隧道レポート 鶏足山の大沢隧道  前編

公開日 2008.11. 9
探索日 2008.10.23

2008年7月に「てんてん」さんからお寄せいただいた情報には、茨城県北部の城里町にて一本の廃隧道を発見したという報告が含まれていた。

名称不明、由来不明、前後のルートも未解明、洞内の様子も貫通しているかさえ分からない。

情報は不十分であり、そこから隧道の正体をとらえることは難しかった。
だが、それだけに私は、この場所に対して強い興味を抱くことになった。

地図で見る東茨城郡城里町は、茨城県中東部、笠間市の北にある山間の地区であるようだ。
自身にとって、茨城県の東部は全く未体験の地である。
果たしてそこにはどのような廃道と、廃隧道が待ち受けているのだろう。

久々にプレッシャーの無い期待感を胸に、私は城里町へクルマを走らせた。



目指す廃隧道と思われるものは、最新の二万五千分の一地形図にも記載されている。
確かに前後の道は点線であり、廃道っぽい。
だが、すぐ傍に林道と思しき車道が描かれており、アプローチで苦労することは無さそうだ。

事前の調べで市販の地図を見ていて気づいたのだが、目指す廃隧道のすぐ麓まで一本の県道が伸びていた。
上の地図中に赤線で示したのがその道で、県道225号「鶏足山線」という路線名である。
この県道、wikiで調べると全長3.4kmで、昭和34年に路線指定を受けたらしい。
それはいいのだが、終点の位置がどうにも腑に落ちない。
鶏足山という山の山頂にまで登っている訳でもなく、地図上で終点とされる地点はあまりに変哲のないカーブである。

 もしかしたら、廃隧道と県道は関係があるかも知れない。

そうでなくても、この県道の下赤沢地区からピョコンと北に突き出した区間は、気になる。



廃隧道付近の拡大図。

地図を見る限り、ここは典型的な“格下げ改良”が行われている。

格下げ改良とは私の造語だが、普通の峠道の改良は「山越え道→トンネル」という順序に行われる事の逆を行くパターンだ。
格下げ改良は、その道の重要度がトンネルの掘られた当時に比べて減少した場合に起こりやすい現象である。

見たところ、隧道の南にある下赤沢が本村で、北の大沢は枝村。
そして、大沢にはほとんど民家が見られないので、道の重要度が低下している可能性は十分ある。


現地を見ずにこれ以上の推論は無意味だろう。
アタックだ! 茨城の廃隧道!!
ありがとう! てんてんさん!!!



見つからない旧道分岐


2008/10/23 6:40 【現在地(別ウィンドウ)】

ここは県道225号鶏足山線の終点、県道39号との交差点である。

取り付けられている青看を見る。
県道225号の行き先には、隣町である笠間市の地名、片庭が掲げられている。




信号もない十字路の傍らに、傾いた石碑を見つけた。
何となく見覚えのある姿だと思ったら、全国共通デザインの「道路元標」だった。
「七会村道路元標」とある。

西茨城郡七会(ななかい)村は、明治22年の町村制発足から存続してきた由緒ある村だったが、平成17年に東茨城郡の町村と越郡合併し、東茨城郡城里町の大字になったものである。

交差点を左折して県道225号の旅人になる。
現時点では何も変わったところはない。




終点から3.1kmほど西に進むと、城里町(旧七会村)下赤沢地区に入る。
鶏足(けいそく)山の麓の村と言っても良い。

そして、この集落の西寄りに、県道225号の北折点はある。
この写真の場所がそうだが、何の標識もないので、普通は気づかずに通り過ぎることになるだろう。

またここは、県道226号「鶏足山片庭線」の起点でもあるのだ。
それゆえに、よほど注意深い人ならば“異変”に気づく。





上の2枚の写真は、ともに同じ交差点から撮影したものだ。左は東を、右は西を向いて撮影した。

なにげに、県道の路線番号が“いち”増えている。


…気づかないよな。こんな事は普通(笑)。


偉そうにガイドしている私だが、恥ずかしながら、実は私も一度通り過ぎまして…。




6:51 【現在地(別ウィンドウ)】

鶏足山のメインの登山口がある上赤沢地区まで、500mほど行き過ぎた。

奥にどっしりと見えるのが標高430mの鶏足山だ。
近くにあった看板によると、この変わった名前の由来は、次のようなものらしい。

かつて弘法大師が大沢(廃隧道の向こう側の地名だ)で護摩たきをしていたら鶏が鳴いた。こんな山に鶏がいるのかと山に登ってながめたら大きな岩があった。その岩が鳴いたのだろうと鶏足山と名をつけた。

それは弘法大師サマの早とちりじゃないかという気もするが、まあそんなわけで由緒の深い山なのである。
二等三角点もある。


でも…。

この山がどうして二本の県道の起点に収まっているのかは、少々不思議である。
一応登山の対象にはなっているが、山容も至って平凡で、ハイカー向けの山である。飛び抜けて人気があるわけでもないし、観光地というわけでもない。
県道225号と226号が指定を受けた昭和34年頃、鶏足山に何かのブームがあったのだろうか。




7:07 

今度こそ、県道225号の北折地点である。
そこには、大きな馬力神碑と、それを囲むように小さな馬頭観音が並んでいた。
歴史の道の気配がする。

近くにクルマを停めさせて貰って、この先はチャリで挑戦する。
すんなり行けば、坑口まで1kmほどであろう。



これは思わぬ収穫。

入って100mほどの地点に、県道の標識が立っていたのである。

北折点より先の県道は、もしかしたら地図の塗り間違いではないかと疑っていたのだが、それはあっけなく否定された。
間違いなくここも県道鶏足山線なのである。
路肩の草むらに埋もれた姿は、廃の匂いを醸し出している。




下赤沢の散村的な風景をひとしきり走ると、道はそのまま杉林へと潜り込んでゆく。

余りサイクリングで立ち寄る人などいないのか、散歩をする住民たちの私を見る視線は、どこか訝しげだ。

かすかな居心地の悪さを背に、峠の上り坂に挑む。




よく整った杉の植林地をまっすぐに登っていく。
チャリにとっては歓迎できない登り方だ。
こういう景色は、疲れやすい。

ハンドルと一緒に握り込んだ地形図を、何度もチラ見して気を紛らわせる。
廃隧道へ続く旧道の入り口は、まだ先である。




最初の大曲りであるが、何も目に付くものはない。
本当にただのカーブである。

しかし、市販の地図帳の多くは、このカーブまでを県道の色で塗り分けている。

それが意味することは、この場所こそが県道の起点であるか、この先が自動車交通不能区間であるかのどちらかだ。

まあ、この状況で深く考えても仕方がないので、道に従ってさらに進む。




さほど急にはならず、一定の勾配を維持しながら、乾燥した舗装路は上っていく。
県道らしい物もないので、いつの間にか林道にバトンタッチしたのかと思った矢先である。

路傍の法面に、見慣れた「境界標」が現れたのだ。

「茨城縣」の意味するところは、標柱の正面側が県有地だということだ。
端的に言えば、この標柱が沿う道は県道か国道の可能性が高い。

地図には描かれていないものの、県道225号の指定区間はまだ続いているようだ。




7:19

二つめの大曲りを過ぎた。

地形図では、ちょうどこのあたりで旧道が分かれるように描かれている。
廃隧道へ続く旧道が。

そして、その最も疑わしい場面に、待ってましたと言わんばかりに石碑が建っていた。
こいつはキマリか?!




石碑は思ったよりも新しそうだ。
御影石だからもし古くてもさほど古びないのだが、まとっている雰囲気が古くない。

注目は、その内容だ。




表面(→)は、

大沢の道 険しけれ
村人集い 政治の光
今は文化の 道照らす
   昭和六十年三月


背面(←)は、

 大沢道開通記念碑
昭和五十三年過疎代行道路として指定され継続事業として予算化され以来七ヶ年の才月と約四億万余の径費を投じ昭和六十年三月開通の運びと成りました
其の間役所関係者を始め建設関係者の皆様土地協力者皆様の御協力に対し感謝申上ると共に永く后世に其の名を残すものであります
   特にご尽力された者
 設計施行者 水戸土木事務所  (以下略)

…という風にあって、この碑は新しいものであることが分かる。
具体的には、現在使われている道の開通記念碑である。
設計施行者が水戸土木事務所とあることから、県道として開通しているのだろう。

まあ、この峠道の固有名称「大沢道」が明らかとなっただけでも、十分な収穫である。
目指す隧道の廃止時期も、昭和60年以前と推定できるわけだし。


「設計施行者が水戸土木事務所とあることから、県道として開通しているのだろう」と推定しましたが、これは誤りでした。
記念碑に書かれているとおりこれは「過疎代行道路」であって、過疎地域の市町村道(この場合は村道)を県が代行して整備したと考えられます。
「みかん」さま他のご指摘により追記しました


石碑は残念ながら廃隧道の正体に繋がるものではなかった。
しかもそこから旧道が分岐しているという予想ははずれ、写真の通り、分かれる道は無い。
大量の不法投棄物が急な斜面に散乱しているばかりで、がっかりする。

地形図の間違いか、はたまた私の見落としなのか。

引き返して確かめる事も考えたが、もし廃隧道が通り抜けできるのならば、峠を越えた大沢側の坑口(未発見!)から進入しても良いのである。
当初の予定を変更して、向こう側から廃隧道にアプローチすることにした。




開通記念碑から峠まではやや勾配が増す。
道はちょうど、小さな尾根の背骨の位置に浅い掘り割りを穿って続いている。
道の両側にコンクリート吹きつけの斜面が長く続いている風景は、ちょっと珍しい。




その途中に、分厚い吹きつけで隠れてしまいそうな階段があった。

たった9段の階段を登ると、そこは尾根の上である。

これも、ちょっと変な展開だ。




労せず絶景かな。



7:27

集落を出て15分ほどで、深い掘り割りの峠にたどり着いた。
コンクリートの斜面が目立ち、開放感の乏しい峠である。

左には、てんてんさんが廃隧道へアプローチしたという急斜面が口を開けている。
私も覗き込んでみたが、おびただしい量の不法投棄物が気持ちを削ぐこと甚だしい。

とりあえずここから坑口は見えないようだが、地形図で見る限り彼我の距離は50mほど。高低差も50mほどである。
もしここから行くならば、チャリは捨てていかねばならないだろう。
出来ればそれは避けたいが…。




掘り割りの峠を跨ぐと、大沢への下りは予想外にダイナミックな線形を描いていた。
地形に対して土木力を武器に、かなりのわがまま放題ぶりだ。
下手したら、隧道を掘るよりも手間が掛かっているように思う。




ゾクッとする高低差!

こんな所から落ちたら…。




やべって、笑えねーぞ!

冗談だとしても。

つか、頼むから冗談であってくれよな…。
マジそういうのは勘弁だぞ。


下を覗き込むのが、なんか嫌だ…。




マジで変な冗談はよしてくれ(笑)。

一体誰が、誰のためにこんなシュールジョークを用意したんだよ。

下手したら、誰にも気づかれず終わる場所だぞ。
それに、まだ靴にはたっぷりの光沢があり、ちょっと着服したい衝動に駆られたぞ。
おそらくサイズが合わないから自重したけど…。




7:29

慎重にカーブの数を数え、地形図と照らし合わせながら下ってきた結果、この地点から左に入ったところが目指す廃隧道の北口と擬定された。

地図が正しければ、彼我の距離は40m程度である。

だが…。




まるっきり見通せない。


ものすごいブッシュであり、道があったようにはとても見えない。

立ち入るにしても、正面突破は良手では無さそうである…。



ここは一筋縄ではいかなさそうなので、先に大沢まで下ってみよう。
もしかしたら、先に行けば別の道があるかも…。



7:32 【現在地(別ウィンドウ)】

峠を下りきった所にあったのは、道を挟むように建てられた大きな養鶏場だった。
ここに大沢という大字はあるが、集落は無いようだ。
道はさらに続いていて、このレポートのスタート地点付近にぐるっと一周することも出来る。

この養鶏場の敷地にも、県の境界標がいくつもあった。
この場所までは県道であるらしい。
(後ほどクルマで通った感じでは、この先には無いようだった)

ここで私は先ほどの激藪へ挑む覚悟を決し、峠へUターンした。




「隧道レポ」なのに、まだ隧道は現れず。

少々数が寂しい茨城県の廃隧道。 次回こそは拝めるか?! 拝みたい!!