2013/5/29 13:32
旧野崎隧道の西口へ戻ってきた。
この隧道の名前やスペックは現地に表示が無いが、お馴染みの『道路トンネル大鑑』にはしっかり掲載されており、その内容は以下の通りである。
野崎隧道
路線名:一般県道両津赤泊小木線 全長:134.0m 幅員:2.6m 高さ:3.5m 竣工:昭和5年
小断面の隧道を見慣れてしまっていた(特に佐渡では珍しくなかった)為にこれまで書かなかったが、改めてスペックを見ると幅の狭さが際立っている。
まさに箱形バスの車両限界プラス歩行者すれ違いのギリギリというくらいの断面しか無く、これが昭和5年の開削当初の断面であるかは分からないが(もっと狭かった可能性も)、平成2年の時点まで使われていたというのは、改めて驚かされる。
四角い断面なので、そこに四角い箱バスが入れば、いよいよ圧迫感はもの凄かったと想像する。隧道内の空気をピストンするように走っていたはずだ。
また、134mという長さも、断面の小ささを考えれば結構な長さであり、地図上では大して大きな出っぱりではない野崎鼻に対して、「私は付き合いませんよ」と、最初から冷たくあしらう事が可能な長さであった。
そしてその意味と理由は、このあとで思い知る。
13:37 《現在地》
濡れ激藪(ただし短い)をもう一度味わいつつ、乗り捨てた自転車を回収して、新旧道の東口分岐地点に戻ってきた。
今度は現道の野崎トンネル(平成2年完成、全長214m、幅8.5m、高さ4.7m)を経由して西口へ向かう。
なお、野崎トンネルの両側の坑口には、どちらも旧羽茂町の特産品である「おけさ柿」がペイントされていた。
この手の坑門装飾には冷ややかな態度を持っている私は、雨に濡れた柿の絵を特においしそうとも思わず、スルーした。(実物の柿は大好きである←その情報が必要か?)
13:39 《現在地》
旧野崎隧道も野崎鼻のでっぱりの大部分を“無視”しているが、その1.5倍の長さを持つ野崎トンネルでは、完全に岬の基部を貫いていて、歯牙にもかけていない感じがアリアリだ。
常々思うことだが、こういう地形無視のトンネルが増えるから、日本の車窓はますます貧弱になり、観光地ばかりが混み合うのである。
などと、この時にもそんな身勝手な愚痴を偉そうに垂れていた(うざいことに、動画まで残っている。もちろんうざいので未公開である…苦笑)。
ともかく、西口へやって来た。
しかし大字レベルの地名には変化が無く、相変わらず佐渡市羽茂三瀬である。
そしてこの風景を説明するまでもなく、左に見えるのが野崎トンネルで、その右のバンが止まっている先にあるのが、旧野崎隧道である。
塞がれているのは分かっているし、うっかりすればここで一瞥して引き返しかねなかったが、やはり礼儀として、塞がれていても坑門は近くで確認しなければな。
二重の完全閉鎖に、交通路としてはおろか、倉庫としての余生さえ否定されてしまっている西口の哀れさよ。
先ほど隧道内から見た通り、坑口は木造の全面バリケードによって封鎖され、小さな通用口の扉も施錠されているようでびくりとも動かなかった。
だが、こちら側に来て新たに分かったのが、この木造バリケードのさらに外側に、落石防止ネットが堅いヴェールを下ろしていたことである。
たかがネットと言えども、はっきり言って人間一人の力ではこれを捲って下を潜ることはほとんど不可能。
脇にも隙間がないので、仮に通用口に施錠がされていなくても、やはり行き来することは出来ないのだった。
…これが、黙殺ということか。
内部は崩れもせず未だ貫通している旧野崎隧道だったが、人為的な封鎖が執拗に厳重であり、まるで「ない」扱いをされているのが悲しかった。
そして、この坑口前へとやって来た成果は、
二重の封鎖を知る事だけに留まらなかった。
右を見よ。↓
旧旧道が「おいでおいで」してる!
遠目だと、ちょうど目線の高さの防波堤が邪魔をして見えにくくなっていたのだが、
これが巌に刻まれた生活の記憶、世紀を越えて残り続ける古き道形であろうことは、
ひと目見た瞬間に、ズガーンとキタ!ので間違いない。 良い「オーラ」を発している。
ガッチガチの片洞門が、
いきなりのお出迎え!!
これまでもありそうで、しかし意外に記憶にないのが、海岸線の片洞門という風景である。
特に明治道っぽい幅員の片洞門は山中の十八番のような感じで、海辺ではそう見ない。
これは単純に、明治道としてはそういう難場は避けるのが最良だったからなのだろうが、
険しい海岸線に囲まれている佐渡では、海際を通る事をまるっきり避ける事も出来ず、
比較的早い時期からこういう車道が作られたのではないかと、考えたりした。(確証はない)
片洞門の張り出しっぷりは本格派だったが、長さはほんの僅かで、庇のようでしかない。
しかしそこを抜けた先がまた、たまらなく美しかった。
海しか見えないのである。
いや、正確には道や崖も、そして可憐な野花も見えているのだが、視界に入ってくるのは遮るもののない地球儀のような海。
雨に波濤を抑えられた静かな海。
この向こうに本州が横たわっていることをも忘れさせる、一面の海原であった。
そしてもちろん言うまでもないが、この景色が“道から見える”ことに意味があった。
旧道とは明らかに、作られ、使われた時代が違うことを感じさせる旧旧道の姿である。
路肩にガードレールや防護柵などという優しさはなく、直に入り江へ落ち込んでいた。
万一落ちたら、黙って泳げと言わんばかりであった。
よいよい。 とてもよい。
波風から道を守る古いコンクリートの擁壁が、車道の名残を留めていた。
この道は分岐以降緩やかな上り坂になっており、海岸沿いを進みながらも、この先に控える野崎鼻を“越え”ようという峠越えの意識のようなものを感じさせた。
そのために海岸線との高低差も進むほどに増え、断崖絶壁を行く気配が一層濃くなってきたのである。
周りを見れば草木も極めて貧弱で、背景の海が無ければ、どこかの高山を思わせる風景だ。
そしてそれも無理はない。
この立地では、海を渡る暴風を最初に受けるのが、この道なのである。
今日は雨はあっても風は弱いのが幸いで、もし暴風だったら、この道は廃でも現役でも、辿れないと思う。
海上の風景。
佐渡海峡(個人的には旧称である「越佐海峡」と言う方が好きだ)の向こうに陸地(本州)は見えなかったが、岸辺に沿って見通すと、霞むほど遠くに港町らしき白い一角が見えた。
おそらくあれは佐渡島第二の港、小木(おぎ)であろう。
国道350号の佐渡における起点が両津だが、終点は小木港にある。小木からも本州へ向かうフェリーが出ていて、直江津へ通じているという。
ここから小木までの海岸線だって、下手な島なら全長くらいの距離があるように見えたが、巨島佐渡にとっては、ほんの切れ端に過ぎないのであった。
そして古い旅人もまたこの眺めに小木への旅路の残りを測り、或いはさらにその先へと思いを馳せたに違いなかった。
この冗長さが、情緒なんだよな。
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さて、道はいよいよ野崎鼻の突端にさしかかり…
13:43 《現在地》
前にも後ろにも、旧道や現道が見えない場所に。
代わりに潮騒が前後から聞こえるようになる。
すぐ先に見えるのは、掘り割りか。
自然な感じで道が抜けているので少し勘付きにくかったが、道の左右の岩場を対比してみれば、それが掘り割りによって二つに分けられた一連の地形であったことが分かる。
この次の浅い掘り割りは、野崎鼻の峠とも呼べるものであった。
そして、掘り割りの内部へ足を進めた私を、さらなる驚きが待ち受けていた。
それは今まで見た事のない掘り割りであった。
土や草がほとんど無い、岩だけの掘り割り風景。
今までどこかで目にしてきた沢山の掘り割りと、この掘り割りの一番の違いは、海や暴風に地味が洗われる事で作り出された、特異な無植生景観の中にあった。
こんな不毛な土地に、まるでトンネルを掘るかのように岩場を削り取った(あたかも天井のないトンネルのようだと思った)車道が通じていた。
路面を見れば恐ろしくゴツゴツしているが、掘り割りの全体としては車道らしい平坦さを維持している事が、単なる磯場の徒歩道とは一線を画していた。
もちろん、道が通じていた時代は、この路面に土が敷かれていたであろう。
そうでなければ車輪が軋んで傷み、まともに通行出来そうにない。
それに、これまでに輪をかけて狭いこの道幅では、車といっても人力車や荷車くらいしか通れそうにはなく、四輪自動車は旧野崎隧道の完成までは通らなかったものと思う。
旧野崎隧道の初開通が昭和5年であれば、これは十分に明治生まれの車道を想定しうる状況であった。
私はこれに大いに興奮!!
野崎鼻突端の掘り割りは一つだけでなく、さらに規模の大きな第二のそれが出現した!
最初の掘り割りと第二の掘り割りの間は、やはり岩ばかりの凹地となり路盤は途切れていたが、かつては土で埋めていたのだろう。
凹地の海側(左図中@の地点)には、前後の路盤の高さを限度とする石垣の跡が残されており(→)、これで路盤の流出を抑えていたと思われるが、長年の波浪の影響だろうか(海面から8m前後は高いので、ここまで波が押し寄せることは俄に信じがたいが、そうとしか考えられない)路盤は完全に流出して石垣だけが取り残されていた。
だが、これは隧道が完成するまで、人々が相当に苦辛して荒磯に車道を通じていた事を充分に感じさせる遺構であった。
また、凹地の中央部(左図中Aの地点)には、透明感のある白い鉱物の層が露出していた。
おそらくは石英であろう。
こちらは道路とは直接関係は無いが、鉱山でもない地表の露頭でこれだけの石英層を目にするのは珍しく、大きな印象を私に与えた。
地質のことはよく分からないが、付近の柱状節理とも関係するのだろうか。
荒涼たる掘り割り パートII
凹地を横断して辿りついた第二の掘り割りは、視界にただ一片の草葉も入り込まない、岩と海(そして潮騒)だけに構成された、絶望的荒蕪感を持った道跡だった。
この場所を人が行き交う姿を想像するのは少し難しいが、頑丈そうな石垣などが垣間見られるところから考えて、充分に活躍した道であったのだろう。
そして、道はこの二つの掘り割りを標高の頂点(野崎峠)として、赤泊側への下り道となるのであるが、
この先が、また凄まじい景観であった。
ここは、動画でもご覧頂くことにしよう。
月並みな表現だが、それ以外の言いようもなく、
道が無ぇ!
道無也!
絶壁には断続的に、道の痕跡らしきものがあったが、
その全てが孤立していて、近付きようもなかった。
ここにあったのは、どんな道だったのだろうか。
連続した桟橋? それとも擁壁に固められた陸路?
あまりの荒廃に、往時の姿を想像することが出来なかった。
(←)
道は第二の掘り割りの端で即座に切断され、しばらく中空を彷徨った後に、絶壁中腹に至っていた。
この間は当然歩行のしようもないので、やむなく掘り割りから海岸線に下りて進むことにした。
しかし、その7〜8mの比高は険しく、岩場は手掛かりこそ豊富であったが滑りやすくもあり、徒手空拳による下降には危険を感じた。
その危険を押して、私は進んだ。
(→)
旧野崎隧道の東口にも露出していた柱状節理であるが、野崎鼻の赤泊側は、岩壁の全てがそれであった。
福井県の有名な観光名所“東尋坊”を彷彿とさせる景観で、違いは中腹に道を通じていたか否かである。
いやはや、
もしこの崖中の道が健在で、崖下に波が打ち寄せる時に歩けたならば、それは恐ろしくも凄まじき絶景であったろう。
訪問が数十年遅れたものか、既に叶わぬ夢であったが、名残だけでも充分に圧巻だった。
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↑遠浅かと思いきや、急に深くなる海岸線。 |
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↑磯辺は生物の宝庫。なんか採れそうでしたが… ダメ密漁! |
陸地側の柱状節理もそうだが、私が立っている海底のような磯辺も含めて、なんとも独特な感じの場所であた。
人工的に削られたように平坦な磯は、岩壁から最大で50mもあろうかという幅で広がっていたが、その先は一挙に底の見えない海底へ落ち込んでいた。
これは、いかにも海底が隆起した事を思わせるような地形であった。
帰宅後に少し調べたところ、江戸後期の1802年(享保2年)11月15日に、佐渡島小木付近を震源とする推定マグニチュード6.5〜7.0の大地震(佐渡小木地震)が記録されており、その際に小木半島の海岸で約2mの隆起が生じたと考えられているとのwikiの記事を見つけた。
小木半島と現在地は10km以内の至近であるから、この地形も地震による隆起と関係しているかも知れない。
またその場合、近代以降の海岸道路建設は、現在とほぼ同様の地形に対して行なわれた事になる。
渚伝いに進んでいくと、岩場の影に落ち武者の鎧のような構造物が見えてきた。
旧野崎隧道のロックシェッドだった。
その不気味な姿も印象深かったが、それ以上に私の目を惹いたのは…
ロックシェッドからやや旧旧道側に入った辺りの岩壁に、練石積みの擁壁が僅かに残っているのを見つけたことだった。
これにより、旧旧道が確かにこの崖際を通行していたことを確信出来たのである。
部分的には桟橋を用いたかも知れないが、今も路盤跡らしき平場が僅かに見える部分は、
皆こうした擁壁を持っていたと想像される。昭和5年の野崎隧道開通後、
誰も手を入れなくなった結果、ここまで痕跡を失ったのだろう。
野崎隧道が出来るまでの道は、こんなにヤバイ道だった!