隧道レポート 小阿仁林鉄 杉山田暗渠 

所在地 秋田県北秋田市合川町
探索日 2007.12. 9
公開日 2008. 9. 6

ついに“ネタ切れ”から、山行がは暗渠まで取り上げるようになったのか?

いや。

この暗渠はそんな甘いものではないぞ。

おそらく、この2008年を最も熱くする物件になるだろう(ただし、暗渠部門で)。


  フフ… 9点台はもらったな。


 それじゃ早速、 ジ・ベスト・オブ暗渠を紹介しよう!


※なお、本レポートは既掲のミニレポ『第138回 小阿仁林鉄堂川隧道(前・後)』の続きである。
いきなりここから読み始めても状況が飲み込めないかも知れない。




よくぞ残っていてくれた! 林鉄暗渠の完全形 

 “火炎覆い”という構造物


2008/12/9 16:04 【所在地

堂川地区で細田氏プロデュースによる2本の新発見隧道を得た我々は、勢いを得て、次なる発見を求めての北上を進めた。



堂川から北の軌道(林鉄)跡は右の写真のような感じで、全く歩いてみたいという気になれない、平々凡々としている。

冗長の先へ迂回した。




大阿瀬地区で軌道跡は並行する県道3号と交差し、この先杉山田地区を過ぎるまでは川側に並行するようになる。
杉山田からは旧合川町域で、現在の北秋田市合川町だ。

表題の「杉山田暗渠」は仮題だが、これがあるのは杉山田集落の真ん中で、林鉄ネタとしては珍しい街中の物件ということになる。


杉山田という集落は二つのエリアに分かれており、この両者を隔てる場所は低地になっている。
林鉄はここを長さ100mほどの築堤で越えている。
並行する県道にも、低い築堤がある。

問題の暗渠は、この軌道跡の築堤に掘られている。



築堤を越えると杉山田集落の真ん中を抜ける。
この先県道に再度合流するまで300mほどは集落道として使われており、築堤上を含めて軌道らしい風景は残されていない。
だが、この後にお話しを伺ったお爺さんが、とても興味深い情報を教えてくれた。

曰く、林鉄が蒸気機関車を使っていた頃には、ここから集落の出口まで、線路は木製のトンネルに覆われていたという。

以前話には聞いたことがあったが、蒸気機関車の煙突から飛び散った火の粉が民家に引火して火災となる事が少なくなかったために、集落内の軌道をまるごと杉材合掌造りの「火炎覆い」で覆った場所があったという。
その話は、ここのことであったか。
いままでこちらから調べても分からなかったことが偶然にも判明してしまい、私は興奮した。
(この写真のカーブのさらに先まで、300mくらいは続いていたそうだ)




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過去最高の暗渠遺構


16:09

今度は、県道側から並行する林鉄の築堤を撮影。

そこに掘られた暗渠の坑口が見えている。

ちなみに、この日はじめてこれに気づいたのも、細田氏だった。






さあ、来るぞ!


 ジ・ベスト・オブ暗渠!






キター!

こいつは、
タダの暗渠じゃねー!





すげー!

木造の隧道支保工がこれほど奇麗に残っているのは、初めて見る!

コンクリートの壁よりも遙かに支保工が新しい物のように見えるのは、奇跡的な保存状況の良さであろう。
風も雪もさほど巻き込まない谷底の暗渠であったゆえに到達した境地か。

合掌造り。
プロの大工が丁寧に作ったことが一目に分かる、匂い立ちそうな杉材の支保工だ。
これこそが、何の変哲もない暗渠を大発見と言える見所。
釘は一本も使われておらず、重力結合と鎹(かすがい)のみで組み立てられている。

よくもこんなものが残っていてくれたものだ!




支保工は地面に接している根元の部分から朽ちており、上部構造を留めたまま、天井から離れつつある。
もはや支保工としての機能は全く有していない。

それはともかく、不思議なのは、なぜ支保工があるのかということだ。
本来このようにコンクリートで覆工された隧道(暗渠)であれば、支保工は完成と同時に撤去されるのがセオリーだ。
にもかかわらず、開通から70年を経て未だ残されていることになる。

普通に考えれば、覆工の強度が想定通りに行かず、やむなく支保工を残したというところだろうか。
たしかに、内壁には一周するような亀裂があり、そこから土が洞内に流れ込んだ痕跡もある。
いずれにしても、施工中に何らかのイレギュラーがあったに違いない。




この暗渠は、もともと道路として作られたものだが、現在は使われていない。
路面にはヘドロが10cmほどの厚みで堆積している。

また、本来は車も通れるサイズだが、肉厚な支保工によって内径がかなり狭められている上、西側の支保工は下部が腐って沈下しており、屈まないと通れない状態になっている。

それにしても、立派な支保工である。
これは、今日の隧道工事ではもはや作られることのない、ある種失われた技術といえる木製支保工の姿をほぼ完全な形で留める、極めて貴重性の高い遺構である。





支保工は家屋のように何十年と残すような施設ではないはずだが、それにしては非常に丁寧な仕事である。

おそらくこれは、工事が行われた昭和10年代には林鉄の工事が盛んに行われていて、技術者のレベルが熟成されていたということだろう。
いまなら高価な杉の太材も、ふんだんに使われている。




暗渠は全長20mほど。

築堤は安息角45度に形成されており、底面巾20m、高さ7m、上部路面(林鉄路盤)巾5m程度のサイズである。
同種の築堤としてはかなり規模の大きなものである。



暗渠を抜けた道は、小阿仁川の河原へ向けて下っている。
現在は100mほど先で別の市道に合流している。

なお、反対の県道側は合流地点でガードレールが立ちはだかっており、分断されている。




なお、この後築堤脇にお住まいのお爺さんに話を聞くことが出来た。

暗渠は間違いなく林鉄時代のものだそうだ。
林鉄の工事が行われる前から、この場所には集落を結ぶ重要な道があり、築堤によって道が塞がれてしまうため、集落で営林署にお願いして暗渠を作ってもらったと言っていた。
子供の頃にはここでよく遊んだり、あとは家畜の屠殺を行ったりもしていたというから、支保工には血が染みこんでいるかも知れない。

そう遠くない将来、一部の支保工は倒壊しそうだが、暗渠自体は道が無くなるまで存続しそうだ。




レポート公開後、複数の読者様のご指摘により、この支保工は後付けのものである可能性が高まってきました。
掲示板での“現場カントク”氏の言を借りれば…

「この箇所は盛土区間であることから、暗渠を構築する際は地山をくり抜くのではなく、すでに出来ている構造物を埋め戻しながら築堤していくことになります。よって、暗渠構造物はU字型枠を2重にしてそこにコンクリートを流し込んで製作し、それをひっくり返して設置した(現在のボックスカルバートも同様)と考えるのが適当かと考えます。
仮に、支保工を用いた矢板工法であれば暗渠の内壁に型枠の痕がありますが、写真にもそれが見られません。(この時代にスライドセントルがあったかは定かではありませんが・・・)また、この形の支保工では円形断面は打設出来ません。
では、支保工の正体はというと、もともと湿地帯であったとのことなので、後世の盛土の不当沈下による構造物への影響低減対策と思われます。」