あなたは日本海夕日ラインをご存じだろうか。
日本海へ没する夕日の景観が美しいことから、新潟県内の日本海海岸沿いを通る複数の国道をまとめてこのように称したものである。
この名前を記載する地図帳もあるが、その総延長は実に337km。北は山形県と接する笹川流れ、西は天下の奇景親不知海岸までと長大である。
国道7号、8号、113号、116号、345号などとともに、これから紹介する国道402号線も夕日ラインの一翼を担っている。
国道402号は前述の通り、日本海沿岸を通る国道である。
新潟県の柏崎市と新潟市を結ぶ、実延長86.5kmの比較的新しい路線である。(路線指定は昭和56年)
特に、長岡市寺泊から新潟市角田浜までの13.9km区間は、「越後七浦シーサイドライン」の愛称を「日本海夕日ライン」と重複して有し、険阻な海岸線を上下して通り抜ける観光道路として知られている。
越後七浦シーサイドラインはかつて昭和50年に同名の有料道路として開通した区間であったのだが、平成2年に無料化され今日に至る。
今回紹介するタイトルの隧道は、この越後七浦シーサイドラインの北端である角田浜のすぐ傍にある。
地図上の描かれ方から想像していた以上に壮大な景観がそこにはあった。
この左の写真の景色など、海岸沿いだと言われねばどこかの高山の頂かと思うだろう。
観光道路の名に恥じぬ素晴らしい眺めが、惜しげもなく次々に現れる。
防潮フェンスの赤錆びた様子に、ここがただ美しいだけの場所ではないことも窺える。
現在地は雷岩という大岩の基部を貫く小浜トンネルを背後にして角田側である。
写真は道路端から振り返って撮影した雷岩の勇姿。
写真だと上手く伝わらないだろうが、このアスファルトの塊みたいな岩が町中のビルディングのように高く巨大で、しかもその足元には体育館ほどもある大海食洞が口を開け海に通じていると言えば、信じてもらえるだろうか。
いまでは使われなくなった海岸遊歩道の素堀隧道もまた、この一角に眠っている。
レポはここから北へ進む。
間もなく越後七浦最大の難所であった角田岬である。
国道は突然高度を増し始め、来るべき難所の攻略に万全の準備を期す。
海岸線には、取り残されたように一条の細道が見える。
遊歩道としてかつてはガイドブックにも記載があった。
しかし、道の老朽化か、あるいは海岸線の浸食か、ともかく今は閉鎖されている。
閉鎖後、この国道の道路改良によって歩道の一部は埋め戻されてしまった。
それが、この真下の場所だ。
確かに夏草の斜面しかそこには見えない。歩道は消えている。
うっひょー。 高ぇー。
ぽよぽよと草がへばり付く崖を覗き込むと、まな板のような岩棚が白く飛沫をあげる碧海に滑り落ちている。
そして、なによりも我々オブローダーの目を惹きつけるのは、断崖と独闘する狭い歩道の姿。
まして、この歩道がもとは観光のために掘られたものでもなく、生活のために昔の人が切り拓いたものだと聞けば…。
等身大より一回り小さな日蓮上人のブロンズ像が路傍に。
鎌倉時代の仏教の偉人日蓮とこの地方はゆかりが深い。
1271年から3年間、彼は幕府を批判したとして佐渡流刑に処されているのだが、佐渡島はこの辺りからもよく遠望される。
海面からは50mも登り、ようやく道は平坦となる。
そして、崖下の廃歩道に心奪われがちであった私の気持ちを、国道も負けじと掴みかかってきた。
いよいよ角田岬のトンネルかと思った矢先、小さな切り通しを迂回するような道路跡が崖すれすれに出現したのである。
入口は簡単に塞がれてはいるが、迷わず突入した。
そこには、これまで通ってきた国道とはあまりに状況の異なる狭き道があった。
海岸へ迫り出した岩峰の突端にへばり付くような道で、一応ガードレールはあるが、風の強い日や夜間などは恐ろしくて通れないかもしれない。
路面はすでに車を通した面影も失せ、年中の強風にそれ以上伸びることが出来なくなった夏草の倒伏せし姿に覆われている。
地図にはもはや記載のない、小さな、それでいて印象深い旧道である。
だがこれだけでは終わらない。
進路を反転させた旧道の行く手に、当然表れる現道。
そこには橋とトンネルがセットで見えてきた。
いよいよ角田岬を貫通するのだ。
が、
奥!奥!奥!
奥になんかアルー!!
これは、完全に予想外の遭遇であった。
それだけに、嬉しかった!
なぜに予想外だったかと言えば、特に下調べをしていなかったと言うこと以上に、この道の背景を考えてもそこに旧隧道の存在は、ぜんぜん“匂わな”かったからだ。
なにせ、公に言われているこの道の歴史は、昭和50年の開通だ。
着工にしたって昭和46年であり、そう古くはない。
既に隧道の代替わりが行われているとは、とても予想しづらいのだ。
だが、現にここに封鎖された隧道の姿がはっきりと見える。
現トンネルの名前は、銘板などによれば角田トンネル。
竣功は昭和50年(開通のその年だ)である。そしてその手前にある橋は魚見橋という。
こちらも竣功は昭和50年とある。
明らかにこの橋とトンネルはセットで建設されている。
ちなみに、橋の銘板の一つは路線名になっているが、そこには「新潟寺泊柏崎線」と刻まれていた。
国道認定が昭和56年なので、開通した当時はこの路線名の県道だったのだ。
いま通った短い旧道区間を振り返る。
この旧道は明らかに魚見橋と角田トンネルの現道には繋がらない線形。
間違いなく、塞がれた隧道に続いていただろう。
つまり、小さなS字カーブを描く現道に重なって、もっと大きなS字の旧道が存在していたのだ。
そして、それはかなり早い時期に廃止されていることになる。
だが、この塞がれた隧道を近くで見ると、更に謎は深まる。
コンクリートで完全に塞がれた隧道。
だが、隧道の断面は大きく、先の旧道や隧道前の敷地の狭さとは釣り合わない。
明らかに先ほどの道は1車線だが、隧道は現トンネルと全く遜色のない規模、そして外観である。
また、銘板もしっかりと現存していた。
隧道の名称は、「色見隧道」。
平行近接する現トンネルとは、全く別の名前だった。
不思議である。
完全に塞がれた色見隧道は入りようがないので、角田トンネルをくぐって、反対側の坑口を目指す。
角田トンネルは短いが、洞内が大きくカーブしている。
冬期間も通行が可能な道だが(そもそも、この道は新潟県が「海岸無雪道路整備」の名目で開発した道であった)、この線形はやや頂けない。
なお、隧道がくぐるのは写真右の角田岬である。
海岸沿いの遊歩道にも隧道があり、しかも車道のトンネルよりも長い(狭いが)。
そして、ここにも海食洞が口を開けていて、それは「判官隠し」と呼ばれている。
ちなみに、遊歩道もこの辺までは閉鎖されておらず通行が可能である。
角田トンネルをくぐると視界がパッと開け、角田浜の穏やかな砂浜が一望された。
険しい海岸線もここで終わり、あとは新潟平野に沿って70km以上も弓なりの砂浜が続く。
国道も砂浜へと急速に下っていくが、その途中には明らかに道が広くなっていて、かつての料金所跡だと分かる場所がある。
角田トンネル南口は、北口とは全然印象の異なる景色である。
まさに、八面玲瓏な観光道路の入口の門として、外界との隔離を上手く演出するトンネルだ。
で、忘れちゃイケナイ旧隧道の坑口だが…。
思わず忘れたくなるほど、薮に没している。
路傍の一面のクズの葉の海。
その奥、山際に津波のように覆い被さってくる緑の元に、旧隧道の坑口は見えていた。
わずかに。
現道からは30mも離れていないが、行く道はない。
ざっくざっく ざっくざっく…
藪を掻き分け近付いてみる。
残念ながら、こちらの坑口も完全に塞がれていた。
しかし、やはり銘板は健在である。
そして、薮に没し尽くしているにしては、大きすぎる断面。
なぜ、廃止されてしまったのだろう。
華やかな観光地の片隅で、何故に、ただ独りだけ…。
その疑問だけが、強く、私の中に残された。
さて、その謎解きをするために、周辺の地図を見てみよう。
謎解き…と言っても、本当の答えは分からない。
あくまでも、私の推測の話だ。
まず、新旧隧道の位置関係は、右の地図のようになっている。
おそらくは、旧隧道である色見隧道のほうが、角田トンネルよりも少し長い延長だっただろう。
また、隧道内は直線であったと想像できる。
その部分での線形の分は旧道にあるが、その先、あの狭い海岸線のカーブが旧道は絶望的に良くなかった。
それが理由で、早々と廃止された…。
そう考えることが出来る。
だが、この一連のシーサイドラインにある3本のトンネルそれぞれの竣功年を見ていくと、また別の視点が生まれる。
角田浜から南の五ヶ浜までの区間には脇道はなく、3本のトンネルが連続している。
それぞれ角田トンネル(色見隧道)、小浜トンネル、畳ヶ浦トンネルというのだが、この3本の竣功年を比較してみる。
角田トンネルが昭和50年、小浜トンネルは同48年、そして畳ヶ浦トンネルは同50年なのである。
これって、不思議ではないか?
繰り返すが、途中に迂回路や工事用道路となったようなものは存在しない。
更に言えば、昭和50年以前にはここには間違いなく、車道と呼べるものはなかったのだ。
3本の中で真ん中の小浜トンネルが最初に竣功するというのは、かなり不自然なのだ。
私はこう考える。
角田トンネルの旧隧道として存在する色見隧道は、おそらく小浜トンネルよりも先に竣功していたのだ。
つまり、工事は北側より順次進んでいった。
だが、完成間近になって色見隧道には何らかの障害が発生。
急遽、隣に角田トンネルを掘って、開通に間に合わせたのではないか。
この不自然に大断面の色見隧道の竣功は、おそらく昭和46年〜48年の間。
そして、50年の開通時点で既に廃止されていたのではないかと……大胆だが、そう考えるのである。
私の思い描く、完成はしたが一般の目に触れぬまま消え去った隧道。
はたして、真相は?!