道路レポート 埼玉県道・群馬県道83号 熊谷館林線 葛和田〜赤岩間 前編

所在地 埼玉県熊谷市〜群馬県千代田町
探索日 2016.05.06
公開日 2021.08.19

突然ですが、クイズです。


【問い】
昭和41年当時は国道に1箇所、都道府県道に93箇所、市町村道に413箇所あったけど、
令和元年時点では、国道にゼロ、都道府県道に8箇所、市町村道に38箇所まで減っているモノって、
な〜んだ?








 答えは 





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 してみてね 












【答え】

渡船施設。



いやいやいや、そんなワケないでしょ?

渡船って、フェリーとかのことでしょ。

まだまだ瀬戸内海とかに目を向けたら、何百という膨大な数があるはずだよ。



……仰るとおりであろう。

ここでいう渡船施設とは、日本中にある全ての航路交通路を指すものではない。

問いの文言にある通り、『国道や都道府県道や市町村道にある』ということが肝要なのである。

そしてこれをもう少し専門的に言うと、道路法の道路である渡船施設と表現できる。

ご存知の方もいるだろうが、高速自動車国道、一般国道、都道府県道、市町村道といった、我が国の道路網全体の8割程度を占めるいわゆる「道路法の道路」は、道路法 (昭和27年法律第180号)という法律に規定された存在だ。
そしてこの道路法の第二条に、次のような条文がある。

第二条
この法律において「道路」とは、一般交通の用に供する道で次条各号に掲げるものをいい、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等道路と一体となつてその効用を全うする施設又は工作物及び道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものを含むものとする。
道路法

下線を引いた部分だけを繋げて読んでみて欲しいのだが、道路法が規定する道路には、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等が含まれるとある。
ではこの含まれるというのは、具体的にはどういう状況を指しているのかといえば、道路の区域に含まれていて、かつ供用されていることを指す。
道路は、路線の指定をしただけではだめで、具体的な区域を指定しておかねばならず、その範囲内でしか道路を供用することはできない。

供用というのは、一般に解放して使わせることで、開通している状況をいう。
道路の区域を決定は、道路上で私権(建物を建てるとか、モノを放置するとか、寝そべるとか、いろいろあります)を制限して、道路の管理を実効的にする仕組みである。
もっと簡単に言えば、区域の決定は、「ここは●●という道路の一部だ」と見えないラベルを貼る行為で、供用は、「誰でもご自由にお通り下さい」とゲートを開けておく行為といえる。

橋やトンネルと共に、渡船施設を道路に含むということを、より具体的に表現すれば、陸と船舶を結ぶ桟橋通路、陸上のターミナル施設や駐車場、そして水上を航行する船舶そのものも、道路に含むことが出来るのである。

この仕組みは、渡船施設を橋の代わりになるものとして観念している。
かつての日本では、大きな川にほとんど橋はなく、その代わりに膨大な数の渡し場があった。
次第に橋が増えてきて、渡し場は役目を終えて減ってきた。

冒頭に例を挙げた昭和41年でさえ、既に国道にはほとんど橋が完備され、渡し場は少なくなっていた。
それから半世紀が経過し、国道はおろか都道府県道からも絶滅寸前、市町村道においても風前の灯火となりつつあるのが、道路法の渡船施設なのである。

繰り返しになるが、道路法の渡船施設となるには、道路の区域として指定されていて、かつ供用を開始していなければならない。
渡し場の前後の道路はこの条件を満たしていても、渡船施設そのものは除外されているケースが多いのだ。多くの離島航路がそうである。内地の港と離島の港、それぞれが別々の道路の起点や終点になっていて、水域は道路から除外されているものが多い。

そしてもう一つ、道路法の渡船施設となる難しい条件がある。
それは、渡船の運行自体も道路管理者自らが行なうものでなければならないことだ(自治体や民間業者への委託は可能)。

実は、渡船施設とよく似た道路法上の概念に、海上区間というのもある。
たとえば国道58号(鹿児島〜那覇)は600kmを越える海上区間を持つなど、全部で459本ある国道のうち20数本に海上区間が存在する。
渡船施設との違いは、供用が行われているか否かだ。
道路の区域が水上にも指定されている点は共通するが、渡船施設は供用されていて、海上区間は未供用なのである。
現実には、海上区間を連絡する民間業者のフェリーが航行している場合は多いが、道路管理者自らが運行(ないし自治体に委託運行)していないものは、道路法の渡船施設とはならないのだ。


『日本道路公団二十年史』より

左のイカした写真は、かつて国道28号の渡船施設であった公団明石フェリーの運行風景だ。
船そのものも道路の区域に含まれうると書いたが、この景色はまさしくそのことを実感させてくれる。まるで車で埋まった道路橋のワンスパンだけが海上を移動しているようなじゃないか!

淡路島経由で本州と四国を結ぶ国道28号には、明石海峡と鳴門海峡という2つの海上区間がかつて存在しており、共に日本道路公団が一般有料道路事業で道路法の渡船施設を運用した時期がある。
公団明石フェリー(航路延長9.3km)は、昭和31(1956)年から昭和61(1986)年まで30年間営業していた。(昭和41年の渡船延長に計上されていないのは、一般有料道路は別枠で計上されていたため。ここに計上されている国道上の1箇所とは、国道231号の石狩川河口に存在した渡船施設である)
昭和61年に民間の明石フェリーに航路譲渡されたことで、道路法としては再び未供用の海上区間に戻っていたが、平成10(1998)年に明石海峡大橋(国道28号神戸淡路鳴門自動車道)が供用を開始したことで、海上区間が解消された。(鳴門海峡も同じような推移)

国道に最後まで存在していた渡船施設としては、国道197号の愛媛県三崎港〜大分県佐賀関港を結ぶ国道九四フェリーがあった。
ここでも日本道路公団が一般有料道路事業として渡船施設を運用しており、昭和34(1959)年から昭和63(1988)年まで道路法の渡船施設であったが、この年に民間の国道九四フェリー株式会社に航路譲渡されて再び海上区間に戻っている。(現在も)

本州と佐渡を結ぶ国道350号も海上区間を持つ国道で、ここに就航している佐渡汽船の船上には右画像のような案内がある。
確かに、国道350号の海上区間を航行しているのは間違いないが、佐渡汽船の航路は、道路法の渡船施設にはあたらない。だからここは海上区間なのである。


……とまあ、気付けば私のオナニーじみた道路ウンチクの時間になってしまっていたが、ようは、道路法の渡船施設はレアなんだよ!ということを言いたかった。

こっからが本題だ。





国土交通省が毎年最新版を発表する『道路統計年報2020』によると、平成31(2019)年4月1日現在、道路法の渡船施設は全国に46箇所存在する。
国道には全くなく、都道府県道に8箇所、市町村道に38箇所という内訳である。
で、都道府県道の8箇所をさらに細分化してみると、主要地方道に2箇所、一般都道府県道に6箇所となる。
国道に存在しない以上、現時点で最上位格を有する道路法の渡船施設は、主要地方道に存在する2箇所だ。

それがどこにあるかを調べてみたところ、1箇所は埼玉県と群馬県の県境に、1箇所は大阪市大正区にあるようだ。
後者は、主要地方道である大阪市道浪速鶴町線にある千歳渡だと思うが、指定市の市道が主要地方道に指定されているケースなので厳密には都道府県道ではない。(指定市は部分的に都道府県と同格の権限を与えられているから、市道も主要地方道になれる)

今回私が訪れたのは、埼玉県と群馬県の県境にある、主要地方道熊谷館林線の渡船施設“赤岩渡船”だ。
我が国に残る唯一の県境を跨ぐ渡船施設である。
県道としての路線名は、埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線といい、関東平野の北部で利根川を横断するおおよそ20kmの経路を持つ。
そして『道路統計年報2020』によれば、この路線は合計0.4kmの渡船延長を含む。


今回私は、熊谷市から館林市へ向けて、この県道を走破してみた。
全線走破ではないが、いまを生きる道路法の渡船施設がどんなものなのかを見てきたので、ゆる〜い気分でチェケラッチョ。




 道路界レアケースへのファーストコンタクト  国道17号〜葛和田地区まで


2016/5/6 8:16 《現在地》《グーグルマップ》

さてフィールドに登場しましたヨッキれん。
今日は珍しく、ワルクトレイルの運転席上からのスタートでございます。
場所は熊谷市の国道17号熊谷バイパス上、上川上交差点付近であります。
毎日通勤で見ている景色が出て来て疲れた気分になった人がいたら、ごめんなさいね。

我らが埼玉県道83号は、ここから国道を高崎方向に1km進んだ地点にある肥塚交差点で国道17号より分岐して、渡船区間が待ち受けている葛和田(くずわだ)の地へ向かうのである。
しかし、天下の国道17号熊谷バイパスは、そんじょそこらの道とは直接交渉しないエリートであるから、間もなく始まる側道からのアプローチとなる。

前方の巨大な青看に、その旨が表示されている。
左折の側道の行く先表示に、「 熊谷駅」の表示があるでしょう。
とりあえず、この表示を頼りに側道へハンドルを切る。



側道に入って500mほどで肥塚交差点が現れた。

探索を行った平成28(2016)年当時は、ここで国道17号と交差する左右の道が県道83号で、左折すれば熊谷市街中心部、右折すれば渡船場方面へ進めたのであるが、令和2(2020)年に熊谷方面の経路が変更されて、新たなルートは写真奥の高崎側から国道17号と重複しながらこの肥塚交差点へ来て、左折して(私から見れば右折)渡船場方面へ進むようになった。
まあこの辺りは本題とはあまり関係しないので深く追求せず、私は渡船場方面へここを右折する。

……さっきから渡船場という表現を独り連呼しているが、見ての通り、青看には全くそういう予告はない。
この肥塚交差点の青看では、右折は羽生の地名を案内しており、まるで利根川を渡る気概が感じられないのである(羽生は川を渡らない埼玉県内の地名)。
日本唯一の県境跨ぎの道路法渡船施設を、売りにしていないのか?!



まだまだ車で前進中。
県道83号の単独区間に入って渡船場方面に向かっているが、国道17号から渡船場へ突き当たるまで約7.3kmの距離があり、沿道には多くの集落があるので(市街地と呼んでも良いし、農村と呼んでも良いくらいの微妙な都会レベル)、道路に全く怪しいところはない。
どこにでもありそうというか、どこにでもあるに違いない、本当にどこにでもありそうな2車線道路が続いている。
途中、“ヘキサ”もいくつか見た。


ガラス越しの撮影で画像が汚くてスマン。
県道83号の旅路は、途中でいくつもの県道との分岐を経験する。

写真は2度分岐する県道303号の2度目の分岐(上中条交差点)に立つ青看で、ここまで来ると渡船場まで残り5kmを切っているが、まだまだ県道83号は「羽生」を案内する仕事があるおかげで、余裕の表情を崩していない。

別に私は意地の悪い男ではないが、これからこの道がどこで異変の兆候を現わすのか、いまから楽しみで仕方がないのである。
着実に日本唯一級の存在へ迫っているが、まだ全然匂わせない。慎ましやか。



8:17 《現在地》

国道17号肥塚交差点から4.5km進んだところで、今度は同じ主要地方道の格を持つ県道59号羽生妻沼線と接続する、北河原交差点に達する。

《現在地》を見ていただきたいが、この先の県道83号は約2kmにわたって、番号的に上位である県道59号の重用区間となり、表面的には姿を消す。(点線は重用区間を示す)
写真の青看にもが見えないが、実際は直進の「本庄 深谷」方面と重用している。
また、今まで県道83号が案内してきた「羽生」という行き先は、ここで県道59号の右折方向に譲り渡す。

渡船場まで残り3kmのこの地点に至っても、風景には全く怪しむべきところがないが、とりあえずだいぶ近づいたので、ここでクルマを自転車へ乗り換えることにしよう。




さてここからは、いつものサドルの上からお伝えします。
というか、既に上記交差点からは800mほど前進しており、依然として県道59号との重用区間にいるが、それも残り半分強になっている。

写真は利根川の支流である福川に架かる落合橋。
落ち合う流れなんて全くなさげな、なんとも長閑な平野の川だ。

橋を渡ろうとすると、ここから熊谷市であることを示す案内標識に出迎えられた。ずっと同市内にいる気分だったので意外に感じたのだが、良く地図を見ると、県道83号の径路は北河原交差点の前後約1kmほどだけ行田市に入り込んでいた。
ここでまた行田市から熊谷市に戻るのである。




8:22 《現在地》

落合橋を渡ったところから、熊谷市の葛和田地区に入る。
いよいよ渡船場の所在エリアに入ったのである。

平坦な道をワクワクしながら順調に漕ぎ進めると、間もなく青看のある分岐地点が現れた。
県道359号を分ける葛和田交差点だ。

青看に大型車を拒む表示だけがあり、行き先の書かれていない県道359号に少し興味を惹かれたが、初志貫徹でここは右折し、県道59号の皮を被った83号を前進する。
重複区間の終わりは、もう近いはずだぞ。




右折して100mも進まぬうちに、また青看が見えてきた。

まだ次の青看がありそうな交差点までは400mくらいあるはずだが、思ったより青看の出現が早い!

なになに…




ズギュ―ン!!!

渡船場 Tosenba」

唐突過ぎるパワーワード「渡船場」の出現に、私は沸騰した!

単純な地名っぽいような、でも多分そうじゃないんだろうなという微妙なラインを突いてくる、「渡船場」という行き先。
でも、たとえばフェリー乗り場とか観光船乗り場とかだと、案内用図記号(JIS Z8210)
船の記号「」がだいたい付いてくるよな。それがないから、単なる地名っぽく見えるのだ。

というか、そもそも私はこの渡船場を利用できるのか? 本当に運行してるのかよ。



青看は400m先の交差点を予告するものだったが、それに魂を奪われ呆けた数秒後、道路向かいの民地に立つ幟(のぼり)に気付いた。

「 利根川の新橋を 四面望橋 利根川新橋を架ける市民の会 」

そう書かれた幟が、道行く車の傍らに並んではためいていた。

興奮の真っ只中にいた私だが、鎮静剤を大量に打たれたような、静かな頷きの時が訪れた。

……うんうん。 そうだよな。 

やっぱり橋が欲しいよな。 当然だよな……。

今回、事前の情報収集をほとんどせず突撃したので知らなかったが、ここにはいま熱烈な新橋待望の活動があり、かつ現時点で着工はしていないものの、架橋が実現する可能性があるようだ。
架橋されれば、日本最後の県跨ぎの道路法渡船施設は消滅を免れまい。

これはいよいよ、一期一会の覚悟を心して望まねばならないな。




昔ながらの裕福な町場の雰囲気が、瓦屋根の屋敷の多さからそこはかとなく感じられる葛和田集落を、県道は微妙にカーブしながらすり抜けて行く。
400m先に予告された青看の交差点が、見えてきた。
今度は予告ではない青看も現れた。

再び、直進は渡船場であることを訴えている。

県道83号、

渡船場へ行く道……、

いや、渡船場自体も、県道83号なのである。

この概念を、青看で表現する努力をしてみて欲しかった。




8:24 《現在地》

秦小学校前交差点。

ここで再び県道83号の単独区間が始まる。

青看の行き先がパワーワード「渡船場」であることを除けば、道はまだ平穏に見える。

普通に平凡な橋で対岸に行けそうな雰囲気じゃないか。



渡船場まで、残り1km。




 埼玉県の果てへ迫る、葛和田の風景


秦小学校前交差点。
同じ幅の2車線道路が左と正面に分かれていく。
見た目の優劣はないが、ほとんどの車が左の道へ入っていくのが、私がここに滞在した数分の間だけでも見て取れた。
そうだろうそうだろう。なにせ直進の県道83号は、わずか1km先で、利根川河岸に道尽きる定めである。

いざ、我が決戦のバトルフィールドへ。

そう意気込んで突入しようとした矢先。
私は、交差点の一角に、“奇妙なもの”を見つけた。(○印の位置)

近づいてみるとそれは、アスファルトの路面から10cmほど突出した、角が丸みを帯びた四角い石柱だった。

!!!

私に電撃走る!

旧道観察に興味がある方ならば、答えはもうお分かりだろう。

……この立地、この形状、この小豆島産っぽい材質……。

全要素が、ある“道路付属物”を指名していた。



道路元標!

それがこいつの正体。

大正8年の旧道路法施行令において、全国の市町村に一基ずつの設置を義務づけていた、市町村における道路の基点となる存在。
昭和27年の現行道路法下では設置義務が撤廃されたが、未だに「道路の付属物」としては規定され、無条件で路上への存在が許されている古きエリートである。

道路元標は正面側に市町村名を刻んであり、しかしこの埋没状況では判読は絶望と思ったが、なんと読み取れた「秦」の文字。

交差点名、秦小学校前。
ここから導き出されるのは、当時この地の村名が秦村であったということ。
正確には埼玉県大里郡秦(はた)村、その道路元標所在地が、この葛和田の地、村役場の前にあった当交差点だったのである。
埋没部分には、「秦村道路元標」の下の五文字が彫られているに違いない。

それにしても、約100年間撤去を免れていたことは喜ぶべきだが、舗装されていなかった時代に設置された元標が、その後の舗装により埋没を始め、舗装の高級化による厚みの増加でますます埋没したのだと見られるが、撤去もされないままここまで埋没したことにはただただ驚く。途中どこかの段階で掘り出して、高さを保たせようとする者はなかったのか。
渡船場が全く珍しくなかった時代の古物が、時の堆積物に埋没しながら、辛うじて判読を許す。

……渡船場が生き残っているという事実も、こういうことなのだと教えていた。



まだ交差点から離れられないでいる!(笑)

さっきから目に入っているこの角の商店。
地方の街角ではまだ珍しいとはいえない看板建築の食料品店のようだが、店名が奮っている。
天王店と書いて、「てんのうだな」と読む。
(この角にあるバス停名が「天王店」)

店を「たな」と読むのは、鎌倉時代に発祥がある「店」という言葉の語源「見世棚(みせだな)」に由来するそうだ。
棚に商品を並べて見せる場所が店であり、この語源から店を「たな」ともいう。
よく時代劇を見る人ならば、豪商を大店(おおだな)なんて言うのを知っているだろう。主に上方で使われた表現である。

この天王店が上方商人に由来するかは分からないが、浅からぬ歴史を持つことが容易く判明する店名だった。
道路元標とセットで、この地をレトロフリークの巷に演出する存在だ。
(つうか写真の店頭に、そのままの見世棚が並んでいるじゃないか。笑)



やっと交差点を離れている!

どこにでもありそうな片側歩道付きの県道風景。
道の終点はまだずっと先なのに、この足で辿っていける陸路の終わりが近いという、これは余り慣れない感覚だ。
見た目に違和感なんて全然ないのに、心が普段と違っている。そわそわ。ふわふわ。

路傍に面白いイラストが描かれた交通安全看板を見つけた。
肝心の「子供とびだし注意」の赤文字は経年でほとんど消えてしまっていて、黒で書かれたワンポイント(ツーポイント?)のイラストだけが存在感を持っている。
で、その二つのイラストが、下に船、上に飛行機という、土地鑑がなければなぜそのチョイスと思わざるを得ないチョイス。




言うまでもなく、下の船は渡船場のイメージであろうし、上の模型飛行機のように見えるものは……、答え合わせはもう少しだけ後にしよう。
しかし、このイラストの船は随分と古風な木造船に見える。マジで木造船だったらどうしよう? というか私は自転車を持って対岸へ行きたいんだが、下調べゼロなんで、それが出来るかどうかも分からない。めっちゃ恐い船頭さんだったらどうしよう。

詮無いことを(船だけに)そわそわ、ふわふわ考えていたら、もう道の終わりが来たかと思った。

交差点から約350m、正面に緑の土手が立ち塞がった。
利根川の堤防である。
ついに、川という名の異世界へ、私と県道が飛び込む時が来たようだ。




うおおぉ〜!

8:26 《現在地》

イラストにそっくりな飛行機が、目の前の空を超低空で横切っていった。

あの模型飛行機みたいなイラストの正体は、グライダーだった。
この先の利根川河川敷には、全長3kmもある巨大なグライダー滑空場があるのだ。
今まさに着陸しようというグライダーが、堤防に突き当たった私を出迎えた。

さて、我らが県道83号だが、もう少しだけ陸路の猶予がある。
この堤防を越えるところまでは、陸路であることが保証されている。

それともう一つ、矢印の所にある石碑だが……。



この石碑、題字が「堤防拡張碑」とあり、本文の大量の文字がその下に続いている。
解読に時間がかかることを予感した私は、ここでは碑文を読まず、碑面の撮影だけをして、帰宅後に読んだ。
碑文の主要な部分の書き出しは以下の通りである。注目は、下線部分。

堤防拡張碑
        建設大臣 河野一郎 題額
関東平野の一都五県を貫流する利根川は沿岸住民に水利の恩恵
を与える反面洪水の脅威をもたらし多年その改修に力が注がれ
てきた妻沼町大字大野葛和田俵瀬地区の堤防は大正初年に築設
せられたが昭和二十二年の未曾有の洪水に鑑みて改訂せられた
改修工事は鋭意その進捗が図られて来たとはいえ未だ当地区に
及ばず堤防の拡築強化は地元住民の切望する処であったその熱
意が実り昭和三十五年十二月着工され延長五千米土量二三万立
米移転家屋三四戸一二五棟に及び県道熊谷館林線の付帯工事を
含む総工事費一億二千八百万円を費し昭和三十八年十月竣工し
た(以下略)
         昭和三十九年三月吉日
           建設省関東地方建設局長南部哲也撰文

ここには現地では期待しなかった内容が含まれていた。
県道熊谷館林線の名前が登場していたのである。
昭和35年に着工し、38年に竣工した堤防工事で、県道についても(おそらく付け替えの)付帯工事が行われたという内容は、現在と同じ路線名の県道が、当時から存在していたことを私に教えてくれた。当然、当時から渡船の県道だったと思われる。

……現地の私は、まだそのことを知らないまま、先へ進んだ。



右へ直角に折れた県道は、そこから1.5車線になるが、逆に舗装は綺麗になった。これと同時に、堤防を越えるべく、その法面を緩やかに上り始めた。さすがは関東一の大河である利根川の堤防だけあって、かなりの高さがある。隣接する2階建ての屋根よりも高い。

上っていく中ほどで、逆方向へ切り返すような分岐があった。
グライダー滑空場への道だった。
特に行き先についての案内表示はないが、県道は道なりに直進である。ちなみに、秦小学校前交差点以降は県道のヘキサを見ていない。交差点に立つ青看の行き先表示であった「渡船場」は、この堤防の先に待ち受けている。




8:27 《現在地》

堤防のてっぺんにあたる天端には、堤防ではお馴染みの存在といえるサイクリングロードがいた。
この道は利根川自転車道というそのまんまの名前だが、この名前のまま県道でもあり、路線名を埼玉県道・群馬県道416号利根川自転車道線という。そして全国に約3500kmある大規模自転車道の一部を構成している。

我らが渡船場県道は、天端を斜めに横断しつつ、この自転車道県道と平面交差する。
そのさまは、どことなく踏切じみていた。
互いに互いが県道であることを隠しながら交差していた。

いよいよ堤防を越え、河川敷内へ!





県道が河川敷へ降りていく。

その先は…

横たわる坂東太郎!


いつもなら、これは川を渡る術を持たない不憫な不通県道のラストシーンだが……




ここは違う!

対岸に、出番を待つ渡し船らしき姿を発見!


しかし、橋のない川の向こうを眺めるというのは、少し新鮮な気分だった。

橋があったらなんでもない対岸が、やけに異郷じみて見えやがる。

あっちはネットで大人気、群馬県の領土である。

そうだ、ここは国境。

ここはかつて、武蔵国と上野国の国境だった。




渡船場まで、残り280m!