橋梁レポート 国道415号旧道 千石橋 中編

所在地 石川県羽咋市
探索日 2026.04.20
公開日 2026.05.30

 橋を渡り、そして潜り込む、“核心”へ。


2026/4/20 11:17 《現在地》

奇絶なる“二階建て”の橋である千石橋。
まずはその2階部分にあたる橋を渡ってみよう。

この橋、地理院地図などでは普通に車道として描かれているし、現地にも国道からここまで特に封鎖もないのであるが、実際は見ての通り、廃橋であることを強く窺わせる路面状態である。
封鎖されていないとはいえ、徒歩や自転車、バイクならともかく、この状態の橋に、重い自動車で乗り込むことには、リスクを感じる人も多いと思う。

……しかも、この橋を支えている2本の橋脚は、おそらくこの橋よりも古いであろう旧橋らしきものに立脚しているのであって、すなわちこの橋はその“旧橋らしきもの”に支えられているのであって、なんとも“耐荷重性能の得体の知れない橋”といえる。

そんな構造的には怪しすぎる橋だが、とりあえず草生した古橋の佇まいは素晴らしい。
チェンジ後の画像には、四隅の親柱に刻まれている銘板の文字を書きだした。



四隅の親柱は、花崗岩らしき石材を組み合わせた、古橋に相応しい重厚な構造物であった。
完成当時は、この上にさらに街灯柱が取りつけられていたのかもしれない。モルタルで何かを固定していた痕跡があったが、失われていた。
また、各親柱に1枚ずつ銘板があり、それは石材の表面に直接陰刻されていた。



橋の上の路面は、後年の舗装ではなく、本来の橋面であるコンクリートが露出していた。
ただそれは一部で、大部分は浅い草生えで隠されている。

橋は3径間連続になっている。
床板の継ぎ目は見えづらいが、コンクリート造りの高欄にも切れ目がある。
また、よく見ると、各径間の床板は水平ではなく、中央径間に向かって両側から山なりの勾配が付いている。
ただ、それが本来の意図した構造なのか、老朽化による変状の結果なのかは判断が付かなかった。

チェンジ後の画像は、橋の中央付近から振り返った。
交通量の多い現道が間近にあるが、両者の空気は混じり合っていない。そんな印象を受けた。



橋は羽咋市の大字境になっており、右岸は神子原町、左岸は千石町である。
両者は明治22(1889)年の町村制施行時に早くも一体となって北邑智(おおち)村を形成し、以後は邑智村、邑智町、羽咋町、羽咋市と数回の合併や改名を経て現在に至っている。
橋を渡った先が千石町だが、竹林が路上に覆い被さるようになっていて見通しが悪い。だが道自体はしっかり残っている。

チェンジ後の画像は、橋の上から上流方向を撮影。
すぐ先に、先ほど自分がこの橋を眺める視座とした取水堰堤があり、それによって堰き止められた広い河原がある。神子原ダムが200m上流にあるが、鬱蒼とした竹林に隠されて見通せない。



千石町側の2本の親柱を撮影した。

片方が竣工年、もう片方が橋名のコンビで、内容的にこちらが起点側のようである。
現在の国道415号も、羽咋市が起点で富山を終点とする東行の路線であるから、こちら側が起点である。
その国道昇格直前の前身は主要地方道氷見羽咋線といって、これは西向路線であるから、逆だった。
なんてことを銘板を見ながら思ったが、本橋架設当時の路線名については、机上調査で調べたい。

そして、銘板に刻まれた昭和8年という竣工年もなかなかの古さであるが、古橋巡りの活動をやっていると既視感が強い年代でもある。
昭和7〜10年辺りの竣工年を持つ古い橋が多いのは、当時の全国的な不況対策として国策的に行われた時局匡救土木事業によって、各地の主要な道路橋の“永久橋化”(木橋をコンクリート橋へ更新する)が積極的に行われたからである。
本橋も、偶然の一致でなければ、この事業の助けを受けて架けられた橋の可能性は高いと思う。

それにしても、私がいままで目にした“橋オンザ橋”の現橋側として、昭和8年竣工は最古である。
普通に考えて、この下にある橋は、これよりも古い世代の橋なのだろうから、なかなかである。
確かに、コンクリートアーチ形式からは古い橋っぽさを感じはしたが、昭和8年以前とは、……やりおる。



11:20 《現在地》

渡った橋を振り返り。

この写真だと、橋が山なりの勾配を持っていることが分かると思う。
特に高欄の部分が分かりやすいか。
改めて、橋の規模としては、目測で、全長25m、幅5mほどである。



橋の先には、こんな感じの廃道なりかけのような“草道”が伸びている。

通常であれば、これで「千石橋終わり」で先へ進むところだが、

主役の登場は、こっからだ。

今一度振り返り、千石橋の下にある“謎の橋”へと向かうぞ!



左岸の上流側の岸は密生した竹藪で、一見踏み込みがたいが、他の三隅よりも地形が穏やかなので、豊富な手掛かり足掛かりを使いながら安全に下りていくことができそうだった。

実際の落差は、ほんの数メートル。

橋から谷底までの高さのおおよそ3分の1くらいを下りるイメージで……




11:22:22

来られた〜! 橋の下の橋!

【このアーチ橋】部分に入り込んだのであるが、ふだん利用者として目にする“橋のどの部分”にも該当しないイレギュラーな眺めで混乱する(笑)。
あと単純に、現状を適切に伝えるにはカメラの広角性能が圧倒的に足りない。
先に客観で見た構造物の中に一員となるような形で入り込むと、どこを撮影しても1枚では足りない。
この空間にたどり着いた瞬間は、目にする四方八方が同時に未知であったから。

……そんな、伝えきれない歯がゆさに覿面に効くのが、これだ……(↓)




そう! こんな撮影対象に急に内包された場面こそ、“全天球写真”が最も輝くときだ!

(↑)まずはこれを見てくれ。凄いぞこれ。

本当に、橋の上に橋が建てられている。

下の橋の路面に、上の橋を支える橋脚が建つという、【側面から観察した構造】通りの実態が、目の前に展開している。
しかも、ここへ来てはっきりと分かったこととして、上下の橋の幅がほぼ等しい。
さらに、微妙に斜行しているなんてこともなく、上下の橋は完璧に同方向に重なり合っている。
橋長だけは、アーチ橋である下の橋の方が短いが…。


……マジで、なんなんだこの奇妙な構造……?!



 奇妙すぎる“二階建橋”の“下の橋”を渡る


11:22 《現在地》

さて、“下の橋”を通行しつつ、“上の橋”の構造を、観察していこう。

“上の橋”こと、昭和8年竣工が銘板から判明している千石橋の構造は、単純な3径間の連続コンクリート桁橋である。
この桁は、4本の主桁と床板からなっており、どちらの部分にも鉄筋が仕込まれている、鉄筋コンクリート造(RC造)だ。
また、2ヶ所の橋脚は同じくRC造の多脚式で、主桁に合わせて各々4本づつ立っている。

興味深いのは、通常はRC橋脚が地面に接する部分に橋の重さを支える頑丈な基礎構造物が設置されるが、本橋ではそれを“下の橋”であるコンクリートアーチ橋の床板が担っていることだろう。
“下の橋”が現役であった当時は普通に路面であっただろう部分に橋脚が建てられていて、“上の橋”を支える基礎構造物として機能していることが、この“二階建橋”が、これまで私が目にした全ての“二階建橋”と異なる重大な特徴である。



もう一つ、この“二階建橋”の大きな特徴というか、特筆すべき点を述べよう。

“下の橋”に通じる道が存在しない。

少なくとも、今いる左岸(千石町側)には、“下の橋”の橋頭から外へ通じる平場や道形、それらの形跡が、全くみられない。
写真のように、“下の橋”に通じる路面があるべき部分を、同じ幅の“上の橋”の橋台が占拠して、完全に通せんぼしている。
そして、この橋台の左右どちらかに、“下の橋”と同じ高さの道跡があるということもない。チェンジ後の画像で示したように、そこは急傾斜な護岸擁壁に覆われている。

このことの解釈として考えられるのは、“上の橋”の道は“下の橋”と全く同じ平面座標上に嵩上げによって建設されていて、完全に上書きされているという可能性。
もう一つは、“下の橋”にはそもそも道が通じていなかったという可能性だ。この場合、最初から橋脚の基礎とするために“下の橋”を建設したことになる。大いに不自然だが、廃道では常識に囚われてはいけないという格言もあるので、一応この可能性も除外はしない。

果たして、“下の橋”には、道路橋として利用された実績があるのかどうか。
その辺も観察の重点テーマとしつつ、渡っていく。



11:23

まずは特に気になっていた、“下の橋”の素性を知る重要な手掛かりとなるであろう銘板探しであるが、“下の橋”からは親柱が4本とも失われていた。
そしてこれはおそらく、偶然ではなく、意図的な除去である。
というのも、ちょうど四隅の親柱があったと想像される位置が、“上の橋”の橋脚の設置位置に重なっていて、おそらく両者は併存できなかった。
そのため、“上の橋”の設置時点で早々と、“下の橋”の親柱は、おそらくそこに取りつけられていた銘板と共に撤去されたのではないだろうか。

残念だが、“下の橋”の名称や竣工年を知る最大の手掛かりは、現地に残されていなかった。



橋の中央附近、アーチ部分に差し掛かったところで撮影した全天球写真である。

上下の橋の幅がほぼほぼ等しく、その点において、後年に建設された橋の方がより高規格になりがちな一般的傾向を無視している。
しかし、“下の橋”にもちゃんと高欄がある。“上の橋”とは形が異なるコンクリート製の高欄だ。高欄の存在は、橋が橋として使われていたことを物語るものだと思う。ただの基礎ならば不要だろう。



“上の橋”の構造的部分における心臓ともいえる、橋桁と橋脚が接続する部分だが、見ての通り、全体的に部材の老朽化が著しい。
コンクリート表面の剥離も多く、そこからは腐食してボロボロになった鉄筋が露出している。当然ながら、橋としての強度に不安がある状況だ。

道路管理者もそのことは十分に把握していると思われる。
チェンジ後の画像のように、部材のそこかしこに検査のチョークが付いていた。



もう一枚、今度は橋の下流側の空中までカメラを持った手を伸ばして撮影した全天球写真だ。

激烈にレアな“二階建橋”の1階部分に私がすっぽり収まっている状況が、客観でよく分かる。



11:24 《現在地》

観察しながらでも、あっという間に橋の終わりが目前に。

案の定というべきか、やはりこの右岸(神子原町)側についても、“下の橋”に続く道形は見当たらない。
天井が頭上3mほどの位置にあり、その上にある“上の橋”の道によって、“下の橋”の道は上書きされていると思う。
“下の橋”世代の道の痕跡は本当にこの橋だけで、道として真っ当に使われていた時代や状況を知る手掛かりが現地には見当たらないことが、不思議であり、面白かった。

さて、ここまで探索を進めてきて、上下の橋をそれぞれ通行したが、まだ終わりではない。
最後に、河床へ下りて、“下の橋”のアーチ内部を観察したいと思う。
そのために、少し無理矢理だが、ここから川底へ下りるぞ!



11:27

地形と藪のコンビネーションで、落差の割に少々苦戦したが、無事に川底まで降り立つことに成功した。

遂に、“下の橋”の本体ともいうべき充腹コンクリートアーチが、手の触れられる場所に!!



なお、降り立った河床のすぐ上流側にはこの取水堰があり、水の落ちる音とマイナスイオンで私の周りを満たしている。
そして、この堰堤がある位置は、もし“下の橋”の高さで道を上流へ延長した場合、間違いなく干渉するように見える。
とはいえ、これは昭和初期以前の古い堰堤には見えないので、橋が上下へ移設された原因と関わりがあるのかは、まだ不明である。



そしてこれが、アーチ橋の近景だ。
アーチ橋としては高さも径間の長さも小規模で、ライズも小さく、暗渠っぽい印象。

そして、昭和8年竣工の橋を支えているこのアーチ橋は、その一世代前の橋であると考えられるから、普通なら、数十年単位でより古いものであると見るべきだろうが、正直、このアーチの外観からは、昭和8年に対してさらに数十年……つまり明治以前の橋というような古さは感じず、なんというか……、同じくらいの古さに見えた。(見えない?)

もしも、これらが本当に同年代の橋だとすると、これはとても不自然なことだが……。
しかし、見た目の印象からは、そんな感じを受けたのだった。



こうして下から見上げてみると、上下の橋が本当に綺麗に重なり合っていて……凄い……。
比較対象とすべき類似の橋の経験が少なすぎて、こんな漠然とした感想しか出てこないのである(笑)。

しかし、公共財として税金を使って整備した道路であるなら、どんな珍妙なものであっても、それなりに合理的で納得のいく理由はあるはず。
今はまだ私の中に“答え”は下りてきていないけれど、この探索の末に答えを知ることが出来たら、どんなにスッキリとしてキモチイイだろうかと、そんなことを期待しながら、一つでも橋の正体に繋がるヒントを拾い集めようと、隅の隅まで観察を続けたのであった。





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