隧道レポート 長野県道142号八幡小諸線旧道 宮沢3号隧道 前編

所在地 長野県小諸市
探索日 2015.4.25
公開日 2016.2.01


【位置図(マピオン)】

さて今回は長野県より、浅間山南麓、佐久盆地周辺に位置する小諸市から、役目を終えた旧隧道を紹介しよう。

私がこの隧道の存在を知ったのは、現在の小諸市南西部にある千曲川西岸一帯の古い地形図を眺めている時だった。
右図がそれである。これらは昭和44(1969)年版と大正4(1915)年版の旧版地形図だが、どちらにも2本の隧道が描かれている。
これらが同じ隧道なのかについては、この縮尺の地図だけで判断するのは無理があるが、大正初期の時点で既に隧道が存在していた事や、そのうちの1本が結構な長さで描かれていたことが、私の興味を惹いた。

なお、描かれている隧道は2本だが、実際にはここには3本の隧道が存在していたことが、定番の資料「道路トンネル大鑑」の記述や、縮尺の大きな現在のネット地図などから判明した。
すなわち、南側に描かれている短い隧道の実態は、とても短い2本の隧道から成っている。
そして、それらは今も現役である。

今回のメインのターゲットは、北側の長い方の隧道で、「大鑑」には「宮沢3号隧道」という名前で記録されているものである。



先に見て頂いたのは、だいぶ昔と、一昔前の地形図であったが、こちらは最新の地図である。
地理院地図から、「宮沢3号隧道」の周辺を切り出してみた。

ここには、“いかにも怪しい”行き止まりの道が描かれている。
怪しすぎて、笑いが出た。

これにより、「宮沢3号隧道」は既に「宮沢トンネル」へと代替わりを終え、旧隧道は地図から抹消されるような扱いにある(まず廃道だろう)ことが理解された。
これは、ますます現地の様子を見にいく必要がありそうだ。

といったところで現地探索の動機付けは完成したが、本編レポートの前にもう一つだけ、情報を提示しておく。
「大鑑」と対になるトンネルリスト資料としてお馴染みである平成16(2004)年度版「道路施設現況調査」も見てみると、現代の“宮沢隧道群”は、少々意外な部分でも「大鑑」の時代から変化していた。
下の表をご覧頂きたい。



「大鑑」と「現況調査」の間には36年の時差があり、この間になぜか宮沢1号・2号の各隧道の名前が変化していたのである。

これらの隧道では、昭和57年に大規模な拡幅工事が行われたようで、その際に名前も変更したのだと思われるが、その理由は不明である。
また、本編の主題である宮沢3号隧道については、平成7(1995)年に現在の「宮沢トンネル」が開通していることが分かった。

それでは、1号隧道…じゃなくて! 「ツキノシマトンネル」の手前から、現地レポートを開始する。




市境にある2本の小さな古隧道


2015/4/25 14:18 《現在地》

長野県道142号八幡小諸線は、佐久市八幡(やはた)と小諸市の中心部を結ぶ、全長約10kmの一般県道である。
起点は中仙道の八幡宿、終点は北国街道の小諸宿であるから、これら2つの重要街道を連絡する古い脇道に由来するのかもしれない。路線番号の若さも認定時期の早さを感じさせる。

だが、古い由来を持つ道路が必ずしも現在にあって高い水準の整備を受けているわけでないことは、当サイトの読者ならばよく分かっているだろう。
この県道も、どちらかと言えばそんな枯れ草ムードのある閑散路線に属している(小諸市街地の区間を除く)。

現在地は、起点から4kmほど進んだ佐久市桑山の路上で、いま遠方に見えてきたのが、“宮沢隧道群”の1番手となるトンネルだ。



地図によれば、2本目のトンネルを潜ったほんの少し先の地上に佐久市と小諸市の市境があることになっているが、現地では1本目のトンネルの直前に「小諸市」の案内標識が立っていた。

また、このすぐ手前に「幅員減少」の警戒標識があった。



「短い」隧道と、「とても短い」隧道が、極めて短い間隔で連続している。
しかも区間の全体がS字にカーブしているために、区間の前後にカーブミラーが設置されていた。

これらの隧道の名称は前説で述べた通りで、現在は、手前が「ツキノシマトンネル」、奥が「宮沢1号トンネル」というようだ。それぞれの旧称は、「宮沢1号隧道」「同2号隧道」である。



ここにある2本のトンネルはどちらも素掘にコンクリートを吹き付けただけの簡易なもので、坑門工や扁額を持っていない。
トンネル名を記した道路標識も無いため、現地では名前を知る手がかりが無い。

地形的には、御牧ヶ原と呼ばれる台地状をした丘陵の縁が千曲川の流れに削り取られて出来た崖の中腹にあり、隧道は露出した巨巌を刳り抜いている。

どちらの隧道の外側にも旧道らしき“まわり道”の痕跡は見あたらず、大正初期の地形図にも同じ地点に隧道が描かれていることからして、明治期に前後の道と共に初めて開鑿された可能性が高い。
直近でも昭和57年に拡幅を受けたようで、もはや当初の姿を窺うことは出来ないが、市境(かつての村境)に相応しい難所を克服するために作られた、“がんばりの隧道”だというのが感じられる。




全長23mの隧道を潜り終え、続いて全長11mという、日本中の都道府県道にある現役トンネルの中でも相当の上位の短さを誇っていそうな2本目へ。

通りすぎる軽トラと比較しても、隧道の長さがよく分かると思う。
削り残された“岩柱”が地震で折れでもしないかと、余計な心配をしたくなるレベルだ。

そしてこのとっても短い隧道の内部には、まるで普通の地上の道路脇のような気楽さで、小さな石仏が安置されていた。




兎の耳みたいにピョコンと2つ仲良く並べられた、丸っこい石仏の正体は、お馴染み「馬頭観世音」であった。

路面すれすれにあるために、土埃や跳ねた土の汚れが表面にこびり付いているのは気の毒だが、馬といえば飼葉というわけで、藁が供えられていた。
今でもちゃんと信仰されているのである。(銀色のブレスレットのようなものも供えられていた)

それにしても、2本の隧道に2つの馬頭観音碑。
偶然だとしても、良く出来ている。
なんとなく、それぞれの隧道に仲睦まじい夫婦馬が宿っているような、そんなイメージを持った。




こうして2本の隧道を潜り終えて振り返ると、今度は「佐久市」の地名標識が立っていた。
何度も言うように、詳細な地図上では、この2本の隧道は共に佐久市に所属しているのだが、道路管理者はそう考えていないのか、トンネルの前後に標識を立てられている。




14:20 《現在地》

隧道から30mほど進んだ所にある写真のカーブが本当の市境で、ここから先が小諸市山浦である。
広い山浦地区にはいくつかの集落があるが、そのうち最も南にある宮沢集落と、その次の大杭という集落の間に、今回のメインターゲットである旧「宮沢3号隧道」があるはずだ。



カーブの辺りからは千曲川を良く見下ろせるが、此岸は岩場こそ露出していないものの相当急峻で高低差もあり、眺めに迫力があった。

対して対岸の耳取地区は一様に穏やかな地形で、平和を絵に描いたような農村景観を見せていた。




さらに200mほど進み、蛇行した千曲川が遠くなると、今度は雄大な爆裂火口を見せつける浅間山が現れた。
この県道で浅間山が見えるのはここからである。
今までいくつかの方角からこの活火山を見た覚えがあるが、小諸からの眺めがこれほど禍々しいことに驚いた。

だが、そんな遠景の冷たい印象を慰撫するように、近景には県道を囲む古い桜並木が現れた。
満開を過ぎて散り咲きにはなっていたが、まだ幹の間には華やかな祭提灯が飾られていて、集落の温かさを感じられた。



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宮沢集落から旧「宮沢3号隧道」へ


14:23 《現在地》

宮沢集落は、千曲川の蛇行が生んだ東向きの舌状地に立地する、典型的な塊村である。
県道は集落の上端付近を横切っているので、沿道の火の見櫓に登るまでもなく見晴らしが良い。

そして、集落のすぐ北側(小諸側)に、現在の宮沢トンネルが大きな口を空けているのが見えた。
目指す旧隧道も、あの並びにあるはずだ。ここからではまだ見えないが。…ドキドキしてきた。



これは集落内に掲示されていた手作りの案内図だが、東西に延びる県道が、東西とも集落を出るなり即トンネルとして表現されているのが印象的だ。

住民の印象としても、トンネルに挟まれた集落というのが強いのだろうか。
個人的には、佐久側の隧道がとても短いため、あまり土地に閉塞感のようなものは感じないが、今ほど県道が整備される前は、違った印象だったかも知れない。

なお、案内図の左下に「1979.9.16」という数字が書かれていたが、恐らく昭和54(1979)年に書かれたものなのだろう。
ということは、佐久側の隧道は拡幅前で、小諸側の隧道はこれより向かう旧隧道の時代である。
やはり、そうか。




土地の閉塞感についての補足だが、前述したとおり県道は集落のほぼ上端辺りを横切っているので、さらに上を眺めると、御牧ヶ原の広大な土地を頂く急な山腹が屏風のように半周を囲んでいるのであった。

もしトンネルが無かったら、集落の外へ出るためには、この山を上り下りする必要があるかもしれない。或いは、千曲川を渡るかだ。




宮沢トンネルの手前に、妙に上手いイラストの書かれた宮沢バス停があった。
小諸駅方面との間に1日4便の運転がなされているようだが、土日祝日は全運休とあり、これが唯一の公共交通機関だと思われるので、マイカーがないと結構厳しそうだ。
ちなみにここがバスの終点で、八幡方面に行く路線はない。

それはそうと、ようやく旧道の入口が見えてきたのだが、ちょっと不穏な空気を感じています。

なんか、旧隧道がありそうな辺りに、建物が、見える……。



14:25 《現在地》

「宮沢トンネル」の手前から、右へ入る細い道がある。
現道の建設によって、車が通れるぎりぎりまで狭められてしまった旧道である。 だが特に封鎖はされておらず、「通行止」を予告するようなものも見あたらなかった。

今は逆にそれが、一層の不安感を煽っているんだが…。

もしや、このパターンは……。




現道を少し離れると、旧道本来の風景になった。

そしてすぐ先には、先ほどバス停の所から見えていた建物が、あった。

旧道は、その建物に吸い込まれるように……

あぅ…。




・・・・・・。



ぬーん…



14:27 《現在地》

明治か大正由来の古隧道で、かつ地図上でも目立つ“廃隧道擬定地点”であるわりに、
出発前に軽くネットを検索した時には、あまりヒットしなかった理由が、分かった気がする。

メジャーでない理由は、 こ れ か。

旧隧道は、廃止後早々に民間へと払い下げられていたようである。
今では坑口前の一角に屋根が張られ、工場の倉庫のように使われていた。
旧道時代の路面が坑口まで続いていて、柵もないので、どこから私有地なのかは不明だ。



隧道の内部へ立ち入る術は、幸いにして完全に失われているわけではないようだ。

が、当然のようにシャッターは施錠されていて、汚れなどからみても、日常的に開け閉めしている様子はない。
そして、今日は工場の操業日ではないのか全く人気も無いので、交渉して中を見せて貰うのも、出来そうにない。
残念ながら、南口からの内部探索は、断念である。




脇に回り込んで、ようやく本来の坑門工の一部を目にする事が出来た。

これまでの2本の隧道は素掘であったが、それなりに長い(「大鑑」によれば186m)この隧道だけは、廃止時点でちゃんとしたコンクリート製の坑門を持っていたようだ。
上部には不完全ながら笠石のような意匠が見て取れ、或いは中央付近に扁額が存在した可能性もあるが、悲しい事に後補の大仰なバットレス擁壁によって、スパンドレルの大半が隠されているため、発見擦ることが出来なかった。

年季の入ったコンクリートの風合いに後ろ髪をひかれつつも、これ以上は手がかりが無い。
残り半分となった望みをかけて、反対の北口へ向かうことにしよう。




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