橋梁レポート 三好市池田の巨大廃橋跡(池田橋) 第1回

所在地 徳島県三好市
探索日 2024.02.26
公開日 2024.03.20

《周辺地図(マピオン)》

三好(みよし)市は、徳島県の西端を占め、四国を構成する他の3県の全てと接する立地にある。
その中心市街地である池田からは、4県すべての県庁所在地へ通じる国道が東西南北へ交差しているほか、かつて四国最大の舟運があった吉野川の河港跡があり、それが鉄道へ置き換わった後も土讃線と徳島線が連結する重要な駅が置かれている。そのため池田には四国を代表する交通の要衝として発展してきた長い歴史がある。

そんな池田の地で、土地に根付いた交通史の深みを窺わせるような、驚くほど巨大な廃橋と出会った。
そして、最近の私にとっては珍しく、衝動的で突発的な探索を決行した。

最近の探索は、出発地である秋田から遠く離れての長期遠征であることが多いため、土地鑑の弱さを補うべく、事前に探索対象を選定して巡る順序もある程度決めてから出発している。そして現地では、探索計画の進捗度合いと、残り時間や体力および天候などを秤にかけて、次の探索場所の取捨選択や順序の入れ替えを行う。探索計画は相当にタイトなスケジュールであることが多く、旅先で事前情報のない廃道や気になる道をたまたま見つけても、探索に要する時間や体力の予測が立てづらいことから、その場で咄嗟に探索を始めることは少なく、一旦記憶に留めて帰宅後に精査をしてから、後日に改めて探索の機会を設けることが多い。

だが、そんな熟年の小賢しさを一瞬で破壊してしまうほどの衝動を、瞬時に私の中に発生させる突発の出会いも、もちろんあるのだ。
今回は、そのセンセーションの一例だった。
出会いの経過を、最初に説明する。



2024年2月26日、この年の1回目の四国遠征の初日。
時刻は15時頃。場所は三好市池田。道は初めて通る国道32号。
予定している次の探索地を目指し、エクストレイルで西方向へ進行中であった。

当初の予定では、池田はただの通過地点であった。



この時の前窓にある国道は、吉野川の堤防に作られたゆったりとした幅広の道路で、背景は、巨大な地溝帯を流れる吉野川の雄大かつ直線的な河谷風景だ。
国道はこの先、川幅を狭める形に突出する段丘崖の鼻面を、池田トンネルというシンプルな名のトンネルで貫きつつ登坂し、段丘上にある伝統的な池田市街地を掠めて通り過ぎる。
(なお、これを含めて探索開始までに撮った写真は全て、最初に運転しながら通りかかった時のものではない。直後の“探索中”に近い位置の歩道から撮り直したものである)

このときに、私の目は、遠くの“異常”を察知し始めた。


すこし進むだけで、察知した“異常”は、間違いなく確かなものへと変わった。

あれは、橋の跡か?

池田トンネル近くの突出した川崖の中腹に、超大型の橋台と見えるコンクリートの構造物がそそり立っているのを見た。

同時に、その真っ正面の対岸の位置にも、おそらく同形の超大型橋台構造物の屹立を目視した。



こちら岸(吉野川の右岸)に聳える橋台様構造物のアップ。

ヤベえ規模だ。

ちょうどすぐ手前に民家があり、サイズの比較対象になっている。
やべえ、規模である。まるで西洋の城塞だ。スーマリの各ワールドステージ3のゴールに待ち受けている城のサイズ感である。

しかも、ただ大きいというだけでなく、なんともいえない特徴的な形状がある。
特に、アーチ部に中二階のような空間があるのはなんだろう?
いまだかつて、見たことがない、気がする。



対岸のそれのアップ。

遠いので小さく見えるが、いやいや、これも近づけば此岸のものと同じサイズ感ではないだろうか。

ちょうど良い具合に対岸を並走する道路が隣接していそうだ。簡単に辿り着けそうである。


……ただ、実際には国道の早い流れに乗って走行中の発見だったから、これらの写真のような情報量は得られなかった。
それでも、馬鹿でかい廃橋の橋台があることは分かった。
車速を緩める暇もないまま池田トンネルへと突入した車窓からは、この橋の一切は完全に消えてしまい、そのまま通り過ぎることが既定路線となった。


だが、私は次の駐車帯に車を停め、考える時間を持った。



この地図に描き足した位置に、橋の遺構が存在する。

地図読みで、この辺りの川幅は約200mあり、両岸の余分も足すとたぶん長さ250mを越える規模の大型橋だ。

しかも、隣接する位置にこの廃橋の“新橋”らしきものが見当らないのが印象的だ。
一応、700mほど上流には池田ダムの堤上路が解放されているが、新旧関係のようにはどうにも思えない。
下流側の隣接橋となると、1.5km離れた所に架かる国道32号の四国中央橋があるが、離れすぎている。

計画にはなかったが、ちょっと自転車を出して見にいってみるか。

車で戻っても停める場所がなくて苦しみそうだし、小回りが利く自転車がいいだろう。
これをやると時間的に、今日この後に予定していた探索は出来なくなると思うが、通りがかりに見えたあの橋の城塞めいた厳ついシルエットは、最低でも数ヶ月後となるだろう再訪まで、私の中に大人しくしてくれなさそうだ。
あと、一度持ち帰れば、現地探索より先にネットで正体を知ることになると思うが、その展開もちょっと勿体ない気がする。
せっかくこんな目立つ大きな廃橋なのに、遭遇の瞬間までバレずにいてくれたのだから、ここは私も、ネタバレ無しで、いっちょ取っ組み合ってみようという気になった。


ネタバレ注意

本橋の正体について、既にご存知の読者も少なくないだろうし、そうでなくても、橋名や特徴から検索すれば、即座に答えにありつけるだろう。
だから、わざわざ勿体ぶるつもりはない。
たまたま私は、現地で何も調べる前に探索を“楽しむ”幸運に恵まれたが、先に正体を知りたい人は、検索するなり下のボックスにカーソルを合わせるなりして、正体を知った上で読み進んで欲しい。
一つだけ言えるとしたら、正体を知って読んでも、知らずに見ても、この橋はトテツモナク魅力的な存在であるということだ。






 巨大廃橋の左岸橋台へアプローチ


2024/2/26 15:20 《現在地》

近くに車を停め、探索道具を身につけ、自転車へ乗り換えて出発した。
ここは池田ダムの入口で、右の道が国道32号(高松方面)だ。
これから池田ダムの堤上路を渡って吉野川の左岸へ行き、車上から発見した巨大廃橋の左岸橋台とみられる構造物へアプローチする。
ここから目的地までの距離は1.5km強である。



15:22

池田ダムの堤上路を渡る。
ダムは吉野川の本流を堰き止めており、堰堤の高さは24mと高くはないが、水量が多い河川本流に設置された本流式ダムとしては本邦有数の規模を持つ。
完成は昭和50(1975)年で、発電や取水などの多目的ダムとして建設された。
ギロチン状の巨大な9連水門が並列する姿は厳つくて、好ましい。

道はそのまま堤上路へ。正式には管理橋堤体道路とされるこの橋は、ダム管理者である水資源機構が一般の通行に解放しており、両岸の地区を結ぶ路線バスもここを通行する。
そして実際に橋上に立つとき、上述の多連装巨大水門が放つ迫力は、息を呑む最高潮に達する。



が、私の注目の焦点は、水門とは反対の下流側にあった。
ダムの約1km下流の地点が、問題の廃橋の所在地である。

堤上路から下流を眺めると、まさにこれから向かおうとしている左岸の橋台らしきコンクリート巨大構造物がはっきりと目視できた。
左岸には、1本の県道が走っており、現地への唯一のアプローチルートとなる。
しかも、ここから見える県道の白いガードレールと、コンクリート巨大構造物は、水面からの高さがほぼ揃っているようだ。
この調子なら簡単にアクセス出来そう。



ダム管理事務所の脇を通って、坂道を少し上ると、左岸の県道、徳島県道267号白地州津(はくちしゅうづ)線へ。
写真は、県道の手前から、ダムおよび対岸の池田市街地を振り返って撮影。
ウィキペディアの記述によると、ダムの水門一つ一つが、右に見える3階建ての管理事務所の建物がすっぽり収まるほどデカイらしい。

ダムを後にして、左岸県道を漕ぎ進むこと、約5分。



15:28 《現在地》

県道が、山手から降りてきた別の道(市道)と合流する地点に来た。
地図を見ると、目指す場所はもう間もなく、150m以内のようだ。

またちょうどこの場所は、道が川べりの崖に際どく接していて樹木も少ないために、眼下20mにある吉野川の流れを広く見渡すことが出来た。
次の画像は、対岸を見張らしたものである。(↓)



見えてる、見えてる、今度は右岸の構造物が、対岸のかなり正面に近い角度で見えていた。
すなわち、その対面にある左岸の構造物が、間近であるということだ。
改めて見ても、構造物上部の橋面がすっぱと切れた先端部、そこと水面との落差が、生半可じゃないな。
背後に広がる現代的な建物群と比較しても、低くは見えない存在感だ。

現役時代は、さぞや荘厳な橋であったことだろうに……、
橋台を除いた橋の本体部分は、盛大に爆破撤去でもされたものか、おそらく橋脚らしき長円形ないし長方形の断面を有するコンクリート構造物が、橋台前面延長線上の河中水面より僅かに浮上しているのが見えた。
その起立したまま根元より破壊されたような雰囲気が、橋の爆破撤去という日本では滅多に行われないイベントを想起させたのである。

まさか、空爆でもされたか…………。
ずいぶん、ド派手じゃねーか……。



15:30 《現在地》

キタ―――――!

つか、めっちゃしれっとある。

これだけ目立つのだから、近づけば何か史跡案内板のようなものがあるだろうと予想していたが、なさそうだぞ。少なくともこちら岸には。

私を含む国道の通行人から至って自然と目撃され続けている右岸のそれに比べると、おそらく日陰側の存在であるこの左岸の構造物だが、規模はおそらくひけを取っていない。
車上から数瞬目撃しただけで、私をこうして引き返させたほどの圧倒的な存在感……特に私好みの西洋城塞を連想させた重厚感は、平穏平凡な舗装道路の傍らに草生した姿と成り果ててなお、“その筋の人間”を放っておかない強烈なインパクトを放っていた。



いまはもう全く届かなくなってしまった対岸の対成す存在と、意味の上ではなお通じて、巨大な吉野川を二分していた。
そんな対岸の遠さはそのまま、この橋の誇らしい過去の栄光と思われて、私に強い憧憬をもたらした。
(ネタバレ組の皆さまに言いますが、上の考えがあまり正しくないということは、正直、現地では全く想像しなかった)

こうして間近に見ると、やはり相当に年期を経たコンクリート構造物だと思う。
時期を確実に絞れる要素はまだ見えないが、デザインの中核にアーチを用いていることや、一つの橋台の四隅に大型の親柱を置いていることなどは、いかにも戦前のモニュメンタルな橋の設計ぽい。だがその一方で、煉瓦や石材を用いた組積製ではなく、場所打ちコンクリートだけが使われている点において、明治までは遡らないといえる。

橋桁の型式も、橋台の橋座高の大きさや、河中にはおそらく橋脚を2本までしか下ろさなかったであろう支間の長大さから、自ずと限定される。
型式は、上路トラス橋であったろう。
そのうちの細かい型式違いや、素材の違い(さすがに木製トラスでは無いと思うが…)までは、橋台からは読み取れないが…。
仮に3径間で200mの橋長を持っていたと仮定すると、1径間70m近いトラス桁となり、わが国の比較的初期の単純トラス桁における標準的なスケール感になりそうだ。

ただ、橋脚跡らしきものは今のところ対岸寄りの1本しか見えない。
その位置がちょうど三等分の一に見えたので、3径間を予想したのである。



ぐぬぬぬぬ…!

藪濃いな!!!

2月でこれだと、夏場はこの位置からは完全に橋の姿が消えていそう。

しかも、立派な親柱から始まる橋台の手前の地面が大きく窪んでいて、“地続き”ではないっぽい。

簡単にアプローチ出来そうだと思ったが、ここに来て、問屋仕舞いか。

藪も濃いし、ちょっと面倒くさそうだぞ……。






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