隧道レポート 旧 田浦隧道 <前編> (横須賀市の明治隧道)

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2007. 3.23
公開日 2007.11.22

 「旧 田浦隧道」はどこにあったのか。
「旧」と付くくらいだから、当然いまの「田浦隧道」の傍だろう。
そう思うのが普通である。

 「旧 田浦隧道」についても、まずは周囲の道路環境の変化の中での盛衰を見ていきたい。


明治20年

 左の図は、「吉倉隧道」の回で使った地図の北に繋がる範囲で、現在の横須賀市の北端部に近い。
この範囲の道路の変遷を見ていく。

 まずは明治20年当時である。
この年に「浦賀道」が「国道45号」に改称されているが、この道には田浦逸見間の十三峠を始め、田浦と船越の間や、船越から六浦荘(現在の横浜市金沢区六浦)の間にも急坂の山越えがあって、車両の通行は不可能であった。
海岸沿いの梅田地区には、横須賀で最初の民生トンネルである梅田隧道がこの年に開通し、横浜方面への便路となった。

 長浦湾の最奥に位置する船越地区では、江戸時代から埋め立てによる新田の開発が進められていた。この広大な敷地に目を付けた海軍は土地の収用を始め、明治19年に横須賀鎮守府の水雷営と水雷修理工場が設置された。
田浦から船越新田にいくためには、急な山道を越えていくか、或いは渡し船によっていた。

明治26年

 明治26年、田浦〜船越新田の間の峠を貫く「田浦隧道」が民間の手により開通された。本編で紹介する隧道である。

 明治36年には船越新田の軍工場を大幅に拡張し「海軍工廠造兵部」となる。その当時でも7000人が働き、最盛期の昭和10年代には3万人が働くまでに成長した。
これに伴って船越地区の田園風景は全く姿を消し、大変栄えた歓楽街となっていった。
田浦隧道もまた海軍工廠への通勤道路として、毎日賑わった。

大正11年

 横須賀に近代的な道路網が出現する少し以前、僅か10年ほどではあったが、この地域の交通路として大変重宝されたものがあった。
それは、海軍が設置した「横須賀水道」という軍用水道の水道路である。
明治45年から大正10年までかかって愛甲郡の半原水源地から横須賀市逸見の浄水場まで水道管を設置したが、この水道管を通すための小さなトンネルが大変重宝がられたのである。
大正7年に田浦〜横須賀間の通行が許可され、11年には田浦〜逗子も許可された。

 水道路についてはまだ(私の)調べが足りないが、どうやら田浦〜逸見間にある、後に国道トンネルとなる5トンネルは、もともと水道トンネルがあった場所に作られた(拡幅?)ようなのだ。
具体的には、「新田浦」「新吾妻」「新長浦」「吉浦」「逸見」の5トンネルだ。
新逸見隧道は前に紹介したとおり明治24年開通の吉倉隧道を拡幅転用したものだったわけだが、逸見隧道までも水道トンネルの転用だった可能性が高い。(いずれ調査がまとまったら水道由来のトンネルだけで1レポ以上できそうだ)

昭和4年

 話を主役に戻そう。
左図は昭和4年当時の道路網である。
大正9年に国道31号へと改称された道は、いよいよ本格的な改良工事を施され、これが昭和3年までに完了した。
このとき六浦荘から横須賀までに7本のトンネルが建設されたが、そのうちの船越隧道が田浦隧道の隣に建設された。
そして、「田浦隧道」という名前は田浦の南に面したトンネルに移動した。
船越隧道の開通は大正12年で、この年を以て従来の田浦隧道は旧道となり、廃止された。

 昭和4年には船越から逗子までの県道が改良工事を完成し、沼間隧道が開通している。

 これらの“真っ当な”道の開通により、暫定的だった水道道路の利用は中止された。

昭和27年〜現在

 戦中から戦争直後にかけて国道の複線化が進められ、このときに先の7本のトンネルのうち、浦郷隧道をのぞく6トンネルが増設された。
このときに新船越隧道も増設されたが、幸い?にして旧田浦隧道があるのとは反対側に建設されたので、破壊を免れた。

 戦後は海軍工廠もその他の軍事施設も解体され、跡地は広大な工業用地となって現在に至る。(自衛隊の施設はある)

 図の範囲内での主なトンネルの新設としては、昭和8年に梅田隧道の新道的な日向隧道が開通したし、昭和29年に新沼間隧道、36年に新浦郷隧道などが建設されている(他にも主要道路以外には無数にトンネルが建設されているし、横浜横須賀道路や逗葉新道などの高規格道路も順次建設された)。


 というわけで。

我らが「旧 田浦隧道」は現在の「田浦隧道」の隣ではなく、「船越隧道」の隣にあるのがお分かり頂けただろう。
明治26年竣工の、大正12年廃止という遍歴は、前回の「長浦田の浦隧道」よりも少しだけ長命だった。


 それでは、現状レポートだ。




余りに目立つ場所にあるが

 それ故に………


2007/3/23 16:39

 国道16号を横須賀市中心部から横浜方向に北上すると、まずすぐに眼鏡型に各方向専用トンネルが並んだ横須賀隧道が現れ、一拍子置いてから再び眼鏡型の逸見隧道をくぐると、そこから田浦隧道まで5連続で重厚なコンクリートブロック製のトンネルが続く。田浦トンネルを抜けると間もなく各方向線が一つに戻り、JR横須賀線のガードをくぐってから田浦の町並みを通過。右に左に大きな道を分岐させてから、次に越えるべき小さな山並みを前方に補足。いよいよ7本目のトンネルが現れる。

 それがこの船越トンネルだ。




 あるよ… 

2本の新旧船越隧道が活躍するその横に、見るからに 怪しい穴 が。
新・旧・旧旧と三世代の隧道が、同じ高さに並んで口を開けている、おそらく日本中でもここだけの景色だ…。

現役の2本はその古さを隠そうと真っ白な化粧で繕っているのに対し、もう死んでいる彼は………。



 一目見た瞬間、えらく嫌な予感がした。
その理由を勿体ぶらずに言おう。

「通報されるんじゃね。」 そんな気がしたのだ。

だって、来た時間も悪かったんだろうけど、下校途中の高校生やら買い物に行く主婦やらが、その坑口の前の歩道を頻繁に通っているわけ。
しかも、その隧道はかなり高いフェンスで塞がれているときた。
よじ登っている最中を見られたら、流石に無関心な都会人だって、やばいんじゃないか…。  


 中央分離帯から見る現役の船越隧道たち。
左が新船越隧道で、昭和23年に開通している。全長は99.6m。
戦時中から建設が予定されていたが、終戦には間に合わなかった。
しかし、昭和17年から19年までに開通した、これに連なる5本の“新”トンネルとの外見上の違いは明らかである。(コンクリートブロックを使っていない)

 そして、右側が大正12年に開通した船越隧道(全長74.8m)で、一連の国道31号新道工事の中では最初に開通している。
やはり外見上に、このあとに開通した後続との明確な違いが見られるが、それは次の写真で。




 改修により、当初は煉瓦積みだったといわれる坑門の意匠は一変してしまっている。
しかし、一連の他の隧道にはある壁柱が無く、代わりに特別な装飾が施されている。
坑口両脇の翼壁にある幾何学模様の飾りは、石材によるもので、独特のものだ。
なぜそう思ったのか説明できないが、私は「イギリスっぽい」と思う。なんでだ?

もしこの白っぽい飾り石と要石とが、赤い煉瓦アーチの壁にあったらば、どれだけ映えていただろう。
過ぎたることとはいえ、気の利かない補修は残念だ。




 また、この扁額もまた改修によって失われなかったパーツの一つだ。
右書きにて隧道名がしたためられているが、「舩」の字はよく見る船の字の意字体で、普段は余り使われない。
また、小さな文字で揮毫者の名前が刻まれている。「麻吉」と。
なんとなく石工の名前かと思ったが、調べてみたら「安河内麻吉」は、大正11年から13年までの神奈川県知事だった。
彼の在職中に開通したのは一連の隧道の中でもこれ一本だけだったせいか、他の扁額には揮毫がない。

 上記の通り、この船越隧道は一連の隧道群の中で特異な外見をしているが、首都東京とその守りである軍都横須賀を結ぶ新動脈の栄えある第一号開通トンネルということで、最も短い延長ながら特別な配慮が働いたのだろうと考えられる。




 で、外回り線、内回り線(国道16号は環状線なので上下線がない)を横断し、辿り着きました、旧田浦隧道


 中は埋め戻されているっぽいな…。

しかし異様な姿だ。
都会に口を開ける廃隧道の絵としては、これ以上ないインパクトかも知れない。
もうすこし文化財然とした顔だったら良かったんだろうけれど…。
しかも、なぜか墓標が…。
一応舗装された坑口前の道は、ここが所定の駐車場らしい軽自動車のための専用道路と化している。(もう私有地なのかも知れない)
でも、この道幅なんかは貴重な証拠と言えるかも、明治時代の車道の。



 ゴメン。
それは墓石じゃあなかった。
でも、墓石のもっと全体的なものというか… 供養塔だった。

表面に書かれた文字を一部拾ってみると、「大正十二年大震災殃死者群霊宝塔」「大正十三年九月二日建立之」「帝国在郷軍人会」など、私には実感の湧かない内容。関東大震災のことだと言われても、ピンと来ない。
しかし、「横須賀市史」にはこの一帯でも震災による激甚な被害があったことを伝えている。
特にこの隧道で”何か”があったのかは、分からなかったが…。




 とりあえず、衆人環視の危険と、墓標の気配。

これだけで私の戦意は80%くらい削られてしまった。
前者がうち9割だが、それでも「殃死」(おうし=災害で死ぬこと)という見慣れない単語を、さらに言えば「死」の文字を、この得体の知れない廃隧道の前で見せつけられた精神的ダメージは、無視できないものがあった。
これは、流石にテンションの上がりようもない…。

だって、塞がれ方も気持ち悪いんだもの。
これだけ都会にあるのに、人通りのある目立つ場所にあるのに…
なんでヤンチャ君の入った跡がないのーー?!

世のオブローダー諸兄の探索報告も、なぜかないし。







 入りたいけど…

  入りたいんだけど……




   なんか嫌だなー。



本レポートの「後編」については、急遽再調査の必要有りと判断いたしましたので、更新を一旦延期いたします。申し訳ございません。
再調査完了後、更新完結の予定です。
参考資料
 『横須賀市史』 『道路トンネル大鑑(土木界通信社刊)』 『田浦を歩く(横須賀市(田浦地域文化振興懇話会))』