藤琴森林鉄道 高岩橋 遺構編

日本最長の森林鉄道橋
秋田県能代市二ツ井(旧二ツ井町) 荷上場


 これまでも、山行がでは多くの林鉄遺構を紹介してきた。
特に私の住む秋田県内の遺構を重点的に紹介してきたわけだが、探索を続ける中で、今はもうすっかり失われてしまった物がとても多いことに、「跡もう10年早く生まれていたらなぁ〜」などとため息をつくことが少なくない。

 県内でも最も林鉄が密にあった旧二ツ井町荷上場にも、私にそんな悔し涙を流させた、かつて「日本一」を冠されていた物件がある。

それは、日本一長い、森林鉄道用の橋梁である。



 その橋は、高岩橋という。

それは、二ツ井営林署が昭和5年までに完成させた、藤琴森林軌道に架かる橋で、藤琴川とその左岸の耕地をまとめて跨いでいた。

さて、この橋、現役当時何メートルあったと思うだろう?

答えは、724 m である。


驚いた人、感覚的に掴めない人、色々な反応があろう。
比較対象物として、例えば秋田県内に現在ある(川に架かる)橋の中で最も長い橋を挙げると、それは秋田市の秋田南大橋である。
ではその長さはと言えば、689m。
なんと、いまだ秋田県内には林鉄の高岩橋を越える長大橋は存在しないことになる。

…バカにするのは止しなさいな。 あなたの県にもおそらく、そうそう無いから、川を渡る橋で700mを越えている橋は。
まあ、高架橋何かだとね、結構1km越える物もあったりするわけだが…。

 ともかく、林鉄というか、林野庁の建設した橋の中では歴史上最も長いのが、この高岩橋。
竣功は昭和5年、廃止されたのは昭和33年で、米代川流域を襲った大水害による無念の廃止だった。





 左の写真は二ツ井町荷上場の藤琴川右岸で、下流方向(二ツ井町中心部方面)を写している。
この場所に、高岩橋はあった。
ちょうど、向かって右側の法面から左の藤琴川へ、川と直角に交わるようにして伸びていた。
当時は、河岸を削り取って造られた写真の県道はまだ無く、県道敷きとなってしまった辺りに、高岩橋の巨大な主塔…そう、高岩橋は川を渡る部分が吊り橋であった… が、立っていたはずである。

 読者の皆様の反応を予想すると、おそらく、「ふ〜ん」でしょ。

その気持ち、分かる!分かるぞ。
だって、全然何も残ってないもんね。
そりゃそうだ。
こんな目立つ場所に、日本一の巨大林鉄橋が残っていたなら、今まで山行がが紹介してこなかったわけもないだろうし。
はっきり言って、痕跡は殆ど無い。




 だが、過去の物とはいえ、そこに確実に存在した日本一に敬意を表し、レポを続ける。

突如現れたこの穴、高岩橋から現在の県道を挟んだ法面には、ポッカリとこの穴が口を開けている。
これは紛れもなく隧道であり、約100mの長さを持つコンクリート隧道である。
もしかしたら見覚えのある読者もいらっしゃるかも知れない。
かつて、ここで紹介しているので。→藤琴森林軌道 荷上場隧道

隧道を出た列車は、そのまますぐに吊り橋を渡っていたのだ。



 日本一の高岩橋が渡っていた、藤琴川。

廃止後もしばらくは橋脚が残っていたと言われるが、現在では見渡す限り一切その痕跡はない。

ここから、一直線に724mも橋が続いていた。
川を渡る部分の75mは吊り橋で、残りの649mは木桁が延々と何十基も連なる、木橋だった。
林鉄用の吊り橋としても、当時この75mと言う長さは日本一であった。

 全長と、吊り橋の長さ。
二つの日本一を擁していた伝説の橋も、対岸の耕地改良や風化などによって、人々の記憶の中だけの存在になりつつある。




 これは、『秋田営林局刊(1964) 秋田営林局八十年の回顧』に記載されている、同橋吊り橋部分の写真である。

その解説によれば、プラットトラスを吊り橋にした特殊な構造で、箱のサイズは高さ3.65m、幅は3.0m。
全長75mの十分の1の7.5mの主索の“垂れ”があり、主索を保持している主塔の高さは、橋脚上に8.4mあった。

 写真を見ると、現在は県道が通っている右岸には、当時から狭い道があったようだ。
おそらく、荷上げ場隧道と高岩橋の間隔が非常に狭いので、主索が山肌に突き刺さっていたはずだ。
となると、そこにあっただろう道の通行者は、そう高くない位置にある主索を潜り、レールを跨ぎ、また主索を潜るようにして横断していたのだろうか。

色々なことを想像させる写真である。



 さて、右岸側からはめぼしい物が見つけられないので、対岸に向かってみよう。

まずは、地図にも記載されている三ノ倉隧道である。
これも、林鉄由来の隧道であるが、残念ながら町道として整備されており、別物になっている。

ここから、高岩橋の左岸袂へと接近してみよう。
暫く町道を走る。

 町道と軌道跡の分岐地点から、高岩橋方向を見る。

元々、明治44年に開設された藤琴森林軌道は、藤里町中心部の藤琴と、二ツ井町加護山の加護山貯木場とを結ぶ路線だった。(上の地図上では赤の点線で表示)
加護山貯木場は、官営の加護山精錬所(阿仁銅山などの精錬を行っていた)と共に、米代川の舟運に頼っていた出荷場であったが、昭和2年に国鉄奥羽本線の二ツ井駅に隣接する位置に新しい貯木場が完成したために、これと藤琴林鉄を接続する必要に迫られ、昭和5年までに高岩橋を含む新線を開通させ、加護山貯木場とそこに至る部分の線路(地図中の点線部分)は廃止された。

 現在は、高岩橋に繋がる築堤部分も大半が切り崩され、その跡地には農機小屋が点々と並んでいる。
よく見ると、小屋は築堤跡から少し左右に寄った場所に建っており、これは築堤に寄り添うように元々あった小屋がそのままの位置に残っているものと想像する。



 築堤跡を歩くのも良いが、付かず離れずにある鋪装された町道からは、緩いカーブを描きながら高岩橋へ進入していた築堤のムードを感じることが出来る。
そして、200mほどの築堤の先には、写真に写る丘がある。
これは、築堤が切り崩されずに残った唯一の部分で、と同時に、高岩橋の左岸側の端でもあった。
よく観察すると、築堤の右端には土被りを失って裸になった、コンクリート製の暗渠が残っているのが発見された。

 2004年早春の探索当日は、まだ水田には一面の深雪があり、足を踏み込めば太ももまで沈んだが、我慢して接近を試みた。



 昭和5年築造のコンクリート製暗渠。
長い築堤が水田を分断していただろうから、農作業の便を考えてこのような通路が設けられたのだろう。
しかし、現在は前後に続く農道も圃場整理により消滅し、所在なさ気に佇む築堤とともに、異様なムードを醸し出している。
森林鉄道と言うよりは、戦中に急造された粗悪な地方鉄道の未成線のような雰囲気がある。
両側ともトタンでしっかりと蓋をされており、暗渠内部には入れなかった。




 別アングルから、暗渠部分を撮影。

築堤上もすっかり整理されており、雑草が生えているだけで、軌道跡らしい痕跡は見当たらない。




 築堤の上から、端とは反対側の、藤琴・三ノ倉隧道方面を見る。
約200mほど、町道まで緩いカーブの築堤跡が、雪の凹凸となって鮮明に残っている。

今度は、振り返って橋を見に行こう。
現存しないことは、分かっているのだが…。




 現存する僅かな築堤の突端から、高岩橋がかつて724mも伸びていた、その広大な耕地を見渡す。

全く痕跡がないかに見えるが、実は、本当に僅かだが、痕跡と呼んで良い物が、写っている。

それは、真っ正面ではなく、やや右より、雪原にポツンと佇む、トタン屋根の小屋である。

ズームで撮ってみる。



   対岸に小さく見える隧道坑口へ向けて、視座と坑口の直線上に、幾つもの小屋が一列に並んでいる。

これは、築堤に寄り添う小屋と同様、長い長い木橋の下に建てられていたか、橋が廃止された後にその跡地に建てられた物だろう。

余りも雪が深く、近づく道もないために、接近調査は断念した。


 見てきたとおり、この高岩橋は僅かな築堤を除いては具体的な痕跡はない。

しかし、不自然な位置に密集する農機小屋によって、まるで透かし絵を見るかのように、その線形が浮かび上がってくる。
そんな、一風変わった遺構である。

 林鉄王国秋田の誇った「日本一」は、

今もこの地に僅かな証跡を留めていた。





 写真は、『秋田営林局刊(1984) 百年の回顧』に記載の、本橋の勇姿。


まるで、子供の頃遊んだプラレールに付いてきた鉄橋のようなプラットトラス。
それを支えるにはなんとなく頼りなさ気な主塔に主索の太さ。
そして、重厚な吊り橋の向こうに延々と霞むほど続く、積木細工のような木橋の列。


それは間違いなく、日本一だった!





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探索日 2005.12.21