越後を代表する信仰の山である弥彦山(海抜634m)。
その南北に長い尾根を縦走する全長13.7kmの弥彦山スカイライン(一般県道弥彦岩室線)が開通したのは、昭和45年のことである。
休日にはライダーや観光バスで賑わうスカイライン入り口の片隅に、今は使われていない小さな隧道が口を開けている。
隧道の名は間瀬隧道。
昭和8年生の、今は無き間瀬村と岩室村の間の動脈だった。
隣に出来た切り通しに道を譲ってだいぶ経つようだが、今も隧道は多くの地図に記載されている。
そのせいもあるのだろう。近隣ではちょっとした肝試しスポットになっているようで、私もまた彼らに倣って真夏の暑い日に行ってみた。
この隧道を訪問するのは、燦々と日の照りつける真夏の暑い日がいい。(夜である必要は特にない)
たとえオバケがいたって隧道の中へ入りたくなること請け合いだ。
昨年8月23日。この日の天候は文句ない快晴で、アスファルトの輻射で靴底から溶け出しそうだった。
隧道の上の間瀬峠とでも呼ぶべき峠は、「弥彦山脈」の二大主峰である弥彦山と角田山の真ん中にある低い鞍部で、現道の切り通しの最高所は海抜120mほどである。
この峠の変わっているのは、旧道が現道よりも低い位置を隧道で貫き、一方の現道は素直に切り通しで越えている点だ。
(故にこのレポートのタイトルも間瀬隧道とすべきだったが、わかりにくいので括弧付けで"旧"を入れた)
事情を知らない人が地図だけを見たら、古い切り通しの峠に新しくバイパスのトンネルが掘られているように見えるかも知れない。
峠は、平成15年に新潟市に吸収され地図上から消えた岩室村の樋曽と間瀬の集落を隔てていた。
ちなみにこれから向かう峠の反対側の間瀬(間瀬村)も、昭和30年にこちら側の岩室村に吸収合併された経緯があるのだが、平成の大合併というキャタピラは、そんな細かな過去を含め全て均してしまったようだ。
合併の結果、中小規模の峠を乗り越えて同じ行政区域となった場所が多く、おかげで幾つもの峠がその存在感を減じてしまったのは残念だ…。
閑話休題。
現道と旧道は100mほどしか離れていないのだが、両者ともに切り通しに道があるため、少し進むともう他方の音は聞こえなくなった。
そこはいかにも古い道らしく、自然の谷底を活かして道が作られている。
おかげで、ここ数日快晴続きだというのに路面は水に濡れていた。
アスファルトが敷かれた路面も、カイワレのような瑞々しい草に覆われている。
風はなく、とにかく蒸し暑い。
向かって左側のなだらかな斜面は年を経た杉の植林地だが、現道のある右側は傾斜がきつく、そこに石垣が残っていた。
一年中日に当たることのない石垣はシダたちの格好のプランターになっているようで、日陰の植物とは思えぬほどにエネルギッシュな成長を遂げていた。
石垣の一部は崩壊し、背面の土の崖が露出している場所もあった。
こんな緑一面の旧道は、やがて緩やかな右カーブへと続く。
カーブを曲がると、そこには御年七十余歳を数える間瀬隧道が。
土木界通信社発行の『道路トンネル大鑑』に収められている、昭和42年時点の全国の主な道路隧道をリスト化した資料:通称「隧道リスト」(この資料は『山形の廃道』管理人fuku氏の好意によりWEB上で閲覧可能)においても、本隧道は「間瀬隧道」として記載されている。
全長は135m、幅3.5m、高さ4mとの諸元が記録されているが、リストに記載されている以上、昭和40年頃までは現役であったらしい。
この、さして高くも険しくもないこの峠だが、かなり早い時期に隧道が掘られていた事実は、今は失われた人の流れがここにあったことを想像させる。
そして事実、この隧道が掘られた当時には、間瀬村の北にも南にも車道は通じていなかった。
海岸線にあるのは、岩場を上り下りする歩き道だけであった。
驚くことにそのような状況は、昭和47年修正の5万分の1地形図(弥彦山)を見ても殆ど変わってはいない。
調べてみると、越後七浦シーサイドライン…現国道402号…の全線開通は昭和50年であった。
間瀬村にとって、この隧道が村から外界へ続く道の全てだったのだ!
逆光によって写りが悪くなってしまったが、扁額も健在である。
間瀬隧道の文字が右書きではっきり陰刻されている。
その扁額が取り付けられている坑門も、立派な扁額に見劣りのしない重厚なものだ。
丁寧に迫石を巻き立てたアーチはあくまで美しく、元々の色が分からなくなってしまった煉瓦は、この隧道が経てきた時の重さを雄弁に語る。
一目見て、「この隧道には歴史があるな」と分からせる、そんな説得力がある。
それでは、いざ隧道内部へ。
現道からの分岐地点にこそ車止めが設置されているが、隧道周辺には特に行く手を阻むものはない。
立ち入り禁止などの看板も見受けられず、特に管理されている様子もない。
まさに、理想的な廃隧道といえる。
しかし、道が沢地にあるのと隧道からの出水で、辺り一面は水溜まりになっている。
とはいえ135mの先にはしっかりと出口の明かりが見えており、立ち入りを躊躇う理由はない。
むしろ、冷気を帯びて流れ出してくる海風は、汗だくの私を喜んで前進させた。
内壁はコンクリートで巻き立てられているが、その表面は地下水によってかなり剥離し、全体的に傷みが目立つ。
今はまだ表面の剥脱で済んでいるが、遠くない未来、その地圧に屈する時が来そうだ。
外見以上に内部は経年の劣化を見せている。
幅3.5mと言えば軽自動車がぎりぎりすれ違える程度の幅で、かつてならオート三輪同士はオッケイだったろうが、バスやトラックが来たらアウト。
そんな幅だ。
とはいえそれほど狭いように見えないのは、隧道が真っ直ぐなことと、内部には照明一つ無くガランとしているせいだろう。
路面も側溝や白線が無く、のっぺらぼうだ。
やはり廃止はかなり昔のことかもしれない。
少なくとも昭和47年修正の地形図では既に旧道化していた。
東側坑口から内部にかけて浅い沼地になっており、絵的に不潔な感じはしないのだが、分解されずに残った落ち葉が堆積しヘドロになっている。
水が殆ど流れ出していないのも良くない。
ちなみに、私が隧道の中程に行くまでこの沼地からカエルの声が聞こえていた。
春先には大変な卵沼になっていそうだ…。
少し進むと路面は乾いてきたが、また出口が近づくと湿気っていく。
肝試しのスポットになっていると聞いていたが、あまりゴミもなく、壁などの落書きも見られない。
周辺に人家もないし、こんな風に“丁寧にヒヤヒヤ”する分には、廃隧道での肝試しも良いかななどと思う。
なにも霊的なものは感じないが、地下を吹き抜ける海風は確かに、背筋にすぅと来る。
出入り口が湿気っていて、天然の打ち水状態なのも良いのだろう。
この涼しさは、オバケは出ても、私はここから出たくなくなる。 (って、冬にこのレポ読んでも実感湧きませんよね…)
そのまま真っ直ぐ出口へ向かう。
いよいよ出口が近づくと、外気との温度差を熱風によって痛感させられる。
それはさておき、この西側坑口には憂慮すべき外傷が認められた。
坑口から1mほどの内壁に深く幅の広いクラックが生じている。
それはもう既に全周に達している。
数年前の地震の影響なのか、どちらにせよ何らかの補強工事をしない限り、美しい坑口に明日はないだろう。
そう。
此方の坑口は東側に輪をかけて更に美しい!
背後の地中では危険な破砕が進んでいるのだろうが、それを全く感じさせない瑰麗さである。
何者かが定期的に坑口を磨き上げているのではないか。そんな風に思われるほど。
西向きのこの坑口を一番よく照らすのは日本海へ沈む夕日だが、日本海沿岸の町が挙って賞賛するその美しい夕日が、この坑口をいつまでも若く保たせているのかも知れない。
実際、日光には清浄化作用がある。
それにしても、アーチの一つ一つの石の隙間のモルタルがまだ白いのには、驚いた。
東側ほどではないが、此方の坑口も緑の掘り割りの底にある。
石垣の高さだけならば此方の方が上だ。
その高い石垣の中腹からにょっきりと木が生え出し、恵まれた境遇にいる他の仲間たちに負けじと青葉を広げていた。
廃隧道を歩くという充実感を手軽に満喫出来る好スポットである。
オバケ好き達だけに遊ばせておくにはもったいない場所だ。
ほんと、来て良かった。
なにも危険な目に遭うこともなく、でも詰まらないとも思わず。
立ち入り禁止を破らず潜れる廃隧道でここまで“素”のままなのは、都市近郊にあることを考えれば奇跡にさえ近い。
大仰に保存活動などしていただかなくても良いから、ずっとこのままで… 出来ればクラックだけは埋めて… いてほしい。
美しい坑口を背にちょっと進むと、もう振り返っても 夏だなッ て感じ。
気づけば現道がすぐ隣に近づいており、残念ながらその喧噪と無縁ではいられなくなった。
更に別の道も近づいている。
さようならだ。間瀬隧道。
夏だねー。
正面のいかにも日本的な形の山が弥彦山だ。
旧道は、ススキとクズの原っぱにその路盤を急速に浸食されつつある。
だが、舗装された路面自体は現役のように綺麗だ。
右手には現道が降りてきていて、間もなく接触することになる。
だが、それよりも先に旧道に引導を渡す道がある。
弥彦山の山頂を経て南へ縦走する弥彦山スカイラインが、その道である。
古い地図だと旧道はもう100mほどして現道にぶつかっていたようだが、寸断されている。
とはいえ、この先の端切れ区間には一見して遺構らしいものもないので、私は良い気持ちのまま旧道探索を終えた。
最後にアレを見るまでは、この隧道はコストパフォーマンスならぬ「リスクパフォーマンス」満点の評価だった。
アレを見るまでは……。
……あ あの…
字、 違ってますけど?