都道53号青梅秩父線 吹上隧道

公開日 2006.04.05
探索日 2006.04.02



 小学六年の夏に横浜から秋田へ引っ越して以来、17年間もの間、ただの一度も関東地方へと足を踏み入れることなく、ひたすらにみちのくの地に轍を刻み続けてきた私であったが、このたび、たった一日だけではあるが、思いがけない形で関東の地を踏むことになった。
この春から勤めはじめた仕事先の、出張の機会である。

 東北新幹線が大宮に近付くと街並みがはじまり、それが途切れぬまま、やがて上野の車内アナウンスが響く頃には今度は列車は地下へと潜ってしまう。
これは東京隧道なのか。地下鉄なのか。
……あれから17年も経って、もう東京の街では全てがドームに覆われ、空の見えない全天候型都市になったのかと諦めかけた頃、列車は再び光の元へ、周囲のビルディングの巨大さに驚く間もなく、すぐに東京駅の21番線に滑り込んだ。
不慣れなスーツに身を包み、ぱりぱりの名刺を胸に秘め、緊張の面持ちで下り立つ首都東京駅のホーム。

 どうにかこうにか初日の仕事を終えると、時刻は22時近くになっていた。
あとはもう慣れないホテルに篭もって寝るだけと、経った一晩だけの東京の夜の虚しさをかみしめていた私へ、以前からメールのやり取りがあった山行が読者のT氏から電話が。
T氏は言った。


 山行が、出動だ!


周辺地図

 T氏は、それから幾らもせずに日本橋のねぐらへと迎えに来た。
そして、吹上隧道の攻略を指令したのである。
当然のことながら、私はこの隧道のことを殆ど知らない。
だが、聞くところによると、明治・昭和・平成と3つの隧道が共に近接して存在しているという。
そして、明治の隧道はこの東京都で最古の道路隧道なのだという。

 そういえば、そんな隧道がこの東京にあるという話は、どこかで聞いた事があった。
そして、私がこの隧道について覚えていることは一つ。
そこが、どういう経緯かは分からないが(根拠があるのかさえ不明だ)、関東を代表する一大心霊スポット(小学生の頃から有名だった小坪トンネル…三浦半島と並んで……)であるということだった。


 私は、心霊の類などが自身の探索のおかずにこそなれ何ら障害になるとは思っていないが、それ以前に、この深夜という時間帯に(しかも土曜日の夜)単身で、関東のならず者たちが一同に会しているかも知れないような廃隧道へ行っても大丈夫なのかと、それを聞きたかったが、T氏はもう既に私を乗せ、夜の街を走り出していた。
私は、一番聞きたかったことを問うことが出来ぬまま、丑三つ時迫る青梅の山中へと棄てられたのである。


※T氏の名誉のために言いますが、上の導入部には一部脚色あります(この後は全て事実のレポですよ)





東京にだって廃道はある

まずは昭和の吹上隧道を目指す

06.04.02
00:44

 残念ながら、この夜私には余り自由に出来る時間がなかった。
前夜10時過ぎに都心を発った我々だが、そこから約40km離れた青梅市黒沢の吹上峠に着いたのは、日が替わってしばらくしてからだった。
睡らない街東京の凄さを肌で感じる道中であった。
 そんなわけで、翌朝からもう一日都心での仕事があることを考えれば、帰りの時間や自分自身の睡眠時間との兼ね合いから、旧道や旧旧道をすべて辿る事を諦めざるを得なかった。
そこで、私は最も移動距離を短くして昭和と明治の旧隧道の両方を探索できるルートとして、旧道入口西側からの片押し探索を決定。



 車を停めた場所は、昭和の旧道の西側入口である成木交差点の近く。
ちょうど現(平成)吹上トンネルの西方坑口の前である。

 明治・昭和・平成と、徐々に峠のアプローチは短縮化され、その代わりにトンネルの延長は長くなる一方だったわけだが、平成5年に開通したというこの吹上トンネルは全長604mで、殆ど峠道を感じさせることなく峠越えを成し遂げられるようになった。
 私が見ている前で、走り屋とおぼしき車影がネオンを纏いながら坑口から飛び出して来たりした、迷惑な爆音と共に。



 旧道の入口はすぐに見つかった。
まるで公園の遊歩道の入口のように、コの字型の車止めが設置されており、車では進入できないようになっている。
そして、いま“公園みたいな”という形容をしたが、もう一つ公園みたいなのが、なぜか街灯が点灯しているという事だ。

 これまで、幾つもの旧道を歩いて来たが、こんな深夜に街灯が点いている廃道は、初めてかも知れない。



 汚れた通行止めの案内標識が傍らに残っていた。
よく読むと、通行止めなのは車だけのようで、徒歩による進入は何ら規制されていない。
 色々といかにもありそうなストーリーを展開して一大肝試しゾーンに育て上げた誰かには失礼だが、物理的な怖さを一切感じなくても済みそうな廃道である。
いや、或いは未だ廃道ではないのかも知れない。
 



 昭和隧道まではこの入口から約800mの道のりである。
全線が緩やかな上り坂で、大きなヘアピンカーブが一つある。
旧道へはいるとすぐに、左手の山の上の方にヘアピンカーブの先に立つ街灯が見える。
一つのカーブでこれだけの高度差を克服している。
 



 街灯があるとはいえ、月の無いこの晩は暗く、手持ちのSF501一本ではどうしても近視的な探索にならざるを得なかった。
とはいえ、足元はしっかりと鋪装されているし、道幅も2車線には少し足らないが、そこそこあるので不安は余り感じない。
また、幸いにも悪そうな奴らがたむろしているということもなく、時折背後の現道に車の気配を感じるだけで、至って静かな道であった。

 限られた灯りで、朽ちかけた落石危険の標識を見つけた。



 全てではないが、一部の街灯が点灯している。
しかし、その街灯の柱を見ると、それは明らかに廃道の物……。
とてもこれが現役のようには見えない。



 センターラインが描かれている事からも分かるように、もともとは2車線通行がなされていた筈だが、廃止から12年余りを経て、路傍の草はかなり勢いを増している。
だが、この道の狭さはそればかりが原因ではなく、もともと決して十分な幅の道ではなかったようだ。

 朽ちた通行止めの看板を右手に見ながら、そろそろヘアピンカーブの中心に達する。



 ヘアピンカーブはここまで寄り添ってきた小さな川「北遅木川」との別れの場所でもある。
暗渠に毛が生えた程度の短く小さなコンクリート橋をカーブの頂点に据えて、ここから向きを逆に替えての登りが始まる。
橋には、その大きさに似つかわしくないほど大きな看板が欄干にもたれ掛かるようにして置き去りにされている。
或いは当時からこんな様子だったのだろうか。
片隅に描かれたイチョウのマーク(都のマークか)が目新しい。

 

 ヘアピンの頂点付近だけは幅広くなっている。
また、アウト側のコースにはかつてペイントされていた赤い放射模様が、いまも微かに残っている。
さすがにこれを血の痕だとか言っても、誰も怖がらないだろうか?

 なお、この写真に写るチャリは、この探索中だけ使わせてもらった、折りたたみ式のミニチャリだ。
空気が殆ど入っておらず、なかなかに漕ぐのがしんどかったが、T氏の責任を問うのは止めておこう。
無いよりはマシだ。

 

 向きを変えて登りを再開すると、その始まりの部分でご覧のようにガードレールが道幅を意図的に狭めている。
特に道路上に破損などがあるわけでもなく、単に走り屋対策で廃止後に設けられたシケインだろうか。

 

 左下には、現道のトンネルから漏れるオレンジの灯りや、これまで辿ってきた旧道に取り付けられたいくつかの街灯が連なって見えていた。
そして、行く手にもやはり、寒々しい白い灯りがぽつんぽつんと灯っていた。
別に怖いとは感じなかったが、確かにそういうムードは十分すぎるほどに出ている。
秋田県内で似ている道を挙げよと言われれば、間違いなく国道101号線の茶臼峠……県内最怖の心霊道路といわれている……に似ている。
路肩の桜並木とか、2車線にたりないのに強引にセンターラインが敷かれている辺りなども。

 

 全く美味しく無さそうな団子。
制限速度は公道最低の30km/hである。

 

 峠のトンネルまで、あと300m。

 誘うかのように点々と灯された街灯の行く手には、何が待ち受けているのだろう……。


 何やら得体の知れない雰囲気が、
この山全体を覆っている事に、
私は、気がついた。