隧道レポート 神威岬の念仏トンネル 机上調査編

所在地 北海道積丹町
探索日 2018.04.23
公開日 2021.10.28

 探索後に残された謎。 なぜ“彼ら”は危険な海岸を歩いたか?


本編公開後、数人の読者様からいただいたコメントで、次のような疑問を呈されているものがあった。


【疑問点】
どうして、事故に遭った灯台守の家族たちは、十分危険を承知してはずの“海岸道”を通ったのか。
現在も灯台へ通じる“遊歩道”として利用されている尾根道は利用できなかったのか。


この疑問、確かにその通りだ。
毎年たくさんの観光客が訪れている神威岬灯台は、観光駐車場から20分も歩けば小さな子供であっても辿り着けるようである。
そのことを知っている人ならばなおさら、幼子を連れた3人が、わざわざ崖沿いの海岸道を通ったことに疑問を感じて不思議ではない。
そして実は私も探索中このことを考えた。
だが、時間の都合のために尾根道を歩かなかったこともあって、突っ込んでは検証しなかった。
本編の主題である念仏トンネルが建設された経緯とその現状はレポートで紹介したが、少なくない読者が疑問に感じた上記の内容は解明すべきであった。
この解明を新たな目標に据えて追加の机上調査を行ったのが、本稿である。




@
地理院地図(現在)
A
昭和51(1976)年
B
昭和32(1957)年
C
大正6(1917)年

まずは、机上調査の定番中の定番、歴代地形図に道がどのように描かれていたかのチェックをした。
@最新の地理院地図から過去へ遡っていく形で、地形図より分かる変化をピックアップしてみよう。

まずは、A昭和51(1976)年版における@との違いだが、現在利用されている尾根上の遊歩道(正式名は神威岬自然遊歩道)の起点である観光駐車場がまだない。
尾根道自体は描かれているが、狭い車道と徒歩道の組み合わせである。
また、念仏トンネルは描かれているが名前の注記はない。

続いて、B昭和32(1957)年版まで遡ると、意外なことに念仏トンネルは書かれていない。本編で散々述べている通り、このトンネルは大正7(1918)年に開通したのだが描かれていない。前後の道も描かれていないが、この時期は利用されていなかったのか?
その代わりのように、海岸道の【この辺り】から尾根道へ登る徒歩道(以後“連絡路”と称する)が存在する。

最後に、C大正6(1917)年版(当地を描いた最古の5万分の1地形図)では、建設途中であった念仏トンネルが描かれていないのは当然だが、灯台へ通じる道は、現在の尾根道と同じ位置にある徒歩道と、前述した“連絡路”の2本が描かれているだけで、念仏トンネル建設地の海岸線に道(=私が現地で最後に探索した道)は描かれていない。

上記4つの時代のどの地図にしても、“描かれていない=存在しない”とは言えないが、当時もっぱら使われていた道がどこにあったの参考になるはずだ。
そして一つだけはっきりと言えるのは、どの時期についても尾根道は存在していたということだろう。
少なくとも地形図の制作者たちは、尾根道が灯台へのメインルートのように認識していたようである。

このことからも、今回の冒頭に掲げた読者諸兄の疑問は、次のような簡潔な答え……「尾根道は当時まだなかったのだ」では解決しないことが明らかとなった。むしろ、わざわざ危険な所を通った理由の謎は深まったように思える。




地形図だけで解決できないことは分かったので、今度はローカル紙『北海道新聞』のバックナンバーを「念仏トンネル」のキーワードで調べてみたところ、有名観光地にある印象的なスポットだった「念仏トンネル」に関係する記事は、検索可能な最近のものだけでも結構な件数を見つけることが出来た。
「これは」と思った新情報をいくつかピックアップしてみよう。
以下、記事の引用については、注目すべき新情報の部分を下線で強調した。

平成21(2009)年7月14日の記事 「<しりべし旅日記>86*神威岬灯台・積丹町*日本海を見渡す絶景」 より

小樽から車を走らせて2時間弱。快晴に恵まれ、広い駐車場もなかなかのにぎわいをみせていた。
(中略)
尾根沿いに整備された遊歩道で、その日、圧倒的な存在感を放っていたのはツアーバスのガイドに先導されたおばさんたちだった。休憩時間が限られているためか、実にパワフルな歩きをみせていた。 さて、灯台までは徒歩で20〜30分。アップダウンがあり、かなり疲れるが、時折、吹き抜ける風が汗を吹き飛ばしてくれる。
(中略)
かつて岬には気象観測も含めて周囲に多いときで5世帯が住んでいたという。その灯台は1960年から無人化された。
寺山さん(小樽海上保安部交通課)は「灯台が故障して夜中に20キロもの機材を担いで駆けつけたこともあったなあ」。川越さん(同)も「冬に遊歩道が使えず、灯台の点検に、下の念仏トンネル(現在は通行禁止)を通って来たこともあった」と振り返る。それぞれに神威岬灯台をめぐる自分の物語を持っているようだ。
(中略)
神威岬では、1912年、灯台長夫人と3歳の幼児を連れた職員の妻の3人が余別地区まで買い出しに出かける途中、波にのまれて亡くなった。当時、岬からマチに出るには海岸沿いか冬は閉ざされてしまう山道しかなかった。この7年後、念仏トンネルが人々の手で掘られた。

『北海道新聞』の記事より

この記事には、かつての尾根道と海岸道の利用に関する重要な内容がある。
事故があった大正元年当時、「岬からマチに出るには海岸沿いか冬は閉ざされてしまう山道しかなかった」というのである。
おそらく山道というのは尾根道のことであろう。

事故に遭った3人は、冬期間は尾根道が通れなかったから海岸道を通った。
そのように読み取れる内容だ。しかしこの記事には、なぜ冬期間は尾根道が通れなかったかが書かれていない(雪とか吹雪とかなんとなく予想は付くが…)し、そもそも事故が起きた大正元年10月29日が果たして“冬期間”なのかという疑問もある。これについては、もしかしたら旧暦10月29日だった(新暦なら12月2日になる)のではないかという仮説も考えたが、そもそも3人は天長節のお祝いを買うために出掛けて事故に遭ったのであり、当時の天長節の祝日は新暦の10月31日(と8月31日)であったことから、10月29日は普通に新暦だろう)

まだ疑問は残っているが、尾根道と海岸道の両方が灯台へ通じる道として長らく人々に利用されてきたことが分かる記事だった。
次の記事も同じ平成21(2009)年のもので、神威岬灯台を管轄する小樽海上保安部が、同灯台の運営に多大な功績があった地元住民2名を初の「名誉灯台長」に任命したことを伝えている。


平成21(2009)年6月11日の記事 「道内初 名誉灯台長に積丹の2人*断崖の生活支え いま光*」 より

(積丹町の漁業成田熊太郎さんと元郵便局員小沢清一さんが、)日本海の荒波が押し寄せる断崖絶壁に立つ神威岬灯台にかつて職員と家族が暮らしていた時代、生活物資を届けたり地域交流を深めるな ど物心両面で支えた功績が認められた。
神威岬灯台は、年間30万人超が訪れる神威岬の先端にある。1888(明治21)年8月、道内5番目の灯台として開設され、1960年9月に無人化されるまで、職員と家族が暮らしていた。旧余別村の市街地から約4キロ。 国道229号に接続する観光道路ができるまでは、海岸線を歩いて急な山道を登らなければ、灯台と職員住宅にたどりつけなかった。大正時代には、買い物に出かけた灯台長の家族ら3人が大波に襲われて亡くなる事故が発生。その後、住民ががけに手掘りの「念仏トンネル」を完成させた。
今も磯舟でウニやアワビを採る成田さんは、沖合の船から生活物資を小舟に積み替え、水の入ったおけやまきを背負って山道を登った。「20代だったから、つ らいと思ったことはなかった。職員の家族を新婚のわが家に招いて食事をしたり、五右衛門風呂に入ってもらったことも数え切れない」と懐かしむ。
53年に郵便局員になった小沢さんは灯台まで郵便物を配達した。夏の嵐も冬の吹雪の日も、新聞と一緒に届けた。「待ちに待った便りを手にした職員の笑顔は今でも忘れられない」。職員のたまの休みには余別で一緒に卓球を楽しんだ。

『北海道新聞』の記事より

この記事に尾根道は登場せず、もっぱら海岸道が利用されていたと採れる内容になっている。
また、これも一部の読者がコメントで疑問を呈していたことなのだが、灯台への物資輸送方法についても情報が出ている。
すなわち、生活物資、水の入った桶、薪などは小舟で灯台の近くまで運び、そこから人が背負って急な山道を運んだものらしい。
このときの陸揚場は、念仏トンネルよりもっと灯台に近いところ(【この写真】の奥辺りの浜)であったと想像する。

次は、尾根道の過去の状況について言及した記事だ。


平成10(1998)年11月12日の記事 「北を照らして−北海道の灯台(下)*絶壁、強風、けもの道 命かけ守る人がいた」 より

小樽から車で1時間半、積丹町が整備した神威岬駐車場に着いた。灯台はそこから、遊歩道を30分余り歩いた先にある。断がいにはさまれた道を行く。吸い込まれそうな群青色の海と、吹き付ける風に肝が冷えた。 小樽航路標識事務所の山本政明所長は「今だから、遊歩道と言われるほど整備されたが、灯台守がいたころはけもの道だった。海岸沿いの道の方が坂もなく、集落に近いため、灯台守の奥さんたちはそこを通って、買い物に行ったといいます」と教えてくれた。

『北海道新聞』の記事より

現在遊歩道になっている尾根道は、ここに描写されているとおり、断崖に挟まれた道である。
右のストリートビューの画像からも、痩せ尾根を通る遊歩道の様子が分かる。突端に見えるのが灯台だ。
岬の三方は北の絶海であり、どれほど強烈な風に晒される場所であるかは、同じ日本海沿いの住民として私にとっても想像に難くない。
もしこの遊歩道に手摺りがなく、舗装もされていなかったら……、さぞ恐ろしい道であったろう。
その恐ろしさは、波に攫われかねない海岸道にも少なからずあっただろうが、「海岸沿いの道の方が坂もなく、集落に近いため、灯台守の奥さんたちはそこを通って、買い物に行ったといいます」という証言が、我々の疑問の答えなのだと思う。

おそらく、灯台が開設され灯台守の往来が始まった当初から、尾根道と海岸道(それらを折衷した連絡路も)が存在した。
どちらも容易い道ではなかったから、季節や天候、そして急ぎであるかどうかなど、さまざまな状況を考慮して、通行人が道を選んでいた。
海岸道は、尾根道に比べてアップダウンが少ないことで、奥方など足弱の人に選ばれやすい理由があった。

……このような事情が見えてきた。

次が紹介する最後の新聞記事だ。
遊歩道の名物であった念仏トンネルが封鎖された時期や事情が分かる記事である。


平成5(1993)年11月3日の記事 「国道229号全線開通控え*積丹海岸の観光整備事情*「快適、きれい」目指す*一方で手軽さに不満も」 より

積丹町は、平成8年度に予定される国道229号全線開通による観光客の増加をにらんで、昭和63年から、神威岬、積丹岬など海岸線の観光スポットの整備事業を進めている。駐車場や遊歩道を整備、水洗トイレも建設して「快適できれいな観光地」を目指している。しかし、現地を歩き「整備が進んで、景勝地を間近に見られなくなった」との声も聞いた。
神威岬駐車場は、国道229号から二車線のアクセス道路に入り、岬方面 に約1.2キロ行った台地にある。アクセス道路とともに、平成4年12月に新設された。(中略)町は今年7月から、神威岬の現駐車場から南側に少し下った所で、第二駐車場の建設工事に着手。また来年度からは、現駐車場の東隣に約2億1千万円かけてレストハウスを建設し、岬の観光案内や地元特産品の販売などを行う計画だ。
駐車場の整備により、岬への旅はずっと楽になった。かつては余別地区から険しい遊歩道を経由して片道1時間かかっていたのが、現在は5分あれば車で駐車場に到着できる。さらに探勝路整備後は、約20分歩くと灯台にたどり着ける。
町が整備事業を急いだ背景には、229号全線開通により、観光客の大幅増が見込めることがある。
(中略)
しかし「駐車場整備で、風光明美な岬の姿に接することができなくなった」と、平成元年5月に閉鎖された旧遊歩道が利用されていたころを懐かしむ声もある。 遊歩道の入り口で食堂「うしお」を経営する栗栖賢美さん(62)は「念仏トンネルを過ぎると、水無しの立岩が目の前にぱっと現れて、旅行者を感動させていた。旧遊歩道は落石の危険があったとはいえ、海岸の絶景を眺めるには最高の道だった。岬をよく知る旅行者たちは、整備が進むたびにつまらなくなったと言っている」と話す。
もちろん、駐車場の建設で足腰の弱いお年寄りや子供が、以前より楽に岬に行けるというメリットはある。
だれでも手軽に行ける旅と、困難を乗り越えて景勝地を見る喜びを味わえる旅。これをどう両立させたらいいのか。難しい問題だが、一連の整備事業にこうした視点を盛り込めないものか、と感じた。

『北海道新聞』の記事より

昭和60(1985)年当時の念仏トンネルと神威岬 (撮影/BPS氏)

念仏トンネルがあった海岸沿いの遊歩道は、平成元(1989)年5月に落石の危険などを理由に封鎖されていた。
積丹町は昭和63年から国道229号の全線開通による観光客増加を見込んだ神威岬の観光整備を進めており、その一環だった。
海岸遊歩道を封鎖して、代わりに国道と駐車場を結ぶ観光道路を整備し(平成4年開通)、駐車場から灯台までの従来よりあった尾根道を再整備した。

「うしお」のマスターが語っている内容は、当時の多くの観光客の気持ちそのものであったと思う。
そして、私が現代の日本の観光事情に対して感じていることでもある。
記者も書いているとおり、観光と安全の両立は本当に難しい問題だ。

右の2枚の写真は、私の自転車を何代にもわたって整備し続けてくれている埼玉県入間市の自転車店バイクピットサイトウの店主BPS @bpsbicycle氏)が、昭和60(1985)年に撮影された、念仏トンネルと尾根上の遊歩道の風景だ。

このときトンネルは廃止間際ということになるが、現在も残っている【看板台】には既に看板が架かっておらず、廃止はされていなかったとしても、整備は行き届いていなかったように見える。
当時既に海岸道の荒廃が始まっていたのではないだろうか。

地元にお詳しいhide。@hide_supremacy)氏によると、「遊歩道は食堂の横からトンネルまで、車1台分くらいの幅で整備されたらしいですが、冬の時化であっさり流されたと聞いたことがあります」とのことで、海岸遊歩道は冬の高波で荒廃に帰したものらしい。
本編では紹介を省略したが、私がトンネルから草内に戻るときにも、【遊歩道のコンクリート路盤の残骸】を見ている。
やはり高波で一度浮き上がって破壊されたような姿をしており、高波による荒廃は間違いないとみられる。




新聞記事から平成に入る頃までの事情を確かめることが出来た。
また、疑問点だった「事故に遭った灯台守たちがなぜ海岸道を歩いたか」についても、当時は尾根道が今のようには整備されておらず海岸道を選ぶメリットもあったという事情が見えてきた。

今度は平成以前の念仏トンネルおよび海岸道の状況について、文献にあたってみた。



『最新旅行案内 北海道 (第二版)』より

念仏トンネル
神威岬へ出るにはここをくぐらねばならない。断崖の連なる海岸を渡っていた婦人が波にさらわれたことから、このトンネルをほることになったという。トンネルのやみを抜けると前方にぱっと神威岬の雄姿がひらける。眼下には、水無しの立岩など奇岩が立ち、付近は磯釣りの好適地である。

『最新旅行案内 北海道 (第二版)』より

上記文章と右の写真は、かつて日本交通公社(JTB)が発行していた人気の観光ガイドブック『最新旅行案内 北海道』のうち、昭和43(1968)年に発行された第二版に掲載されていた内容だ。

BPS氏が通行した当時からさらに15年ほど昔だが、巻頭グラビアに写真付きで掲載されている程だから、人気の観光地であったことが分かる。
写真にも3人の観光客が写っていて賑やかそうだ。
しかし、真っ暗なトンネルの路面や外の道が舗装されている様子はなく、サンダルやハイヒールでOKというような気軽な遊歩道の雰囲気ではない。
また、当時の尾根道は観光コースとして使われていなかったのか、このガイドブックでは、海岸の念仏トンネルだけが神威岬への道であると書かれているのも気になるところである。

なお、この当時は積丹半島の海岸沿いを巡る道路は、神威岬から少し南へ行った所から先が完成しておらず、ここは袋小路の行き止まりであった。
これは観光地として不利な交通条件であったが、そのことが逆にプレミアムな印象に繋がっていた感は少なからずあったろう。
当時の観光ガイドには、神威岬の一帯を陸果つる所という強烈な印象で語っているものが多い。
そんなところにある「念仏トンネル」というおどろおどろしい名は、旅人の好奇を著しく刺激したであろう。



『積丹町史』より

最後に紹介する文献は、昭和60(1985)年に積丹町が発行した『積丹町史』だ。

画像は同書に掲載されていた、昭和44(1969)年11月2日に撮影された神威岬遊歩道の念仏トンネル前である。現在は半壊している坑口前の【スロープ】が完全な形で残っており、時化によって荒廃する以前の光景なのだろう。また、今回撮影した【この写真】がほぼ同一アングルである。上記のスロープ以外の様子は、当時も今もほとんど違いを感じない。


『積丹町史』には、前述の写真の他にも有用な情報が多く掲載されていたので紹介しよう。
まずは、念仏トンネルを潜り抜けた先に待ち受けていて、かつて無数の観光客に自然の神秘を垣間見せた「水無の立岩」(←)の“謂われ”について、新情報。

神威岬の神槍場かむいおぷかるし
神威岬の灯台のあたりに現在「水無」とよばれるところがある。ここは、昔カムイオプカルシといったところで、アイヌの文化の神オイナカムイが、人間の世界に作物のつくり方や、漁の仕方などをいろいろと教え、文化の道をひらいてきた。ここで初めてオプ(槍)をカル(作る)して、その槍をもって山野において、くまや鹿をとり、また海や川で魚類などを突いてとることを教えたところであるといわれている。

『積丹町史』より

私が“立っているモアイ像”と評したこの槍は、先住のアイヌの人々によって、神が人に文化を教えた聖地であると見做されていたらしい。それほどの神秘と神聖の印象を目撃者に与える地物なのである。
これほどのものが、安全確保のために観光コースから外れたことを嘆く人がいたのも当然だろう。

さて、続いては町史における念仏トンネルの記述だが、これがわざわざ一節を割いての大作となっている。

念仏トンネル
……明治21(1888)年8月25日、本道で第2番目の鉄作り石油灯の神威岬灯台を設置した。(中略)職員や家族も住んでいた。一番近い余別まで約4kmにして、岩肌を縫って歩いたが(中略)、両岸絶壁のけわしく灯台に通ずる道を“らくだの背”といっている。写真でみると美しい道路になっているが、戦時中軍隊が駐屯してずいぶん苦労して設けたものだが、戦後木材が腐朽して危険な道となった。 (つづく)

『積丹町史』より

下線部は、いわゆる尾根道(→)の整備について述べている。
尾根道は、“らくだの背”と呼ばれた痩せ尾根の難所であり、戦時中に軍隊が道を苦労して整備したそうだ(神威岬には戦時中に海軍が駐屯し電波探知塔などの施設を運用していた)。
したがって、戦前には現在あるよりも遙かに険しい道しかなかった。それが、“けもの道”と評されるものだったのだろう。
また、戦後もすぐに尾根道が遊歩道として再整備されたわけではなく、しばらくは木材が腐朽して危険な状況だったようだ。これが先ほど掲載した昭和40年代のガイドブックに尾根道が紹介されていなかった理由かも知れない。

灯台から村へ通ずる“らくだの背”のような道よりも、海岸の道のないところ、岩石の上をうさぎのようにとんだり、はねたりしながらようやく通ったが、一瞬たりとも油断ができない。殊に風の強い時、雨の降ったあとなどは、断崖から石が絶え間なく落ちるので、精神的にも疲労が多く、運わるく怪我することもある。 (つづく)

『積丹町史』より

今度は、遊歩道として整備される以前の海岸道の状況を述べている。
「道がないところ」とまで書かれいて、確かに集落へは近くアップダウンは少なかったのかも知れないが、風雨の際には特に落石の危険が大きく、無事を天に念じて通るような状況だったようだ。


灯台への登り口一帯の海岸は“水無”といわれるほど湧水や溜り水がなく、飲料水はほんとうに大切であって、雑用には用水や融雪水を極力利用したが、飲料水は余別川の河水を利用した。早朝余別橋から下流ののせせらぎのところで、二斗樽へひしゃくで汲み入れ手漕ぎ船で灯台下まで輸送し、そこから200mの傾斜の急な坂道を1個ずつ背負ってはこんだものだから、灯台における水は貴重なものであった。 (つづく)

『積丹町史』より

先ほど紹介した新聞記事にも出ていたが、灯台では水がとにかく貴重品であった。わざわざ4kmも離れた余別川から汲んで樽に入れ、小舟で水無の海岸まで運んでから、それを人の背で灯台まで持ち上げて使っていたという。しかし、この小舟での輸送は当然海の状況次第だったろうから、大風が続けば渇することもあったと思う。これは数家族が寄り添って暮らしていた灯台において最大の問題点だったのかもしれない。

続いて記述は念仏トンネル建設の話に移る。

大正元(1912)年10月29日午前8時半ごろ、神威岬灯台の台長の妻と、次長の妻とその二男(3歳)が、天長節のお祝いの品物やその他の物を購入するため、余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近において荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死した。
ワクシリ岬は、上は岩壁が屏風のようにして、下は波打ぎわになっている難所で、なぎや干潮の時にはわたることができるが、その他の場合は容易に越えることができないほど困難なところである。

『積丹町史』より

不幸にも事故に遭った3人は、小舟を使わずに陸路で余別集落を目指している。
荒波に足をさらわれ海へ落ちたという状況から見ても、船は使えない海況だったのだろう。
しかし、3人も亡くなっているというのは、もの凄い高波が一挙に3人を海へ引きずり込んだのか、或いは、最初に落ちた人を助けようとしたものか……。傷ましい限りである。

ここでの新情報は、事故が発生した現場、すなわち念仏トンネルが掘られた小さな岬の名前が判明したことだ。
そこは、ワクシリ岬と呼ばれていたらしい。
現地の状況(←)と、文中の描写がよく合致していて、同じ場所であることが察せられる。




だが、この「ワクシリ岬」という名前には、少なくない人々を悩ませてきた前歴がある。
右図を見ていただきたいが、念仏トンネルがある場所の東方1.2kmほどの地点に、シリ岬があるためだ。

このワリシリ岬も灯台から余別へ向かう道に立ちはだかっている難所であり、しかもワクシリ岬と違い地形図にその名が記されているために、本当の事故現場はワリシリ岬だったのではないかという異説を惹起してきた。
(これはワリシリ岬とワクシリ岬は本来同じ場所を指していて、「ク」と「リ」が形が似ているために、どこかで誤って伝わったのだという疑いに立脚した説である)

私としては、ワリシリ岬とワクシリ岬は別々に存在したのだと考えているが、確かにこれほど近くに“音”の似通った地名があれば不便だし、混同されて語られた場面もあったろうと思う。
これらが別の地名であったことを確定させるために、アイヌ語にある地名の由来を調べてみたところ、「ワリシリ」は、「ウェンシリ・ワシリ(水際の断崖、海岸の波が荒く走って通るところ)」の訛りではないかという説があり、私もそう思う。
一方、「ワクシリ」には有力な説がないようだが、もともとのアイヌ語の地名命名は地形を表現したシンプルなものであったことから、どちらも起源は同じ「ウェンシリ・ワシリ」であって、それが少し違った地名として伝わっただけなのかも知れない。

地名の疑問を解くために、江戸時代に編まれた松浦武四郎の『蝦夷日誌』(復刻)も読んでみた。
彼が海路で灯台から余別に至るまでの描写を抜粋すれば次の通りである。
この岬を廻り運上屋を見る。オシムチシ、過てカムイヲフカルシ神の槍を作るとの義。シユマチセ、過てクチヤナイ、マサ泊より此処へ山越有。ニウシナイ木立有義なり。チヤシコチ。岬を廻りレホナイ」。
カムイオフカルシは水無の立岩で、クチヤナイは草内、レホナイは余別の旧名である。
したがって、ワクシリ岬もワリシリ岬も地名は出ていない。それぞれ、シユマチセ、チヤシコチと呼ばれている場所が該当するようだ。
幕末においては、これらの岬は別々の名前で呼ばれていたのかもしれない。


……すこし話が脱線したが、町史の記述の紹介を続ける。
最後はいよいよ念仏トンネル建設の場面である。

このような海難事故を再びくり返されないようにするため、大正3(1914)年トンネルをつくることを計画し、同7(1918)年11月8日ようやく開通したが、工事作業中、開削技術が未熟のためか、あるいは、測量計画に誤算があったのか、東側と西側の両方から同時に開削作業をはじめたものの、中央において貫通線からはずれてくいちがいを生じ、内部は真っ暗になってしまい、工事は一時とんざしたが、死人の供養をふくめ、双方念仏をとなえながら、鐘をならしてその方向を定めてようやく開通することができた。この60mのトンネルは割合低く、中がまっくらであるので、念仏をとなえながら通ると安全であるといい伝えられている。

『積丹町史』より

基本的には『北海道道路史』に書かれている内容と変らないが、トンネルが計画されたのが大正3(1914)年であったというのは新情報だ。
計画から完成まで4年を要していることになる。

以上が、町史における念仏トンネル建設の経緯であり、これまで解説した内容を持って、今回の冒頭に掲げた読者諸兄の疑問点は氷解したと思う。
事故が起きた当時は、獣道に近いような尾根道と、崖沿いを石伝いに跳ねて進むような海岸道と、海路とがあった。
その日は、風が強く、波も高く、尾根道と海路は選びがたかった。
そこで已むなく海岸道に命を託したのだったろう。
どの道を選んでも危険しかない、そんな救いようのない状況を改善すべく、最初に手を加えられたのが念仏トンネルの建設で、尾根道の整備は戦時中に軍隊の手で行われたものだった。


自然の無情と思える厳しさが強調された念仏トンネルの話だったが、最後くらいは微笑ましい物語を紹介して終えよう。
これも町史に掲載されていたものだが、昭和14(1939)年8月1日、地元にある美国小学校高等科2年生(現在の中学2〜3年生に相当)の児童50余名が余別村へ1泊2日の修学旅行を行った際に、参加児童の一人である福井二三男氏がしたためた作文より、念仏トンネルを訪れた部分である。
これは私が現在知る限り、最も古い念仏トンネルのレポートである。


『積丹町史』より

午後二時頃、今度はいよいよめざす灯台だとはりきって足をはやめた。左手はびょうぶのような断がい絶壁が続いている直下は、岩石の乱立している小路にして、右手はざぶんざぶんと白波がよせては返している。こんな危険な場所でも元気よくあるいたが、中には岩をとび越えていった者もいた。

伝説でしられている念仏トンネルが見えた。「なんでもあのトンネルの測量をまちがったために途中でくいちがっており、中は真昼でも真っ暗やみだということだ。」といっている女の人の声を聞き流しながら、背を伸ばすと、なるほど見える。その念仏トンネルが。

いよいよトンネルに入った。五六歩進むともう何が何やらわからなくなった。そこで前にいた女の人の服の端をつかんで「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と念仏を唱えながら、つまづかないようにそろそろと歩いた。だがついにまん中へんにきたと思ったとたんぼくは「ごつん」と岩らしい物に頭をぶっけてしまった。「いたい」と言えばみんながどっと笑うにきまっているので、口先まででたが悲鳴をやっとの思いでこらえて歩き続けたが、トンネルを出るまでに30分もかかったような気がした。

トンネルを出るとからっとした絶景が展開された。悠然と立っている水無の立岩は積丹の珠玉といわれつきない魅力があり、神威岬灯台下の海上に神威岩とメノコ岩が浮き出てこれと相対し、また絶壁の岩はだの景勝は雄大なパノラマである。

『積丹町史』より

本文はこのあと、灯台へ登り、山田灯台長の説明を聞き、それから岬の先端で風景を楽しんだことが感動たっぷりに語られている。
そして、「このはつらつたる意気をもって心をみがき、身体をきたえ、社会に役立つような立派な人になることを堅く心に誓った」という文章で結ばれている。
これが日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大していった年の夏、まだ和やかだった積丹の思い出である。




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