の姿があった。
最初の切り返しのカーブを過ぎると、行く手に1本の橋が現れた。
その橋は、急な斜面に沿って斜面を渡る、いわゆる桟橋だ。
橋の始まりがきついブラインドカーブで、急な下りと相俟って、まるで海に飛び出していきそうな錯覚を私に与えた。
想像していたよりも、長い橋だった。
橋端の左右に銘板があり、左は「もととみやはし」、右には「昭和61年1月竣工」と刻まれていた。
古い橋には見えなかったが、確かにその通りだった。
そして橋のすぐ山側には、橋や車道が完成するまで使われていたであろう小径が、生活道路として生きていた。
決して車を受け入れない道幅や、急なところに刻まれた階段状の段差は、紛れもなく、先ほど体験した“階段県道”の延長であった。
昭和61(1986)年という、さほど遠くもない昔まで、この小径が県道だったのだろう。
斜面を我が物顔で渡るこの立派な橋が、本当に集落を越えて、峠も越えて、県道として遠くまで貫くつもりがあったかは定かでないが、このような現代的な橋を設けない限り、集落内へ車道を引っ張って来れなかったのだとすれば、それは塩津の厳しい地形を雄弁に表現していた。
あ〜。やっと近付いてきたな〜。 地面が。
地面という表現は変かも知れないが、私はこの単語を思った記憶がある。
いまようやく、このレポートの最初の地点と同じ高さ、海の間際の地平に戻って来たという実感があって、「地面が近付いてきた」と思ったのだった。
本当の意味でひとつの山(峠)を越えたという実感である。
その地面には、久々に見る2車線の道路が敷かれ、そこで魚介類の積み卸しだろうか、大きなトラックが荷下ろしをしていた。
少し待っていたら、他の車も通りかかるであろう。これはどこにでもある光景だった。
でも、どこにでもあるものとは違うものも見えていた。
この橋の下にも、同じような橋が架かってた。
この九十九折りは、剛毅なことに、互い違いの勾配を持つ2本の橋によって、その大部分が構成されていたのだった。
そのため、ほとんど地上に足を付けないまま、この高低差を下るのだった。
「もとみやはし」の反対側の橋頭に辿りつき、そこでも2枚の銘板を確認した。
すなわち、「元宮橋」と、「小谷川」と、それぞれ刻まれていた。
小谷川という河川名は、とても違和感があった。
橋が渡っているのは、どうみても水気のない緑の斜面で、どこにも川なんてものはなかった。谷もない。
もちろん、雨が降れば少しは水も流れ落ちるだろうが、銘板の1枚には河川名を付ける通例に従うために、無理矢理に河川名をでっち上げたのではないかという、どうでもいい疑いを私に持たせた。
…ほんとうに、どうでも良いな(笑)。
そしてすぐに、2回目の切り返しカーブに着いた。そして同時に、2本目の橋となる。直前に見下ろした橋だ。
先ほどの元宮橋と同じように、今回も橋端部が直角に曲がっていて、またしても進入時の眺めは、海へ飛び出していく感じ。
土地が狭いから、このような直角の曲線橋を多用して九十九折りを作っている。苦心の作だ。
今度の橋の名前は、「小谷橋(こたにはし)」であった。
竣工年も1年と少し若返って、昭和59年10月との表示があった。
これら2本の橋の竣工年を見ただけで、塩津集落内にある現在の車道の全体が、昭和59(1984)年から61年にかけて順次開通したものだろうと推測できた。
遂に海岸まで下降する最後の坂!
探索成功のビクトリーロードを、いま颯爽と下りきる。
峠からここに至るまでの標高差は、我が国の起伏の全容を思えばたいした数字でもない 180m に過ぎないものの、その峠が海岸から直線距離で僅か300mの至近にあったために、道のりは極めて窮屈な状況に置かれていた。徹頭徹尾が急峻な地形の中にあった。集落さえもそうだった。
道幅と勾配、どちらの点でも無理矢理を感じさせる部分があった。県道らしからぬ階段さえあった。転倒さえした。
そして、この地形にまともな道を通そうとしたら、どれだけの投資が必要かというリアルも、終盤で一気に見せられた。
九十九折りを構成する橋は今のところ2本だけだが、この調子で峠まで上ろうとしたら、もう2本くらいは必要だろうなぁと思う。
首都高のランプを思わせるような現代的な道路と、ネコしか通らなそうな階段県道が一連となって存在する。
これが塩津だ!
下りきったところに立っていた「急傾斜地崩壊危険区域」の看板が、住宅地図並の大縮尺で、塩津集落と県道の道形を表示していた。
幅50cm程度しかない階段県道区間は、本当に糸くずのように細く描かれていて、思わず笑ってしまった。
それにしても、本当に集落の全部が一軒残らず急傾斜崩壊危険区域に入っているというのは、なかなか大変な立地だなと思う。
10:37 《現在地》
山腹の所々に見える橋が格好いい、麓から見上げる塩津集落。
山上に見えるのは、発電用風車だ。
ちなみに、この県道と市道(不通区間の迂回路になっている)の分岐地点には、
特に案内標識などが無く、県道の不通を示す標示物も見あたらなかった。
したがって、普通のドライバーは迷わず道が広い市道を選ぶものと思う。
別アングルからも集落斜面を撮影。
道路、頑張ったなぁ。
斜面には色々なものが立錐の余地無く存立していて、出来のよいジオラマを見ているような印象を受けた。

10:40 《現在地》
塩津は、この探索の目的地ではあったが、最終地ではない。
ひとつの探索が終わり、次の探索へ向けて走り出すと、集落はすぐに見えなくなった。
その見えなくなる最後のカーブで振り返ったのが、左の写真。
そして、同じ地点のガードレールに見たものが、右の写真。
ここにあるキロポスト表示は、偶然にも県道の番号と同じ「23」であったが、同じものの数字違いを峠の手前で見ていた。
前回の数字は「25.2」だったから、起点に2.2km近付いたことになる。
そこで改めて今回辿ったルートの距離を測定してみると、やはり2.2kmであった。このことからも私は正確に県道を辿り得たものと判断し、安堵のうちに探索を終結させた。