隧道レポート 竜宮岬のトロッコトンネル 後編

所在地 福島県いわき市
探索日 2019.01.23
公開日 2019.02.03

岩間側坑口は、突然の海上に、私を飛び出させた!



2019/1/23 6:48 《現在地》

ぽこっ!再び! 崖に、ぽこっと出た!

この展開は、隧道を通り抜けるあいだいろいろ想像していた中でも、ちょっと考えていなかった。

とてもシンプルに、想定外。

確かに私は、全長300mクラスの大隧道を貫通し、岩間側の景色を目にするところまで、やってきた。

そのために払った犠牲は……、犠牲というのはあまりにも自己完結的ではあるけれど、私にとって軽からざるものだったのに。

それがここ! ここに至って、見るだけにしろと。 岩間側には、私を受け入れる用意はないと言わんばかりの風景だった!



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ここでも、全天球画像。

頭の上には、切れ込んだ地面の割れ目に、僅かばかりの空。

まさしく岩間の空だったが、こんなのでは、期待していた朝日を拝む余地はなし。

顔を下に向ければ、私に許された岩間の地面は、マジ狭かった。

目の前の海に飛び込む自由だけは、与えられているが……。



それにしても、この景色よ!
岩場が険しくて、私を拒絶するのは分かる。
むしろ、慣れっこだ。

だが、その先の穏やかな砂浜の海岸線までもが、全く私を受け入れる気がなさそうな高い防波堤によって、陸と隔絶されていることには、驚いた。
当然、そんな海岸線には人の姿は全くない。

こうして海側から未知の陸地を目指そうとする、まあこれ自体が珍しい状況ではあるわけだが、そんな場面において、この目の前の海岸線からは、過去に体験したことのないくらいの強い拒絶の意思を感じた。

もっとも、この巨大防波堤が何をきっかけに、これほど強い拒絶を始めたかは、真っ白な新しさ(最新の地理院地図にも存在が反映されていない)や、一部の土台に見える古い防波堤から、容易く想像できた。
目を和ませる海の眺めより大切なものがあると思い知った答えが、これなのだろう。
遠くにそびえる煙突のある施設……地図を見ると「常磐共同火力発電所」とある……もまた、防波堤の向こうにいくつものクレーンを立てて、大掛かりな工事の真っ最中だった。

守りを固めることを選んだ人々が奏でる高らかな復興の槌音を尻目に、見捨てられたかのような美しい浜辺が、少し寂しげに見えた。




←往くか

戻るか→

オブローダーの気持ちとしては、もちろん進みたい!
しかし、命を賭すのは本意ではない。観察が必要だ。
もしここが深い入り江であれば、飛び込むのは自殺行為だ。仮に溺れなくても、心臓が止まりかねない。

だが、よく見ると……海は深くない! 数秒ごとに波が退く瞬間があり、そのときには狭いながらも、砂浜が露出していることに気付いたのである。



左の写真は、引き波のときの海面だ。
このときには崖際の水位がほとんどゼロになって、砂浜が露出していることが見て取れるだろう。
そして肝心の波の周期は、体感だが、5秒くらいだ。

脳内で自分の動作をシミュレートする、思考実験。
目の前の砂浜に飛び降り、向こうに見える波消しブロックという安全地帯へよじ登るのに要する時間は、テキパキこなして、おそらく5秒くらい。
この状況を、どう判断すべきだろう。
もし、あなたならどーする?

もしも、波の高さが1m以上あるなら、失敗したときのリスクが高すぎるので、走り抜けはNGだと思う。
だが、この探索時は「大潮+満潮」というマリンレジャーには不向きな高潮位でありながら、波は低かった(気象台の予報で0.5m)。
そのうえ既に私は腿の下まで地下水に浸かっているのであって、ここで再び海水に50cm浸かることは、我慢できる。
それを我慢するだけで前進が許可されるのならば、むしろ選ばない手はないといえた。

結論。
飛び込みをすることにした。


といっても、「飛び込み」というのは少しばかり大袈裟な、格好を付けた表現だ。

実際は、戻ってくる可能性も考えなければならなかった。片道切符は駄目である。
もちろん、飛び降りた先の安全が確認できているならばその限りではないのだが、今回は未知だ。
仮にこの先の陸地に上陸できても、進む余地が残されていない可能性もあった。絶対的な立入禁止(例えば発電所施設とか)に海岸部一帯が覆われている可能性も、ゼロではないと考えた。
その場合は、戻ってくる余地を残しておかないとまずい。
だから、「飛び込み」をするにしても、戻ってこられるかどうかの点検をするのが先なのだ。

隧道の出口に存在する路盤の先端に可能な限り近寄って、足元の周辺の地形の観察を始めた。

遭遇の直後は、さすがに驚いてしまって冷静な観察を欠いたが、こうしてじっくり眺めてみると、不思議な光景だと思う。

隧道がここにあって、隧道を出た線路は、どこへ向かっていたのか?

たかが、工事用軌道(といわれているもの)である。
林鉄のいわゆる作業軌道よろしく、陸のないところはすべて木製桟橋で、奔放に、悠々自適に、空中を走り抜けていたのかもしれない。
またあるいは、数十年のあいだに侵食が進み、目の前の地形が大きく変わってしまっている可能性も無視できない。

いろいろな可能性が考えられると思うが、さしあたって怪しいのは、ここから3〜4m離れた右斜め前の崖に見える、隧道路盤と同じ高さのステップだ。
そこは、路盤の続きと断定できるほどの広さはないし、通常の鉄道の直線性からはかけ離れた位置だ。
しかしこれは何度も言うように、工事用軌道(といわれているもの)。あらゆる常識を排除して考える必要があるだろう。



路盤の末端から、海面(=砂浜)を覗き込む。
実は私が立っている場所は正式には路盤ではなく、坑口に降り積もった土砂の上である。この土砂が洞床を50cmくらい埋めてしまったせいで、片勾配の洞内が排水不良となり、私の膝を冷たくさせた原因となったのだ。良く締まった土砂で、ここに溝を掘ることは困難と思える。
図で緑に着色した部分は、洞床に刻まれていた排水溝だ。鑿の痕がくっきりしている。しかしこれも土砂に埋もれて用をなさなくなってしまった。

これから下りようとしている目の前の高低差は、2.5m前後はある。
浸食のためか崖は全体的に滑らかで、しかも海面付近がオーバーハングしている。
したがって通常であれば、飛び降りたら一方通行となる地形だ。とても戻って来られそうにない。

だが、私は幸運だった。
この悪い地形を助けるように、1本の倒木が、とてもいい形で崖に寄りかかっていた。
おいおいマジかよ、ラッキーすぎる。これを使えば、戻ってこられるだけでなく、より安全に下ることが出来る!



しかしこの幸運、完全な偶然ではなく、ここに架橋があったという“土地の記憶”から、超常的に影響を受けているのかも知れぬ。

そんな非科学の思いに囚われたのは、目の前で私を助けようとしているこの倒木、恐ろしくがっちりと足元の岩に固定されていたのだが、その固定に決定的な役割を果たしていた岩の窪みが、明らかに人工的なものだったからだ。

この深すぎる窪み、最近のものではないだろう。そして、ここにあって隧道とは無関係とも考えにくい。
おそらくだが、この先の路盤……想像される木製桟橋……を固定するために用意された窪みではなかったかと思う。
造りが異形なので、具体的にどういう風に桟橋が組まれていたかは分からないが……。




というわけで!

この上手い具合に用意されていた倒木を利用することで、海面着水への最後の一歩は、ここまで踏み出すことが出来る!

残りの落差は、あと1mくらいしかないので、これなら不安なく(不安はあるけど)ポンと飛び降りられる…… はず。


……でもやっぱり、ちょっと怖いんだなぁ…………。

………………。





6:51:43

いまだ! 行け!




6:51:46

おぉおおおおおぉ!

(行った、一番水位が高い状態に飛び降りて、次回の寄せ波までの余裕を多くとった)

(だから、このほかにも数枚の写真を撮影する余裕があった)



(うおぉおおおお……?)

既に濡れているだけに、冷たさはあまり感じない。

地下水よりもやはり海水の方が温かかったのか、アドレナリンのせいか。



(………あれ? たいしたことないぞ。)

着水から数秒後、波は本当に穏やかで、もはやここからの離脱をことさら急ぐ必要がなくなったことが分かった。
そして私は、始めて竜宮岬の肌越しに朝日を見ようと思ったが、地平線に横たわる雲のせいで、見えなかった。
しかし、霞がかった海面はとても幻想的で、美しかった。足元が落ち着いていたら、じっくり鑑賞したいくらいだ。



その必要は生じないと願いたいが、もし戻るならば、ここをよじ登らねばならない。
そのときは、倒木が決定的な役割を果たすはず。これがなければ、この艶めかしい岩場は上れない。

着水からたっぷり1分後、何度も波に太腿を撫で上げられる快なる浮遊感を味わいつつ、
安全地帯である波消しブロックに、そろりそろりと上陸した。
しかし、陸地への脱出ルートが確認できるまで、生還確定は保留である。

そして、隧道に背を向けて前を見ると……



6:52:46 《現在地》

アラビアンナイトのモチーフを彷彿とさせる、常磐共同火力勿来発電所の姿に、息を呑んだ。

古くから菊田浦と呼ばれ、白砂青松を知られた秀美の海岸線を占領するこの巨大施設、地域に根ざしたものであるという。
なぜなら、かつてこの地方の主要な産業として不動の地位を築いていた常磐炭田が、石炭の需要減少に苦しみ始めた昭和30年代、
大量に産出される低品位石炭を活用すべく、地元炭鉱会社と東北電力および東京電力の共同出資によって生まれた発電所だからだ。
昭和32(1957)年の発電開始から地域を支え、19年後の常磐炭田閉山を経てもなおこの地で、石炭のみに頼らない発電を続けている。

見渡す限りの海岸線には誰の姿も見えない。ただ私だけがここに潜んで、幾多の夜を越えてきた城を眺めていた。




ぽこっ。

崖の中腹に、ぽこんと口を開けている穴。
通常、こんなものは自然洞穴か古墳か思うところだが、隧道なのだ。

小浜側にも増して、本当に突拍子のない立地に存在している。
海水の上に口を開けている状況は、特にその印象を強くする。




波消しブロックの山側にある地山に上陸すると、人が手を加えた痕跡は濃厚に残っていた。

はっきりしているのは、写真の左側に写っている崖の大きな窪み。
ここには隧道内部で見られたものと同じような手掘りの削痕が多くあって、明らかに人為的な掘削による。
しかし、穴というほどの奥行きがないうえ、想定しうる路盤とも位置がずれているので、正体不明。軌道と関係ある施設だったかも知れないし、全く無関係なものかもしれない。地質調査用に掘られた隧道試掘孔だったりしたら面白いと思うが。

一応、その右に路盤の位置も想定して描いたが、隧道外には現状のままで枕木を布設できそうな広さと平坦を持つ平場は全く見当たらず、隧道を出た路盤がどこをどう走っていたかは、現状からは全く不明である。ここまで見当が付かないのも珍しい……。

右の写真は、隧道前ラスト4mほどの途絶風景。
ここには桟橋があったと思われるが、路盤と同レベルの崖面に、横木を挿していたかもしれない窪みが一つだけ残っていた。



さらに少し離れて坑口の遠景を振り返ると、既知の坑口や窪みが全てではなく、さらに竜宮岬の突端に近い海崖の壁面にも、別の穴が口を開けているのが見て取れた。

こちらは形がいびつで、むいている方向的にも自然の海蝕洞っぽいが、人手が加わっていないとは断定できない。しかし、さすがに水深が深く近づくことが出来ないので、判断は保留する。隧道ではないだろうということは書いておく。

しかしこの竜宮岬、私が思っていた以上に、穴だらけなのかもしれない。
そのうちの一つが、岬の土手っ腹を貫く、300mもの隧道なのだ。




さて、隧道探索は終った!

私は、人気のまるで感じられない岩間海岸へ抜け出した。

あとは、この陸地が私を受け入れてくれて、そこにあるはずの県道で、濡れた下半身を温められる愛車が待つ小浜のスタート地点へ移動できれば、ゴールである。
いわば終戦処理なのだが、文字通り、先が見えないから、まだ怖い。





変貌を遂げた岩間を見て、小浜へ帰る


6:56 《現在地》

激戦。
終始、人里の近くで展開した探索だったが、紛れなき激戦だった。
小浜の酷く崩壊した海崖を攀じて見つけた、海蝕洞の底に開いた異形の坑口。
一転して洞内は人造物の気配が濃厚で、鉄道隧道を確信に変えた多数の待避坑や、津波の恐怖を語る大量の漂着物、そして探索者の覚悟を計る意地悪な水没が待ち受けていた。
ついに竜宮を貫通して辿り着いた岩間坑口の衝撃に至っては、まだ思い出として振り返るほど離れていない。渦中からの脱走劇が、今も続いているのである。

では続きから。




いま私が立っている、古びていて破損の目立つ波消しブロックの団体は、これでも軌道が稼働した時代より新しいのだろう。
以前は、右に見える崖の裾野が直に砂浜と接していたはずで、軌道はこれらの隙間をどうにか通り抜けて、正面に見える広い陸地へ達していたものと思われるが、ルートを確信できるような情報も遺構もない。

現状は、変化しすぎている。
中でも、海陸を隔てる長大な防波堤の出現が軌道の跡を分断したことは想像に難くないが、今やその防波堤を土台として、さらに従来の高さを倍にするような新防波堤が出来上がっていた。

探索の導き手として最も信頼している地理院地図であるが、この場所では、描かれている地図風景と、実際の風景との乖離に、面食らいっぱなしである。
震災後に更新された現行の地理院地図は、津波による旧防波堤の消失によって生じた、まるで原始のままの砂浜をここに描いており、眼前の偉大な新造物は影も形もない。



上の写真の矢印のような進路を採って、波消しブロックの上から陸地へ上陸した。

なぜか分からないが、ここだけ新防波堤と旧防波堤が重なっておらず、両者のあいだに30m四方ほどの空白を生じていた。
この間隙空間は、周囲どのからもアクセスする道のない、存在自体を忘れられていそうな土地だった。
しかしそこは、上陸直後で周囲の状況がまだ全く掴めていない私にとって、身を隠しておける安心の土地とも感じられた。

チェンジ後の画像は、ここ(足元は旧防波堤)から振り返って撮影した隧道だ。
別の穴が目立っているが、私がくぐってきた隧道、中央より左に見える目立たない穴である。
また、ここではじめて竜宮岬の突端部分を目視した。小浜側同様に切り立った海崖が突端まで続いており、とても陸路で迂回できないから岬の付け根に隧道を掘ったということがよく分かった。



6:59 《現在地》

新防波堤は、直には登りがたい高さを持つ垂壁だったが、山際の斜面を上手く使って克服した。

そうして乾いた綺麗なコンクリートの地面を得た私がしたことは、長靴を脱ぎ捨てて靴の中の水を排出することだった。これで鉄の鎖を引きずり歩くような苦行からは解放される。
そして私が個人的に「河童出没」と呼んでいる、濡れた足形がそこかしこに刻まれるシュールな絵面が、この零下2℃の岩間海岸にもお目見えしたのだった。
ふざけていつまでもこれをやっていると、冷たさで足がもげるのでほどほどに。

とまあ、そんなことはどうでも良くて、いままでずっと目隠しとなっていた防波堤の向こう側がどうなっていたかだが……



防波堤の向こう側にあったのは、芝生敷きの空間で、園路と思しき狭い舗装路が巡っていた。
一瞬、ゴルフコースに分け入ってしまったかもと焦ったが(さっきキャディバッグも見てるしね)、常に携行している地図の一つである「スーパーマップルデジタル」を確かめると、ここには「岩間防災緑地」というものが「造成中」ということになっていて、震災後に津波防災の目的で設置された新設の施設のようだった。

これなら立ち入り禁止ではないだろうし、ちゃんと県道に出られそう。
ここでやっと生還を確信! 隧道に戻らず済むぞ!!
(ただし、軌道跡の探索という意味では、絶望である。もう何も追跡できないし期待できない。終了だ。)

そうして次の目的地となった県道だが、これまた地理院地図やスーパーマップルといった現行の地図からは大きく豹変していることが、一目瞭然だった。
前方の山際を横切る大築堤が見えるが、あれこそ換線された県道に違いなかった。さっきから車の屋根がいくつも行き交っているのが見える。



地理院地図では、右図のような九十九折りの県道が描かれていた。
これによると、現在地のすぐ傍に県道はあることになっていたが、実際の県道はチェンジ後の画像のように変貌を遂げていたのである。

チェンジ後の画像には合わせて、嵩上げされた防波堤、防波堤と新県道のあいだに造成された防災緑地、そして新県道の大築堤を書き加えた。
かつての九十九折りは、大半が築堤に呑み込まれて消滅した。




竜宮岬は穴だらけかも知れないと書いたが、また穴が見つかった。
防災緑地に接する陸上の山際にも、自動車が入れるくらいに大きな穴が口を開けていたのである。
奥行きはなかったが、中に小屋でも建っていたのか、大量の廃材が散らばっていた。



防災緑地は、概ね完成しているように見えたが、看板などは未整備だった。

最後に振り返ってみたが、隧道はもう見えなくなっていた。
防波堤越しに少しだけ見えているのは、隧道の右にあった別の穴である。
ただ、探索者をおびき寄せる目印としては、あの穴でもいい。あの穴の近くまで行けば、必然的に隧道に近づくことになる。

もしかしたら、足元の瀟洒な園路が、かつての軌道の位置と重なっている可能性もあるが、だとしてもそれは偶然であって、繋がりはない。
ほんの数年前まで、ここには別のものがあったはずなのだから。




長い階段で、新県道へ駆け上った。
ここにきて、下半身が濡れていることによる寒さが格別に堪えた。
後悔はなかったが、ただただ寒かった。体温が欲しくて、大袈裟に身体を動かしながら歩いた。




7:09 《現在地》

新しい県道から、いわき市大字岩間の岩下地区を俯瞰している。

この地区の歴史については、いわき市公式サイトがまとめている「いわきの今むがし vol.64 岩間町」がとても詳しく、参考になる。
それによると、いまいるこの坂道は“間(馬)坂(まざか)”“愛宕坂”“火力坂”などと呼ばれていたものだそうで、ここから眺める菊田浦の弓なりの海岸線は、「いわき百景」にも数えられる有名なものだったそうだ。
残念ながら、トロッコトンネルについての情報はなかったが、道路や海岸線の変遷についても述べられていたので、興味のある方はぜひ読んでみて欲しい。



まだもう少しレポートは続く。
スタート地点への帰路に入っている。
ここは岩間と小浜を隔てる竜宮岬の基部を越える峠の頂上だ。
峠の上は台地状に広くなっていて、そこにその名も「台」集落が存在している。

峠の標高は3〜40mあり、しかも前後の傾斜がきついので、トロッコを越えさせるのは一苦労だろう。
だからこそ、300mという決して短くない隧道が、直下に掘られたに違いない。
理由は納得出来ても、工事用という一過性のものとしては過大投資に思える大隧道。事業の規模の大きさが伺えた。



7:22 《現在地》

県道の峠を越えて、再び小浜側の渚地区へ戻ってきた。
ここは県道から少しはずれた、竜宮岬を見ることが出来る展望台で、小さな広場に四阿とベンチが設置されていた。

いまから1時間前、まだ日が昇る前の薄暗かった眼下の砂浜を歩いたのである。ここからも崩壊地は見えるが、その奥に潜む隧道は全く見えない。



そしてこの展望台の周囲も、やはり穴だらけだった。
しかも、穴は大小さまざまだ。
今まで見てきた穴はどれも海面に近い低地にあったが、山上にもあるというのは、建設目的が一つではなかったことを示唆しているように思う。
だいたい海岸沿いにあるものは、漁具倉庫というのが本命で、対抗として大戦中の特攻兵器格納施設だったりもするが、あまり可能性の選択肢は広くない。
対して陸上にあるものは、倉庫、防空壕、横井戸、氷室、採石場、宗教施設(やぐら)、古墳など、可能性の幅が広く、なかなか絞りきれるものではない。




7:30 《現在地》

さらに移動してここは小浜漁港。

この移動の途中では、小浜海岸の入口に止めていた自転車を回収している。
相変わらず下半身はぐっちょりなので、さっさと車に戻ってもいいのだが、最後に見ておきたいと思った。
トロッコトンネルによって造られたといわれる、港の姿を。

とはいえ、「この港を造るのにトロッコが使われました」という証拠を手に入れることは、まあ難しい。
見た限り、どこにでもありそうな普通の漁港のようであった。
施設のどこからも古さを感じない。それは、港として今日まで真っ当に活躍してきた証明とも言えるだろう。



小浜漁港も穴だらけだった。
写真は漁港内の道路風景だが、石碑の裏側に河川用のトンネルが2本もあった。

地形図にこの河川トンネルは描かれていないが、右図に書き足した点線のように存在している。

ここでは小さな川(渚川という)が、2本の連続するトンネルを通って海へ注ぐようになっていたのだ。明らかに天然の地形ではない。おそらく、昔は小浜の砂浜に河口があったのだろうが、川から排出される土砂で港内が浅くなることを避けるために、河道を付け替えたのだと思われる。狭い入り江に浜と港と川を同居させる苦肉の策と思われるが、なかなか大胆だ。



2本とも高さ幅とも5mくらいある大きな河川トンネルなのだが、なんと完全な素掘りだった。現役の施設なのにこれは凄い。青黒い水面を、カモ艦隊が悠々と走って行った。

これも最近のものではないのだろう。
もしかしたら、トロッコトンネルが活躍した時代に造られたのかも…。
この港に現存する、唯一の“古いもの”かもしれなかった。



そしてこれ、こういうものは大切にしなければならない。
お誂え向きに河川トンネルの前に設置されていた、立派な石碑。もしかしたらここに、トロッコトンネルのことが書かれていやしないだろうか。期待を胸に読んでみた。

飛躍  豊田作太郎翁顕彰碑
 豊田作太郎翁は安政六年三月、丹野太治右エ門の四男として小浜町渚に生れ、その後豊田与六氏の養子となる。(略)明治三十二年植田町の前身である鮫川村村長に推され、爾来二期四年村民の生活安定と福祉向上のため大いにその手腕を振い、大正六年には石城郡郡会議員に推され、当時極めて至難とされていた磐前郡中ノ作に通ずる一等線道路改修工事を初めとし、地方行政活動に情熱を傾け絶大なる貢献をしてその事績を残し、又漁業関係に於いては明治二十年に菊田浦漁業組合を設立、稼働船舶実に百二十余隻を有する初代組合長となり永年問題となっていた錦町中田漁業組合との海区境界設定、漁港の整備、漁獲高の拡大、特に鮑の生産増強と加工に心血を注ぎ、中華民国への輸出を実現し国際貿易にまで発展させる等極めて稀に見る政治、経済面の大先覚者であった。(略)
  昭和五十六年五月二十三日建立
     小浜漁業協同組合組合長 丹野円平 撰文
                 大平峰月 書

小浜の発展に寄与した先人の顕彰碑であり、「漁港の整備」も彼の事績の一つとして列挙されていたが、残念ながらトロッコトンネルのことは記されていなかった。

さらに小浜漁港には、もう一つこれとよく似た石碑がある。
その場所は、ここから50mほど集落寄りの道端で、たくさんの軽トラが停まっていた。
石碑の隣に小屋があり、漁師と思われる人達が集まって火を炊いているところだった。

古老みぃーつけた!!

当然、お話を聞いたわけだが、先に石碑の内容を紹介。

顕頌碑  渡辺兵左衛門翁に捧ぐ
 翁は、明治三十年九月十六日渡辺稲太郎氏の嫡男として小浜町に生まれ、(略) 永年小浜漁業協同組合組合長を勤めた。 翁は、郷土の発展を希い漁港の開発に期すること二十有余年、その間植田町々会議員、勿来市々会議員並びに県関係漁業団体の役職など数多くの要職に就き市政振興に努める傍ら漁業育成指導発展に貢献した。 殊に翁は、国、県、市の支援を受け現小浜漁港の築港工事を積極的に促進し、地域漁民と共に一致団結、幾多の困難を克服し、その責任者として終始陣頭指揮に当った(略)
  昭和五十四年十月吉日
     小浜漁業協同組合組合長理事 丹野円平 撰文

こちらも地域の先達の顕彰(頌)碑で、やはり小浜漁港の築港工事に功績があったことが書かれているが、やはりトロッコトンネルについては触れていなかった。 残念!

石碑の隣にある小屋の前で、たき火の暖をとりながら談笑する、地元漁師とみられる60代くらいの男性2名に、さっそく話を聞いた。長靴なのに腿まで濡れている私の姿はいささか怪しかったように思うが、気さくに応じてくださった。ありがとうございます。

古老によって明かされる、トンネルの正体は――

証言をお土産に、現地探索は終了。 机上調査編行ってみよう!




古老証言 & ミニ机上調査編


以下は、小浜漁港でたき火をしていた漁業関係者と思われる60才代とみられる古老2名の証言である。2人の証言に食い違うところがなかったので、まとめて紹介する。

  1. 隧道は、むかし小浜漁港を作る時に岩間海岸から砂利を運ぶために造られたもので、トロッコが通っていたと聞いている。
  2. トロッコは手押しで、機関車が動かしていたものではないと聞いている。
  3. 隧道が造られた時期は戦前だと思うが、はっきりした時期は分からない。子供のころには既にトロッコは廃止されていて、隧道だけがあった。
  4. 子供のころに隧道を歩いて通ったことがある。レールは既になかったが、枕木が残っていた記憶がある。水がたくさん垂れていて気持ちが悪かった。

やっぱり!

この耳でもはっきり聞くことができた、トロッコ説。
古老2人の証言の一致に、山口氏が調べた情報との一致、さらに隧道内にある待避坑の存在も見たいま、もはやこれは説ではなく、“事実”と断じて良いと思う。
小浜築港軌道の実在は、ほぼ間違いない!

山口氏の情報を既に得ていたために、そこまで目新しい情報は多くなかったが、手押し軌道だったらしいというのは、新情報である。
しかし、特に気になっていた、トロッコが稼働していた(=築港工事が行われた)時期については、相変わらずはっきりしない。
それでも次第に期間の範囲が絞り込まれてはきている。今回の古老の証言によって、戦前だということが分かった。
さらに上の年代の古老に話を聞ければ、トロッコの現役時代の証言が得られたかも知れない。

古老たち自身は、トロッコの現役時代を見ていないというが、子供のころに隧道を歩いて通ったことがあるという。
廃止後すぐにレールは撤去されてしまったようだが、枕木だけは残っていたとの証言もあった。
しかし今回の探索では1本も見当たらなかった。これはなぜだろうか。先の津波で全て流出したのか、以前に回収が行われていたのか、水の中で完全に朽ちてしまったのか、あるいは単に見逃しただけで実は残っていたのだろうか。(ちなみに、隧道まで津波が押し寄せる事態は、過去に何度かあったと思われる。平成23(2011)年の前でいえば、昭和35(1960)年に南米チリで発生した地震によって引き起こされた津波が太平洋を横断して押し寄せ、小名浜では3mを越える津波を観測、犠牲者も出ている。)
2人とも長らく隧道には近づいていないらしく、いまも貫通しているということを伝えると、とても驚いていた。と同時に喜んでもいた。

先ほど箇条書きにしたのは隧道に関する内容だが、他にもいくつかのお話を聞いている。
まず、本編でも紹介した渚川の河川トンネルだが、これがいつ出来たのかは分からないという。しかし古いものなのは確かそうで、以前偉い政治家の先生が視察に来たことがあるとも言っていた。
さらに、小浜地区にたくさんある穴の正体についても質問してみたが、「防空壕から味噌蔵までなんでもある!」と、威勢良く吐き捨てるように語っていた。どうやら本当に様々な目的で日常的に穴掘りが行われていたようであるが、「採石はしていない」とのことであった。


右図は、今回の探索と証言をもとに想像で描いた、小浜築港軌道(仮称)の全体図である。
推定全長1.2km、大半が砂浜上だが、竜宮岬を貫く全長約300mの隧道が最大の構造物であった。隧道前後の岩場にもいくらか土工によって開削された路盤があったと思われるが、地形の崩壊が著しく判別は困難だ。
しかし、隧道以外の線路や起終点の位置は想像によるもので、もっと西に長く延びていた可能性や、海岸から離れて現在の岩下集落辺りへと通じていた可能性もある。

山口氏の情報では、小浜から岩間に砂利(土砂)を運んだのか、その逆かがはっきりしなかったが、今回話を伺った古老は、「岩間海岸から小浜海岸へ砂利を運んでいた」と証言した。

築港工事というのは一般的に、航路や船溜まりとなる水域の浚渫と、船揚場や埠頭や荷さばき場となる陸域の強化・嵩上げが、同時に行われる。
これは必然的に大量の土砂の移動を伴う工事となるため、明治から昭和前半までは簡便で安価な大量輸送手段として、しばしば手押しトロッコを用いた工事用軌道が用いられた。(やがて機関車牽引が主流となり、さらにダンプカーなどへと置き換えられていった)


『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 勿来』より転載。

左図は、『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 勿来』(昭和55(1980)年/国書刊行会刊)に掲載されていた、昭和25年頃に撮影されたという勿来(なこそ)港の工事風景である。小浜と同じいわき市内にある勿来港だけに、時代は違うかも知れないが、参考になるのではなかろうか。

ここで注目すべきは、やはり人力らしきトロッコが写っていることだ。
撮影者のすぐ目の前、海水が抜かれて露出したと思しき海底に、バラストもなく枕木とレールが直に敷かれている様は、工事用軌道かくあるべしという野趣を帯びている。奥の少し離れたところにも、木製の箱トロッコと人夫らしき人々の姿が見える。これらの敷設位置は、おそらく現在は海底であろう。

小浜の築港風景に登場したトロッコも、港内ではこのような姿であったと思われる。
工事用軌道というものが、通常の鉄道のようには記録や遺構を多く残さないことが、写真からもお分かりいただけると思う。むしろ、隧道という半永久的施設を珍しく用いたために、明確な遺構を残した小浜築港軌道は、希有な例であったと思える。

岩間から小浜へトロッコで運ばれていた物資は、山口氏の情報には「砂」と書かれており、今回私が伺った古老も「砂利」と口にしていたので、岩間海岸の広大な砂浜から採取した海砂が、コンクリートの材料や埋め立てのために必要とされたのだろうか。
小浜海岸にも砂浜はあるが、それでは足りない事情があったのか。

ただ一点気になるのは、隧道内の勾配である。
普通に考えて、岩間から小浜へと土砂を運ぶのであれば、岩間から小浜への下り片勾配としたほうが輸送が効率的になるように思うのだが、実際は逆の片勾配になっていた。
地形や地質的にやむを得なかったということがあるのかもしれないが、この点は少し気になった。


……と、この後に及んでも(机上調査編に至っても)、古老の証言を軸に築港軌道の昔を探っていることから、皆様も察せられたかも知れないが、現在のところ、この隧道や軌道については、(山口氏の情報と)古老証言以外の情報がほとんどない。特に文献情報は極めて少ない。

まず私は、『いわき市史』にあたった。別巻を含めて15冊ほどもあるたいへんな大著であるため、全文を確認したわけではないのだが、広大な市内に10ほどもある港の中で最も規模が小さいとみられる小浜漁港の扱いは小さく、短時間の私の調査では以下に引用した記述くらいしか見つけることができなかった。各巻の目次を見た限りにおいて、これ以外の情報はなさそうだというのが、とりあえずの判断となる。

第一種漁港の小浜港は、馬坂川と滑川の小河口に開かれたもので、古くから知られていた。藩政時代には米の積出しも行われたが、明治以降は漁港として現在に至っている。小型底曳網漁業が主で、こうなごやわかめなどの海藻類が水揚げされている。所属漁船も少なく、水揚量はわずかである。
『いわき市史第5巻 自然・人文』より転載。

この文脈からは、現代の小浜港は小規模漁港であるということは分かるが、そんな小さな港が近世から現代の姿へと移り変わる過程で、どのような道のりを経てきたのかは全く分からない。私が知りたいのはそこなのだが…。


『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 勿来』より転載。

先ほど写真を引用した『ふるさとの思い出写真集』では、右に転載した写真を見つけた。

キャプションに書かれているとおり、これは昭和10(1935)年頃に撮影されたとされる小浜漁港の風景である。
背景に見える特徴的な陸地は竜宮岬で間違いなく、撮影者があと20度ほどカメラを右に向けてくれたら、隧道が写ったかもしれない。
肝心の港は、現代の感覚からは港ではなくただの砂浜であるが、小舟にしか見えない木造漁船が多く置かれているから、これが往時の小浜漁港であったのだろう。

これが、大隧道を掘削して行われた築港工事後の風景には見えないので、築港時期は昭和10年頃より後でかつ戦前という、わずか10年間ほどにまで絞られるのだろうか。
それとも、風流を好んだ撮影者が敢て旧態依然の場面を撮影しただけで、フレームの左側には新たな港が既にあったのか。(私はそう考えている。実際現在でも【このアングル】で撮影すると、港はフレーム外だ)

今回の文献調査は時間が少なく、国会図書館でデジタルデータが公開されているものだけを対象としたので、現地図書館で調べればさらに多くのことを知る余地はあると思われる。

文献からは判明しなかった築港工事の時期だが、福島県公式サイトが公開している「小浜漁港」というページに、次の記述があった。

小浜漁港の概要
指定年月日/昭和26年11月14日
管理者/福島県
 小浜(おばま)漁港は、滑川及び馬坂川の河口に開けた天然の漁港として、昔から利用されてきました。昭和7・8年、時局匡救事業として現在の泊地を完成して以来、防波堤の築造等の整備を実施してきました。昭和36年、管理が県に移管され、現在に至っています。港の利用は主に地元の漁船で、沿岸漁業が中心です。
福島県公式サイト内「小浜漁港」より転載。

キタキタ! 香ばしい情報キタ!

小浜漁港に近代的な泊地が完成したのは、昭和7(1932)年から翌年にかけて実施された、時局匡救(じきょくきょうきゅう)土木事業によるという。

時局匡救土木事業については改めて説明しないが、私が探索対象とする道の来歴にしばしば現われる、まるで廃道の玉手箱のようなものである。今回の隧道もまた、時局匡救という国家的使命を背景とした極めてローカル的な事業として、この地に産み落とされたものだったのだろうか。

隧道の壁面に残されたいかにも人海戦術を伺わせるような膨大な鑿痕や、隧道自体の意外な長さ、そしてその後の人力トロッコによる砂利運搬作業……。
なるほど、時局匡救土木事業に相応しい雰囲気が濃厚だ。私は納得してしまったが、結論づけるまでには資料が不足しているのも事実である。
ともあれ本稿は、昭和7〜8年頃にトロッコ隧道が建設、利用されたという説を採りたい。


なお、明治から現代までの歴代地形図も確認してみたが、軌道や隧道が描かれた版はなかった。
仮設が前提である工事用軌道ということを考えれば、やむを得ないことだと思うが、隧道の規模としては描かれて不思議がないものであり、かつトロッコが廃止された後も地元の人の往来が皆無ではなかったようなので、描かれていて欲しかったというのが本音だ(←どうでもいい感想)。

右図は代表として、昭和57(1982)年版と昭和26(1951)年版の比較をしているが、古い方には小浜の港湾施設が描かれておらず、ただの砂浜になっている。
しかし実際は昭和7〜8年に泊地が造成されていたのであるから、これは正確性を欠いている。




航空写真も確認してみた。
地図・空中写真閲覧サービスで公開されている最古の版である昭和22(1947)年版にも、はっきりと小浜漁港の原形となった部分が描かれており、時局匡救土木事業説を助けている。
また、最新の航空写真と比較してみると、当時の港の突堤が現在も一部同じ位置で利用されていることが分かった。

それにしても、この新旧比較でいちばん驚いたのは、竜宮岬の両側にある砂浜のもの凄い後退ぶりだ。特に岩間側で顕著である。
この砂浜の後退は、東日本大震災で30cmほど地盤が沈降した(参考:pdf影響もゼロではないだろうが、さらに以前からの問題であったことが、本編中でも引用した「いわきの今むがし vol.64 岩間町」に、次のように記されていた。

昔から、岩間の人々は農業を主に、鮫川が竜宮岬下で太平洋に流れ込むという地形を利用して河口に船着場を設け、副業として小舟による沿岸漁業を営んでいました。しかし、鮫川河口が絶えず移動するうえに砂の堆砂が著しく、港としての機能を果たせず、漁業は次第に衰退していきました。また、鮫川河口に位置するとともに菊多浦に沿う沿岸流を正面から受けるような地形にあり、たびたび高潮の被害に遭いました。これらを克服するために、大正時代から昭和時代にかけて河口港建設の計画が立てられましたが、立ち消えとなりました。
(略)
やがて昭和30年代を中心に、沿岸流が強くなっていきます。特に、昭和32(1957)年に入り、鮫川の河口の位置が岩間の海岸線近くまで50〜60mも移動しました。海に流れ込む鮫川の水と海水とがここでぶつかり合い、その勢いで砂地が流され、岩間海岸における海岸線の浸食が著しく進んだのです。戦後まもなく砂上に塩製造のために立てられた十数戸が危険にさらされ、また昭和32年10月の台風では、海岸に沿う県道の堤防を波が越え、岩間地区全体が危険となったため、勿来市は水防本部を立ち上げ、海岸に面する家屋の一部を解体するとともに、消防団などが土のうを積んで水難回避に努めました。このように被害が相次いだため、県施工により昭和33(1958)年度に延長520mの防潮堤が完成し、昭和35(1960)年度からは鮫川に沿って佐糠町までの防波堤延長が施され、水害の危険は避けられるようになりました。
「いわきの今むがし vol.64 岩間町」より転載。

上記の下線部にある記述を見る限り、小浜漁港の整備は、竜宮岬を隔てて隣り合う岩間地区の人々にとっても念願であったように思われる。
岩間地区には美景を知られる広大な砂浜があったが、砂浜のせいで良港を望むことは出来なかった。だから、小浜に活路を見たのかも知れない。
もしかしたら、岩間と小浜を最短で結ぶトロッコ隧道は、工事用軌道としての役目を終えた後にも、港の付属的な通路として活用される目論見があったのではないか。だからこそ、工事用軌道には似つかわしくない長大な隧道が建設されたのではないか……。
妄想かもしれないが、この可能性は十分あると思う。

【ちょっと追記】
情報が少ないトロッコ隧道だが、平成27年7月にいわき市が公表した「小浜・岩間地区復興グランドデザイン(pdf)の10p、「地区の資源」を列挙した項目中に、「人を呼べる施設等」として、「トロッコが通ったトンネル」が挙げられていることに気付いた。
本編の具体的な復興のグランドデザインを述べる中には出てこないので、積極的に活用する計画はないようだが、行政にも隧道の存在を把握している人がいることは確かで、“トロッコトンネル説”は行政公認といえるだろう。



最後は、隧道を私より先に探索された、偉大な先人たちの記録にも目を向けてみた。

やまめ氏のブログ「いわきのひみつ基地日記」の2010年1月4日のエントリ「洞窟探検に行ってきました。」には、震災前年の隧道と周辺の風景が大きな画像で掲載されていて、洞内は水没状況を含めてほとんど変わっていないように思われるものの(でもキャディバッグはなかったようだ)、(私の探索時は大潮の満潮で特に海面が高かったことを考慮しても)小浜側岩間側とも坑口や地上の風景があまりに変貌していることに驚かされた。

おじさん氏のブログ「いわきの空の下」の2009年12月1日のエントリ「昔の鮫川の話 その4 岩間の洞窟」にも、興味がそそられることが目白押しだった。以下、記事の前半を転載させていただきました。

以前の鮫川の河口は岩間の岬の壁面にぶつかるように海へ注いでました。
その壁面には、川の水面から2m程度上に洞窟が口を開けていました。
その脇にやはり、壁面を削り取ったところに、石碑があったと思います。
この洞窟は、岩間から山を越えたところにある小浜海岸へ続いていました。又、その先の照島海岸へも続いているということも聞きました。
私も1、2度 上級生に連れられて小浜海岸までは、いったことがありました。
洞窟というだけで、前日からかなり興奮して眠れなかったのを記憶しています。
洞窟の入り口は、高いところにあるので、流木が入り口のところに取り付けてあり……

「いわきの空の下『昔の鮫川の話 その4 岩間の洞窟』」より転載。

おじさん氏が子供のころに体験した洞窟探検の一幕である。
岩間側坑口で私を助けた流木が、当時は子どもたちの尊い冒険を助けていたというのか。現実的には別の流木が偶然そこにあったのだろうが、本編で述べた「土地の記憶」を再度彷彿とした。まるで運命じみたものを感じる。

小浜から(さらに東にある)照島海岸へと続く第二の洞窟があったという話は、とりあえず子どもの噂と片付けたいとしても(マジならやばい)、下線を付した部分が非常に気になる。


隧道の岩間側坑口脇の壁面を削り取ったところに石碑があった?!

マジで?!!

探索中にもこの窪みに着目し、結局正体不明と結論づけていたのだが、ここに石碑があったとは全く思わなかった。



うおー! なんの碑だったんだァー!

超絶気になるのである。

だがこの窪み、見ての通り、現在は巨石混じりの土砂崩れにほとんど埋立てられてしまっていて、発掘などということを気軽に考えられる状況ではなくなっているのである。残念ながら、この発掘は無理だろう。少なくとも私の力では無理。

おじさん氏のブログの2009年12月26日のエントリ「旧鮫川河口 岩間の洞窟」では、40年ぶりの再訪が語られ、洞窟との再会を果たしているが、石碑の有無は書かれていなかった。

果たして、ここにあったとされる石碑には、何が記録されていたのだろう……。
先ほど紹介した「小浜・岩間地区復興グランドデザイン」中「地域の資源」に、「歴史を語る遺産」として、「勿来八景の石碑(倒壊)」という記述があった。さらに別のページには、「津波により流出した 小濱夕照(おばまのせきしょう)(勿来八景の石碑)を再建します」の記述を発見。 もしや! と思ったのも束の間で、同資料の表紙に在りし日のこの碑の写真が掲載されていて、別のものということが判明したのである。

ここにあって欲しいと思う石碑は、隧道の開通記念碑とか小浜港の来歴を刻んだ記念碑であるが、正直なところ、その可能性は極めて低いように思う。工事用軌道に、華々しいそれらはいかにもありそうにない。だがそれでも、失われた内容不明の石碑が気になる気持ちに変わりはない。




たくさんの思い出と、謎を秘めた竜宮岬のトロッコトンネルは、いまもそこにあり続けている。

だが、人目から遠ざかり続ける存在は、いつか本当に忘れ去られてしまうだろう。

玉手箱に仕舞われてしまう前に体験できた私は、幸運だったと思う。




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