隧道レポート 国道128号旧道 旧行合隧道(仮) 前編

所在地 千葉県勝浦市浜行川
探索日 2010.2. 4
公開日 2010.2. 8


大物攻略の直後にこそ、リラックスという魔物が潜む。

アレキサンドロス・オブロドス(紀元前236-155)

今回はそんなオブローダーの古典的教訓を見せつけられた、屈辱の再訪探索である。




【周辺地図(マピオン)】

外房の海岸沿いを通り房総循環線の一部を構成する国道128号。
この地図は、勝浦市浜行川(はまなめがわ)一帯における新旧路線の比較である。
旧地形図は明治36年測図版の5万分の1「天津」を用いた。

当時はまだ国道ではなかった路線上に、2本のトンネルが連続して描かれている。
左の現行地形図と見較べても、その様子に違いはなさそうである。

だが、この何気ない地図風景にこそ落とし穴があった。
北側の行合隧道の方向と長さは、誤差で片づけられないほど現行地図と異なっている。



注意深いオブローダーであれば当然、ここには左図のような旧道と旧隧道の存在を疑うべきであった。

だが私は昨年(平成21年)3月に一度実施した「国道128号旧道巡り」において、これを華麗にスルーしていた。
この探索では「浜隧道(仮)」「向台隧道」などの成果を得ていたが、ここには気付けなかったのである。

その敗因は一つではない。
まず事前調査の新旧地形図対照の作業において、“なんとなく2本の隧道が並んでいる線形の微妙な違いを区別できなかった”こと。
そしてもうひとつは、現地踏査時における旧道入口の無観察無発見だった。

はっきり言って情けないが、イイワケをしたい。

この浜行川は、あのスリリングな難所「おせんころがし」の探索を終えた直後に通過してしまう集落なのだ。

……。


さて、それではどうして自分のミスに気付いたのかということであるが、先の「向台隧道」のレポートでも引用した「夷隅郡誌(大正12年)」の「道路」の項にある「県道勝浦北条線」の説明文が最初だった。
そこには「部落毎に隧道あり」として、次の7本の隧道がリストアップされている。(茶色の文字は私の注記)

位置 (「隧道リスト」での対応)全長(メートル換算)幅員高さ
串浜松部間 串浜隧道(現役)290尺4寸(88.0m)14尺11尺
松部東隧道 松部隧道(現役)150尺6寸(45.6m)14尺7寸11尺7寸
松部西隧道 鳥越隧道(現役)253尺2寸(76.7m)16尺東口15尺 西口12尺6寸
鵜原隧道 向台隧道(廃止)63尺6寸(19.3m)14尺5寸東口14尺 西口11尺
鵜原守谷間 鵜原隧道(現役)271尺8寸(82.3m)16尺東口11尺5寸 西口12尺
興津東隧道 ???180尺(54.5m)12尺14尺
興津西隧道 浜行川隧道(現役)144尺(43.6m)14尺12尺5寸

位置的には、「興津東隧道(これが名称なのか単に「位置」を示したものかは不明)が、隧道リストや現行地図の「行合隧道」と対応することになるが、メートル換算した興津東隧道の長さが54.5mであるのに対し、行合隧道は182mもある。(ただし隧道リストは隧道名を誤記したらしく、「行川隧道」とある)
これは明らかに別の隧道を示している。

ここから違和感を憶え、地図を精査した結果「旧隧道がありそうだ」という結論に達したのは、向台隧道のレポートを書き終えた頃。
すぐにでも見に行きたかったが、夏場の房総はヤマビル天国だという事で足が遠のき、今回やっと冬を狙って再訪してみたのである。

なお私がノロノロしているうちに、sin氏という方からも「現行の興津浜行川の境のトンネルができる前に通っていたという旧道があります。閉鎖されてかなり年月がウン10年と経っているので、今は通れるのか、そもそも道が崩れずに残っているのか分かりませんが…」という内容の情報提供もいただいた。これにて存在を確信した候。ありがとうございました!



それでは、国道128号関連で4番目となるレポートを始めよう。

その結果、


房総半島ではとても珍しいものが、出て来た。




見逃していたものは、重大だった!!



2010/2/4 15:08

今回は前回とは反対に、北側(勝浦側)からのアプローチとなった。

奥に見えるのが現国道の「行合隧道」で、緒元は後に述べるが、まず読み方だけ。

ここの地名…「浜行川」の読み→ はまなめがわ

でも、隧道の名前…「行合」の読み→ 
 ×なめあい 
 ○ゆきあい




これが、今回初めて知った旧道の入口である。

国道128号の旧道のなかでは、多分ここが一番分かりにくい入口ではないだろうか。
確かにひょろひょろとした小径が右に分け入っているが、旧道らしい感じはあまりない。
そこにあることを知っていない限りは、前回の私のように無意識に通り過ぎてしまう可能性が高い。
まして反対側からだと後ろ方向に分岐しているわけで、ハードルはより高い。

しょしい(恥ずかしい)自己弁護はこのくらいにして、さっそく進もうか…。




軽く下草を刈られた地道が、右手の堀割となっている外房線と平行するように続いている。
保線用通路になっているのかも知れないが、草葉の陰には沢山の不法投棄物が見えた。
また、正面の山は意外にも高く見えるが、隧道はこの後左にカーブして、ここからは見えない山を抜くと思われる。

ここまで来ても、旧国道らしさは全くと言っていいほど感じられない。

しかしそれも無理からぬことで、「行合隧道」と引き替えにこの旧道が廃止されたのは、57年も前(昭和28年)だ。
ちょうどこの年に現行の道路法が制定され、それまでの「県道勝浦北条線」が「二級国道128号館山茂原千葉線」へ昇格したのである。

だから、このレポートのタイトルは少し間違っていて、正確には国道128号の旧道とは言えない部分がある。
こういうのを上手く表現できないので、分かり易いタイトルにしたが…。




《現在地》

入口から約100m。

表面的な道は、あっという間に終わった。

ここは広場のような場所で、草が良く育っていた。


だが、旧地形図を信じるならば、道はなお左に折れて続いているはず。

いかにも房総らしい照葉樹の垂れ込めた森へと、お辞儀しながら入っていくと…




うひょ!

って、思わず声が出た。(マジで…笑)

道が見えるとか、そう言うレベルじゃない。

まるで人口河川のような、浅く平坦な堀割。

正直、最初は少し我が目を疑いもした。
綺麗に残りすぎているような気がした。
だが、この先にある物を見て、道と断定するより無かった。





役割を終えた道が、ただ穏やかに時を重ね続けた、

その理想的な姿のようである。




道には、目に見える形の轍は残っていなかった。
だが、何者かが通ったのでなければ説明の付かぬものが、多数散乱していた。

左は碍子。
幾つもあったので、道に沿って電線が通じていた可能性が高い。
右は貝殻。
鳥が運んだのなら、道路上にばかり落ちている事の説明をどうする。(割って食べるために路面の砂利に落としたのか?)
下校途中の子供たちの関与を感じさせるが、どうなんだろう。




15:14 《現在地》

望んで得がたいほど模範的かつ快適な廃道だったが、惜しむらくは山の規模が小さすぎる。
これまた100m少々の前進で、谷が二手に分かれるところの大きな広場に突き当たった。

谷とは言っても普段は水の流れない、その明確な流路さえない穏やかな地勢だ。
道の本線は真っ正面のやや狭い谷へ分け入っていくのが見え、その先には望ましい結末が予感されたが、道はそれだけではなかった。

右のより幅広の谷に沿って、その山肌を袈裟に斬る細い平場=小径。

その正体に、心当たりが…。




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何はともあれ、正面の道なんだけど…



あるね。 

隧道ある!


やっぱり一本見逃していたんだ!!

悔しいけれど、まあいい。
こうして見つけられたんだから、まあいいよ。




隧道ゲットが確定した状況で、余裕が出て来た。

この可愛らしい山を、もう少し味わってみたい気もしていた。

そこで、先ほど「心当たりがある」といった小径、枝道のほうを、先に調べてみることにした。

その行く末を確かめてから、改めて隧道を楽しんでも遅くはないはずだ。

まあ、もし先に隧道に近付いていたら、こんな他愛ない寄り道など一瞬で吹っ飛んでいたと思われるが…。




左図が、この小径の“心当たり”の元ネタである。

明治13〜19年頃に作成された迅速図式の地形図(2万分の1)には、いかなる隧道の姿も見られない。
しかし道がないかといえばそうではなく、「濱行川村」から東へ移ること2つ目の沢に峠越えの道がある。

この地図の通りなら、少なくとも明治13年以前に無かった隧道が、明治36年までに出来たということになるわけだ。

逆に言えば、この迅速図の道が旧隧道の道とは別に存在したと断定できれば、先の「明治13〜36年隧道完成」という推定が真実みを増すわけだから、意味のある捜索でもあった。




何か表面に焦げ目のある岩(謎)が落ちている杉林を歩きつつ、次第に上へ離れていく小径を見送る。

なぜ小径を歩かないのかと問われそうだが、深い意味はない。
なんとなく乗り遅れたら、こうなった(笑)。

だが、遂に小径が峠に達したように見えたので、少し戻ってから小径目指して登ってみると…




小径は幅1間にも満たないものであったが、岩場を削って片山片崖の道形を出している。
その勾配も、荷の入った荷車を二人がかりで押し登れるかどうかというくらいきつく、明治初頭までの「房総東往還」がいかに厳しかったかを垣間見た。
もっともこれが本道であったのか、別に本道が道があったのかは、未調査である。




15:21 《現在地》

かつては名前があった峠だろうか。
浅い堀割が岩盤に掘られた、海抜70mの峠に立つことが出来たが、見晴らしは良くない。
真っ正面は太平洋である筈だが、照葉樹の目隠しがきついのである。

また、旧々道というべきこの明治の道には、意外に近年まで人手が加わっていた感じである。
というのも、土地境を示すプラスチックポールが道に沿って立っていたり、序盤から沢山見た碍子がこの道筋にも散見されたりした。
電線は隧道によらず古道沿いに尾根を越えるというのは、良くあるパターンだ。




峠を越えて浜行川集落へと下る部分には、電光型の九十九折りが刻まれていた。
これを見ても良く踏まれた道だったと理解できるが、間違いなく自動車道ではない。
「勝浦市史」によれば、明治10年代に県道(房総東往還)が開削されたとのことだが、それが隧道を示すのか、この旧々道の事なのかも分からない。(前者だと思うが)
時代が下って、明治43年には勝浦〜鴨川間に乗合馬車が運行を開始したとのことであるから、この段階では間違いなく「おせんころがし」の旧々道が開通しており、先ほどチラリと見えた「旧行合隧道」も出来ていたことになるだろう。

明治道を想像する時間というのは、なんで人をこんなに心穏やかにするんだろう。




しばらく(といっても数分)下ると、まず笹藪に覆われた廃屋の残骸があった。
周囲は平場で、数軒の屋敷が道沿いに有ったことが分かる。

道もここで不鮮明となったが、強引に藪を突っ切って進むと集落道に出て、それはそのまま現国道へ繋がっていた。
まあ、旧々道はこれで良いだろう。




15:29 《現在地》

浜行川集落外れの現国道から、浜行川隧道を望む。

見ての通り、とても短い隧道である。
そして、変わった形をしている。

お馴染み「隧道リスト」によれば、その緒元は以下の通り。

浜行川隧道
全長:41m 車道幅員:5m 限界高:4.5m 竣工年度:昭和26年



だが、この隧道が明治由来のものであることは地形図などにより明らかだ。
明治隧道だ!」と声を大にして言いたいところだが、こと房総半島においては珍しくも何ともない数百分の1でしかない存在だ。

いずれにしても、現在のコンクリート巻き立てや、白御影石の扁額は、昭和26年の改築によって得たものだろう。
それ以前の姿については、記録が無いので分からない。
位置的にはこの後に向かう「旧行合隧道」と不可分な存在であるから、同じような姿であったとも想像できるが、冒頭に引用した「夷隅郡誌」によると、本隧道の旧緒元は…

興津西隧道
全長:43.6m 幅員:3.6m 高さ:3.8m 

となる。
幅も高さも微妙に「興津東隧道(旧行合隧道)」とは異なっている。




矩形に近い扁平な形をしているという他は、あまり見るべきところのない浜行川隧道だが、抜け出た先の東口前に、不思議な横穴が開いていた。

疾駆する車にお尻を蹴飛ばされないように注意しながら覗いてみると、中はなみなみと水が溜まった、行き止まりの洞窟であった。
この方向に3〜40m掘り進めば海岸線に出られるはずだが、未成の隧道というわけでは無さそうである。
また、同じように路盤より低い位置に掘られた水没洞窟を、向台隧道の西口横でも見ている。

いったいこれらは何なんだろうか。
個人的には昔の防火水槽の跡かと思っているが、機会があれば地元の人に聞いてみたい。




15:32 《現在地》

さて、始めるぞ。

旧行合隧道の南口は、この左上の山中にあるはず。

とはいえ、再び自己弁護をさせてもらうと、前にこの場所を通りかかったときに旧道の存在に気付けなかったのも、全く無理のないことであったと思う。

この現道の線形はいかにも自然だし、カーブの内側に旧道が分かれていくという経験自体が少なく、しかも段差(石垣)があると来た。
加えて段差の上は覆い被さるような藪だから、よほど確信が無ければここに道を見出しがたいだろう。




旧道への“確信に満ちた一歩”を踏み出す前に、前回私の“オブ目”を容易にくぐり抜けた、ニセ明治隧道の顔を確認しておくことにした。

行川隧道(銘板は「行合隧道」なので、誤記と思われる)
全長:182m 車道幅員:5m 限界高:4.5m 竣工年度:昭和28年

竣功は昭和28年で浜行川隧道の2年後。断面形状も一般的なアーチ形だ。
余り似ていない2本の隧道の唯一の共通点は、同じデザインの銘板であろう。




また、洞内にはご覧の通り、激しいカーブが存在する。

見通しが極めて不良であり、歩道がない危険性は浜行川隧道の比ではない。
そのため、隣に昭和53年竣功の「行合歩道トンネル」がある。
そちらは林鉄用というくらいのサイズだ。

房総の明治隧道は数あれど、カーブがあるものは極めて少ない。
この隧道が明治由来ではない事の根拠の一つだが、前は「おせんころがし」攻略の余熱に絆(ほだ)され、そこまで考えが至らなかった次第。

反省会、終わり。




4枚上の写真で、赤い○を囲んだ部分。

そこはただのコンクリート吹き付け法面に見えて、実は階段のステップが切られていた。

これこそ、失われた旧道へ繋がる最後の良心に違いない。


冬なお起つススキ藪への、最終的行進の開始である。

恐らくそう遠からず、旧行合隧道の南口が現れるはず。



…埋もれていなければな。









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