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橋梁レポート 国道415号旧道 千石橋 後編

所在地 石川県羽咋市
探索日 2026.04.20
公開日 2026.05.29

 千石“二重橋”を隅々まで観察した後は、兄弟分のような橋へ


2026/4/20 11:28 《現在地》

“下の橋”こと、「千石橋」の旧橋とみられるアーチ橋の全景を、全天球画像で。

…………このアーチ橋、なんとなく、余計なものがある気がするのは、私だけだろうか?

橋の上に重なる橋の存在?

いや、それはもう良いんだ。 そういうものと受け入れたので。



それではなく、普通のアーチ橋にはあまりないものが、この橋にはある。



(↑)それはこの部分だ。

アーチのスパンドレルと、アーチ橋台である石垣の間に、コンクリート製のバットレス(控え壁)があって、これがアーチの規模に対して随分と大きな存在感を醸しているのであるが……。

当然、必要だからあるんだろうけど、大抵のアーチ橋にはないよな?

そして、ちょうどこのバットレスの真上に、両岸とも、“上の橋”を支える橋脚が来ているんだけど、これって偶然か?
私は偶然ではなく、橋を二階建てに作り替えるときに行った補強であるような気がする。
その副次的作用として、“下の橋”の親柱も失われたんじゃないか。

皆さんはどう見ます?



飯田川が流れるアーチ橋の下を、たまたま水が流れていない河原部分を伝って潜る。
サイズ的に、橋の下というよりは、もっと居慣れた暗渠やトンネルの中のような印象だ。

アーチの内壁は綺麗で、ひび一つない。
セメントの表面も丁寧な施工で、素材や技術に粗悪さを感じない。
特に後年の補修が行われている形跡もないが、昭和初期より古いであろう構造物としては、とても良い保存状態だ。

初めて橋の下流側が見えてきたが、両岸とも護岸の擁壁が連なっている。
また、橋のすぐ下流の右岸から合流してくる支流があり、それも暗渠から出ている。



11:30

日陰になっている下流側から見上げる、二重橋。
うん。 “二重橋”と呼んだ方が、“二階建橋”より格好いいな(笑)。思いつきだが、こっからはそう呼ぶ。

このような橋が出来た原因はまだ不明だし、おそらくはその場しのぎ的なキメラだと予想はするが、下がアーチで上が桁橋という組み合わせを選んだのは、センスが良いと思う。
おかげで、ぎりぎりそういう“過”装飾の橋だと言われても納得しそうな収まりの良さがある。

橋の位置(≒前後の道)を弄らず、たった4〜5mばかり嵩上げしたかった事情が、ここにはあったのかなぁ。
間違っても、橋や道の機能強化目的ではないと思うんだよなぁ……。



下流側にも、この気になるバットレス構造がある。

こういうバットレスは古いトンネルの坑門にもしばしば見られるが、その設置の本来の目的は、山が坑門を後ろから押してくる地圧に抵抗することである(しばしば装飾的要素としてのみ存在するが)。
アーチ橋の場合、地山がアーチを背後から押してくる力の作用がほとんどないと考えられ、基本的にこのような構造は不要だろう。

にもかかわらず、本橋にそれがあるというのは……、やはり、二重橋化対策ではないかと思う。



河原を歩いて、さらに下流へ。
そして橋を振り返った。

両岸から川へ張り出したマント群落的樹木が多く、まだ春であるこの季節であっても、少し離れただけで橋はほぼ見通せなくなった。夏場であればなおさらだろう。

なお、左に見えているのは支流の暗渠で、なぜこの場所に暗渠があるのか不思議に思ったが、覗いてみて正体が分かった。



この支流の暗渠は、飯田川の右岸の高所を通る現国道を潜っているのだ。
谷底にいると、茂った樹木のため分かりづらいが、この辺りの右岸は現国道の高い築堤であるらしい。



一通り、橋の周囲を巡り終えたと思ったので、ここで川から上がって、千石橋の上へ戻ることにした。
橋の上から見ると両岸とも隙間なく急傾斜な護岸工があるように見えるが、実際はこの写真に見えるような造りの護岸もあって、これは梯子の要領で簡単によじ登れるので、実は下流側から河床へ下りるのが正解だったのだ。(私が下りた上流側は険しいのでオススメしない)



11:36 《現在地》

千石橋を渡り終えた地点の旧道上に復帰。

旧道がまだ続いているので、再び国道と合流する地点まで、進んでみることにしよう。



千石橋から50mほど進むと、コーンとポールとカンバンの簡易な封鎖が逆向きに現れた。
倒れていたカンバンは、全面通行止とだけ大書きされたお馴染みのもの。
事由や期限などの表示はなく、また橋のこちら側だけにある理由も謎。
まあ普通に考えて、今の状態の千石橋を車で渡ろうとする人は少ないだろうが、唐突に現れた封鎖だった。



11:37 《現在地》

さらに50mほど進むと、今度は防獣用のフェンスゲートが現れた。
開けて、通り、また閉める。
そうして、千石橋を原因としているに違いない実質的な廃道区間を通り抜けることが出来た。

この先も引き続き旧道だが、左岸に広がる農地のアクセス路として現役利用されているようだ。



11:38

千石町の左岸農地を通る未舗装の旧道と、対岸のほぼ同じ高度に並走する現国道。
旧道が引き続き未舗装であるという点から、旧道化の時期は相当古そうであった。

なお、ここで草刈り中の地元住民(推定70代女性)1名と遭遇したので、すぐに千石橋が今のような姿になった事情について、質問したのであるが、その回答は意外にも、分からないというものだった。というかそれ以前に、千石橋の構造が特別であるという認識をお持ちではないようであった。
疑問に感じないまま長く間近にあると、どんな不思議も風化するということだろうか。

聞き取りで橋についての成果は得られなかったものの、千石の部落に通じる古い道は、この道路より上に別にあったという話を伺った。
千石橋という名前の橋だが、千石集落へ行く道はここではなく、どちらかというと神子原の入口に架かる橋という印象をお持ちのようだった。



長閑な砂利道を進んでいくと、路傍にコンクリートの標石が1本、建っていた。
よくある用地杭かと思ったがそうではなく、「●号市道邑知87号線 災害復旧●●」「平成六年三月完成」のような文字が刻まれていて、図らずもこの旧道の現在に近い時期の路線名を知ることが出来た。「市道邑知87号線」であるらしい。



そして千石橋から約400m進むと、再び飯田川を横断する橋が見えてきた。
対岸には直ちに現国道が待ち受けており、一連の旧道の終わりを告げる橋であった。



11:43 《現在地》

これまた絵に描いたように古色を帯びたコンクリート桁橋だったが、千石橋のような奇抜な要素は全くない。
四隅の親柱と銘板も健在で、曰く、「吹上橋」「ふきあげはし」「昭和七年四月架」(←この銘板は2枚あった)とのこと。
竣工年の近さからいっても、千石橋の兄弟分といえるだろう。
おそらく昭和初期の道路工事は、羽咋側から富山県境方向へ向けて進展していったのだ。

しかし、本橋が昭和7(1932)年架設であるなら、昭和8(1933)年架設である千石橋には対応するが、その“下の橋”に対応するものではなさそうである。
吹上橋の旧橋が周囲に見当たらないのは小さな疑問点であった。旧橋は木橋で、同じ場所に架け替えられたから消えたと考えるのが自然ではあるのだろうが。



吹上橋は橋脚のない単径間の単純桁橋で、親柱や高欄のデザインも千石橋とは違っていた。
年代的、路線的には兄弟関係でも、施工者は異なるのかもしれない。
ここまで一致しないのは逆にちょっと不自然な気がするが、どうなんだろう。



11:46

そして、現国道へ合流。
なお、合流部分にやや強引な高度の摺り合わせがあるので、低床車だと腹を擦るかもしれない。
ま、そんなタイプの車が旧道に入ることはないだろうが。

現地探索は、以上である。

以後は皆さまお待ちかね、橋の謎の答え合わせの時間なんだなぁ〜。




 机上調査編 〜“二重橋”が生まれた経緯について〜 


まずは、千石橋というイレギュラーを含む、今回探索した道路全体の歴史について簡単に紹介したい。
その参考にもなるので、まずはいつものように歴代地形図を見ておこう。
ぶっちゃけ、千石橋の位置は“上の橋”も“下の橋”も地図上では描き分けようがないと思うので、この手段で橋の架け替えを見抜くことは出来ないが…。

@
地理院地図(現在)
A
昭和44(1969)年
B
昭和39(1964)年
C
昭和5(1930)年
D
明治43(1910)年


@地理院地図は本編で見たとおりである。
千石橋は、羽咋市と富山市を結ぶ国道415号の旧道にあり、現在この道路は羽咋市道邑知87号に認定されている。

A昭和44(1969)年版には、千石橋も吹上橋も描かれておらず、現在の国道のルートだけが太く描かれている。昭和57年の国道昇格以前なので、この当時は県道の主要地方道氷見羽咋線という路線名だった。千石橋がある旧道も当然存在はしていたはずだが、描かれなかった。

B昭和39(1964)年版も主要地方道氷見羽咋線の時代だが、千石橋と吹上橋を通る道路が“現道”として描かれている。
したがって概ねこの時期(B→A)に千石橋は旧道化したことが分かる。ただ、文献などを根拠とした正確なルート変更日は不明だ。

C昭和5(1930)年版は、年代的にちょうど千石橋や吹上橋が今の橋へ架け替えられる直前と思われる。
Bと比較すると、確かにそれぞれの橋の位置に変わりはないが、前後の線形には違いが見られる。が、これが直ちに橋の架け替えを表現した変化だとは判断できない。単に描画上の変化に過ぎない可能性もある。
明確に描かれているものの違いと言えるのは、@〜Bにはずっとあった神子原ダムがまだないことだ。ダムの建設に伴って、湖底になる部分の道路が移設されたように見える。
また、本道路はこの時点で「府県道」として太く描かれているが、旧道路法時代の路線名については後述する。

D明治43(1910)年版でも、千石橋や吹上橋の周囲の道路はCと完全に同じ描かれ方をしており、当時から既に府県道であったことも分かる。ただ、図の右側の県境部分はそうなっておらず、ルートが定まっていないような印象を受ける。

@〜Dの全体を通してみても、やはり千石橋が“二重化”していることまでは読み取れない。
が、C→Bの間に大きな変化(橋前後の道の形や神子原ダムの出現)が見て取れ、これは現地銘板が教えてくれる橋の竣工時期に一致している。


現在ある千石橋や吹上橋が誕生した昭和初期を含む、旧道路法時代の本道路の路線名については、昭和初期の富山県の文献(例として『富山県統計書 昭和元年』)に府県道氷見羽咋線という道路名が見える。この路線がそのまま新法になってからも存続したようである。ただ、石川県側では路線名を府県道羽咋氷見線としていた形跡もある(『国道及重要府県道交通情勢調査表 昭和23年』)。

さらに古い時期の文献として、大正5(1916)年に編まれた『羽咋郡案内』を見ると――

氷見往来
内浦往来の飯山より東して白瀬、福水、神子原、菅池を歴て、越中国氷見郡境に達す、近年の開通にして、越中往来中の最良道にして県道なり。

『羽咋郡案内』(大正5年)より

このように、近年開通した越中往来中の最良道で県道であるとしているし、少し後の富山県側の資料(昭和4年『富山県』富山県知事官房統計課編)においても、府県道氷見羽咋線の解説として、「車馬の通行自由にして軍事上最も枢要なる道路なり」と書いているなど、能登半島を横断して氷見と羽咋を直線的に結ぶ本道路は、昭和初期に相次いで永久橋を架け替えられるに足るだけの重要性を持っていたことが窺える。

さらに、富山県教育委員会が昭和56(1981)年に発行した『富山県歴史の道調査報告書 氷見・能登道』にも、本道路についての次のような言及がある。

しかるに明治33年11月を以て石川・富山両県の協商がまとまり、荒山峠の改修を廃止し、代わりに氷見町より熊無峠を経て羽咋町に至る路線を能越連絡基幹ルートとし、明治35年より改修工事に着手し、明治末年に至って完成した(今の主要地方道氷見羽咋線)。

その故は、荒山峠は標高385mあって、すこぶる急峻な上に、途中に地辷り地帯が多く、道路の決壊が頻繁であったからである。之に対して熊無峠は標高190mに過ぎず、緩勾配だったのである。

『富山県歴史の道調査報告書 氷見・能登道』より

ここに登場する荒山峠とは現在は両県の県道18号氷見田鶴浜線の経路であり、明治35(1902)年に両県を結ぶ基幹道路がこの荒山峠から熊無峠へと変更され、明治末年までに整備が行われたという。熊無峠というのが、現在の国道415号が越える峠の名である。
前掲した『羽咋郡案内』に、「近年の開通にして」とあったのは、この整備を言っているのだ。

以上のように、千石橋や吹上橋がある熊無峠越えの道路は、明治後半に能越間の主要道路として整備が進められ、その後も長きに亘って府県道、さらには主要地方道や国道として、現在に至るまで改良を受けながら利用されてきたのであった。

しかし、ここまでの調査によって判明した歴代の路線名や、千石橋という橋名をキーワードとして調べてみても、千石橋が現在のような不思議な姿を持つに至った経緯に触れた文献は…………

一つだけ見つかった!!!






『石川県土地改良史』 中表紙

昭和61(1986)年に石川県が発行した『石川県土地改良史』という文献に、「神子原堤(みこはらつつみ)の計画」という節がある。
これは現在まで使われている神子原ダムが建設された経過をまとめた内容で、そこに次のような記述が見つかったのだ。

神子原堤づくりについて、昭和10年作成の設計書をもとに、もう少し具体化していこう。

[事業の目的]
溜池堰堤築造により用水の補給をし、完全な灌漑をしようとするものである。

[計画の概要]
字神子原地内に於て石堰堤(高55尺(約16.7m))を設置して貯水量52000立坪(約30万㎥)余を得、以て用水補給の目的を達成しようとする計画である。
尚本溜池計画地には県道第40号即ち羽咋氷見線(現国道415号)があり、路面は満水面以下に没する。そのため改修を要し勾配等の関係に依り延長260間(約470m)余の路線変更を行う計画とする。

『石川県土地改良史』より

きっ 来たんじゃね?

神子原ダム(高さ約17m)の建設に伴って、一部が水没することになる県道を、約470mにわたって付け替える計画であると書いてある。
しかも、わざわざ、「勾配等の関係に依り」という表現があるのは、単純に湖畔になる部分の道路の付け替えだけではないということだろう。ダムの下流側の区間においても、湖畔にあたる道路の嵩上げに付随する勾配緩和の目的から、路線の変更が行われたという示唆になろう。

とはいえ、最も肝心な“千石橋の橋の架け替え”というワードは本文中に出ていないのであるが、同ページに掲載されている小さな写真を見ると……(↓)



『石川県土地改良史』より

「千石橋(二重)と飯山川」


きっ キタ――!!!

この橋の写真がわざわざここに掲載されている意味は、言うまでもなく、本橋がこの神子原堤の建設に伴う道路の嵩上げによって生まれた(=二重橋となった)ということに他なるまい!

写真の撮影時期ははっきり書かれていないが、現道であった当時の千石橋の姿は、今とあまり変わっていない感じだ。
橋の上に道路標識が見えるくらいしか、違いが感じられない。
当たり前だが、二階建ての構造は今と全く同じだ!



改めて地形図上で嵩上げを再現してみると、こんな感じだろう。(→)

昭和5年の図に描かれている吹上橋や千石橋は“先代”で、県道は飯山川の底に近い低い位置を通っていた。
だが、昭和39年の図までの間に、神子原堤の建設に伴う嵩上げによって、千石橋を含む470mの区間は嵩上げされて高所に移された。
(探索時、嵩上げ前の旧道の痕跡を全く観察できなかったが、水没のほか、幅の広い現国道の盛り土によって完全に埋められてしまったことが考えられる)

ダム建設に伴う道路の嵩上げという事象自体が昭和初期の当時は珍しかったのだろうが、とはいえ、既にある橋の真上に、その橋を土台として新たな橋を架けるというのは、なかなか思い切った突飛な手法だと思う。
(他例がなかなか思いつかないが、一応、あった(最後の写真)。しかも同年代。)

しかもこの手法には、工事中長期間にわたって通行止になる不便さもあったはず。
それでも敢えて旧橋を新橋の土台として使ったのは、工期や工費、そして交通機能の維持といった各要素のバランスが、現在とは異なる価値観で判断されたから…、ということになるのだろうか。

とりあえず、千石橋が“二重”となった原因が、神子原堤の建設に伴う嵩上げにあったことは理解した。
では、実際に嵩上げ工事が行われて二階建ての千石橋が開通したのは、いつだろうか。

前記引用文は、「昭和10年の設計書」をもとにした記述だそうだから、実際に工事が行われたのはさらに後のダム着工以降だと思うのだが……、
そうすると一つ不自然な点が。





千石橋は「昭和八年十月竣工」?!?!?!

それって古すぎない?


……という大きな疑問符が浮かんだわけであるが、とりあえず今頼りになるのは『石川県土地改良史』だけであるから、その記述を読み進めよう。

本事業は当初石堰堤築造の計画で昭和10(1935)年3月28日施工認可を受けたが、実施に当たり再調査の結果根本的に計画変更の必要を認め、昭和12年3月6日付をもって事業計画変更の認可を得、直ちに事業に着手した。
当初は、昭和12年3月31日事業終了の予定であったが前記計画変更調査設計に、予定期間の大半を経過したのである。結局この県営事業は昭和12年に着工し、昭和17年に完了した。完了後の堰堤の諸要素を見ると、次のようになっている。(括弧内は旧計画からの変更内容)

堰堤の規模堤長70m 堤高23.7m(+7.0m)
堰堤の構造アースダム(←石堰堤)
貯水容積52542立坪(ほぼ変わらず)
『石川県土地改良史』より

このように神子原堤の事業認可と着工は昭和12(1937)年で、完成は昭和17(1942)年とのこと。
完成は当初の計画よりも5年遅れており、その原因は堰堤の設計変更にあったとのとだが、計画貯水量自体は変わっていないので、県道の付け替えについても、これを理由にした設計変更はなかったのではないかと思う。

しかし、ダムが昭和12年着工であるとすると、いよいよ昭和8(1933)年竣工との銘板が千石橋の“上の橋”に掲げられているのは、不自然に思える。

ダムの事業認可が下りる前に、前もって橋や道の嵩上げを行うなんてことが、あり得るだろうか。
普通に考えれば、これらも昭和12年から17年の間に行われたのだと思うのだが……。


もしかして……


千石橋の親柱って、銘板ごと“下の橋”から“上の橋”に移設されてる?!


【下の橋から消えた親柱】が、【上の橋に設置】されたという可能性を考えている。

この仮定に立つと、昭和8(1933)年竣工と表示されていることは、すぐ下流にある吹上橋が昭和7年竣功であることも含め、いろいろ辻褄が合う気がする。

つまり、昭和7年に吹上橋が永久橋として架け替えられ、翌8年に千石橋が単純なアーチ橋(現在の“下の橋”のみ)として架け替えられた。
それから2年ほど経った昭和10年に神子原堤の計画が持ち上がり、新設したばかりの千石橋を嵩上げする必要が生じた。
だが、架け替えたばかりの千石橋を完全に放棄して新たな千石橋を架けるのは、あまりにも勿体ない。
そこでこの橋を基礎として活用しつつ、“上の橋”を架けることにした。
その工事は昭和12年から17年の間に行われ、堰堤と共に竣工した。

……私はこのような筋書きがあったのではないかと推理している。

残念ながら、これを裏付けるような文献的資料は見当たらないので、証拠がないのであるが……。








なお、今回の机上調査を進める中で判明した重大な事実が、もう一つある。最後にそれをお伝えしよう。

国土交通省北陸地方整備局のサイト内で公表されている、「石川県内における業務(測量、調査及び設計)の発注見通し(令和7年度 第1四半期)」という資料に、次の項目が見つかった。(るくす氏いつもありがとう)

No発注機関担当部・事務所業務名履行場所業務概要
1448羽咋市地域整備課吹上橋補修設計業務羽咋市 千石町 地内補修設計 N=1式
1449羽咋市地域整備課千石橋撤去設計業務羽咋市 千石町 地内撤去設計 N=1式

「吹上橋補修設計業務」ってのと、「千石橋撤去設計業務」ってのが、令和7(2025)年度第1四半期に羽咋市から発注されておった!

そして競争入札の結果が……こちらにあり、令和7年6月16日に(株)国土開発センターが落札していた。

現在分かっているのはそこまでだが、おそらく今後そう遠くない将来、千石橋は撤去されるのだろう。
たぶん上下一緒にね。


「この橋を撤去してしまうなんてとんでもない!」

って、愛着と物珍しさから思わずそう言いたくなったが、私が出せる維持費は全くないし、こればかりは見守るのみ。役目を終えた橋の宿命である。せめて惜しいと思う人は、消える前に訪れてみて。変だから!
あと、上下の橋の本当の竣工年など明確でない点についても、どなたか情報くださいな!!




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