橋梁レポート 藤琴森林鉄道 高岩橋 解説編

所在地 秋田県能代市
探索日 ----.--.--
公開日 2014.11.03

【周辺地図(マピオン)】

秋田県能代市(旧二ツ井町)の藤琴森林鉄道にかつて存在した高岩橋は、全長が724mもあり、日本一長い森林鉄道用の橋であったといわれる。

比較すべき第2位の橋は不明だが、本橋の管理者であった秋田営林局の『百年の回顧』に、「森鉄では日本一長い」と書いてあるので、おそらく間違いないものと思われる。

残念ながら、現在までにこの橋は撤去されており、現地で往時の縁を偲ぶものと云えば、橋に続いていた築堤の一部が残っているのみである。
その「現状」は、2005年(平成17年)に探索・公開済みだ。(→レポート

さて、ここからは秋田贔屓である私の個人的な想いだが、高岩橋を撤去してしまったことは本当に勿体なかったと思う。
その威容の一端は以前のレポートでも古い写真としてお見せしているが、もしも橋そのものが現存していたならば、産業遺産が観光資源として大いに認知されている昨今においては、秋田県を代表する、いや日本を代表するレベルの林業遺産として、勇名を馳せていた事を疑わない。

私はこの数年間で、高岩橋について、いくらかの写真や資料を入手した。
今回は「解説編」として、秋田の今は無き「日本一」を偲んでみよう。
これを読み終える頃には、皆さまもきっと私と同じように叫び出すと思う。

なんで撤去しちまったんだ! って。




1. 地形図と空中写真から見る高岩橋


まずは定番である、旧地形図と現在の地図の比較から。

高岩橋を含む路線は昭和5年に開通しているので、左図の昭和28年応急修正版地形図にしっかりと描かれている。
地図の下端にある水面が米代川で、その支流である藤琴川の広大な氾濫原を東西に横切る巨大な橋が見て取れるだろう(図中の赤い部分)。

この氾濫原は普段水田として利用されているが、一帯は洪水の常襲地帯であり(外部資料)、その都度藤琴川の水と米代川から逆流した水とが合わさって、氾濫原全体を巨大な湖へと変えていた。

そのため、森林鉄道の敷設時にも、出来るだけ氾濫原の幅を築堤で狭めることを避け、その大半部を長大な橋梁で跨ぐ設計にしたものと思われる。
いわゆる避溢橋(ひいつきょう)に近い設計であろう。


←画像にカーソルオンで、現在の地理院地図に切り替わる。(変わらない人はこちら
高岩橋は地図上から完全に失われており、東側のカーブした築堤の跡が辛うじて見て取れる程度だ。

なお、藤琴森林鉄道の起点であった二ツ井駅裏の貯木場(図の左下端)から高岩橋までの区間も以前探索しており、レポートを公開している。
また、かつてこの高岩橋があった地点のすぐ下流に架かる能代市道の橋が高岩橋の名前を受け継いでいるようだ。これは至って普通の道路橋だ。




続いては空中写真の新旧比較である。

まずは昭和50年の空中写真であるが、藤琴森林鉄道の廃止は昭和38年だから、これが撮られた当時既に橋は「廃橋」であった。
その証拠に川を渡る吊り橋であった部分が撤去されている。
だが、全長に占める割合としては約9割にも及ぶ陸橋部分は、この頃まで、まだ残されていたのである。(陸橋部拡大写真
ちなみに私が生まれたのは昭和52年だが、実は生まれてすぐにここへ行っていれば、この橋を見ることが出来ていた(!)

→画像にカーソルオンで、最近撮影された空中写真にチェンジする。(変わらない人はこちら
田んぼの地割りは変わっておらず、その意味では時間の経過を感じさせないが、陸橋が撤去されているのが分かる。
それでも、今なお跡地は周囲の水田に同化しておらず、所々に農機小屋が建つ直線的な緑地(現場写真)として、一定の存在感を保っている。




2. 見よ!これが日本一の長さだ! 高岩橋模式図


これまでに入手した資料から、廃止直前頃の高岩橋を再現した模式図を作成してみた。
以下にそれを掲載するが、
画像の下にスクロールバーがあることに注目。 右にスクロールします!



いかがですか?

ニヤニヤしていただけましたでしょうか? (ニヤニヤ)


廃止直前期の本橋のスペックは、全長724m(←これはさんざん既出)。

そして、その内訳はといえば……

  • 吊り橋 1径間 72m
  • 上路鈑桁 2径間 24m+12m=36m
  • コンクリート単純桁 77径間×8m=616m 

〆て80径間の直線橋でありました。 ああ、日本一だよこれ。 なんで撤去しちゃったんだろう…。


上の図は、スクロールバーを使わなくても全体を見れるように、だいぶ横幅を詰めて描いたバージョンだ。
こんなに巨大な橋の大部分がわずか30年ほど前までは現存していたのだが、今では、一番右端の「暗渠」と「築堤」(の一部)が残っているだけである。
吊り橋の主塔すら現存しない。



…え? お前の下手な模式図は良いから、ちゃんとした往時の写真を見せろ?


了 解 ! りょ〜かい!



『秋田営林局 百年のあゆみ』より転載。

ながーーーーーーーーーーーい!

左端が吊り橋部分で、右端は築堤に繋がっている筈だが、あまりにも長くて、そこまでは見えない。
これが77連も同じ形が連なる橋の見え方であり、もし現在も残っていたら、どれほど多くの人を驚かせていたか分からない。

次の章では、さらに多くの写真を紹介しよう。



3. 誕生から撤去まで、高岩橋の歴史 (前編)


ここからは、日本一の高岩橋の誕生から撤去までを、新聞記事や営林局資料などを中心に追い掛けてみようと思う。
とはいえ、誕生当時の画像は辛うじて見つかったものの、その経緯を述べた資料は未発見なので、林鉄の廃止から撤去にかけての経緯の紹介が中心となる。



『秋田営林局 百年のあゆみ』より転載。

右の写真は遺構編でもご覧頂いたものだが、様々な写真の中でも、吊り橋部分の構造を最もよく捉えた写真である。
だが、その特異な構造の解説は次の写真に譲りたい。

この写真のもう一つの重要な内容は、奥に見える陸橋部分が木橋であるということだ。
少なくとも橋脚部分が木造であることが見て取れる。
木橋でしばしば見られる末広がり型の多脚橋脚が、写真の奥に向かって延々と、本当に数え切れないほど連なっているのである。

残念ながらこの写真の撮影時期は不明であるが、陸橋部分がすべて木造橋脚になっている写真は他に見つかっておらず、架設最初期と推定される。

すなわち、昭和5年の架設当初は、陸橋部分616mが単純木桁橋×数十連(>77連)によって構成されていたのである。
そのような長大な木橋もまた、林鉄用としては日本最長であったと思う。
それが木材満載の列車を通過させるたび、微かに軋みの音を立てていたかと思うと……  たまらない!



『秋田営林局 八十年の回顧』より転載。

吊り橋部分の構造について、詳しいスペックが『秋田営林局 八十年の回顧』に記載されていた。

本橋の吊り橋は(私は他例を知らない)特殊な構造をしていた。
それは両側の主塔間に張られた主索で、箱形の鋼鉄製プラットトラス(幅3m 高さ3.65m 長さ72m)をつり下げるというものだった。
列車はこの直方体をしたプラットトラスの中を、さながらトンネルを潜るようにして通過していたのである。

吊り橋の桁の強度を高めるために、ポニートラスとする例は良く見られるが(そしてそれはしばしば木造である)、フルサイズのトラスをつり下げているのは珍しい。
秋田営林局は全国の営林局の中でも、森林鉄道用の吊り橋については先進的な取り組みをしていたことが知られるが、本橋もその技術力を遺憾なく発揮したものであろう。
吊り橋部分は昭和5年の開通から昭和38年の廃止まで一貫して利用されており、本橋の象徴的な存在でもあった。

また、全長649mの陸橋部分については、「木桁橋」とはっきり書かれているが、「鋼重36t」の由来は不明。(上段に書くべき数字の誤記?) 使用木材1200立方メートルは、木材の計量にしばしば使われる「石(こく)」換算すれば4320石となり、森林鉄道の貨車1台に平均9.4石積んだという記録に照らせば、おおよそ460台分の満載木材である。また、現代における木造2階建て住宅一軒新築に要する木材の平均量は25立方メートルといわれるので、48戸分の木材を本橋に費やした。

本橋の事業主体であった二ツ井営林署は、これだけの投資をしてなお十分に将来的な収益性が確保出来るという判断があって、この運材路線を建設しているのであり、当時の秋田美林がどれほど有望と見られていたかが窺い知れる。



『写真集藤里町』(昭和58年発行)より転載。

これは藤琴森林鉄道の終点があった藤里町発行の写真集に掲載されていた写真だ。
「昭和30年頃」と、撮影時期がだいぶ明らかな写真である点でも価値が高く、これは現役当時のしかも最盛期の写真である。

橋の上には、ガソリンカーが牽引する木材満載の運材列車が連なっている。
見えている貨車だけでも16〜7両もあり、一般的とされる牽引台数の倍以上連結している。
この路線がどれほどの富を地域にもたらしたか、計り知れないだろう。

他にもこの写真(とキャプション)が教えてくれることは多い。
一つは、吊り橋に隣り合う桁がこの頃まで木橋であったこと。
高岩橋には、岩堰橋という別名があったことなどだ。(これは現地のすぐそばを江戸時代生まれの岩堰という農業用水路が通っていた事によるものと思う。水路は今も健在だ)




『秋田魁新報 昭和37年8月4日号』より転載。

これも現役当時の記録として、秋田県を代表する地方紙の「橋」という連載記事に取り上げられた際のものだ。
「森林事業の大動脈」として、当時から秋田県民にとってよく知られた存在であったことが窺い知れる。

写真は陸橋部分に向けられており、橋上では左から右に向かってガソリンカーが、空の貨車数台と無蓋車1台、そして最後尾に客車を付けた列車を牽引している光景である。

また、この頃になると陸橋部分は橋脚、橋桁ともにコンクリートや鋼鉄製に置き換えられており、前掲した模式図の状況になっている。
この改築工事については、写真を改めて述べる。
続いて本文を見ていきたいが、前半では概要とともに「森林軌道の橋では日本一」などと書かれている。
今回は後半の部分から、具体的に本橋がどのような姿に見えていたかを述べている部分を転載したい。
これは今では光景を想像するしかない、大変貴重な証言である。

見わたすかぎり広々とした青田と、その中に点在する人家が数軒。山、橋、人家、田んぼ、川の高低順にかもし出す自然と人工美は、なんともいえない調和を保っている。その中を時おりガソリンカーが原木を積む無ガイ車と客車一両を引っぱって走る。まるでおもちゃの汽車ポッポみたいに黄、青色にぬり分けられてマッチ箱のような客車も、山奥の住民にとっては唯一の交通機関。(中略)川面から吹き上げる涼風に気動車も一時停車、機関士たちも汗をぬぐう。

列車が橋の上で一時停止する理由は、おそらくは機関士が涼を求めてではなく、橋の二ツ井側に県道との平面交差点があったからではないかと想像されるが、「大動脈」と言いつつも、なかなか長閑な景観を楽しませてくれていたようである。
また、藤里町に50年以上前から住んでいる住人の中には、この橋を通った記憶を持つ人が相当数いるはずである。 うらやましい。




『秋田魁新報 昭和37年8月4日号』より転載。

陸橋部分の木橋からの改築であるが、これは昭和31年に完成したものである。

この事実は『魁』の記事中にもごく簡単に述べられているが、「二ツ井・藤里の古い写真 矢作恭一氏アルバムから(←もの凄い貴重な写真が目白押しなので、超オススメサイトです!)で見る事が出来る「高岩橋改修工事」の各写真や、解説文により詳しい。

それによると…

陸橋ハコンクリート橋654m(※1)木橋36mヨリ成立シテ居ツタガ木橋部ノ腐朽甚ダシク普通三本桁ノモノガ補強ノタメ五本ヲ用テ居ツタ
多年ソノ掛替ガ要望サレテ居ツタガ今回鈑桁橋及びコンクリート橋桁ニ掛替ノ実現ヲ見タ
竣工 昭和31年3月
鈑桁橋24m及び12m コンクリート桁82本(※2) (以下略)

(※1 616mの誤りと思われる)(※2 77本の誤りと思われる。掲載の写真で丹念にコンクリート桁を数えると77連であった)

同サイトにて見る事が出来る改修工事の写真をつぶさに確認したところ、私の模式図における第2〜3径間は昭和31年改築直前まで木造桁橋であったことと。第4〜80径間までは、昭和31年の改築以前に既にコンクリート橋脚へ切り替えられており、この時の改築では橋桁を木造からコンクリート桁へ切り替えたことが判明した。


…といった具合に、着実に近代化への道を歩んでいた高岩橋。
先に挙げた昭和37年の魁の記事では、その将来について、次のように結んでいた。

この牧歌的な風景も八年後には姿を消すという。膨大な森林資源の運搬には、この軌道車ではまにあわずトラックの林道が完成することになっているからだ。川の流れは絶えることはなくとも、この橋の運命も数年後にはひとりでに自然に帰化してしまいそうだ。




4. 誕生から撤去まで、高岩橋の歴史 (後編)



『秋田魁新報 昭和47年5月30日号』より転載。

昭和37年当時、営林署の計画では「8年後」の昭和45年頃まで、森林鉄道も高岩橋も活躍する計画であったようだ。
だが、実際は昭和38年に早々と廃止されている。
原因は、誰にも予測が出来ない、洪水であった。

昭和38年7月5日、藤琴川上流の粕毛川を中心とした一帯で集中豪雨があり、もともと谷沿いに設置されている区間が多かった藤琴森林鉄道と支線網は壊滅的な被害を受けた(この洪水で2名の死者が出ている)。
高岩橋自体はほとんど被害を受けなかったものの、結局は藤琴森林鉄道全線を廃止し、トラック道路への切り替えを前倒しすることになったのだった。

こうして、改築完成後わずか7年目にして突如、高岩橋は廃橋とされてしまう。
左の記事は、林鉄の廃止から9年後の昭和47年5月のもので、いよいよ“名物”高岩橋の撤去が始まる事を報じている。
所々引用してみよう。

奥地の人たちが二ツ井へ出る時や二ツ井の人たちが奥地へ山菜採りへ行く時は、この軌道が利用された。軌道は両町の人たちを結ぶ重要な交通機関だったわけで、中でも「高岩橋」は交流の象徴として愛されていた。
(中略)
昭和三十八年七月、粕毛川の大はんらんで「高岩橋」を除く軌道敷きがほぼ全滅ついに長い歴史を閉じた。その後、四十三年、同営林署から「高岩橋」を譲与された二ツ井町が、ほかの橋の改良、農免道路の完成で「高岩橋」の利用価値なしと判断、つり橋の解体を決めたわけ。
かつての隆盛を知る営林署関係者や地元の人たちは、取りこわされるつり橋をながめながら「本当にごくろうさんでした」と、橋と橋がつくった交流の歴史に惜別のことばを送っていた。

………二ツ井町が戦犯だったか。
昭和43年に営林署から本橋の譲与を受けた二ツ井町が、「利用価値なし」と判断したことで、特に老朽化が特に進んでいたであろう吊り橋部分の解体が行われた。
それが昭和47年の出来事である。私が生まれる5年前。
この瞬間、日本一の林鉄橋はその機能を永遠に失った。
もっとも、当時既に我が国にはほとんど林鉄は残っていなかったので、最後まで日本一の座を譲らなかったであろう。そんなことは何の救いにもならないが。



『秋田魁新報 昭和58年10月28日号』より転載。

橋としての機能を喪失してから、なんと11年。

高岩橋の616mにも及ぶ陸橋部は、自らが生まれた大地を見守るかのように、広大な美田に立ち尽くし続けていた。
まだまだ橋としての耐久年数を終えていなかったであろうから自然に崩れるわけもなく、頑丈故に撤去するのも大変である。或いはこの時期になって少しは観光資源として活用する道が模索されたことがあったのかもしれない。(無かった気がするが)

とにかく11年もの間、陸橋部はその形を留めていた。昭和58年10月28日号の『魁』が、その最期をお知らせするまで。
このとき私は5才で横浜にいたと思う。現実的に考えれば、私がこの橋に出会える可能性は皆無だったが、奇跡が起きて欲しかった。
だが、ミリンダ細田氏は当時4才で二ツ井町の近くの森吉町(現北秋田市)に暮らしていたのである。彼は後悔していると言っていた。この橋を目にしなかったことを。

四十七年につり橋部分が解体されただけで、コンクリートの軌道橋部分は放置されたままになっていた。町は、さる九月定例議会に一般会計補正予算に解体費用四百八十万円を計上しており、十一月初めにも工事に取りかかる予定だ。森林軌道の往時をしのばせる高岩軌道も年内には姿を消すことになりそうだ。

老兵は死ぬのみ。
非情、土木の現実的非情。リアル。
元日本一だろうが、所詮は交通路。交通できないならば不要。言い返せない。



こうして秋田の大地から、未来永劫
一つの 「日本一」 が消えた。




『写真集藤里町』より転載。

カラー写真の時代まで残ったのに、今は無いのが悲しい。

もしこれが残っていたら、私はどんなにか説得力を持って、
「秋田の林鉄網は全国に冠たるものだった」と誇れただろうか。

でも、こうしてその存在を語る事が出来ただけでも幸せを感じる。
ありがとう。 橋と、今回転載したすべての資料の作成者様。



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