机上調査編: 古きループ道路の正体は?
日本有数の交通の要衝とも言うべき東海道は蒲原の狭い土地で、文字通りの意味で「隠され」ながらも、しっかりと現代を生き残っていた小さなループ道路や、それを構成する2本のトンネルたち。
その姿にはもちろんのこと、素性にも大いに興味を惹かれた私は、(簡単にではあるが)資料にあたって、由緒を探ってみた。
まだ分かっていないことも多いが、現在までに判明した内容をまとめておこう。
まずは、レポートの中でも紹介した第一・第二城山隧道のデータの出所についてだが、当サイトでもお馴染みの「平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)」に前掲のデータとともに掲載されていたのである。
この資料は平成16年度時点の国道、都道府県道、市町村道のトンネルのデータリストであり、そこに記載されている時点で、当時2本のトンネルが蒲原町道(この資料の作成当時はまだ蒲原町だった)に所属していたことが確認出来た(現在は静岡市道であろう)。
データの内容で一番驚いたのは、第二城山隧道という名称で、現地では単にループ道路を構成するための立体交差という風にしか見ていなかったものに、ちゃんと隧道としての命名がなされていたことであった。
そしてそれと同じくらい驚いたのが、その竣工年の古さであった。
2本の隧道とも、昭和9年竣工と記されていたのである。
ところで、私は現地探索中にこうも疑っていた。
「ループ道路が出来たのは、東名高速の建設工事の結果なのではないか。
もともとは、普通のつづら折りで高度を稼ぐ道だったのではないか」 と。
だがこの疑惑は、東名高速が建設される以前の航空写真、例えば右に掲載した昭和36年版のそれを見ることで簡単に解消することが出来た。
見て分かるとおり、そこにはちゃんと小さなループを描く道が映り込んでいたのである。
東名高速が開通する前後で、この道のルートは特に変化していないようであった。
これで、昭和初期の開通当初からここにはループトンネルが作られていたことが、ほぼ確かめられたと言える。
残された謎は、扁額に県知事の名前が刻まれた隧道を持つ道が、当時、どのような経緯で建設されたのかである。
高度を稼ぎ出すのにループトンネルという当時はもちろん、今日でも珍しいセレクトをした理由も、分かるかも知れない。
「蒲原町史 第三巻」に、この道の由緒に関する重要な記述を発見した。次の通りである。
この道路の始まりは、昭和六年に開始された地元森林組合による善福寺林道(約一三八〇メートル)であり、その後、善福寺地区周辺と山間地の開発を背景に、一部ルートの変更や第一浄水場までの延長が行われ、林道から町道へ切り替えられている。
この記事自体は、町道善福寺線が平成元年から13年にかけて国の補助事業で改良されたことを紹介したもので、その改良後の道路が本編の最後に登場した立派な2車線道路だった。したがって今回探索した道は、蒲原町道善福寺線(現在の名称は静岡市道善福寺線?)の旧道というのが正しいようである。
「蒲原町史 第二巻」掲載の平成7年末時点における蒲原町道のリストにも町道善福寺線は記載されている。
当時の全長は2011mで、幅員は一番広い場所が19.2m、狭い場所が2.9mとなっていることからして、全線開通前の新道と今回探索した旧道を混ぜたデータのようだが、ともかく当時の路線名については確認出来た。
引用した文章の中身に話を戻す。
それによると、昭和6(1931)年に地元の森林組合が建設をスタートした善福寺林道という道が、町道善福寺線の始まりであったそうだ。
残念ながらそれ以上の情報は記載が無く、ループやトンネルについても全く触れられていないのだが、昭和6年に任期を限る県知事の名前が扁額に刻まれていたことから見て、少なくとも第一隧道については昭和9年ではなく、昭和6年には完成していた可能性が高いと思われる。その後、ループ部分の道も作られ、昭和9年頃に全線が開通したのではないだろうか。
時期的には時局匡救土木事業が全国で盛んに行われていた頃にあたり、林産物搬出のための林道を作ると同時に、失業者対策としての土木工事であった可能性が高い。(さすがにその目的で、わざわざ手間のかかりそうなループ道路にしたとは、思わないが)
これは私が考えているだけで裏の取れた話しではないが、この道に沿って蒲原町の水道施設が存在する(浄水場や配水場がある)ことと、ループ道路が関係する可能性を疑っている。
たとえば、水道施設の建設にはたぶん鉄管なんかも使うだろう。それも膨大に。そんな長尺物を運ぶのに、つづら折りの坂道は具合が悪いのではないか。ループの方が良かろうと思う。
(現在、この方面についても調査中である)
他にも、城山という名前の通り周辺は蒲原城跡であり、ハイキングコースなども設定されている風光の土地なので、観光道路として幾らかお洒落にループ道路を作った可能性も考えているが、乗合自動車が通り難そうな小ささなので、これはどうかな。
なお余談だが、ループする道路の歴史は本邦に限っても意外に古く、愛媛県の夜昼峠にある千賀居隧道は、明治38年に完成した煉瓦造りのループトンネル(トンネル自体は直線の短いものだがループ道路の一部を構成する)として知られている。
第二城山隧道と同年代のものとしては、三重県の矢ノ川峠にも昭和9年にループ道路を構成するトンネルが開通している。
もっとも、千賀居隧道も矢ノ川峠の隧道もちゃんと土被りがあり、その上を道路が通っているので、外見的にはちゃんと「トンネルらしい」のだが、城山第二隧道ときたら、本当に上には道路しかないので、隧道と呼ぶ事を素直には受け入れがたいものがある(笑)。
このほか、歴代地形図なども見て見たが、5万分の1の縮尺ではループ道路はおろか第一隧道でさえ描かれていない有り様なので、役立たなかった。
そんな具合でして、今のところはループ道路をここに建設した理由について、はっきりした事は分かっていない。
そもそも、道路の線形の決定に「これしかない」というような解答は無いので、単に当時の設計者の検討の結果ということ以外に何も答えがないのかもしれない。
ループ道路としては非常に規模が小さく(それが逆に珍しいが)、構造物としては極めて短い隧道を1本作っただけであるから、長く語りつぐような難工事ではなかったとも思うが…。
こんな風に誕生の経緯に謎を残すミニループトンネルは、今日も今日とて、東名高速の下で爆音のシャワーを浴びている。