山梨県道37号南アルプス公園線 角瀬トンネル旧道 解決編

公開日 2011.2.7
探索日 2011.1.2
山梨県南巨摩郡早川町


切川隧道にだけある旧道の正体は


2011/1/2 6:45 【現在地】

切川隧道(全長30m、昭和2年竣工)の脇にある旧道らしき(現道から見れば旧々道か)道形に進入した。

道幅は2m程度で、当然未舗装である。
切川隧道がショートカットしている小さな尾根の出っぱりを、崖伝いに素直に巻き取っている。
しかし隧道の長さが長さだけに、尾根の突端まで行くのはわずか数十メートルしかなく、そこに何か黄色い箱状のものが見えていた。




旧道に入ってすぐ、道は二手に分かれていた。(上の写真と同位置で振り返って撮影したのが左の写真)

一方の道は進行方向と逆に続いており、これが先ほど切川隧道坑門上に見えた石垣を擁する道である。
これが旧旧道(現道から見ると旧旧旧道)で、それは旧道との接続部分が、旧道に切り取られたかのように不連続である(破線部)ことからも伺える。

この道も気になりはしたが、車道ではなかったと考えられることや、時間的な都合で探索は見送った。




今回は素直に切川隧道に対する旧道を直進すると、尾根の突端を巻いたところで、それ以上進めなくなった。

ハチミツ採取箱の向こうに道はない。
下は早川の絶壁で、これ以上進むためには、桟橋のようなものが必要だ。

しかし仮にここに橋があったと仮定すれば、その先にあるものは…






小さな窓を残して閉塞された、垂直の人工壁。


謎はひとつ解けた。


当初謎であった2つの隧道における竣工年の5年という“ずれ”だが、
これは切川隧道にのみに旧道が存在したことで、ひとつの解答を得た。

後ほど図面でまとめるが、大正11年から昭和2年までの5年間だけは、
今歩いてきた幅2m弱の地道が本道として使われていたに違いない。



改めて、先ほど撮影した写真を見直してみよう。
これは本来の高長隧道の西口だった部分だ。

現在はこのように切川隧道と連結されているが、この連結部分の断面形が不自然であることが、実は気になっていた。
写真に赤く示した部分だ。

これは、もともとの小断面な隧道(赤実線+黄破線)が後に拡幅された際に残った、旧断面の一部ではないかと、私はそう考えている。
この仮定が正しければ、現状の不自然な背向屈曲のひとつは、解消されるだろう。






 6:47 【現在地】

さて、本線に戻ろう。

二本一体となった高長・切川隧道を出た旧道は、左にカーブして川べりを進む。

前方には早川の本流とは別の、大きな谷の広がりが見えてきた。
これは早川の支流のひとつ、春木川である。
この春木川と早川の合流地点の氾濫源地帯に、現在の高住地区の中心はある。




で、わずかな距離でここに出る。

旧道の西側入口は、近くの工事現場の事務所になっており、数棟の簡易な建物が建ち並んでいる。
遠からずこれらは撤去されるのだろうが、現時点ではこの隙間を通って行かねば旧道には入れない。
私は早朝だったので問題なく通れたが。




そして旧道は現道の角瀬トンネル西口前にぶつかり、そのまま奥へ突き抜ける。

ここまでが昭和55年完成の角瀬トンネルに対応する旧道であり、長さは約450mあった。
この先は春木川橋に対応する旧道で、これも長さは450mほど。
しかしこの後半部分は現役の町道なので、簡単な紹介に留めたい。




左は、銘板に昭和8年竣工とある(旧)春木川橋
高長・切川両隧道よりも更に5年新しいが、この昭和8年という数字の意味は机上調査で明らかとなった。最後に述べる。

右は、七面山温泉の前を通る旧道で、左の道にはいると早川南小学校がある。
旧道は正面の山に突き当たり、右に折れるとすぐに現道と合流し終わる。(合流地点に警察官人形有り)
早川町役場まではあと600mくらいである。



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探索は終わったが、「解決編」としてはここからが本番。


帰宅後に「早川町誌(昭和55年発行)」を取り寄せた私は、この短い旧道が、想像以上に多彩な変遷を経ていたことを知ることになった。

一番の驚きは、 この切川隧道の旧々道が、鉄道廃線跡 だったということだ。

というか、旧々道だけではなく、旧道もまた鉄道廃線跡だったのである。




右の地図で赤く示したのは、現在の県道37号南アルプス公園線の全線(57km)だ。
早川沿いのこの道が、現在の早川町にとって唯一無二の幹線道路となっているわけだが、昔は異なっていた。

近世まで早川沿いの一帯を「早川入」と呼んでいた。
そしてこの早川入へ向かう道は何本かあったが、最も主要な道が早川入往還(桃色の線)だった。
それは現在のような川沿いの道ではなく、北側山中を通じていた。

では、現在の川べりの道は、いつ頃に開発されたのか。

その答えは、大正7年に早川電力株式会社(東京電灯株式会社、後の東京電力の母体)が早川上流での水力発電計画を決定したことにある。
早川にダムが建設されれば、従来この一帯の林産物を運んでいた早川の水運は利用できなくなる。
この補償と発電所建設のための資材搬入路として、アップダウンが少ない早川沿いに軌道を敷設することが決定されたのは、大正11年である。
そして工事はまもなく始められ、早川橋から新倉まで約20kmの東京電灯工事用軌道が、大正13年に完成した。




右図は明治時代の地形図をもとに作成した、明治期のルートだ。
当時はこの青色のラインのように道は通じていたようである。




高長隧道は大正11年竣工の記録がある。
よって、大正13年に工事軌道が全通する以前から、部分開通していたのだろう。
なお、工事軌道の軌間は762mmだったが、路盤は幅3mとして、片側に歩行するための余地を設けていたようである。
また動力は馬力で、トロ馬車と呼ばれていた。




そして昭和3年、高長隧道の西に切川隧道が開通し、軌道も切り替えられたと考えられる。

この年の1月に工事軌道は東京電灯から、新たに設立された早川沿岸軌道組合(早川沿い9ヶ村の連合会)に譲渡されている。
切川隧道が建設された経緯は不明だが、おそらく従来のルートが川沿いで危険だったために改修を施したのだろう。

運営主体が変わっても軌道は相変わらず馬力で、引き続き木材や生活物資などの輸送を担っていた。
旅客鉄道ではなかったが、(おそらく無賃で)人を乗せて運ぶこともあったという。

だが、往来が盛んになると馬車軌道は不便となり、自動車道への改修が願われるようになった。
そして昭和8年に軌道は山梨県山林課に委譲されると、軌道が撤去され、自動車道の「早川林道」となったのである。


早川町誌より転載(撮影場所は不明)
(同年、撤去された軌道を利用して新倉から上流の西山温泉まで林用軌道が敷設され、これが早川・野呂川林用軌道の興りとなる)

つまり、現在旧道に架かっている春木川橋は昭和8年の竣工となっているが、これは車道化に際して建設されたことが分かる。
おそらく同時期に高長・切川隧道とも拡幅されたことだろう。

なお、この2本の隧道が連結された時期については不明である。



以上が、短区間にある一連の構造物が大正11年、昭和2年、昭和8年というように微妙に竣工年がずれていたことの説明である。
道路や鉄道といった飾りや遊びの少ない公共物は、何気ない風景にも意味を見出せることが多いものである。
それゆえ、趣味の探求も無駄になることはない。これはそんな嬉しい一例である。

そして、早川入における道路と鉄路入り乱れる探索は、この一件から始まった。




改めて、明治43年測図大正3年製図の地形図「身延」を見たところ、大きな問題が発生した。

なんと、そこには既に隧道が描かれていたのである!

ここに軌道が敷設されたのは、本文中でも述べたとおり大正末。
しかし、それよりも早い段階で既に隧道は存在していた…。 そう言わざるを得ない。

この隧道、図中では1本に見え、しかも高長と切川の2隧道をあわせたくらいの長さに見えるが、さすがに縮尺が小さいので、あまりそこは拘らなくてイイと思う。
しかし、いずれにしてもこの場所には軌道敷設以前から…明治末頃から…すでに隧道が存在していたというのは、たいへんな驚きである。

この件について何か情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご一報頂きたい。
あと更に余談だが、旧春木川橋には“レールが残っている”という仰天証言も頂いている。
これは遠からず、再調査する必要がありそうだ…。



2011/2/16 追記

『旧春木川橋の軌条編』  (追記)

※以下の内容は、2013/1/2に追記しました。

上記の本編公開直前に早川町在住の読者青木氏より衝撃的な情報が寄せられていた。

以下に青木氏よりいただいた情報提供メールを転載しよう。

私の母は、今回のレポート地点からさらに5km程上流へ入ったところの出身で、そのため、私も子どもの頃(昭和30年代)から何回も角瀬を通っていました。
この道に鉄道馬車が通っていたことも、聞いております。

ところで、今回のレポートに出てくる春木川橋には、その鉄道馬車のレールが残っていることはご存知でしたか?

一昨年に撮影した画像を添付いたします。
もし現地でご覧になっていませんでしたら、再訪の機会にご確認ください。

メールには3枚の画像が添付されていて、そこには確かに“レールとしか思えない物体”が写っていた。

だが、これが真実であれば、大変な事ではないか。

私は馬車軌道のレールが敷かれたままの状態で残っているなどという話を、今まで聞いたことがないのである。

かつてこの地を馬車軌道が走っていたことは、前述の記事で触れたとおりで、写真も現存している事から疑いはないが、昭和8年には軌条を撤去して自動車が通る林道へと改築された記録があるのだ。

既に80年近くも昔に廃止された馬車軌道。
そのレールが、旧道とは言っても現役である橋上に残っている事など、果してあり得るだろうか?

つい先日、別件の用事の合間ではあったが再訪の機会を得たので、問題の旧春木川橋を再チェックしてきた。
それが以下のミニレポートである。




2012/12/9 8:47 【周辺図(マピオン)】

約23ヶ月ぶりに訪問した旧春木川橋。

前回は、パッと見た時の「よくある昭和初期のコンクリート橋」という判断で、親柱の竣工年を確認した以外は特に注意を払わず自転車で通り抜けてしまったが、それが重大な見落としの原因になったようだ。
メインの隧道探索を終えた直後で油断していたこともあるが、古い橋に接するときは一瞬たりとも気を抜いてはならないという教訓を得た。

さすがにこれは前回も気付いてはいた事だが、橋の中ほどの2径間分だけ欄干がボロいという事実がある。
橋脚は全部同じ古さに見えるのだが、少なくとも、欄干がボロい2径間の桁と、それを乗せている3本の橋脚は、昭和8年架橋当初からのものなのだろう。

…普通に考えれば、河心に近い桁が古く、そうでない桁が架け替えられているというのは不自然な気もするが、そういうことが起きないという保証はないし、あるいは桁や橋脚は全部昭和8年当初からのもので、大部分の欄干だけ取替えたのかも知れない。



これは青木氏がメールに添付して下さった写真。
2011年夏頃の撮影だろうか。

私の最初の探索(2012年1月)より古い写真なので、青木氏がこれを撮影した後にレールが撤去された可能性もゼロではなかったのだが…

どうやらそういうことは無く、

私の“一度目の見逃し”が確定した。

そしてさらに幸いなことには、今回2012年12月の再訪でも、相変わらず橋上に改修が入った様子はなかった。

これで一安心と言えるのだろうが、

この時点では、全くレールの気配はありません!



本来欄干とセットであった親柱は、欄干だけがガードレールに置き換えられてしまったことで、浮いた存在になってしまっている。
しかも、現在の橋が架けられるまで数十年間、早川入りの交通をほとんど一手に与っていただけあって、乱暴な運転の大型車に衝撃されたこともあったのだろう。
道路側の角はほとんど失われていた。

もっとも、親柱は大きさの割に意匠的な派手さは全くなく、「昭和八年四月竣功」という時期を象徴するような質素な姿をしている。
昭和8年といえば、わが国がまだ昭和恐慌から立ち直れずに、農村部を中心に深刻な不況が継続していた時期であり、政府による時局匡救事業と銘打たれた大規模な失業対策土木事業が全国各地で行なわれていた。
おそらくこの春木川橋の架設(先代は木橋だったものを永久橋化したのだろう)も、その一環で行なわれたものだろう。


橋は全部で7径間。

そのうち右岸側から数えて2番目と3番目の合計2径間の欄干がボロいままである。

一見したぐらいでは各径間の路面状態に違いは感じられないのが、今回は特に念入りに路面を見ながら歩いていたので、微妙な変化に気付くことが出来た。

ここは“ボロ欄干”の第3径間から、ガードレール欄干の第4径間に移り変わる、その切れ目の場所だった。


…この場所で、

世紀の発見」が現実に!





!!!

本当にレールがあるるるる!

アスファルトの隙間から、ほんの少しだけど、それは確かに見えていた。



間違いなく、これはレールだ。
しかも4本並んでいる。
直接レールが見えているか、アスファルトのひびからその現存が確信できる部分を実線で、その延長線を破線で示した。
当初の桁がそのまま使われている2径間の路面全体に、埋設されているのではないだろうか。

しかし、なぜレールが4本あるのだろう。
橋が直線であることを考えれば、単純な脱線防止レールでは無さそうだ。

大前提として、これが馬車軌道に由来するものだとして話を進める。
この橋の竣工年が昭和8年、そして軌道が撤去されたのも昭和8年とされている。
これらの数字はそれぞれ信頼できる情報源(橋の銘板と『早川町誌』)があるので、大きく間違ってはいないだろう。

馬車軌道は最初から併用軌道で、路盤の幅は3m、片側に人が歩行するための余地を設けてあったという。
ただし、それは平地での話である。橋の上がどうであったかは特に記録がない。

春木川橋は幅が5mくらいもあり、レールはその中央に敷かれていたと見て取れる。
しかし、開通からまもなく併用軌道は廃止され、自動車道に切り替えられたに違いない。



春木川橋が予め近い将来の車道化を見越して設計されたのならば、そのレールは現在の路面電車や踏切道のように、路面に埋め込まれた形になっていたと想像できる。

そうすることでわざわざ線路を撤去する作業をせずに、すぐに車道として使うことが出来る。

さらに言えば、ここは橋の上なので、路面ではなく橋の床版に直接レールが埋め込まれていた可能性もある。
そうなれば容易には撤去できないはずだ。

右図は下流側の2本のレールの拡大図だが、このうち左側のレールが本線軌条で、右側は護輪軌条と思われる。

本線軌条と護輪軌条の間は車輪が実際に通行する部分だから“空いて”いて、それ以外は埋まっていたはずである。
現在は全部埋め戻されているが。


これは、マジっぽい。

この場所にレールが存在する理由として、馬車軌道以外には思い当たる事が全くない。




次に私は軌間の測定を行なった。

なお、本軌道の軌間は762mmと記録されている。

状況から見て、軌間が正確に保存されている期待が持たれたが…


測定結果やいかに!

↓↓↓




79−3=76

軌間76cm!



……決まったな。

この後、より深く確証を得るべく通行人からの情報収集を希望したが、
思いのほか誰も通りかからず、時間の都合から探索を終了せざるを得なかった。




80年前の馬車軌道を抱き続ける橋、旧春木川橋。

おそらく軌条が現存しているのは、7径間中の2径間のみであるが、

残っている事自体が、既に奇跡である。


現地で文化財などとして何らかの案内がなされている様子もないようだが、
一度確かな研究者に判断してもらって、しかる後には、日本中でも非常に現存例が少ない、
敷設当初の位置に現存する馬車軌道用の軌条として、大切にされると良いと思う。

万が一にも馬車軌道由来ではない可能性は残るが、いずれ貴重な存在である事はほぼ間違いない。
このまま忘れ去られてしまうには、惜しい逸品だと思う。