東京都道211号 若郷新島港線 第7回

公開日 2013.4.29
探索日 2013.3.31

本村と若郷を隔てる ハイランド地帯


2013/3/31 15:09 《現在地》

これが新島トンネルの“本当の坑門”だ! 立派な扁額もある!

本村側坑口は、「Ap_pass」による延伸のために本来の坑門を見る事が出来なくなっていたが、
この若郷側にはそういう工作物が無いので(物々しい柵はあるけれど)、
平成2年に島民の大きな歓迎の中で完成した当時の意匠を、完全な形で見る事が出来た。
そしてそれは、「吹上げ洞門」との共通点を感じさせる石タイルの意匠であった。

このトンネルの通過には実に21分間も要したが、
今回の探索における最大の山場を越えた予感があった!



なお、こちら側から来た場合、トンネルは坑門で厳重に封鎖されていわけである。これならば、「旧道=立入禁止」だということを誰も疑わないだろう。
その一方で、本村側から来た場合はトンネルの中に入っても良いとされているように見えたが、それもこのトンネル出口までだったということになる。
(それははっきり言ってすごく不自然だが…)

それはそうと、私は前回てっきりこのゲートは施錠されていないものと思い、腕力で開けようと悪戦苦闘をしていたのだが、実はしっかり施錠もされていた。
小さな南京錠が取り付けられていたのを、内側からは確認できなかったのである。
これではますます「開くわけがなかった」のであって、行政側の封鎖に対する意識の存在が完全に確定したといえる。

そしてまた、このゲートを境にトンネルの内外が明瞭に区分された風景が印象深い。
トンネルの入口を境に、道路の勾配が大きく変化していた。
右の写真を長時間眺めていると、洞奥の闇に吸い込まれそうな感覚を憶えるかも知れないが、それはトンネル内部が7.5%という急な下り坂になっているせいであろう。
そこはまるで地の底へと通じる、鉱山の斜坑のようでもあった。
個人的に、「出口の見えない下り勾配トンネル」ほど気持ち悪いものは無い。
闇へ向けて緩やかに、冷たい風が吸い込まれていた。




坑口前の歩道隅に、1枚の案内板が設置されていた。(冒頭の写真の矢印の部分である)
そしてその内容は、未だかつて見たことのないものだった。

  ご通行のみなさまへ
このトンネルは風向きにより、強風が
吹き抜けますので通行にはご注意ください。

  For Pedestrian
Beware of the strong wind
in this tunnel.

            東京都大島支庁

まさにこのトンネルが貫く「吹上げ坂」の由来を思わせるような警告だ!

トンネルと風の関係としては、「出口横風注意」というのをよく見かけるが、これはトンネル内に強風が吹き抜けることに対する注意である。
一体具体的にはどんなことに注意すればよいのか予想が付かないが、歩行者であれば砂が飛んで来て目に入るとか、かつらが飛んでいってしまうとか、スカートがめくれ上がるとかであろうか。
明るい場面であれば微笑ましい風の悪戯も、暗闇の中でやられたら、風の“暴力”と感じるかもしれない。
今日はたまたま強風ではなかったが、いつか吹上げ坂の本当の風を味わってみたい気もした。
私の知る限り、このような看板は新島のここでしか見たことがない。



さあ、いよいよ新島北部の旧都道を探検開始!

坑口を背に前を向くと、まだ緩やかに上り坂が続いていたが、
右側より1本の舗装路が合流してきていた。
もしやこれは…。



旧旧道との合流点に違いない!

俺を熱く誘ってる!

当然コイツも探索の対象だが、時間的にまずは都道の起点を目指すことを優先しようと思う。
どうせ「平成新島トンネル」が自転車で通れない以上、必ず此処へ戻ってくる事にはなるのだ。

そそる感じの旧道/旧旧道分岐を後に、先へ進む。



そしてここで、前回の最後にご覧頂いた写真の場面だ。

羽伏浦の海岸線からずっと上り続けてきた道は、トンネルを出て50mほど進んだこの地点で最高所の“峠”を迎える。
ここは都道211号全体でも最も高い地点で、海抜170mほどであるが、行く手はことごとく山に囲まれた風景であり、島にいることを忘れさせる。

進行方向の左手は、随分長い間この都道を見下ろし続けている宮塚山が、相も変わらず聳えている。
その険悪さは、本当に人の住む土地がこの先にあるのか疑わしく思えるほど。
対して右手には、トンネルに入るまでは姿を見せていなかった低い山が、こんもりと盛り上がっていた。
これは地形図に「阿土山」と表記された標高202mの山で、新島村史はその読みを「あっちやま」としている。

新島にある山は例外なく単成火山(同じ火口からは一度しか噴火していない火山)由来らしいので、宮塚山も阿土山も形は大きく違えど、そうした短命な火山の仲間なのだろう。




15:15 《現在地》

“峠”を過ぎると、道はごく緩やかな下り坂になっていた。
そして自転車の速度が十分に加速しないほどのわずかな距離で、再び現れたバリケードに行く手を阻まれた。

一瞬、ウンザリしかかったが、幸いにも今度のバリケードには嫌らしい有刺鉄線がなく、脇も甘い。
これは問題無く通過することが出来たし、正面に回り込んでみて、その理由も分かった。




この封鎖は、車輌に対する通行止めであり、歩行者は脇を自由に通過して下さいということになっていた。

これは“仮設都道”の入口にあったゲートと同じ状態であり、両者には一貫した意志を感じるものの、であるならば、なぜ新島トンネルの若郷側坑口のゲートだけが完全に閉鎖されているのか疑問である。前後の状況との矛盾を感じるのだが…実際は別に深い意味は無く、単にどこか一箇所でも封鎖してあれば通りぬけられないから、それで良いということなのかも知れない。




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バリケードを抜けたことで、無事に本村と若郷を隔てる廃道(?)区間を突破したようだ。
まだこちら側で行き交う人や車には出会っていないが、前方に採石場のような現役の施設が見えており、若郷での“第一村人”との遭遇は間近な予感がする。


…人に会うのがドキドキするよぉ。 こんなの初めて。

だってさ、若郷の人たちには私の自転車が、どう見えるだろうか?

平成15年に「平成新島トンネル」が開通して以来、自転車や歩行者が陸路で本村と若郷の間を行き来することは、公的には不可能になっているはずである。
もしかしたら若郷の人たちは私の自転車を見て、「こいつは平成新島トンネルを自転車で無理矢理通りぬけてきた極悪非道の旅人だ」と勘違いしやしないだろうか。
万がいち通報でもされて、警官に職質を受けたら…「旧トンネルには隙間がありまして」…なんていう説明が通用するのか。

う〜む。 自転車は人目に付く前にどこかへ隠し置いて、念のため徒歩で集落に入った方がイイのか…? 何だかそれも卑屈で嫌だが…。

こんな事を心配しながら集落を目指すのは、絶対に生まれて初めての体験だ。
というか、新島に来なければ一生こんな体験はしなかったかもな(笑)。



道端でこんな道標を見つけた。

現在地は、本村から5.3kmの地点で、若郷へは残り3.1kmであるらしい。

これ自体は特に萌えない擬木製の道標だが、こういうデザインは間違いなく歩行者向けの案内である。
つまり、この島が自動車交通の安全さと便利さとの引き替えに失ってしまった歩行による自由な往来の名残りであって、もはや更新される見込みのない悲しい遺物だった。

さて、先ほど峠を越えて下りに転じたかに見えた道路だったが、実際はほんの少し下った後は平坦に持ち直し、それからまた緩やかに登り始めていた。
これは、台形の断面を持った島を横断するがための特徴的な起伏であって、まもなく現れる二度目の峠こそ、この台地の縁から再び海へ転げ落ちる始まりなのだった。




15:18 《現在地》

さっきの峠からわずか3分後、またも峠らしい切通しが現れた。

標高も前と変わらずの170m。 ここがこの台地の“縁”だ。

すなわち、約束された場面転換点。



…下りに転じると、奇妙な地形が目に飛び込んできた…。




若郷へのスペシャル・パノラマ・ダウンヒル


これがこの都道の起点「若郷」がある、島の北部だ!

眼下の地上には、なにやら異様に真円に近い窪地があって、私の目を惹いた。

そこはまるで隕石が衝突したクレーターのようだが…?




もちろん新島にクレーターはない。
『新島村史』によれば、これはあっち(阿土)山火山が「ジナーカ山」火山の一部を吹き飛ばしたとされる噴火口の跡で、直径が約700mもあるそうだ。
噴火当時は地獄絵図のようだったろうが、その活動時期は1600年前から1100年前頃と推定されていて、新島では島の南部を「誕生」させた向山火山に次いで新しい火山である。新島には縄文遺跡もあるので当時既に人が住んでいたはずだが、古文書などにこの噴火の記録はない。

なお、伊豆諸島の島は全て火山島だが、新島の活動のピークは全ての島の中でも古い方で、現在はだいぶ落ち着いた状態にあるようだ。
それゆえ、島全体が多数の火山で構成されているにもかかわらず、海岸線の白砂や絶壁を除いては「濃い緑の島」という印象を受ける。

赤いマグマでも、灰色の岩石でも、青い水面でもなく、緑の植物に覆われた噴火口というのは、私にとっては初見で新鮮な眺めだった。
そこは若郷の人々にとって、豊かな恵みの土地となっていたのである。
噴火口が、まるまる農場化していた!




たった一度爆発したきり、その後の一千年紀を沈黙し続けた単成火山の巨大な噴火口。

長い歴史の途中には、火口湖となって水底に肥沃な土壌を蓄えた時期があったのかもしれない。
今や広大な火口底は平坦地となり、そこは漏れなく畑地として利用されている(ちなみに新島に水田は全くない)。
ここは窪地であるために(島の中では)比較的水分に恵まれ、周囲の外輪山のおかげで強烈な潮風も届かない利点があるのかも知れない。

青いネットで四角く区切られた畑は、まるでゲーム「シムシティ」で作った景色のようで、限られた農地の利用を極限まで効率化したいという強い意志を感じさせた。

だが、島の人々が長く守り続けた貴重な農地を、災害復旧という大義名分を持った都道(新道)が勝手気ままに横断しており、これまた圧巻だった。
この噴火口の左(南)の端に、平成新島トンネルの若郷側坑口が存在するのである。




だが、
若郷の驚くべき景観は、この噴火口一つでは収まらなかった!
↓ ↓ ↓




これが若郷の大地!!

細長い新島の北端部にも、宮塚山をやや小振りにしたような典型的な“テーブルマウンテン”が聳えていた!左右は海!
まるで半島をジオラマにしたような眺めだが、これを実際にジオラマ化すると、いかにも作り物っぽく見えてしまいそうだ。

険しい火山があり、海があり、それらの隙間には平穏な農地となった噴火口や、
若郷集落の一端と思しき、樹海に浮かぶ小舟のような、散在する家並みが見えた。
そしてその大地を潤す2車線の都道は、見下ろす私の足元から始まっていた。

若郷と本村を往来する人々が幾百年眺めてきた風景は、私にとってとてつもないご褒美だった。




若郷集落の東に聳えるこの山の名前は、新島(にいしま)山という。

島の名前を冠しているが最高峰ではなく、最も高い場所でも231mしかない低山だ。
だが、こんな我が儘ボディの低山なんて逆に不気味。
山容は素人目にも分かるような典型的な溶岩ドームだった。

資料によると、新島山の活動時期は今から約7500年前らしい。そして新島には、約7000年前の縄文遺跡が発見されている。
ということは、縄文人達は海上に立ち上がる噴煙を目指して新島に上陸してきたのかもしれないし、さらには山がモリモリと盛り上がっていく光景や、先ほどの巨大な噴火口が炸裂する大スペクタクルを、この高台から命がけで眺めた可能性さえあるのだ。それって想像するともの凄いことだ。(そしてこれが、私の探索の中では初めて「古代人」を想像した場面だった)

なお、今回は時間もなく登頂を試みていないが、新島山のかなり上の方まで治山工事用と思しき地図にないジグザグ道が作られているのが見て取れた。
行けば汗だくになるだろうな…。




これは本村を出発して以来初めて目にする人家だった。
若郷集落の一部だと思うが、民家にしては大きな建物が目立っている。

現代では法的な縛りもある(全島が富士箱根伊豆国立公園に指定されている)のだと思うが、近世中頃に本村を分村する形で若郷村が誕生して以来、今日までずっと、この島で人が定住する集落は、本村と若郷の二箇所だけである。

見たところ、土地としてはまだまだ住める余地はあるが、さらに分村していないのは、島の人口が激増するような環境になかったからだろう。

島の人々は当然島暮しの危険性(食糧問題)を心得ていて、人口の増減には、本土の人々以上に気を遣って来たのかも知れない。
明治以降も本土からの大規模な移住による新村の開発はなく、反対に現代では過疎化が進んでいるものの、それもまだまだ二つの集落のどちらかを廃村にするようなレベルではない。

若郷集落と現在地とでは、まだ100mを越える高低差で阻まれているが、下りはあっという間に辿り着けそうだ。
戻ってくるのが、ちょっと億劫かな…(苦笑)。



旧都道は峠から若郷の大地へと、ロングスパン2段の雄大なつづら折りで下っていく。
ずっと旧都道に寄り添っていたタイル敷きの歩道も、先の切通しのところで跡絶えたきりで、このつづら折り区間には存在しない。
そのため、このつづら折りの道路景観には観光道路の“余力”を見る事が無く、峠越えに専念する山岳道路の真剣さのみがあって、個人的には好きである。

そしてこの場所で、私は若郷での“第一村人”と遭遇しかかった。

写真に見える軽乗用車には親子が乗っていて、車を止めて法面に生えている“タラの芽”の育ち具合をチェックしていたようだが、私が自転車で彼らのそばを通過したときはスピードも乗っていたので素通りとなり、その後でここに立ち止まって写真を撮影している最中、彼らは車で私の横を素通りし若郷の方へ下って行ったのである。
とりあえず、ここで誰何を受けなかったことにホッとした…。




そして最初の切り返しには、立派な石碑が待ち受けていた。
これが何の碑かと近付いてみれば…、なんと!! 

昭和三十六年七月十二日竣工

たりて峻険

  陸上自衛隊第一建設群
   第一〇二建設大隊第二中隊

これは!萌える!!

この道が陸上自衛隊の委託工事として建設されていた事実が、いま初めて判明した!
陸自の道路工事は民業を圧迫しないことが鉄則であり、つまりは民間業者の手に負えない(採算面や危険度の面で)難所の工事に限られた。
つまり、この都道が客観的に見ても難所であった(島や本土の民間土木業者の手に余る)事が、客観的に確かめられたことになる。

それにしても、「再び来たりて」とは、どういうことだろう。格好いいじゃないか。
文字通り受け取れば、「陸自第1建設群第102建設大隊第2中隊」は、新島で少なくとも二度、委託工事を行なっていることになる。

それともう一つ気になったのは、本村側で見た「都道開設の碑」に刻まれていた「昭和33年8月26日」という日付と、本碑にある竣功日の不一致だ。
これについては、本碑の数字を竣工年として採用したい。(『新島村史』も都道も全通年を昭和36年としている)
「都道開設の碑」の日付は、あくまでもその碑の建立日に過ぎないものと思われる。
あるいは、昭和33年8月に本村側から「開設」工事が着工し、3年後の昭和36年7月に若郷側までの全線が「竣功」したと考える事が出来るかも知れない(私はその説を取る)。



15:23 《現在地》

こんな気の効いた碑が大切にされている道は、間違いなく良い道!
道路に対する島の愛着が、ビンビン伝わってくる!



続いては、二つ目の切り返し。

ロングスパンのつづら折りは、たった二つの切り返しで30m近い高低差を克服し、その目的を完了!

島の交通の大動脈として、本来ならばまだまだ使われ続けていてもおかしくはない上等な規格の山岳道路だが、
災害復旧に伴う「平成新島トンネル」の建設は、これほどの道をして行き止まりの閑職へと追いやってしまった。
もはや補修される目処も立たなくなったスリップ防止用のカラー舗装が、痛々しい。



15:24 《現在地》

↑ これが若郷のつづら折りの全貌だ!

若郷側から見ても、本村側から見ても、宮塚山の険しさがハンパない。

そしてこの自然の障壁の猛々しさは、若郷を単なる新島村の一集落ではなく、
独立した一行政村(若郷村)として長らく存続せしめた
ほどだった。

…という話は、また次回にしようと思う。
その前に、なにやらまた石碑があるぞ(赤矢印)。




石碑には「久田巻広場」とだけ刻まれており、年号などは見られなかったが、その背後に広場?といえば広場なんだが少々手入れが行き届いていない、どこまでが植え込みでどこからが雑草なのか分からないような広場があった。

そしてそんな広場の中にゴロゴロしている大岩のうち、一際黒色の濃い一つ(赤矢印)が、周囲をストーンサークルに囲まれる特別扱いを受けていて…

以下、現地の「説明文」を全文掲載しよう。




  久田巻広場と貫通石

 新島山の大崩壊によって渡浮根漁港から、にしき2(※著者注、普段は新島と式根島を1日3往復している村営連絡船の船名)で本村に避難してから三年目を迎えた。
 本村と若郷を結ぶ都道二百十一号線が大崩壊して寸断され、陸路は不通となったが、災害復旧はもとより、若郷を将来にわたって安住の地にするためには二百十一号線に代わる災害に強い安全な道路を確保することが悲願だった。既設の新島トンネルがまったく被害を受けなかった実例からも、本村若郷間はトンネルで結ぶ事が最も安全だと判断して、国や東京都、それに地域住民も参画して「平成新島トンネル」を掘削した。
 徹夜の突貫作業で着工から僅か一年三箇月で平成十五年五月八日貫通した。
 延長二千八百七十八メートルの平成新島トンネルは全国離島で最長のトンネルだ。
 ミレニアムの大地震災害を住民が一つになって乗り越えた「証し」に有史以来宮塚山の地下に眠っていた貫通石を据えて、感謝と新たなる若郷の発展を誓うために再び来たりて峻険に挑む坂下に久田巻広場を設置した。

         平成十五年七月十五日
             東京都新島村

なんという「至れり尽くせり」だろう!
敢えてこれ以上の説明を挟む余地も無いくらい完璧な「背景説明」を、ありがとうございます。
今回はほとんど予備情報無しで探索に赴いたのだが、現地探索の最中に十分な道路情報を得る事が出来る、そんな新島の優しさに感激だ。

そして注目したいのは、この碑文にも「再び来たりて峻険に挑む」という文言が再掲されている点だ。
「平成新島トンネル」の建設に陸上自衛隊は関わっていないが、それでも敢えてこの表現を用いたのは、昭和36年の都道建設と平成15年の新都道建設に共通する「本土から来た人たちが工事の中心を担った」という事への感謝の気持ちを、慎ましやかに表明したかったのではないだろうか。
(それを旧道沿いに建設してしまったのは、慎ましやかすぎて勿体ない気がするが、そこがまたいい気もする)




久田巻広場の少し先で、信号はないが広い丁字路に到達。

これが実に2時間半ぶりの再開となる、都道の現道であったから、
「新島トンネル」を首魁とする旧都道の探索もこれで完了(ただし旧旧道を除く)したことになる!

そしてここまで来れば、都道の起点若郷まではもう残り2km弱である。
こいつはいよいよ新島での最大の探索目的達成も目前に迫ったかと思ったところで、




「どっから来た?!」



と、木陰に潜んでいたオジサンに、速攻で声をかけられちゃった。

次回、緊張の弁解シーンから…。