隧道レポート 旧 田浦隧道 <前編> (横須賀市の明治隧道)

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2007. 3.23
公開日 2009.1.8

「旧 田浦隧道」はどこにあったのか。
「旧」と付くくらいだから、当然いまの「田浦隧道」の傍だろう。
そう思うのが普通である。

「旧 田浦隧道」についても、まずは周囲の道路環境の変化の中での盛衰を見ていきたい。


明治20年

 近世の「浦賀道」は「国道45号」に指定されていたが、この道には田浦〜逸見間の十三峠を始め、田浦〜船越間や、船越〜追浜間にも急坂の山越えがあって、車両の通行は不可能だった。

 長浦湾の奥に位置する船越地区では、江戸時代から埋め立てによる新田の開発が進められていた。この広大な平地に目を付けた海軍は土地の収用をし、明治19年に横須賀鎮守府の水雷営と水雷修理工場が建設され、船越周辺には多数の工員やその家族が住むようになった。
だが周辺の田浦や浦郷や追浜方面から船越に入るためには、急な山道を越えて歩くか、渡し船によらねばならなかった。

 明治20年に横須賀市域最初の民生のトンネルとして誕生した「梅田隧道」は、追浜や浦郷地区の人々が通勤のために建設した。

明治26年

 明治26年には、今度は田浦方面から船越へ入る「田浦隧道」が開通した。

 明治36年に船越の軍工場は大幅に拡張され、海軍工廠造兵部となる。当時7000人が働き、最盛期となる昭和10年代には3万人が働いた。船越地区の田園風景は全く姿を消し、梅田隧道や田浦隧道も通勤路として大いに賑わった。

大正11年

 横須賀に近代的な道路網が出現する少し以前、僅か10年ほどではあったが、この地域の交通路として大変重宝されたものがあった。それは海軍が設置した「横須賀水道」という軍用水道の水道路である。大正7年には田浦〜横須賀間の一般者の通行が許可され、11年には田浦〜逗子も許可された。

 これらの隧道のうち当時の姿を留めているのは、逗子市との境に掘られた「盛福寺隧道」で、重厚な煉瓦造りとなっている(立入禁止)。

昭和4年

 昭和4年当時の道路網である。
大正9年に国道31号へと改称された道は、いよいよ本格的な改良工事を施され、これが昭和3年までに完了した。

 このとき相次いで建設された浦郷、船越、田浦、吾妻、長浦、吉浦、逸見の7本のトンネルのうち、大正12年完成の船越隧道は(従来の)田浦隧道に隣接して建設された。

 また、昭和4年には船越〜逗子間の県道が改良工事を完成し、峠に沼間隧道が開通している。
これらの道の開通により、暫定的な水道道路の利用は中止された。

昭和27年〜現在

 戦中の輸送改良計画の一環として国道上の7本のトンネルのうち、浦郷隧道をのぞく6トンネルの複線化が計画されたが、新船越隧道は工事が間に合わず、昭和23年になってようやく完成している。

 戦後は海軍工廠その他の軍事施設の大半が解体された。図の範囲内に完成した戦後の主なトンネルは、昭和8年に梅田隧道の新道的な日向隧道が開通、昭和29年に新沼間隧道(複線化)、36年に新浦郷隧道(複線化)などがある。

上記は2010.6.25に全面的に改訂

というわけで。

我らが「旧 田浦隧道」は現在の「田浦隧道」の隣ではなく、「船越隧道」の隣にあるのがお分かり頂けただろう。
明治26年竣工の、大正12年廃止という遍歴は、前回の「長浦田の浦隧道」よりも少しだけ長命だった。


それでは、現状レポートだ。




 目立ちすぎる廃隧道


2007/3/23 16:39

国道16号を横須賀市中心部から横浜方向に北上すると、まずすぐに眼鏡型に各方向専用トンネルが並んだ横須賀隧道が現れ、一拍子置いてから再び眼鏡型の逸見隧道をくぐると、そこから田浦隧道まで5連続で重厚なコンクリートブロック製のトンネルが続く。田浦トンネルを抜けると間もなく各方向線が一つに戻り、JR横須賀線のガードをくぐってから田浦の町並みを通過。右に左に大きな道を分岐させてから、次に越えるべき小さな山並みを前方に補足。いよいよ7本目のトンネルが現れる。

それがこの船越トンネルだ。




 あるよ… 

2本の新旧船越隧道が活躍するその横に、見るからに 怪しい穴 が。
新・旧・旧旧と三世代の隧道が、同じ高さに並んで口を開けている、おそらく日本中でもここだけの景色だ…。

現役の2本はその古さを隠そうと真っ白な化粧で繕っているのに対し、もう死んでいる彼は黒い。




見た瞬間、嫌な予感がした。

この立地では、こっそり入れないんじゃ…。

来た時間も悪かったのだろうが、下校途中の学生や買い物の主婦たちが、坑口前の歩道を頻繁に往来している。
高速で過ぎ去ってしまうクルマならばいざ知らず、歩行者に目撃されるのは嫌だ。
彼だって不安を感じるに違いない。
しかも、隧道は高いフェンスで塞がれているし。この立地でよじ登るのは、私の中でも流石にNGだ。

 


中央分離帯から見る新旧の船越隧道。
左が新船越隧道(全長99.6m)で、昭和23年の開通である。
戦時中から建設が予定されていたが、終戦には間に合わなかった。
“間に合った他の5本”との違いは明らかで、新船越隧道のみコンクリートブロックではなく場所打ちのコンクリート製となっている。

そして、右が大正12年に開通した船越隧道(全長74.8m)で、国道16号の前身である国道31号の隧道中、最初に開通している。
やはり、このあとに開通した5本との違いが見られるが、それは次の写真で。




後年の改修によって、当初は煉瓦積みだったといわれる坑門は一変してしまっている。
しかし、他の隧道にはある壁柱が無く、代わりに特別な装飾が施されている。
坑口両脇の翼壁にある、西洋王家の紋章をイメージさせる幾何学的な石飾りがそれだ。

首都東京と守りの要の横須賀軍港を結ぶ国道に開通した、第一番目の隧道。
この装飾には、国威発揚の確かな意志を感じるのである。
願わくは、この白ペンキの坑門が本来の赤煉瓦であったなら、この大断面と相まって、どれほど辺りを払ったことだろう。
過ぎたることとはいえ、気の利かない補修が残念である。




また、この扁額も改修を耐え抜いた当初からのパーツの一つだ。
「舩」の字はよく見る船の字の異字体で、普段目にすることはほとんど無いが、お洒落だ。
また、小さな文字で「麻吉」と刻まれている。

安河内麻吉(やすこうち・あさきち)は、大正11年から13年までの神奈川県知事である。
大正期に静岡、広島、福岡、神奈川などの知事を歴任し、後に内務次官になった人物だ。




外回り線と内回り線を横断して辿り着いた。
旧田浦隧道

端正な隧道のとなりにあるせいで、コンクリート吹きつけの壁に髑髏の眼穴のように凹んだ坑門は、気の毒なほど見窄らしい。
この対比…。都会に口を開ける廃隧道の絵としては、最大のインパクトである。
それでも綺麗さっぱり塞がれていないというのは、この土地が県や国のものではない事を示している。

しかも、ただでさえ気色の悪い坑口の前に、一基の墓標が…。




墓石ではなかった。

大正十二年大震災殃死者群霊宝塔」とある。
「殃死(おうし)」が災害で死ぬことだと言う事は、帰宅後に辞書を見て知った。
だが、「震災」と「死」の文字から、それが関東大震災の死者を供養したものだと言うことは予想が付いた。

それよりも、なぜこの位置に供養碑が建っているのかが、私にとっての問題だった。

隧道の落盤か何かで、洞内において死んだ人がいるという事だろうか…。
もしそうなら、流石に入るのは気が引けるが、近くを歩いている人にそれを聞くわけにも行かないし、たぶん知らないだろう。

知らない方がいいこともある。
そう思い直し、洞内を探索する事にした。

この供養碑の正体だが、震災による隧道の落盤で死亡した人々(人数は不明)を弔ったものだと言うことが後日判明した。




封印と、衆人環視と、傍らに立つ、(落盤死の事実は知らずとも)死の文字が入った供養塔。

これでなお隧道へ入ろうなどと言うのは、尋常ではない。

そう。
私は尋常ではない。

街の一時代を支えた交通の跡を、この目で確かめたい。現状を知りたい。

幸い、隧道を塞ぐフェンスには「私有地」や「立入禁止」を明示するものはなく、フェンス自体も隙間が多い。
そのうえ、ここがいまだ隧道の形状を成している以上、私にも一分の利はある。

(などという屁理屈は、全て自分のためのものである。いくら自己責任とは言っても忠告はさせて貰う。皆様は入らない方が良い。理由は次回。)




進入。


立ち上がると、辺りはまるで物置のなかだ。

そのきわめて私的な雰囲気に、自粛せよと言う声が頭の一方から聞こえたが、ここまで着てしまったら毒を食らわば…、いや、「闇を食らう」しかない。



ごめんなさい。

ごめんください。


入ります。



参考資料
 『横須賀市史』 『道路トンネル大鑑(土木界通信社刊)』