「奥州街道」である。
奥州街道、街道に少しでも興味のある人ならば知っているだろうが、有名な五街道の一つである。(正式には奥州道中)
そのルートを大雑把に表現すれば、江戸時代版の国道4号である。
知っての通り国道4号は日本一長い国道(東京〜青森間)で、その前身たる奥州街道は、「日本橋〜宇都宮(ここまで日光道中と重複)〜仙台〜盛岡〜青森(ここまで国道4号に継承)〜青森県三厩」まで、おおよそ114宿を数える日本最長の街道であった。
当時の旅の足を考えればまさに果てしないとも思える長い長い道中には、他の多くの街道と同様、約4kmごとに一里塚が築かれ旅の心を励ました。
仙台以北では随一のにぎわいを見せた宿場盛岡を過ぎると、天下の大道たる奥州街道も急に狭くなり、さらに険しい上り下りも格段に増える。拠り所である宿場の間隔も一気に広くなる。旅人の多くはその変化を見て、いよいよみちのくの果てに近づきつつあることを意識しただろう。
盛岡から次の宿場である渋民(旧玉山村)まではおおよそ18kmの山道で、途中わずかに集落はあっただろうが、心細い道であったに違いない。
だが、そこにも一里塚は点々と築かれていた。
盛岡の賑わいの中にあった鍛治町一里塚、松並木の中にあった上田一里塚、そして北上川の蛇行に寄り添うように小野松一里塚、その次がこれから紹介する笹平の一里塚であった。
現在、笹平よりも下流には満々と水を湛える南部片富士湖(四十四田ダム)があり、古い街道の道筋をもろともに飲み込んでいる。
かろうじて水没を免れた笹平集落にも、もはや集落と呼ぶ限界である2世帯が暮らすのみのようだ。
そんな場所にて、失われたと思われていた一里塚が十数年ぶりに確認された。
昭和43年に北上川本流をせき止める初めてのダムとして竣工した多目的の四十四田ダム。
形成されたダム湖は、湖畔のどこからでも眺められる岩手山から「南部片富士湖」と愛称され、盛岡市街地に近い憩いの場所となっている。
しかし、その広大な湖畔地帯の大部分はカラマツやクロマツが混じる落葉樹林となっており、かつて湖底に沈んだ村々の裏山にあっただろう墓地やお堂
だけが、高いところに新しく通された現在の湖畔道路の周辺に散在している。
奥州街道もこの川縁の低いところを通っていたが、明治以降、西方の滝沢村内の樹海を通過する現在の国道4号ルートが開発され、水没するかなり前からメーンのルートではなくなっていたようだ。
そして、街道の付属物たる一里塚もまた、役目を終えた街道とともに湖底へ消えたものと考えられていた。
ダム上流端に近づく笹平地区。
江戸後期に書かれた街道の絵図『北奥路程記』には、この地に一里塚が存在したことが描かれている。
現在は谷底を水面が覆い、北上川の流れはなくなっている。
その上を、遠く東方にある岩洞湖から伸びてきた揚水式発電所の水管橋が鮮やかなトラスで跨いでいる。
奥には水没を免れた数戸の家屋が見えている。
そこが、現在の字笹平だ。
道路と水路の橋が絡み合う景色を夢中で撮影していると、ん?
あの小島のようなものは?
もしやと思いながら、先ほど奥に見えていた民家へ接近。
その先に草の道を発見。
近くでトタン屋根に登って作業中のおじさんに聞いてみると…
なんと! この家の前を下っていく道が街道であるというではないか!
しかも、一里塚が存在しているという!!
言われた道を進んでいくと、いくらもせずに下り始める。
平坦な草地を割るようにして、道だけがまっすぐ湖の方へと沈んでいく。
この勾配の緩やかさは、おそらく江戸時代の街道そのままではなさそうだが(ダム工事の車両も通ったかもしれない)、このあたりで湖底から街道が浮かび上がってくる事自体は不思議はない。
おそらく、この道は本当に、奥州街道に由来する道なのだ。
この道が、江戸へと続いている!!
大名や武士、商人に俳人、有名無名の人々が、おそらく何百年間も通った道なのだ。
そこいらの国道では太刀打ちのできない程の汗が吸い込まれた、路面。
元々街道への興味があった訳ではない私だが、どうやら道と名の付くものは何でも好きな質だったらしい。
この誘うような緩やかな下りカーブに、私は吸い込まれていった。
更に進むと、足下はぬかるみ始めた。
雑木林と笹原が、道を覆い始める。
完全に藪道となるのが先か、湖水にたどり着くのが先か。
そんな感じになってきた。
藪の向こうに銀色の水管橋がはっきりと見えてきた。
浅い掘り割りのまま、湖面へと突き進んでいく。
もう、車の轍はない。
堆積した泥の上に雪で押しつぶされたままのススキや笹がへばり付いた湖畔へたどり着く。
目の前には、さっき向こうの道の上から見えた小島があった。
…ここ3日ばかり、何度も目にしたお椀型の小山…。
それは、素人目に見ても一目瞭然。
一里塚の姿だった。
水位が下がったときだけかろうじて地続きとなる小島の正体は、本当に一里塚だった。
塚木といって塚の上に目印に植えられた木があったが、その何代目か、あるいは偶然そういう形になったものか、ともかく一本の大木が島を占領していた。四方からたっぷりと水分を補給し、樹勢はきわめて良好のようだ。
実はこの塚の存在は、ダム湖ができた数年後に調査編纂された『岩手県文化財調査報告36集 奥州道中』にも記載されていた。
しかし、そこには「渇水になれば」の但し書き付きで存在が触れられているだけで、よもやそれから30年近くも経過してなお、崩れずに残っているとは驚きだった。
とはいえ、島の裏の水流に面する側はかなり削られ根が露出しており、確実に浸食崩壊が進んでいることを教えてくれた。
いままで、いろいろなものがダムに水没した姿を見てきたが(道路、鉄道、林鉄、隧道、村、ダム…)、江戸時代の土木遺構がそのままに近い形で水没している姿は初めて見る。
当たり前だ。こんなものは滅多にあるはずもないし、そうそうあっていい訳無い!
一里塚は県指定文化財級はあたりまえで、場合によっては国の史跡に指定されていたりもするほどの“立派な”文化財なのだ。
なお、前出の『報告』には片側の塚のみ確認されたとあるが、小島となった一里塚の向かい4mほどの位置、汀線ぎりぎりにもう一基、大きな木を乗せた地面のふくらみが感じられる。
これが未確認の片方の塚であるかは立証のすべを持たないが、位置的、形状的、そして状況証拠的に十分あり得ると思う。
その周囲はフジのツタが絡まり、さらに笹藪とススキとが乱舞し、夏期は全く地面の形状を確認できないだろうから、これまで未確認だった可能性はある。
そもそもが、真っ当な人はあまり(趣味性から)ダム湖の汀線まで降りてはこないものだ…。
そして、ダムへ沈む道を撮影したショットとして王道のアングル。
本当にこれが齢数百を数える(当たり前だが、普段レポートしている国道や県道の数倍〜数十倍も古い)街道の姿なのか。
疑問がないでもないが、両側の一里塚が存在し、かつての調査でもここが街道だと認定された以上。正しいのだろう。
…すごい景色に出会えたものだ。 感激。
この先はさすがにもう行けない。
これにて引き返す。