サブタイトルの通り、今回紹介する道は、これまで山行がで取り扱ってきた道の中で、おそらくもっとも古いものになる。
しかも、ちゃんと?廃道をしているのだ。(そうでなければ取り上げなかっただろう)
奥州街道については、このようなミニレポでいまさら説明するまでもないかも知れないが、山行がでは余り触れてこなかったので、やはり簡単に説明しておこう。
「○○街道」と呼ばれる道の多くがそうであるように、奥州街道もまた、江戸時代に盛んに利用された道である。
時代劇でよく出てくる、飛脚や大名行列が通る路、それが街道と呼ばれる道の一般的な光景だ。
そして、様々ある街道の中でも「奥州街道」は東北第一位の重要な路線であり、それは現在の東北地方における国道4号であり或いは東北自動車道の重要度に匹敵する。
実際に、明治時代に入ってから奥州街道の道筋を元にして陸羽街道が造られ、それはやがて国道という呼称を与えられるようになり、現在の国道4号に繋がっているのだ。
江戸日本橋からはるばる青森へ、そしてさらに蝦夷への渡航地であった津軽半島北端の三厩までが、奥州街道の全行程だった。
それは、今日の国道4号をも超越する、日本最長の道だったのだ。
そんな長い奥州街道の道筋のなかには、想像以上の直線路が存在する。
その最長のものが、岩手県花巻市から北へ紫波町までの約14kmの直線である。
そこは後世においても線形としてはそれ以上の改良の余地がなかったと見え、明治以降の国道もそのままなぞっていた。
その直線の有り様は、右の地図をご覧頂きたい。
だが、この長い直線路には、やはり旧道と呼べる道が存在した。
それが、今回紹介する古街道、または鎌倉街道と呼ばれた道である。
なんと、この道が新道に付け替えられたのは1658年(明暦4年)のことで、350年も昔である。
今回は、全部で20km近い長さを持つ旧街道の中でも、北側の合流地点に近い石鳥谷地区の景色をご覧頂こう。
ここには、オブローダーならば、たとえ街道に興味が無くともつい反応してしまう、そんな景色が待ち受けている。
一帯の拡大図は右の通り。
新旧街道は、JR東北本線を挟んで並行している。
明治以降、地図中の黄色いラインが国道に指定され、そのまま国道4号として近年まで使われてきたが、石鳥谷の町内を縦貫するために交通事故や渋滞が慢性化し、これを解決するために、敢えて直線を捨て西へ大きく膨らんだバイパスが造られた。今はそれが国道4号となっている。
そのバイパスの一部は旧街道筋に重なっており、旧街道が300余年ぶりに主役へ返り咲いたと言えなくもない。
レポートするのは、旧街道が辛うじて現代の道路と重ならずに残された、僅かな区間だ。
上の地図で濃い緑色の実線が、そのような区間である。
国道4号から、石鳥谷小学校の案内看板に従い右折すると、すぐ正面に体育館が見えてくる。石鳥谷小学校だ。
その手前、グリーンベルトのように木々の生い茂る細長い区画があるが、実はこれが旧街道だと言われている道だ。
近くには歴史好きを相手にしたような看板も立っており、市でもそれと認めているようだ。
右の写真の、緑茂る部分。
そこがまさに天下の大道だった。
…俄には、信じがたいが…。
旧街道とされる部分は、周辺の地平よりも一段低くなっており、まるで水路のように窪んでいる。
しかし、水は溜まっておらず、一面に葛やススキ、そして木々さえ生い茂る猛烈ブッシュになっている。
これって、 …廃道?
…そう。
慣れない「街道」だからか、ちょっとアンテナが鈍っていたが、思えばこれは廃道。
私の大好きな廃道ではないか!
猛烈ブッシュを漕いで漕いで漕ぎまくれば、とりあえずその旧街道を辿ることは出来そうだが、すぐ隣を並行して国道と、この写真の町道が通っている。
…旧街道の凹みをわざわざ避け、その両側に道を作ること無いじゃないか(泣)。
流石にこれでは、校庭で遊ぶ小学生や道ゆく住人たちの看視に耐えながら薮を掻き分けるメリットが、薄すぎる。
写真右側の木が生えている部分が、凹みとして残る古街道跡である。
一本にずっと連なっている。
200mほど北へ進むと、古街道と町道の間に水田一反くらいの距離が生じてくる。
それでも視線をそらさず進んでいくと、街道の傍らにこんもりした土饅頭と白い看板が見えてきた。
あれはもしや…。
接近!!
それは、街道巡りの名物。江戸時代版のキロポスト。
一里塚であった。
解説板によれば、ここにあるのは“旧好地(こうち)一里塚”というもので、江戸から数えて133番目の一里塚だったという。
一里塚も街道好きにはお馴染みのものだと思うが、徳川幕府が旅人の利便の為に築かせた約4km毎の目印である。
普通は道の両側に一対の土饅頭を設け、その天辺には塚木といわれる木を植えた。
木の種類は榎や松が多かったという。
この旧好地一里塚は見ての通り、こんもりとした土饅頭が今も残っている。
残念ながら反対側は残っていないようだ。
歴史の証人であり文化財指定をされた一里塚は、そこだけが刈り払われていた。
溝となった旧街道へは、刈り払われた急斜面を降りて行くことが出来る。
ただし、やはりそこに道の面影を感じることは、少し無理がある気がする。
この道が旧化したのも大昔だが、ここに道が通った最初は、ちょっと気が遠くなるほど昔。1300年も昔だろうと言われている。
律令制度の中で国有道路的な性格を持って整備されたのが、東海道や東山道と言われた古代官道であるが、奥州街道は東山道の流れを汲んでいて、この辺りではおそらく、両者が重なっていただろうと推定されているのだ。
降りてみた。
ここより北側は耕地になっていて、溝も消滅していた。
旧街道が痕跡として現存しているのは、この一里塚から先ほどの学校前までの200m足らずだけだ。
一面の草むらで、足元は湿気った土というか草の絨毯というか、ともかく道っぽくはない。
時の南部藩主重直公が「山坂多く不便」とし、新道を開鑿させて以来、350年近くが経過している。
しかし、この旧街道もすぐに廃道になったというのでは決してなく、新旧街道は併用されてきたそうだ。
この道が今のように不要となって草むらに没したのは、おそらく明治以降のことだろう。
一世紀を遡らなくても、ここには街道らしい風景が存在していたことと思う。
が、もはやその姿を想像することは、非常に難しい。
ここは既に廃道でさえなく、遺跡なのだ。
少なくとも私にとっては…。
旧街道の路面に立って、辛うじて残った一里塚を見上げる。
思いがけずに、気高く聳えて見えた気がした。
この景色だけは、何百年もの間、余り変わっていないのかも知れない。
そう思うと、何だか愛おしい気持ちがした。
枯れそうな塚木の松が何代目なのかは知らないが、この景色自体が、人々が通った、その証しなのだと思った。
愛おしかった。
ちなみにこちらが、線路を挟んで並行している新街道、そして今では旧国道となった道である。
この通り、胸の空くような直線道路である。
これが近代的な花巻空港の脇のあたりから、延々14キロも続いている… 少なくとも地図上では…のだが、実際には国道の道幅が一定でなかったり、沿道の開発が進んでいるためか、余り直線だという実感は湧かない。
その中で、いち早く旧道化した石鳥谷町内のこのあたりは、はっきりと直線を実感できる部分だ。
ちなみに、(新)好地一里塚はこの辺りにあったが、昭和26年に撤去されてしまったらしく、跡地の標柱だけが残っている。