都心から西に50km。
多摩の奥地、秋川谷の山峡に広がる緑と清流の村、檜原(ひのはら)。
そういえば聞こえもいいが、(離島を除く)都内で唯一過疎の“村”という現実は、担当する行政官にとって悩ましいに違いない。
そんな檜原村にとって最大にして唯一の縦貫道路である都道33号「上野原あきる野線」。
ミニレポ第119回(後編)において、この道の改良を期して建設されたものの、いまなお完成せぬまま放置されている橋を紹介した。
また同じ都道33号の沿道で奇妙な橋に出会った。
前回同様、柵に阻まれた、行き先無き橋である。
ご紹介しよう。
檜原村役場のある元郷地区から都道33号を西南方向へ進むこと約7.5km、南郷地区の下川乗という所へ来る。
都道は間もなく甲武トンネルのある山梨県境の峠越えに立ち入る訳だが、その上りが始まる少し手前、ずっと平行してきた南秋川の清流を二度連続して渡る場面がある。
一本目の橋が御籠橋、二本目が滑石橋というが、この橋と橋の間が、“舞台”である。
写真のように、道路右側に高い土盛りと、その周囲を取り囲むような高いフェンスがある。
フェンスの道路に面した側には車が出入り出来るだけの開閉部があり、そこに管理者の設置した看板が取り付けられている。
ここは、東京都の事業用地です。
危険なので立ち入りを禁止します。
連絡先 東京都西多摩建設事務所
工事第一課工事係
桧 原 工 区
うむむむむ。
西多摩建設事務所といえば、道路や河川の工事をするところ。
そして、「桧原工区」とはなんともそそる響きじゃないか。
柵の向こう側は土盛りなのだが、それだけではなく、奥へ平らなスペースも続いている。
雑多な資材が幾らか残されているが、長い間放置されている感じだ。
さらに進んでみる。
“進んでみる”とは言っても、この方向は川の蛇行に三方を囲まれ、背後は都道というわけで、いくらも進めない。
それこそ、橋でも架けない限りは…。
冬枯れしたツタに覆われ、さながらブラインドの代わりになった柵を越えると、そこには何とも立派な橋が出現したのである。
だが、明らかに様子がおかしい。
どう見ても、橋の先に道は無い。
見よ!
この奇妙極まりない姿を。
橋は架かったが、肝心の道は少しも作られていないのだ。
それにしても、幅の広い橋である。
車道部分だけでも8mほどはあり、その両側に1.5mずつほどの舗装がある。
また、欄干は未施工で、その代わりに工事現場などでよく見かける簡易なガードレールを設置している。
街灯を設置するための設備もあるが、まだ支柱自体取り付けられていない。
接続している都道33号は、歩道さえ未整備の箇所が少なくない道で、路幅もせいぜい7mなので、この橋の規格の立派さは群を抜いている。
この橋の素性が知りたくて、橋の周囲をウロチョロうろちょろ。
そしてワタシは見つけたでヤンス。
隠された、製造銘板を!!
ちなみに、川の下流左岸側に発見した。
上川乗橋(仮称)
1995年3月
東 京 都
道示(1994)B活荷重
(以下略)
驚き!
仮称って、オイオイ・・・。
仮称なのかよ。
だが、「仮称」はともかくとして、やはり製造銘板は情報の宝庫である。
まず、竣工年は意外に古かった。
1995年といえば、平成7年。時期的にはちょうどバブルが弾けきった頃だ。
工事が止まっていることとの関連性をどうしても疑いたくなる、最も“香ばしい”時期といえる。
そして、工事の発注者は「東京都」である。すなわち、都道なのだ。
さらに、「B活荷重」というのは平成5年に制定された現行最新の活荷重で、幹線道路、特に大型車の通行量が多いと見込まれる道に設定されるものである。
まとめると、この橋は通行量の見込まれる都道用に作られたのだと言うことだ。
盛り土の上から眺めた橋の全景。
正面左に見える沢は、ここで南秋川の合流する上川乗沢で、これに沿って上流を目指す林道のガードレールが見えている。
そこまで行ってもみたが、一切この上川乗橋(仮称)に繋がる工事の跡は無かった。
やはり、真っ正面の高いコンクリート吹きつけの壁までが、この道の着工した全てと言うことらしい。
だが、この方向は都道33号とはまるっきり直交しており、単純なバイパスにしては大いに不自然なのだ。
上のリンクをクリックして、グーグルマップを確認して欲しい。
市販の地図には記載されていないこの未成橋梁だが、中央あたりに、まるで自然地形であるかのように描かれている。
そして次に、適当に縮尺を変えてみて、この道がどこへ繋がろうとしているのかを想像して欲しい。
はっきり言って、私の想像力ではその答えに届かなかった。
この道の正体を知る手掛かりは、意外なところにあった。
この地図は、2006年版の昭文社スーパーマップルである。
そこに、都道33号と都道205号、南秋川谷と北秋川谷を結ぶ約4kmの「計画道路」が描かれていたのだ。
しかしなぜかこの道は、より大縮尺で詳細なデジタル版スーパーマップルや、その他各社のデジタルマップにも記載がない。
そのはっきりした原因は不明だが、更新度の低い紙媒体の地図にのみ記載があるという事実からは、計画自体が古く、現在はそれが第一線にないものだという考え方も出来る。
厳密には、今回橋梁が発見された位置と、地図上の位置とはズレがあるが、無関係とは思われないのである。
なにしろ、橋の向かっている方向は全く同じなのである。
それでは、この道の計画は現在どうなっているのか。
フェンスに名前のあった「西多摩建設事務所」のサイトを見てみた。
管轄エリア内の主な工事・計画道路の記載は有るのだが、その中にこの道に関係すると思われるものはない。
その他、色々なサイトを覗いてみたものの、檜原村の南北を結ぶ、全く新しいこの大規模なバイパスに繋がる情報は、なかなか得られなかった。
だが、『東京都町村会』サイトのずっと深い階層に眠るひとつのPDFファイルに有力な情報を発見した。
平成19年度に東京都町村会が都の建設局へ提出した、各種行政整備に関する資料の中に、檜原村の要望事項として次の項目名が挙がっている。
I.檜原村南北横断道路の早期完成
記載はたったこれだけである。
具体的に、それがどのような道であるのかは掲載されていない。
しかし、その路線名の持つダイナミックなイメージは、道路地図に記載された計画線とぴったり一致する。
全長4kmほどだと述べたが、おそらくその全線がトンネルになると思われるのだ。完成すれば、都内最長級の道路トンネルになるのは間違いないだろう。
だが、この道の実現性がそう容易ではないことは、簡単に想像がつく。
左の図を見ていただければ分かるとおり、この南北道路が完成したとしても、交流人口は微々たるものなのだ。
檜原村は南北秋川谷に沿って、カタカナの“コ”の字の形に集落が発達しているが、この「南北横断道路」が開通して“ロ“の字に道路網が形成されたとしても、それによって直接の恩恵を受けるのは北秋川谷の、しかもかなり上流部だけである。(都道205号は行き止まりの道である。)
採算性だけで見れば、これはもうトンデモナイ赤字路線が約束されている。
だが、それでもこの種の山村における道路計画には、採算性だけで割り切れない問題がある。
例えば、北秋川谷奥地の袋小路にある集落は、ひとたび道路災害で麓へ降りる道が遮断されれば、それだけで全く身動きが取れなくなってしまう。
この状況は少なからず南秋川谷も似通っていて、やはり都道33号が寸断されたとしたら、村は完全に東西で分断されることとなるのだ。
これは、東京〜山梨方面の一主要ルートが寸断されることをも意味する。
防災という側面を考えたときに、このような道は確かに、切り捨てがたい威力を持っているのだ。
果たして、その意義が経済の天秤ばかりに打ち勝って、再着工となる日が来るのか。
それとも、永遠のトマソンとして、その屍体を晒すのか。
答えは当分でなさそうである。
もし開通すれば、このカーブに左折のT字路が現れることとなる。
いまはまだ、都道側には何の準備施設もない。
ただ、道路からは全く見えない位置に、一本の大仰な”仮称”橋が架かっているのみである。
道路は“線”だというのは常識だが、これはまだ、“点”というより無い。
ちなみに、このあと北秋川谷側の接続地点も視察したが、それらしい準備物は無かった。
工事等も、特に始まっていないようだったが、詳細は不明である。
なお、右の写真は冒頭に登場した御籠橋に平行して残る旧橋の残骸である。
こちらは昭和2年の竣工であると銘板が教えてくれたが、親柱はそれ一柱を除いて遺失ないしのっぺらぼうで、本来の橋の名前も不明である。
橋は今も何とか持ちこたえて橋台の上に乗っかってはいるが、相当に傷んでおり、杉の木さえ桁の上に育っている。
ことさら頑丈そうな石組みの大きな橋台が、この役目を終えた橋を保たせている。
近接する、二つの“通れぬ橋”。
だが、その性質は全く正反対といえる。
事を終え、静かに崩壊を待つ老い橋と、
いまだ何も成さず、ただ闇雲に大きな影を川面に落とす、若い橋。
不幸なのは、どっちだ。