前に紹介した「一條隧道(仮)」の2.6kmほど南東、青市地区の山中にもう一本隧道がある。
この情報は、下田周辺の古道旧道について独自の調査を展開し、どこよりも詳しい情報を持つ『下田街道』さんに教わった。
一條隧道のレポートに登場した下田市の“丁場”を直接案内してくださったのも、このサイトの主である。
一條隧道は地形図を頼りに独力で発見することが出来たが、こちらは歴代の地形図に一度も記載されたことがない。
それゆえ、草の根的な調査を続けられる彼らの力が無ければ、辿り着けなかっただろう。
ありがたいことだ。
ということで、今回の探索は全面的に『下田街道』さんの調査結果をお借りしたい。
独自部分は一條隧道との関わりを考察する部分だけとなるかもしれないが、それでもぜひ見ていただきたい隧道なのである。
【現在地(外部リンク)】
まず右の地図を見て欲しい。
目指す隧道は、中組地区と上組地区を隔てる、「下り尾峠」という小さな尾根にある。
中組と上組は、野部口を扇の要として分かれた2つの谷にある集落だが、明治22年に町村制が施行されるまでは賀茂郡青市村という一つの村を構成していた。
それが現在に受け継がれて南伊豆町の大字青市となっている。
中組と上組をあわせても、おそらく人口は数百人。
古い地形図を見てもそれは昔から変わっていなさそうである。
上條隧道がそうであったように、この青市の隧道もまた極めてローカルな交通に供されていたものである。
これが二つの隧道の「第一の共通点」である。
2010/1/12:07
ここは中組の集落道と、隧道へ向かう道との分岐地点。
背景のこんもりした尾根が隧道のある場所で、比高はたかだが50mほどである。
だが、1車線の集落道から左へ分かれる道は、いきなり車道ではなさそうだ。
なんじゃこりゃ。
またしても車道ならぬ道が始まったのは良いとしても、それが舗装されているというのがどことなく奇妙だ。
急坂に似合わないゆるゆるカーブが、また心地良い。
アスファルト舗装は30mほどで途切れ、地道が始まった。
こうなると本来の通行量が査定可能で、落ち葉の堆積した状況から見て、それが多くないことは明らかだ。
ただ倒木などは除去されているようだから、完全な廃道ではない。
幅1mにも満たないほどの極細の堀割道は、これまであまり経験したことのない道路風景である。
当初から完全な歩道として作られたことが分かる。
出た。 階段だ。
地山を直接削り取って、小振りな段差を付けている。
そんな素朴な階段が、杉の落ち枝の隙間からチラリチラリと露出している。
ステップの部分も平坦ではないし、全体が苔生しているので、雨の日などは良く滑りそうである。
そういえば、一條隧道の脇で見た未成隧道擬定地点前にも、同じような石段があったのを思い出す。(画像)
一定幅の堀割道が、自然な蛇行をくり返しながら続いている。
幅の狭いことと、全体に勾配がきついこともあって、登るものにはかなりの圧迫感を与える。
いまは涼しい風が通っているから良いものの、ムンムンと蒸す夏の日だと結構きつそうだ。
普通はこんなに細くて急な堀割道を作ってしまうと、周囲の雨水が一斉に流れ込んで穿鑿されてしまって道は使えなくなるが、ここはフカフカの腐葉土が路面を覆っているくらいに安定している。
雨自体がそんなに多くないことや、火山灰地質で水捌けがよいこと、山自体が低いから流水の総量も少ないといったことなどが理由として考えられる。
自転車を押しながら坂道を登ること6分。
ずっと続いてきた堀割の終わりが見えてきた。
ちょうど堀割を抜ける最後のところがひときわ深くなっており、その向こうは、いままでとは反対に右側に谷が開いている。
だから、地形的にはここがごく小さな峠越えだと分かる。
峠というか、尾根越えか。
中組と上組の本当の分水は、この少し先の隧道である。
堀割道ではあったけれど、その道自体はこれまで尾根沿いに付けられていた。
これは一條隧道の道が前後とも谷底に付けられていたこととは対照的である。
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堀割を出ると突如道は平坦化する。
道幅も自然と広がっていて、ここだけを見ると軽車道のようである。
え? 前方が気になる?
あのカーブの先には
えっ えっ?
ええっ?!
マジでかよ…。
こんな土被りの浅い隧道、
見たこと無い!!
必要だったのか… この隧道…、
必要だったのか?!
しかもだ。
隧道の上に見える尾根は、綺麗に平坦である。
なだらかな竹林。
一條隧道のような堀割の旧道は見えない。
周囲には旧道らしき分岐もなく、何も道の無かったところに、突如隧道を掘ったかのような印象を受ける。
(「下り尾峠」の明かり道は、このすぐ北に存在する)
これでも、“車道”ならば、まだ分からなくもないんだ。
最後の最後で勾配がきつくなるのを抑えたくて、10mだって掘り下げたい。
そう言う場面はあるだろう。
でも、ここは序盤から急勾配で、途中には石段さえあった100%の“歩道”。
何故いまここに来て突如、たった10mの峠越えを嫌ったのだろう。
これについて、私はいまだ完全な回答は用意できない。
一條隧道もかなり土被りは浅かったが、ここはそれ以上である。
“峠の隧道”でこれほどまで浅いものを、私は他に知らない。(ロックシェッド的なものを除く)
12:23 《現在地》
この隧道ほど、見る人によって印象を異にするものは珍しいだろう。
山を刳り抜き、峠を越える迫力やダイナミズムこそ隧道のロマンだと信じる人にとっては、あまりにちゃちで取るに足らないものと見えるかも知れない。
また、石や煉瓦やコンクリートによって精緻に演出された意匠にこそを醍醐味と信じる人にとっては、これまたあまりにシンプルで評価すべき点を見つけられないだろう。
だが、あらゆる珍奇と変化を愛し、交通という機能を目指したあらゆる態を目にしたいと志す者にとっては、こんなにピンポイントで衝撃的なものは無い。
この隧道と良く似たものを問われても、私は「一條隧道」のほかに挙げることが出来ない。
隧道と言うより、石門。
それが青市の下り尾峠に掘られた隧道を形容する、最も適当な表現では無かろうか。
めっちゃ綺麗な洞内。
一條隧道に見られた側溝や、謎の掘り残し、天井の微細な曲面は無く、まさに完全無比なる矩形断面である。
また壁面の規則的な模様(参考:一條隧道の写真)も、目立たないがちゃんとある。
あまりに整っているため、コンクリートの地下道のようだが、表面は完全に素堀である。
よく見ると天井は微妙に凹凸していて、人の手で掘ったことは間違いない。
崩壊なども全く見られず、鑿の痕も風化していないから、昨日出来たと言われても信じてしまいそう。
しかし、この隧道の竣功は…
明治28年。
一條隧道とは違って銘板などがないので机上資料によるのだが、明治28年竣功の記録が残されている。
ちなみに着工は明治25年というから、3年がかりの工事だったと分かる。
全長は
約10m。
土被りの少なさに対応するように、長さも短い。
だから、(←)洞内に立って東口を振り返って撮影した後に、そのまま体の向きだけ変えて西口を撮影しても(→)
、どちらの坑口にも手が届きそうだ。
例によって巻き尺を取り出し、坑道の縦横サイズを計ってみた。
高さ 200cm
幅員 140cm
一條隧道のそれ(高さ180cm、幅180cm)とは異なり、こちらは明らかに縦長のフォルムだ。
だが、そういえば…
一條隧道も、あの奇妙な“掘り残し”の部分を除いた幅は、約140cmだった。
この一致は偶然だろうか?
そもそも、これまでに発見されている資料や古老の証言の中には、この2つの隧道の明確な関連を裏付けるものは出ていない。
だが、私は関連があると思っている。
それも相当に濃い…、建設した石工が同一人物ではないかとさえ思っている。
最初に述べたように、青市と一條の間は直線距離で2.6kmほどしか離れていないうえ、明治期から既に赤線で示した道が通じていた。
行政区域としては一條地区が南中村、青市地区が竹麻村という風に異なってはいたが(南伊豆町として合一したのは昭和30年)、風土はよく似ており、交流はあったに違いない。
それに、出来上がった隧道があまりにも似通っている。
矩形ベースの断面形は石切の技術の流用という共通の風土によるものとしても、その立地条件。
つまり、極ローカルな需用に即した、尾根と異常に接近した人道隧道という共通点である。
石切の技術でも、もっと深いところに隧道を掘ることは可能なのに、敢えてそれをしてはいない。
そしてもう一点、青市隧道の「建設期間3年」というのが気になる。
全長10mほどの青市隧道を明治25年に着工して3年目の28年に完成させた石工某が、次に全長15mほどの一條隧道に取りかかったとしたら、やはり3年前後かかるのではないだろうか。
明治28年の3年後は、一條隧道の銘板に刻まれていた竣功年明治31年とぴたり一致する。
しかも、青市隧道が全く無装飾でシンプル限りない矩形であったのに対し、一條隧道には銘板が彫り付けられ、天井に微妙な曲線が活かされ、側溝が備え付けられている。
これらは明らかに「進化」であって、同一人物かそれに極めて近い工事主体があったことを支持する。
一條の「当区九番地」に住んでいた石工某(名前を鑿で削られたらしき人物)こそが、この2つの隧道のキーパーソンではなかっただろうか。
2つの隧道を比較したことで気になり始めたことが、他にもある。
両者の坑口を比較すると、一條隧道の片側の壁(削り残しのある側)にのみ、胸壁が全くないことが分かる。
坑口手前のカーブした堀割の壁が、そのまま洞内に繋がっている感じである。
これは一仮説だが…
一條隧道の片側の壁にある削り残された部分は、当初計画にはない拡幅を行おうとして途中で断念した残骸かもしれない。
その場合、拡幅する前の当初断面の幅は140cmとなり、青市隧道と一致することになる。
一般的に、堀割の奥に隧道の坑口を設ける場合、胸壁が無いというのは珍しいケースである。
特に片側だけ胸壁がないというのは、イレギュラーに近い。
そこに設計の変更や無理な拡幅が有った可能性を指摘することは、そう突飛ではないと思う。
青市隧道の西口(上組側坑口)も、作りは東口と全く同じである。
やはり扁額などの一切の装飾的要素はない。
ただ、ここもあまり坑外という感じのしない場所である。
なぜなら、西口前は右写真の通り深いカーブした堀割になっていて、全く視界が効かないからである。
土被りが浅すぎて堀割となっているが、胸壁の分だけ少し幅が広いことと空が開いている以外は、洞内と変わらない。
なお、この一角に御神酒を供えた跡があった。
ここで一回戻って、隧道を通しで通行する動画を撮影したので、お暇ならどうぞ。→【動画】
《現在地》
カーブした堀割を抜けるとすぐに急な下り坂が始まるが、それも5mほどで舗装路に切断されて終わる。
そこにあるのは、中組と上組を結ぶ下り尾峠の車道である。
ただ、車が通れるから新しいのかと言えばそう言うこともなく、沿道に地蔵などが散見されることからも、本来の(隧道を介さない)下り尾峠はこの車道に近いのではないかと思う。
レポートは省くが、それは竹林の中を通る感じの良い峠道だった。
そして、
車道となった上組への下り坂は、
トンデモナイ
急坂だった!
おそらく25%くらいある。
自転車で登る場合、前輪が浮き上がるのを必死に抑えなければ走れない状況で、下りの場合、ブレーキレバーを握る手に血管浮き出るレベルである。
だが、この勾配だから終わりはすぐ来る。
道は森に囲まれた広場に下り着いた。
広場はゲートボール場と駐車場で、その奥に「青市公会堂」という公民館の建物が建っている。
そして、明治から昭和のある頃までは、この場所に小学校(古くは尋常小学校)が建っていたそうである。
確かに上組の集落より一段高い山中のこの場所は、さもありなんという感じがする。
そしてこれが重要なところだが、
先ほどの隧道の建設目的が、この小学校だったというのだ。
このことは、『下田街道』の孫引きとなるが、『南史』という資料に次のように書かれているそうだ。
公会堂のところに小学校が新築され、子ども達の通学の負担を少しでも減らそうと、有志3人の手によって下り尾峠にトンネルが掘られた。明治25年に着手。3年をかけて掘り、供用されたのは明治28年頃と思われる。
小学生の通学のための隧道と道を、地元の大人たちが自ら切り開いたというのである。
個人的には初めてこのようなケースに遭遇したが、先日永冨氏に問い合わせると「そういうことは私も聞いたことがある」という。
いずれにせよ、隧道を掘ったり道を通すという土木事業が、明治の南伊豆ではかなり人の背丈に近いところにあったという事を伝える由来譚である。
ちなみに私も中組地区で70代と思しき古老からの聞き取りを行ったが、明治時代に(この地区の人物を含む)3〜4人で掘ったと伝わえられていた。
小学校の通学に利用したことも一致していた。
さらに一條隧道との関連性も聞いてみたが、ここのほかに隧道のあることはご存じなかった。
さて、小学生の通学用道路であるという前提で、もう一度これまでのルートの妥当性のようなものを検討してみたい。
まずは地図上での検証であるが、中組から上組への通学ルートを野部口周りの迂回路とした場合、距離は1200mある。
一方、下り尾峠を隧道で抜く今回のルートだと、アップダウンは50mずつ有るものの、距離は圧倒的に近くて約300mである。
その差は900mもあり、しかも小学生の通学と言うことであれば、何千回も通行することになるわけだ。
しかも迂回路には川があるから、雨で増水したときなどは危険であろう。
弱小の者が徒歩でくり返し通る事を考えると、現在の車社会では取るに足らない峠道が、実はかなり有効であったことが頷ける。
峠の道の作りについても、まず道幅の狭いことは小学生の通行には問題にならない。
さらに深読みすれば、道がほとんど全て掘り割りの中に作られていたことも、道迷い、道草の防止という保護効果を狙ってのことかも知れない。
階段のステップが小さかったのも、子供の足を考えればこそか。
そして、この隧道の最大の特異点である「土被りの極端な少なさ」についてであるが…
これもまた、子を思う親の優しさで解釈すべきものだろうか。
10mの上り下りでも楽をさせてやりたいと願ったのだろうか。
また、急な風雨のときに宿れる場所という効果も狙ったのだろうか。
…残念だが、子を育てたことのない私には、実感を持って頷くことが出来ない。
もしもあなたの大切な子供が、来年から山向こうの小学校に通うことになったとする。
そのとき、あなたはツルハシを持って山へ入ることが出来るだろうか。
隧道を掘ったのは3人であっても、道普請は親たち全員の仕事だったと私は思う。
明治の父母は、かくも強く、美しかっただろうか。
小学校からもう一段急な坂を下りると、上組の集落に出た。
この丁字路を奥に進めば、約4kmで一條に出ることが出来る。
一條隧道と青市隧道という、近接する2本のよく似た隧道。
そこには、ローカルな交通に用いられた矩形の人道隧道という、無視できない共通点がある。
そのため、建設者も同一か、ごく近い人物と推定される。
そして、青市隧道だけが史誌に記された事から考えて、これが最初の工事である可能性は高い。
次いで一條隧道が作られたのだろうが、果たしてそれで終わりだろうか。
三番目、四番目の隧道が、明治34年や37年に建設された可能性があると思う。
私は引き続き捜索を続ける予定である。
全国的に見れば大変珍しい矩形断面隧道の一つの系譜を、ぜひとも見届けたい。
これは余談だが、上組地区のやや奥まった一角に、中世の一大寺院跡がある。
鉄器を中心とする海運貿易で平安時代に特に栄え、伊勢神宮の外宮であったという。
寺院の名は、石門寺。
先ほど隧道に石門という単語を連想したばっかりだが、これは偶然の一致である。