旧口野隧道  第2回

所在地 静岡県沼津市〜伊豆の国市
探索日 2008.2.26
公開日 2008.4. 5

 今回からは、いよいよ表題の「旧口野隧道」を探しにかかる。

 この隧道に関しての机上情報は極めて少ないが、ほぼ唯一の“存在証明”といえるのが、日本帝国陸地測量部が明治28年に測量して発行した初代・5万分の1地形図(沼津)と、その子孫として改訂されて来た昭和22年版までの同図である。
次に発行された昭和27年版からは、隧道の表記が消えて、切り通しのような描かれ方となっている。
また、最近の地形図では、峠前後の道自体が消えてしまっている。

 前回紹介の、明治35年と40年に相次ぎ竣工した「沼津・四日町往還」に較べて、地図に見る“初代ルート”は距離も短く、隧道の数も一本だけだった。
しかしそこには、大交通を阻害する何らかの問題点があったのだろう。
「沼津・四日町往還」は、韮山方面の石材輸送や、沼津御用邸からの行幸路、中伊豆方面の著名温泉地への観光道路などとして末永く活躍し、現在はそのバイパスが国道になっている。
この繁栄の原点にありながら、歴史の陰に隠された初代ルートの謎を解き明かそう。




 初代の明治隧道 現る?! 

 多比地区から


2008/2/26 7:13

 再びこの写真の場所。
しろ氏から情報を得るまでは、全く何の気もナシに素通りしていた三叉路だが、そう言われてみればイイカンジな追分だ。
両者の離れていく自然なカーブなど、今日の区画整理によっては生まれようもないものだ。

 今回もクルマは少し離れた駐車場に止めており、ここへはチャリでやって来た。
首尾良く初代ルートをチャリごと踏破する目論見だが、果たしてどうなるか。




 左折すると、車一台がやっとの狭い道になった。
両側には民家や駐車場の塀が迫っていて、緩い上り坂であることと合わせ、かなり圧迫感がある。
もっともそれは、私の緊張を多分に反映した感想である。
この先に峠や廃隧道の存在を想定し、ましてそこを通り抜けようなどと考えない人にとっては、普通の閑静な住宅街の風景かもしれない。




 一目見て古そうだと感じられる石垣が現れた。
石材の空積みで、高さはないが延々と法面を覆っていて、城壁のような重々しさがある。
草生した表面は、これが明治のものではないかと私に疑わせるに、十分な風格を持っている。

 周囲の林からは、いたずらに不安を煽るようなヤマバトの鳴き声や、サカリの付いたにゃんこどもの、焦りを誘う叫びが聞こえていた。




 民家が密集しているエリアを過ぎると、路幅はさらに狭まり、勾配も増してきた。入口から約100mほどの地点で、またしても二手に分かれる。
最新の1/2.5万地形図では、ここを左折する道が点線の徒歩道として峠を越えるように描かれているが、歴代地形図の見比べによって、その点線道は隧道のあるルートではない事が分かっている。(或いは江戸時代までの道であるかも)



 左右の道はそれぞれが谷戸(やと。田畑であったり人が住むような沢の、最も奥まった部分)に達してから、急に稜線へと登り詰める線形をとっており、これは自動車や馬車交通の時代には適合しなくなった、いわば“古い型”の峠道である。
谷戸が近づくと、勾配はさらに増していく。
それでも、まだポツポツと民家があって、道も辛うじて自動車が通れる幅を有していた。

 右の写真の場所までは。(入口から約150m)



 もうここからは普通の車では入れない。
よくお年寄りが乗っているような三輪のシニアカーには適応した路幅である。
しかし、市道にでも指定されているのか、新しげな舗装がされているのには元気づけられた。
冬場とはいえ、この地方の藪は余り大人しくしていないので、藪道は進路を見失う可能性大だ。
出来るだけ谷が狭まって進路が定まってくるまで、道ははっきりしていて貰いたいと思っていた。



 最後の民家かも知れないと思った。
だが、実際にはもう一軒奥があった。
もう谷幅はかなり狭まっていて、水流はないのだが、家一軒を建てるのが精一杯の幅である。

 それにしても、この先の坂はきつい。
うなだれるようにして、このお宅の門の前を漕いで通ったとき、ふと人の気配に左を見たら、家中の人と目があった(気がする)。 なぜか咎められそうな気がして、咄嗟に作り笑いで会釈したが、気付かれていたかは不明である。

 オブローディングをしていると、どうしてもこのような濃密な生活道路に踏み込むことがあるが、住んでいる側としては気色悪いに違いない…。
まして、早朝や夕暮れ時だと、泥棒さんと間違えられやしないかといつも心配になる。




 再び、両側に先ほどと同じ石垣が現れた。
遠くからでは石積みだと分からないほどに、苔や草に覆われている。
こうなると無神経に白い路盤が憎たらしくなるが、チャリを気軽に運ばせてくれる功績は無視できない。
きっと、この石垣に似つかわしい道は、チャリにはきつい。

 どんより空でも、掘り割りのような道と空とのコントラストはなおきつすぎて、写真では稜線の白飛びが激しくなったが、もうそれはさほど遠くない。
数字で言えば、鞍部までの高低差30〜40m、直線距離にして120mほど。
経験上、古い隧道があってもおかしくない地形である。




7:17
 入口から200m、海抜30mほどの地点で、最後の民家が現れて舗装路が終わる。

だが、それより奥にもまだ道は続いていた。
それは、人が歩く幅の岩と土の道である。
家が途切れた先にも道が続いているというのは、第一の関門を突破したことを意味していた。

 ところで、人様のお宅の表札を撮影する趣味はないのだが、この最奥の民家の入口にあたる角に、道標よろしく石碑が建っていた。
そして、そこには「渋谷家」と彫られていた。
最近立てられたものには見えないが、これは表札代わりなのか、或いはもっと別の意味があるのだろうか。






 右の拡大図の矢印の方向へとさらに進む。

この行く手を遮るのは、鋸歯のような小ピークをいくつも残した小山脈で、図の範囲の海抜は70〜120mほどである。
図の下の方で狩野川放水路や国道がトンネルで抜けているように、稜線付近は比高が大きく、古くから交通上の難所として人的物的交流を阻んできた。




 ここからは、チャリを漕いで進むことは出来ない。
路盤が不整地であることと、なによりも異常な急勾配で、馬車も登れなかったと思う。
早くも、この初代ルートの問題点が浮き彫りになってきた感じがする。この急勾配は頂けない。

 しかし、相変わらず路傍には古びた石垣が散在している。
もはや、ここが明治の地形図に示されたルートであることは、疑いがない。
あとは、かつてしろ氏が発見したという隧道を確かめることだ。




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 辿り着いた小広場  そして…


7:20

 小径をほぼ直線的に沢を詰めるように登ること30mほどで、少し開けた場所に出た。
そこは平坦で、取りあえず道は行き止まりのようだ。
正面には深い笹藪が密生し、視界は効かない。

 谷地を埋める小広場。
このファクターが期待させるものは、当然隧道の存在に他ならない。
広場は、隧道掘削の残土で作られたものであることが多いからだ。





 藪が濃いのでチャリは取りあえず広場に停め、身軽な状態で、谷の一番暗くて深くなった部分へ進む。 

 ほんの微かだが、地面の土の上には踏み跡らしきものがある気がする。
それに、両側の藪が“覆い被さる”ように感じられるのは、むしろここだけ藪が薄いからだ。


 ヤマバトも、サカリの猫も、聞こえなくなった。
妙にしんとしている。






あった… 

これが、明治28年の地形図に描かれていた隧道なのか。

しろ氏からのメールに添付されていた坑口の画像とは、一致している。

 

坑口の周りの薄暗さは、異常である。

隧道慣れした身にも、気味悪さに一度足が止まった。

昼なお暗いとはまさにこのことだろう。

得体の知れない穴が、切り立った岩場の奥に口を開けている状況には、
戦慄を覚える。




 これまで見たことの無い、不思議な坑門。

 一見コンクリートの建物のようだが、全て自然の岩盤である。
岩盤に、高さ2m、幅3mほどの長方形の穴が、唐突な感じに口を開けている。
坑口前には、崩れてきたらしい岩の破片や、長い間に堆積した土や落ち葉が本来の路面を埋めている。

 これはまるで…、石切場のようだ。





 入 洞 


7:23 《現在地》

 電池満タンのSF501を点灯させてヘルメットを被ってから、さほど高さに猶予のない坑口より、内部へと侵入。

隧道の安否を計るうえで、一番の指標となる風の有無だが、 ──ある。

 風がある!   …と思う。

ビュービュー吹いているわけでは決して無く、自信を持って「ある」とは言えないが、頬にあたる空気には微かな流れを感じるように思った。




 ところで、扁額などあるはずもない素堀のままの坑口だが、扁額の位置に文字が彫られているのを発見した。

誰かが悪戯をするには高すぎる位置だし、手が込みすぎるように思われるから、竣工当初のものではないか。

 肝心の書かれた文字の内容だが…。
私には、縦書きで漢字二文字 「山田」あるいは「山由」と読めるが、いかがだろうか。
これらの名前に心当たりは無いが… 或いは本隧道の名称は「山田隧道」なのか?!
(なお、仮称で「旧口野隧道」としているが、本隧道は口野地区にはなく、多比と江間を結んでいる。あくまでも、現道の口野トンネルに対する旧道的な位置にあるためにつけた仮称である。)




 洞内に一歩足を踏み入れると、案の定出口は見えず、闇が広がっている。
というか、広がりすぎている。 広ッ!


 それに、石碑が……

ちょっと気持ち悪いよ…。

な、何で洞内に石碑があるの…。
見たこと無いし、こんなシチュエーションは。
まあ、あるとは聞いていたけれど……。 かなり不気味。




 洞内でまず第一に石碑に目が行ったのは確かだが、普通の隧道離れした異様な様子に気持ちを飲まれ、石碑をじっくり観察する心境になるまで少々時間を要した。

 ここは、隧道と言うよりも、地下の建物のようである。(写真は最初の広間から振り返って撮影)
現役ではないのだから、「廃墟」と言うべきなのか。
一枚岩の白い岩盤に穿たれた、広い空洞。
これは、隧道などではそもそも無くて、石切場の跡地なのではないか…。

 …当然、そう考える。
しろ氏も、メールで同様の見識を披露されていた。
ただし、「石碑の存在」「地形図に隧道の記号がある場所に、地下への入口があるという一致」を挙げて、「もしかしたら隧道かも…」という結論であった。

 本洞の正体を知るためには、やはり奥まで行って、“貫通しているかどうか”、“そこに道としての機能があるかどうか” を確かめる必要があるだろう。



 洞内の空気には、素堀隧道にありがちなジトジトや、土臭さはあまりない。
もっとさばさばとした、ガランとした印象である。
暗さに慣れてきた後には、外よりもむしろ居心地良く感じるようになったほどだ。
(それでも、石碑は何となく気持ちが悪かったが)

 洞内に入って最初のホールから、さらに奥を写したのがこの写真。
やや右より正面と、直角に左方向の二手に空洞は続いていた。
これが隧道であったなら…隧道を石切場に改造したというのならば…、せめて坑口から見て直進方向へ進むものが“本坑”で有るべきだろう。
そんな予感から、正面を本坑、左を支坑と仮定した。





(上写真) 向かって左の支坑入口。
トタンの壁で塞がれていた形跡があるが、風によって自然に壊れたようだ。

(右画像) 入洞早々にして混迷の度を増してきた、旧口野隧道。
果たして、その正体は……。



 さて、本隧道の “カギ” となるのかこの石碑。
暗いところにある石碑と言うだけで、なんだか気持ちが悪いわけだが、初めて正対する。
石碑の本体は高さ1.2m、幅50cmほどで、自然石から調製してある。
それが、洞床から数えて高さ50cmほどの台座に載せられている。台座は、後から据え付けたものではなく、内壁と一体である。

 また、台座の前には、金属製の破れた盥一個、一升瓶一本、珊瑚のような炎のような奇妙な造形の塑像一体が、置かれている。
一升瓶と盥の存在は、かつてこの碑が信仰の対象であったことを臭わせるが、塑像は全く意味不明でこれまた不気味。




 ドキドキしながら覗き込む碑面。


  うわぁ。

 文字がぎっしりだ…。

 しかし、読みづらい。
そもそも文字の彫りが浅いことや、SF501の強烈すぎる灯りが文字を読むのに適さないこともあるが、文面も字体も非常に古風なのである。
達筆といえばいいのだろうが、行書かつ古文体ということで、学のない私には現場での解読など不可能。
じっくり自宅で読むために、いろいろな角度から碑面の写真を納め、取りあえず現地では洞奥の探索を優先することとした。




 詳細は読めなかったが、本碑に関する最も重要な部分は、何となくだが読めた。

そもそもこの碑が何であるかについては… ずばり、「隧道に関する記念碑」と思われる!
本文中に、「道」や「隧」の字が見て取れる。
しかも、冒頭の文字は「明治二十年五月」。書き出しには「多比村」の文字が鮮明である。
もしこれが、隧道の完成後に建てられた記念碑だとしたら、明治20年には既に開通していた事になる。
また、「多比村」は明治22年に「静浦村」に合併したのであって、この村の名前が出て来ている時点で「明治20年建立説」は強い。

 この碑がここに最初からあったものなのか、本来の隧道の場所から移設されてきたものかは分からないが、とにかくこの碑が顕彰している隧道は、めちゃくちゃ古いものらしい。
それこそ明治20年竣工だとしたら、私が知る限り伊豆半島内で二番目に古いことになる。(第一は柏隧道…明治15年竣工)




.

 ということで、宿題として持ち帰ってきた碑文の解読だが、やはりこれは難問であった。
結局一人で解読することを断念して、先日当サイト掲示板にて協力者を募ったところ、多くの読者が手伝ってくださった。
そして、ほぼ全体が解読できたので、次にその成果を公開する。誤りや異説のご指摘も、掲示板かメールにてどうぞ。



この画像は、
碑面の画像に「禅芝」氏が特殊な画像処理を施したものです。
クリックで拡大しますので、解読へのご協力をお願いいたします。


     明治二十年五月
多比村は駿海の東隅(に)在て泊舩(の)便魚塩の利
足ら佐留(ざる)と云う事無し然かれど山路一徨江間村に越るのミ
にて重険いふ(ばかり)なし(ここ)に同村山田與七(ぬし)常ゝ是を
憂い明治五年より即開路の業を始しに本村及び同村
同志(の)(ともがら)是に助力し殆道十間の隧道を穿ち今茲(ことし)
五月重功終になれり(あに)大業なら佐留(ざる)と云んや依りて此事を
不朽に(つたえ)んと誌し是石卑(碑)を示ん
  いは山を 穿て出づる 時鳥
                   七十八翁昭石 





解読協力:TUKA氏、multi氏、禅芝氏、ふくたけ氏、マフラー巻き氏、いまじん氏、ばんせん氏、明治氏、おーた氏、家猫氏、ほかの皆様。






 待って!!

 「明治五年」って、なに?





 この隧道は、

なんと、明治5年に着工している。
そして、竣工は明治20年の5月。 僅か10間(約18m)の隧道に、15年もかかっていた?!

また、多比村の山田與(与)七という人物が中心になって工事をおこしたらしい。



   あ!   

 “山田” って、坑門に確か…。

  うあぁぁあ… やっぱり、これがその隧道なのかぁ?!



 ちなみに、解読開始の直後では「竣工も明治5年」ではないかという勘違いがあって、本レポートも一旦そのように案内したが、解読が進んだためにその可能性は低くなった。竣工は明治20年である。


 しかし、「明治5年着工」は、伊豆半島に知られている隧道中で、ダントツの最古になるばかりでなく、県内最古とされる宇津之谷隧道(静岡市・明治9年竣工)の着工は明治7年であるから、それよりもまだ古いことになる。

 つまり、道路隧道としては県内最古の着工例、かつそれは、日本最古級でもある?!



 や、やべーーよ。 出そうだ。   ゆ、夢に。