小阿仁林鉄の中間部は、左図にみられるとおり、小阿仁川の広い河谷の端の山麓線に沿って通行している。
平坦な部分はそれ以前から宅地や農地となっており、林鉄は敢えて利用度の低い土地を選んで安価に作られていたことを示している。
この一帯に戦前まで自動車道はほとんど無く、林鉄が生活の足ともなっていたのであるが、その後に作られた現在の道路網は、斜面の狭隘地に作られた軌道跡を利用することなく、平坦な川縁に開通した。
よって、林鉄跡はかなりの部分で現存している。
細田氏によれば、右図で示した位置に隧道があったという。
確かにこの地点、国道からだと小さな山の陰になって遠望が効かない。
2007/12/7 14:54 《現在地》
まずは現地へ近づく途中に撮影した、小阿仁林鉄中流エリアの象徴的な風景をご覧頂こう。
右の写真は国道285号から撮影したものだが、雪に埋もれた水田の向こう、山の裾に沿って真っ直ぐ続くラインが見えると思う。
これが、小阿仁林鉄である。
現在は藪に埋もれた廃道状態なのだが、いままで私が余り興味をそそられなかったのが分かると思う(笑)。
いくら全長43kmもあるといっても、中間エリアは10km以上ずっとこんな感じである。
よほど“ネタ切れ”になったら、延々とこの辺りをレポートし続けるかも知れないが(苦笑…)。
上小阿仁村の行政の中心地である福舘から、国道を北上すること約2km。
堂川地区に入る。
ずっと山裾に続いてきた林鉄跡は、集落が山裾に直接する堂川にて、裏手の山を隧道と切り通しで通り抜けていた。
南側は切り通し、北側が隧道である。
この写真にも、はっきりと切り通し部分の入口が写っている。
なお、この写真には細田氏が写っている。
左の切り通しから来て…
右の隧道へ入る。
残念ながら、坑口は埋め戻されて現存しない。
細田氏が事前に調べてくれていたとおりだ。
しかし、この地形を見る限り、確かに隧道があったと見て間違いないだろう。
前回も、この同じ小阿仁林鉄の南沢地区探索で隧道を一本新発見しているが、これでまた一本、秋田県の隧道は増えた。
細田氏によれば、さらに確かな証拠として、50mほど離れたところに、反対側の坑口跡があるのだという。
私が離れたあとの秋田でも、帰省の度にちゃんとネタを用意してくれている細田氏!! ありがとう!
反対側坑口へ行く前に、折角来たのだから切り通しの方も一応“通って”おこう。
切り通しの片側の斜面には、コンクリートの擁壁が築かれていた。
昭和13年竣工の区間ということで、別に不思議ではないのだが、多少違和感をおぼえたのは確かだ。
この壁は、もしかしたら後付けかも知れない。
掘り割りは真っ直ぐで、長さは30mほどであるが、南側の10mほどは土留めが無いため、土砂が流入してかなり埋もれている。
夏場なら完全に藪の海かも知れない。
さらに進む。
切り通しの出口に、何か門柱のようなものがあるのに気付いた。
門柱らしきものの向かい側に、丸石練り積みの石垣が短く続いている。
不自然な配置だ。
掘り割りの深い場所には何の土留めもなかったのに、なぜ最後に小さな土留めがあるのか。
しかも、左の門柱のようなものの真向かいより外側にだけ続いている。
これはまるで…
目に見えない坑門がそこにあるみたいだ…。
門柱のように見えていたものの正体。
それは、柱と言うよりも、コンクリートの板だった。
厚さは10cmほどに過ぎず、高さは3mほど。
まるで、掘り割りの内と外を隔てるようにして、地面に埋め込まれている。
まさかまさか…。
これは坑門だ!
なんと、隧道は一本ではなかったのだ。
掘り割りも、もともとは隧道!
開削されて掘り割りになっていたのである。
これは今回の踏査ではじめて判明した内容である。
写真のとおり、このコンクリート板の表側にははっきりと笠石の意匠が見て取れる。
間違いなくこれは坑門の跡。
掘り割りの出口付近は、ほぼ90度のカーブになっている。
もとはカーブの途中70度ほどから隧道が始まり、掘り割りの出口まで長さ30mほどの隧道があったのだろう。
南側坑内には、残り20度ほどのカーブも付いていたはず。
当初は隧道であったものを後に開削したのだと考えれば、先ほどの掘り割り北側にあるコンクリート土留めが、多少新しく見えるのも納得がいく。
やはり昭和13年当時の土留めは、丸石練り積みが主流であったはずなのだ。
よく見ると、山側にも坑門跡のコンクリート部分が残っていることが分かる。
このように、隧道坑門の一部分だけが現存しているという例は、林鉄以外を含めても珍しい。
切り通し化された理由は不明だが(地被りが浅いので崩壊しそうな場所である)、これはとても嬉しい新発見だった。
正式な名前が分からないので、以後は「堂川1号隧道」と仮称する。
隧道跡の切り通しを南に出る(現在地)。
あとは単調な道になりそうだったが、見通しの良い場所まで少しだけ進んでみた。
枯れススキの道床跡が、山裾の同じ高さに、見渡す限りずっと続いているのが見える。
何キロ分あるのだろう。 …これ以上は進む気になれない。
小阿仁川の巨大な沖積地は、今も昔の恵みの水田地帯である。
林鉄は基本的に、敷設に必要な土地を所有者から無償で借りていたので(その暗黙の対価として住民を無料で輸送していた)、耕地としては価値の低い山腹の傾斜地を通るルートになった。
これは、全国的に林鉄ではよく見られるルート取りだ。
繰り下がり的に「堂川二号隧道」となった坑口跡へ戻ると、ちょうどばっちゃ(おばあさん)が山から下りてくる所に遭遇した。
ナイスタイミング!
この程度の雪が積もっても活動が鈍らないのは、さすが雪国のばっちゃだ。
私と細田氏は、ここで臨時の聞き取り調査を開始した。
つづく