隧道レポート 七尾市の此ノ木隧道 後編

所在地 石川県七尾市
探索日 2018.10.27
公開日 2020.09.05

現代社会を生きる道路の証し


2018/10/27 10:05 《現在地》

楽しいときの過ぎ去るのはあっという間で、もう出口に着いてしまった。
出口の先の展望は、苔生した切通しとスギの美林が好調和を見せており、
雑音のない景色の中でもう少しだけ、今回の希有な出会いの余韻を楽しめそうである。

木組みの隧道を含めたこの景色、時代劇のワンシーンとまではいわないが、
明治を舞台にした物語の中にだったら、恐ろしくすんなりと溶け込めそう。

……だが、そんな私の小さな空想は、振り返った坑口の前に一転する。




道路標識!!!

現代道路のモンドコロにも等しき道路標識がッ

時代錯誤の木造合掌枠に直付けとはッ

ミスマッチ極まる!!!



すごいなぁ、これ…。

日本広しといえども、道路標識が木枠に取り付けられているのは、ここだけだろう。
いまさら「高さ制限2.7m」という数字に驚きはないけれど、その存在すること自体と、
なんといってもこの設置位置に驚かされた。

ちなみに、この「高さ制限」という標識を設置できるのは、道路管理者のみと定められている。
無関係の者が設置すると処罰の対象になる。したがってこの道路には道路管理者が存在する。

(チェンジ後の画像)裏側から見ると、合掌梁に1本のボルトのみで固定されているようだった。
敢えて標識柱によらず、坑門そのものに取り付けようとした判断に喝采を送りたい。
標識柱1本分の節約になっただけでなく、扁額を持たない坑門の穴を埋めて余りあるインパクトを与えている。
(そもそも坑門にインパクトが必要かという議論はしない)



道路標識のインパクトが私の中では大きすぎて、最後に印象の全てを持って行きかけたが、別れの前に全体をちゃんと目に焼き付けていかないと。
再訪は可能だが、その時もこの特徴ある姿を保っているとは限らない。

おそらく、この合掌枠を取り払えば、いい表現ではないが、どこにでもあるような素掘り隧道だろう。
だが、そのどこにでもありそうな素掘り隧道を生み出した力の源泉(誰が?いつ?なぜ?)を知ることは、一番大切なことだ。

隧道掘りは、およそ時と場所を問わずに“大仕事”であって、極めて真剣に取り組まれる事業であった。
ついつい合掌枠に意識は向かうが、その築設と較べても、隧道そのものの掘鑿は遙かに困難な仕事であったはず。だからこそ、こうやって大切にされている。

隧道に向けられた真剣さの一端は、坑口直上及び両翼に刻まれた垂壁の高さからも窺える。
これは出来るだけ切通しを長く掘り進めることで、最難工事である隧道を短くしようという思惑のためであろうし、また地質の困難がそうさせたのかも知れない。

(→)
坑口付近の露出した地山の様子を撮影した。

岩と土の中間のような風合いは、泥岩とか砂岩だろう。
日本各地の隧道多産地帯(房総半島など)でもよく見る岩質である。

泥岩や砂岩は軟質で比較的簡単に掘り進められるが、大きな亀裂を生じにくいので致命的な崩壊を起こしにくいという、隧道向きな地質である。ただ脆いことは確かであり、ひっきりなしに細かく崩れてくる。そうした小崩落から身を守るための合掌枠だったと考えている。
既に洞内で述べたとおり、外観からもやはり合掌枠は天井そのものを支える役割を果たしていない。あくまでも崩土が路面に墜落するのを止める目的であるようだ。

謎なのは、同様の地質に掘られた各地の隧道で、しばしば合掌枠が用いられてたという記録がないことだ。そもそも、支保工自体を持たない素掘りが圧倒的に多かった。
なぜ、いつ、この隧道に合掌枠が設けられたのかは大きな謎だ。果たして技術の継承があったのか、単独のものなのかも、気になるところである。

また、さらに観察すると、かつてあった支柱の跡のような凹みが壁面に残っているのを見つけた。
見つけたのは一つだけだが、現在とは違った配置で木枠が置かれていたことがあるのかもしれない。




ここを去るときが来た。

屋根という守りがなくなったために、路面は再び湿り気を帯びた落葉に隠されて轍も消えた。
しかし、洞内にはタイヤパターンを読み取れるほどに新しい轍が残っていたのだから、ここを通行したに違いない。

それに、道の両脇に峻立する見事に育ったスギの巨木が、この道の生きていることを物語っていた。
上三室側の廃道区間にも杉林は多くあったが、残念ながら倒木はそのまま、下枝も払われなくなっていた。




見えなくなるまで、何度も振り返って、小さな尾根を潜る隧道を眺めた。

本当に見に来て良かった!

隧道へ辿り着くまでの少しの苦労も、完全に報われた。



10:07 《現在地》

隧道を出発してほんの1分ほど、極めて容易く舗装路に迎えられた。
周囲には、上三室の溜池を過ぎて以来おおよそ1時間ぶりに現われた生ける水田が。
もう此ノ木の集落は近い。(つまり、隧道も集落から近い)


(→)
出てきた道を振り返る。
ここから隧道は見えないが、見えかけていると表現できるくらい近い。

そして、こちら側にはまったく封鎖や通行止めを表わすものは無かった。完全な解放状態だ。
しかし、あまりにも何の変哲もなさ過ぎていて、隧道という目的地を予め持っていなければ、わざわざ奥を確かめようと思う通りすがりの旅人はなさそうだし、そもそも通りすがりはここへ来ないだろう。

私にとってこの奥にある隧道は、国内にあといくつも残っていないだろう古風な道路風景として、文化遺産級のありがたさだったが、現実はかように無造作で慎ましやかな環境である。



舗装道路に出たら右へ向かう。
狭い道だがしっかり舗装されている。
そして、結構な勢いで下る。自転車は自ずと加速し、あっという間に隧道を頂点とする大田側の峠道を終えてしまった。




10:09 《現在地》

隧道を発ってまだ3分だが、もう此ノ木集落に着いた。
集落は海岸に面した入江状の低地にあって、沖合に浮かぶ二つの小島(雄島雌島という)の赤灯台くらいしか、ぱっと見では特徴を見つけられない長閑な所だ。

道はここで二手に分かれており、直進が最短で表通りの県道に通じるが、敢えて集落の中央を通る左の道を選んだ。
(選ばなかった道も後で一巡してみたが、特に発見はなかった)



写真は、いま通ってきた道の出口を振り返って撮影したもの。
やはり、隧道や道の素性についての情報提供は一切ない。
ただの農道にしか見えない。

私の欲っしている情報は、机上調査および、今からこの集落で直接手に入れる努力をするよりないだろう。
特に今回は、帰宅後に市町村史を手にしたとしても、おそらく掲載はされていないだろう。(この予想は当たっていた)
それほどローカルな道路であり、隧道であったと思う。
ここを立ち去るまでが、勝負だ!




集落の中心を通ろうと思ったのも、少しでも古老との遭遇確率を上げようと思ったからだ。
各戸訪問は最後の手段であり、路上での遭遇がベター。それはお互いの負担軽減もあるが、私の経験上、路上で遭遇した古老の方がより成果に結びついている。
とはいえ、集落の規模はあまり大きくないので、遭遇できるかは微妙なところだ。雨が上がっていることを、どうにか好機として遭遇したい。

集落山手の最も指導的と思える立地に、立派な山門を持つ善正寺というお寺があった。上三室でも、隧道へ通じる道の入口に蓮照寺という大きなお寺があったが、こちらも同様だ。もっとも、多くの集落にお寺があり、この一致は偶然だろう。



10:13 《現在地》

自転車の足の速さだと隧道から10分もかからずに、此ノ木集落の表通りともいえる旧県道に出た。600mほどしか離れていない。
だが、この経過時間から分かると思うが、古老との遭遇をまだ果たせていない。

隧道へ通じる道の入口に、「津波避難場所」を案内する看板があった。
その看板の案内する津波避難場所は「善正寺奥トンネル手前」とされていて、距離550mとあるではないか。

なんと! 隧道の“手前”(距離的には【隧道前の三叉路】の近く)が、津波一時避難場所七尾市内の一覧地図になっていたのである!
これでもし、隧道そのものが指定されていたら、あの木枠もより説得力を持つ気がするが、“手前”というからにはそうではなく、単純に津波から逃れられる標高のある位置(三叉路は海抜約30〜40mある)ということで隧道“手前”なのだとは思う。

それでも、予想以上に隧道が集落と密着した存在であることが分かり、嬉しくなった。これなら、古老の誰に聞いても、隧道をご存じないということは多分ないだろう。




走破は終わった。スタート地点に停めた車の在処は、ここから1kmも離れていない。
だが、まだこの地を立ち去ることは出来ない。隧道のことを、古老に聞かなければ。
どんより空の下、自転車なら1周2分もかからない集落内を1周。しかし屋外に人影なし。
続いて表の旧県道を行ったり来たりとしていると……

10:15 集落南端付近の旧県道上で、古老コンタクトに成功!

古老から得られた情報を、最後にお伝えしよう。





此ノ木古老かく語りき  〜ミニ机上調査編〜

此ノ木集落で出会った古老の証言

  1. 隧道は、太平洋戦争よりも前から存在している。
  2. 隧道を建設した理由は、隧道の向こう側の谷に田んぼへ車で行けるようにするためで、集落の人達が自前で掘った。
  3. 隧道が掘られる以前は、その上の尾根を歩いて通っていた。
  4. 隧道の向こうの田んぼへは集落の多くの人が通っていて、また他の集落からも通う人があった。
  5. しかし、最近はその田んぼを止めてしまい、隧道は山菜採りなどでたまに通るだけになった。
  6. 隧道内部の“木の支え”は、昔からずっとあるが、今ある支えは、3年くらい前に、集落の人達で修理をしている。
  7. なぜ“木の支え”が作られたかは、分からない。
  8. “木の支え”を持つ他の隧道は知らない。この近くに他の隧道はない。
  • 性別: 女性 
  • 年齢: 推定80才代
  • 居住: 戦前に此ノ木集落へ嫁いでからずっと居住

以上のような内容を、此ノ木集落に戦前から居住しているという古老から聞き取ることが出来た。

まず、隧道開削の時期(1.)や目的(2.)については、おおむね予想通りであった。
隧道の向こう側にある谷の大部分が此ノ木集落と同じ大字大田町に属している現状から、地形的には三室寄りでも歴史的には大田寄りの土地だろうということが推定され、尾根を挟んだ最寄りである此ノ木集落の人々が利用していたというのは頷ける。
ただし、竣工年が具体的に戦前のどの時期なのかは不明である。

なお、小さな峠の反対側に耕地を持ったために、隧道を掘って日々の行き来を容易にしたというのはよく聞く話だ。(金沢市の夕日寺隧道なども最たる例)
特に広域的な交通路上にはない隧道の場合、通学路か耕作路というのが集落お手製の隧道が誕生する2大要因と言って良いと思う。通学と耕作はほぼ毎日のことであるから、住人の利益に直結するし、住人一丸の協力体制が生まれやすかったためだろう。

そして、今回の隧道の最大の特徴であった洞内の木枠について(6.)だが、古老は“木の支え”と表現しておられた。
この言葉からは、現在の構造から感じられる洞内覆道の性格よりは、支保工の性格が濃いように感じられるが、これが長年のうちに合掌枠の目的が支保工から変化したことを意味するのか、単に見た目の印象を言っているのかは分からない。

また、なぜ“木の支え”があるのか(7.)についても、不明とのことだった。
しかし、“昔からずっとある”と仰っており、最近になって落石防止のような理由で追加したものではなさそうである。
と同時に、これがとても興味深いのだが、“ほんの3年くらい前”(2015年頃?)にも集落の人達が“木の支え”の修理をしたという。

やっぱり地元の人達がこまめに手入れをしていた!

今日、トンネルを含む道路の修理は基本的に行政の領分であり、地域住民が直接行うのはゴミ拾いやドブさらいのような沿道美化活動が中心だ。これは道路法により、道路法上の道路には全て道路管理者が定められていて、道路の管理(修繕を含む)は道路管理者の義務とされているためで、隧道が私道ではなく、例えば七尾市が管理する市道だとしたら、その隧道の修理を集落の人々が行うには、市の承認を得る必要があったはずだ。(参考)

隧道の管理者が誰なのかは帰宅後に調べており、確かに市道ということが確かめられたのだが(後述)、これは此ノ木集落と隧道の関係が昔も今も密接であって、最近も積極的に手を入れていたことが分かる、恐るべし隧道自前補修のエピソードだった。

古老からの聞き取り調査は以上である。
集落内には、合掌枠の補修にあたった当事者はもちろん、隧道開削の当事者も在住している可能性があるだろう。
さらなる聞き取り調査の有効性を感じたが、既に初回としては十分な成果を得られたと感じたので、撤収した。
現地探索終了!




右図は、明治43(1910)年と昭和42(1967)年の地形図の比較だ。
どちらにも隧道は描かれていないが、前者には此ノ木集落から“隧道の尾根”を越え、そのまま崎山半島の稜線も越えて、半島の突端部を占める旧崎山村の中浦(役場所在地)や鵜浦集落へ向かう道が描かれていた。
この道は、当時の図式(凡例)によれば、「里道(聯路)」かつ「荷車が通せざる道」として描かれている。

「里道」は当時の道路制度の中では最も下級の道だが、当時の図式はこれを「達路」「聯路(れんろ・連路)」「間路」の三種に分けて描いていた。これは地形図独自の表現だったが、明治9(1876)年の太政官達によって定められた【里道一等・二等・三等】一等 彼此ノ数区ヲ貫通シ或いは甲ヨリ乙区ニ達スルモノ
二等 用水堤防牧畜坑山製造所等ノタメ該区人民ノ協議ニ依テ、別段ニ設クルモノ
三等 神社仏閣及田畑耕転ノ為ニ設クルモノ
に対応するものといわれる。
聯路は里道中で中等の重要度を持つ路線で、今日でいえば幹線的な市町村道や、一般県道に相当する路線といえよう。

当時の崎山半島には、「里道(聯路)」より上級の道路記号が見られないので、此ノ木から“隧道の尾根”を越えて行くこの道は、当時の半島内の主要な路線だった可能性がある。
古老の証言ではあくまでも耕作目的で整備された隧道ということだったが、明治頃に東湊村と崎山村を結ぶ交通路として“隧道の尾根”を越す道がよく利用されていたなら、そうした背景も隧道の整備と関わりを持っていた可能性が出てくる。

もっとも、この里道に隧道は描かれていないし、峠に至る径路も今とは微妙に違っていて(此ノ木側から尾根伝いに上っていく)、峠の位置も現在の隧道よりやや北寄りである。
はっきり言えるのは、明治43年の地形図には隧道も隧道のある道も描かれていないということだけだろう。

昭和42(1967)年版になると、かつての里道は徒歩道に落ちぶれてしまい、新たに今回探索した上三室から沢沿いに上る道が車道として出現している。
やはり隧道は描かれていないが、道は今の地形図と同じで隧道の位置を通過しており、隧道の存在が前提になっている。
なお、道がこの位置に描かれ始めた版は、図式が大きく刷新されたこの版からで、例えば戦後の昭和28(1953)年版でも、旧態依然に明治43年版と同じ位置に道は描かれていた。これは単に地形図の更新がローカルな道に及んでいなかっただけの可能性が高い。


次に、道路法上の道路上に存在するトンネルのリストである国土交通省『平成16年度道路施設現況調査』の石川県の部に、「ナナオクノギトンネル」なる名称のトンネルを見つけた。
所在地は市町村レベルの記載があり、どのような道路上のトンネルかという道路種別の記載もあるが、「ナナオクノギトンネル」の所在地は七尾市、道路種別は市町村道とあった。
これが今回探索した隧道を指すことは状況的に間違いないと思われ、少なくとも平成16(2004)年の時点では、隧道が七尾市道に認定されていたことがはっきりした。

なお、リストは基本的にトンネル名を半角カタカナで表記しているので、漢字表記に直せば「七尾此ノ木トンネル」となるのだろう。
また、同じ七尾市内に「ナナオナカムラズイドウ」というのもあったりして、冒頭の「ナナオ」が正式名に含まれるのか微妙な気もするが、このリストの典拠は道路台帳であるから、少なくとも七尾市の道路台帳上では「七尾此ノ木トンネル」と呼称されているらしいことが分かる。
加えて、「此ノ木」という集落名の読み方は「このぎ」だと思われるが(現地のバス停は「このぎ」読み)、隧道名は「くのぎ」と呼ぶらしいことも、初めて知った。

リストの内容は、トンネル名だけではなく、竣工年や断面サイズなどの緒元も含んでいる。
収録された此ノ木隧道のデータは以下の通りだ。

名称:ナナオクノギトンネル (七尾此ノ木トンネル)
 竣工年:昭和35(1960)年  延長:23m  幅員3.4m(道路2.9m歩道0m) 
 有効高3.4m  壁面:素掘  路面:未舗装  現況:通行制限あり

『平成16年度道路施設現況調査』より抜粋

最も注目したいのは竣工年だが、古老の証言とは食い違っていて、戦後の昭和35(1960)年と記録されていた。
また、幅と高さはいずれも3.4mとなっているが、現地ではもう少し小さく感じた。もしかして合掌枠を除いた断面サイズだろうか。
現況欄の通行制限ありというのは、高さ制限2.7mがあることを意味しているのだろう。

竣工年が古老の証言と食い違った理由は不明だが、例えば市道に編入された年であるとか、大きな改築が行われた年などが、このリストに入り込んでいるのはたまに見るので、明示された数字だからといって即座に隧道誕生の年とは断定できない。ただ、この年に隧道に対して何かしらの行政行為があったことは間違いないだろうし、これより竣工が遅いということもまずないと思う。

さらに、『七尾市史』や『鹿島郡誌』などの文献類にもいくらか当たってみたが、現地で予感したとおり、これら広範な対象を扱う文献には、極めてローカルな隧道に関する記述はなかった。

工事が行われた経緯や竣工年について、これ以上はっきりさせることができなかったが、これまでの経験から培った勘をもとに推測するなら、昭和初年代の時局匡救目的の補助土木事業が盛んな時期に、此ノ木の人々が中心となって実行した道路工事だったのではないかという気がする。現段階では完全に私の憶測だが。


最後に、非常に珍しいと思われる隧道内部の木造合掌枠の由来について。

通常の支保工(三つ枠)ならばそこまで珍しくはないが、わざわざ合掌枠を用いたことが特異さの一点目。
さらに、合掌枠が側壁と天井にはほとんど触れておらず地面だけで支えている、いわば隧道内に置かれた木造覆道の状況であることが、特異さの二点目だ。

私は、これらの特異性を持った構造物が、この地に形を得、そして長く存続してきたとみられる、その背景を何よりも知りたい。
もっと具体的にいえば、これは鉱山技師の関与など技術的な系譜を持った構造物なのか、それとも言葉は悪いが、建設に関わった誰かの思いつきから生まれた一度限りのスタンドアローンな構造物であるのかということを、私は知りたいのだ。
ここの解明は、技術的な意味から本隧道を議論するうえでの要であろうと思う。
古老は、近くに同様の構造を持つ他の隧道は知らないと仰っていたが…。

現状、この点については情報が最も乏しく、明言できることはほとんどない。
他の場所で私が見たことがない珍しいものがここに現存していて、しかも最近まで(あるいは今も)此ノ木集落の人々によって連綿と維持されてきたという事実を述べたのが、今回のレポートの限界の到達点である。
“なぜ”に答えるためには、まだ、私のレベルは足りていない。




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