和歌山県道213号 白浜久木線 第3回

公開日 2017.01.15
探索日 2016.01.09
所在地 和歌山県白浜町

何とも変な話しだ。 あのヨッキれんが…


8:10 《現在地》

祠を過ぎて少し進むと、道と沢の間隔が徐々に開きはじめた。
同時に、道の勾配も増した。
出合橋の標高が80mで、現在地は約130m、目指す峠が309mであるが、距離的には現在地が出合橋〜峠間のほぼ中間(1.8km附近)であるから、だいぶ“上り遅れている”計算になる。

広くなった道と沢の間隙には、杉の植林地が広がった。
そしてその植林地へと分け入っていく、ごく狭い車道が分岐した。
こんなに狭い道でも、なにやら新しい轍が刻まれており、侮れなかった。



また現れた、法面崩れっぱなしの放置現場。

いや、厳密にいえば、“放置”は当たらないのだろう。
可能な範囲で“対処”した後と思われる。
障害物のなかでひときわ大きな落石に「9」の数字がスプレーされていたが、前回の現場に「8」と書かれていたのを思い出す。
「7」以下は確認してこなかったが、これらは“関係者”が道路の故障を把握するために書き付けたのかも知れない。

最初はガチで驚いていたこうした光景も、一つの道でここまでくり返し現れると、「この道はこうなんだ」と慣れてきた。
しかし、これが普通だとは思ってしまっては、今後の道路探索へ大きな禍根を残しかねない。(感覚のインフレは危険なのだ…笑)



出合橋から約2kmの地点には、鋪装された小さな広場があった。そしてここからも右に道が分かれていた。本線は直進である。

ほぼ頭上には谷と交差する送電線。これは地形図にも描かれているので、GPSが無い場合に現在地を知る重要な手がかりになる。

ところで、尾根の上に見える鉄塔は、抜けるような青空を背にしていた。間違いなく今日は快晴なのだが、午前8時を回ってもまだ、谷底に日は入ってきていない。
実際このように真東に向かって登る峠道は、午前中いっぱい日光を浴びれないなんてことがある。地味なことだが、古代人から変わらぬこの峠の体験談だと思えば、少しは愛おしくもある。

この先の道は牛屋谷の本流から離れ、小さな支谷を回り込む形で、峠への高度を稼ぐようになる。
“谷道”から“山道”へ舞台は移り、後半戦が始まる。



自転車の漕ぎ足に実感的な負荷を感じられる程度の勾配を黙々と進んでいくと、

前方に、白茶けた斜面が見えてきた。

おそらく、これまでで最大規模の斜面崩壊が起きている。


道はどうなってる?!



本来の路面は完全に埋没していたが、これまでと同じように路肩外に軽トラ幅の道が作られていた! 通行可能!

いい加減感覚が麻痺しつつあるとはいえ、軽自動車くらいもある巨大な落石が「ごろん」としている脇を走り抜けるという体験は、やはり衝撃的だった。こういうのは、「立入禁止」の道をこっそり走るという背徳の向こう側にしかないものだという“常識”が、駆逐される。

この現場を(無理矢理に)復旧させたのも、“関係者”なのだろうか。
今度ばかりは、その骨折りにあきれるのではなく、純粋な称賛を送りたい。
何が何でも通りたいという意志がなければ、これはもう諦めるか、行政に復旧を丸投げするレベルの崩壊量だと思う。

執念。
執念である。
ひと目見て、執念じみているものを感じた「通告」だが、今ならばあれが決して虚仮威しなどではなかったと分かる。

この道と他の道との間には、似て非なるもの的な断絶が感じられる。
道の壊れた部分の対処で明確な違いが出ている。ヒト型に偽装したエイリアンが不意に負った傷から緑の体液を流し、そこから正体が露見するようなものだ。

何度も言うが、この道は万人に開放されている点で特記に値するのだ。
ジムニスト(ジ●ニーで荒道に挑む人たち)相手の商売ではない。地理院地図に県道として表現され、県道としての認定も受けている(ただし県道としては未供用)道がこれなのだから、面白い!



なんとも変な話しだ。 これではまるで、あのヨッキれんが廃道を望んでいないみたいだ。

普段の私ならば、道が崩れていて放置されているときにこそ「廃道キター!」と盛り上がるのに、今回に限ってはまるで逆で、この無理矢理な修復の状況にこそ著しく興奮し、続く轍を応援していた。

今は、この変わった道が、轍を失った途端に見馴れた“いつもの廃道”になってしまうことを怖れていた。
あの「通告」の精神が跡絶えてしまうことが、残念だった。

ところで、この場では全く分からなかったが、実はこの写真の右側には分岐する道がある。
その存在は、後ほど別アングルからの撮影ではじめて発覚するのだが、見ての通り分岐は完全に埋没していた。




山中橋から庄川越を目指す


8:21 《現在地》

道は大崩壊を越えてすぐに、これまで並走してきた支谷を渡っていた。
出合橋から2.6km地点、庄川越までは残り1.1kmほどである。標高は170mで、あと140mの上り。

谷を渡る部分にはガードレールが設置されていたが(「通告」以降初めて目にするガードレールだ)、橋ではなく暗渠である。だが、おそらくここが「通告」に地名が出ていた「山中橋」なのだろう。このほかに橋を架けるような場所は見あたらない。




谷を渡った道は、直ちに進路を反転させ、支谷の下流方向へ機首を向けた。
ここからの地形は相当急峻であり、これまでは砂防ダムの付け替え区間にしかなかった本格的な法面の施工がなされていたほか、路肩も頑丈な擁壁になっていて、道路構造だけを見れば県道として恥ずかしくない内容を持つに至った。

「通告」によれば、「山中橋区間」と「砂防堰堤の付け替え区間」は“関係者”が整備したものではないとのことだから、この豪勢な整備は、行政(おそらく県)の手のよるのだろう。

しかし、相変わらず軽トラ幅の轍の他は路上掃除も雑草刈りも行われていないせいで、立派な道がまるで未成道のように見えてしまうのは、皮肉な現実だった。
道がしょぼければ、軽トラの轍があるだけでも活気を感じられたのにね。




道は地形の険しさと引き替えに、見晴らしの良さを手にしていた。
ガードレールのない明け透けな路肩からは、数分前に登ってきた道が思いのほか大きな高度差をもって見下ろされた。

先ほどの大崩壊地で述べた“見えざる支線”の存在に気付いたのは、ここである。
ここからは、この写真のように上下2段の道が見えた。
下の段の道を通ったのだが、上の段にも道があることに驚いた。
いったいどこで分岐したのかを振り返ってみると、結局それは、あの崩壊現場以外にはなかった。
この支線は、googleの航空写真でも確認が出来る。結構長い支線のようだ。→(リンク)




大規模に施工された法面は、その後も頻繁に現れた。
まだ、「山中橋区間」が続いているのだと思われる。
しかし、道幅は相変わらず狭いのと、線形も見通しの悪い小刻みなカーブの続くという古道染みたものであるため、大仰な法面とのアンバランスさは強かった。
写真は、苔で緑色に染まった法枠工が、とても綺麗だと思えたので撮影した。


これはなんだろうか?

路肩の谷側の路面より少し低い位置に、鉄骨の梁が渡されているのを見つけた。
たぶん、この一箇所だけである。

万が一、クルマが道を踏み外したときに、墜落するのを防ぐ安全柵的なものか?
いや、だったら路面より高くするだろう。
おそらくこれの正体は、簡易な桟橋を用いていた名残であると思う。
いまよりさらに道幅の狭い時代があり、その頃使っていたのではないだろうか。

幾らかマシになったとはいえ今でも十分道は狭く、さらに待避所としてわざわざ用意されたスペースもないために、四輪の行き違いは決死の苦難を予感させる。




8:25 《現在地》

山中橋から約300mで、路傍にひときわ広い空き地が現れた。「通告」に存在を【予言】“尚、山中橋附近の残土は、県並びに地権者、関係機関と協議の上、昭和五九年度に県営事業として採択され設けた残土処理場であります。”されていた
残土処分場のことを思い出したが、それほどの規模ではない。

なお、ここは牛屋谷の本流と支谷を隔てる尾根の上なので、これまで辿ってきた深い谷を見下ろす眺望を得る事が出来た。
だいぶ山を上ってきたのだという実感の湧く眺めだった。さらに高度を上げたら、谷の先に海が見えるようになるかも知れない。



ん?

これはもしかして、先細りになってきたか?
道が、ではなくて、交通量が。
路上に積もった落葉に刻まれた轍が、これまでよりもいくらか不鮮明な気がする。

峠までは残り800m前後に迫っているが、果たしてクルマでそこまで行けるのかどうか。
私はまだ、この轍が峠を完抜して県道としての本懐を果たしている可能性を諦めていないが、先細りは不安である。


路傍に清水が湧いていた。

路傍に突き刺さったビニル管から、透き通った水が滔々と流れ出しており、大きなバケツのようなものが受け皿になっていた。

峠道で清水を見つけた場合、喉の乾きを度外視しても一度は口をつけてみるというのが、私の基本的なスタンスである。
(その理由は、昔の旅人と同じものを口にした方がインスピレーションを得られそうだというのと、色々な清水を身体で試すことで、探索に強い胃を維持できそうな気がするからである)

……でもこれは、珍しく口をつけてみる勇気が出なかった。
見た目は十分透き通っているのだが、なぜこんなにビニル管やバケツやバケツの周りが黄色く変色してるのだろうか。
鉄分が豊富過ぎるのか、鉱泉でもあるのか。



おおっ…。

これまたもの凄く巨大な法面工だ。今までで一番大きい。
路面は相変わらず前夜からの日陰のままだが、法面上の木々には眩しい朝日が照っていた。
見回すように首を回していたら、東京からの長距離運転の疲労が残っていたせいか、首がピキンと痛くなってしまった。法面め!

しかしこの場の印象として一番強かったのは、法面の高さに見合わぬ道幅の狭いこと。そのアンバランスだった。
道路としては、路面が主で、法面は従の存在なのだが、ここではそれが逆のように見える。
道幅と法高の間に絶対のルールはないが、基本的には地形の険しさを定数とした比例関係が成立すると推察する。だから狭い道が高い法面を持つことは珍しく、それだけ地形が険しいのだろう。



右の写真は同じ場所を振り返って撮影したもの。

立体感に乏しい写真という表現方法では、現地で私が感じた強烈な印象を十分伝えられないのがもどかしい。
私には、このアングルで見たカーブが、とても気持ち悪く思えたのだ。

なんというか、ここにはカーブ外側の谷底へ引っ張られそうな気持ち悪さがある。
鋪装された道幅が軽トラ分くらいしかない狭いカーブで、外側が撫で肩で(←これ重要)直ちに崖に接している。
しかも一定の勾配ではない微妙な凹凸のある下り坂。そして薄暗い。
これだけでも気持ち悪いが、カーブの内側が高すぎる法面により圧せられるために、プレッシャーも凄い。
実際に運転したわけでは無いが、四輪で走るところをイメージすると気持ち悪い。

……少しは伝わったであろうか?




8:36 《現在地》

再びの広場。
道は直進しているが、右に20m四方くらいの広場が作られていた。ときおり車もそこへ入っているようだ。

出合橋から3.2km(山中橋から600m)地点であり、峠までは残り500mとなった。 もうあと一息だ。
峠は探索のゴールではないが、成功というゴールへ向けた折り返し地点である。
轍がここで終わらずに続いていることからして、とりあえず峠までクルマで行けるのは確定とみていいだろう。

なお、この「峠下の広場」では、はじめて峠のある尾根を目視する事が出来た。
ここまでは道の位置の問題や、様々な障害物により見る事の出来なかった、たった300mほどの尾根である。
かなり近くに見えはするのだが、その割に現在地との高低差が大きい気がする。




峠はもう、目と鼻の先だ。

しかしこの最後に、他の誰でもない、(=自転車)にとっての

ハードな 試練が 待っていた!




なんだこの急坂は


かの有名な暗(くらがり)峠を一瞬で思い起こさせる、壁のような急坂!!


その実際の厳しさを伝えるには、写真では十分ではない。次の動画を見て欲しい。

“自画撮り”よりも数段厳しい現実が、ご理解いただけると思う。




超低速のふらふら状態に陥りながら、自転車から振り落とされまいと死力を振り絞ってペダルを漕ぐ私の姿は、

傍目から見れば相当滑稽だったのかも知れないが(動画で見返すと自分でもそう思う)、

それでも私は最善を尽くしたかった。

峠に車道を達せしめた“関係者”の執念に、汗で応えたい気分があった。



8:39 

ここは、動画の最後に辿り着いたカーブだ。
這々の体でここに着いた私が、カーブの先を喘ぎ見たときの感想は、もう「うぅあぁー」としか言えなかった。

とりあえず、これはアカン……
一時休戦を要求するッ!
すぐに下半身を冷却しないと、峠に辿り着く前にねじ切れちまいかねない…!




冷却中、路傍の藪に分け入って牛屋谷の方向を眺めてみたのだが……
海見えてるしー!

ほんの数百メートル前までは山に阻まれて【見えなかった】太平洋が、今はくっきりと見えた。
海岸沿いの街並みらしいものも見えたが、これは白浜町の中心部方向の眺めである。
先ほども、高度を上げれば海が見えるかも知れないと予言はしたが、こう短距離のうちに事実化するとは、もの凄い勢いで標高を上げている証拠である。



この峠前に至って、まるで最後の難関でもあるかのように突如出現した急坂だが、ここが途方もない急坂であることは、地形図で予め示されてはいた。
ただ、現地に至るまで注意を払っていなかったのである。

左図の通り、「峠下の広場」の標高は約250mで、峠の頂上は309mであるという。
だが、この間の道の水平距離は、地図上たった270mしかない。
これを平均勾配の計算式に当てはめて計算すると――

平均勾配 21.9

――という数字が導き出される。つまり、坂道の長さとしては約300mにもわたって、道路構造令の限界(12%)を1.8倍もぶっちぎった尋常ではない坂道が続いているということだ。
しかもこれは平均勾配だから、瞬間最大勾配は更にハードだったと思われる。
実感としても、動画の中で盛んに訴えているとおり、自転車の前輪が浮き上がってしまい自走が不可能となる30%(←経験値)に迫るものがあったとみられる。



…あまり長く休んでも興が醒めてしまう。

再出発だ。

……でも、きつい。

リスタートと同時にこの勾配が始まるとか、思わず自転車を押してしまいたい衝動に駆られる。
正面にお椀型の鞍部として見えている場所が、峠の在処である。
その近いことのみを励みにして、何とか頑張ろう!

ファイトォーいっぱーつ!!(つ 山行が公式ドリンク「イソビタンD」)




たかが300m、されど、300m!
1メートル1メートルが、とにかく重い!
これはまさに、私という自転車を殺すための急坂だ。
鋪装されていなかったら、絶対に無理だった。

こんな道路構造令を完全に無視した道を、県が県道にするつもりで整備したとは考えられない。
ここはもう県が整備したという「山中橋区間」ではない。「通告」によって通行の困難が予言されていた、“関係者”お手製の道に違いない!

おそらく、「山中橋区間」の終点は、急勾配区間が突然始まった「峠下の広場」だったのだ。
“関係者”は、そこまで道が整備されたのを見て、最後の300mは自分たちでやろうと思ったのだろう。
その際に、「このルートだと勾配が大変な事になるぞ」などと誰かが正論を吐いたかもしれないが、別の誰かが、「かまわん!!!やれ!!!長い道を作る金はない!」と叫んだのを想像する。(あくまで想像だ)

そりゃあ県だってこの道を「はいそうですか」と、県道として供用開始を告示できなかったはずだ。
新規に整備する県道ならば、最低限、道路構造令に準拠することが求められている。


突然だが、左図は昭和51(1976)年と平成9(1997)年に撮影された航空写真の比較である。

前者では、「山中橋」附近までは辛うじて道が見て取れるが、それより峠側には道が見あたらない。
対して後者では、峠までの道がはっきりと見えており、「山中橋」以下の道も、鮮明さを増している。これらは、「通告」に書かれていた経緯の通り、昭和56(1981)年度から58年度および平成8年度に“関係者”が整備した路盤や、県が整備した“山中橋区間”なのだと思われる。

また、平成9(1997)年の航空写真では、私が「峠下の広場」と名付けた部分の谷側に、かなり大規模な土工の痕跡が見て取れることにも注目したい。
現地では気付かなかったが、「峠下の広場」の正体は、小さな谷を埋め立てて作った残土処分場の可能性が高いのではないか。

残土処分場についても「通告」に書かれていたが、昭和59年度に県営事業で設置したものらしい。これはおそらく、同じ県の事業として昭和60年度に完成した【砂防ダム】の工事で発生した残土を、ここに運んで処分したのではないだろうか。

残土処分場を受け入れとの引き替えに、“関係者”が県に対して、地形が険しく建設の難しい「山中橋区間」の整備を求めたと考えれば、県道整備の経緯を述べた「通告」文に、取って付けたように残土処分場の経緯が述べられている不自然さや、「砂防ダムの付け替え区間」と「山中橋区間」だけを県が整備し、それ以外を“関係者”が整備したという複雑さについても、矛盾なく説明が出来る。



「平凡を許さない。」

そんな迷惑な呪いでも受けていたかのように、

「通告」というイレギュラーに始まり、その後も執拗にイレギュラーを連発させてきた道は、

ついに峠を迎える時がきた。


峠を越す決意に、はち切れんばかりに膨張した直角カーブ、

その先は――




巨大り通し!

山岳囲繞の軛(くびき)を打ち破る、執念の庄川越絶巓(ぜってん)。(海抜たった309m!)