道路地図を見ていたら、こんなものに目がいった。
黄色く塗られた県道から同じ方向に伸びた短い2本の枝道。
別にどうってこと無い地図風景だろうか?
…いや。
やはり気になる。
<気になりポイント いち>
目的地がないのに太く描かれている
<気になりポイント に>
太いのに異常に短い(特に上のほう)
実際の風景を通りがかりに覗いてきた。
魚沼市赤土。
<地図を見る>
これが南側の“ヒゲ”の現在の様子である。
直進が県道70号、右が気になるヒゲ。
ナンノヘンテツも無いT字路で、特に期待していたような「違和感」も感じない。
入ってみよう。
ムムッ!
確かに道は幅が広い。
センターラインの名残だろう。
道路中央の舗装の切れ目に沿って、白いペイントがうっすら残っている。
舗装自体も日焼けして、だいぶ古びている感じがする。
ここで私の嗅覚はかぎ分けた。
確かな「違和感」を。
県道を離れて30mも行くと沿道の民家もなくなり、小さな沢に沿った緩やかな上り坂になる。
相変わらずかすれたセンターラインと、ひび割れだらけの舗装が侘びしい2車線路が続く。
当然のように行き交う車も人もない。
ん?!
何か左の山肌にある。
何とそれは隧道?!
コンクリートの坑門が道路と斜行する向きに口を開けていた。
刈り払いもされていない坑口前へ急速接近!
ミニレポだから当然入れません(笑)
いやいや、入れれば入ったんだけどね、カギがしっかりかかっている。
穴の奥からはかなり大きな水の音が聞こえる。
それも、けっこう沢山の水が流れる「ジョロジョロ」という音だ。
鉄格子の隙間から覗き込んだ洞内は、ご覧のような斜坑であった。
う〜〜〜ん。そそる。
普通に立って歩けそうだが、かなりの急傾斜で地底へ下っているので写真では狭く見える。
この奥から水音がするのだが、いくら照らしてみても闇しか見えなかった。
はて? どこへ通じているのか。
おそらく、この山の裏手300mほどにある藪神ダムだ。
地形図などにも当地点を横切る地底水路が描かれている。ちなみにダムの管理者は東北電力(株)だ。
坑門には一切銘板も無く、コンクリートを搗き固めただけで装飾性ゼロ。
水路はどうでも良いが、この斜坑は入ってみたかった!
思わぬ発見だったが、再び道へと戻った。
かすれた白線と舗装のひび。彼らに新しい仲間が加わった。
グニャグニャになったガードロープである。
ガードロープは主に積雪のある場所でガードレールの代わりに用いられるのだが、そのメリットの一つとして、積雪期にロープのみ回収することで雪圧による破壊を防げるというのがある。毎年冬期閉鎖前の山道では人知れず、ガードロープの回収という大変な仕事が行われているのである。もちろん春には再設置の大仕事だ。
で、ここのガードロープの無惨な姿を見て欲しい。
間違いなく管理放棄されている。
ただ、このような豪雪地でガードロープを使っていること自体が、「当初は継続的に金と手間をかけて管理していく意図があったのだ」と逆説できる。
もちろんこの理論は絶対ではないが、基本はそうだとおもう。
おらワクワクしてきたぞ。 (スゲー地味だけどな)
起点から200mほど来た。
道と沢との僅かな隙間を見逃さず小さな畑が作られていた。
そして、ここに一本のデリニエータ(視界誘導標のことで、道路脇によく立っている反射材付きのポールのこと)が立っている。
デリニエータは我々道路趣味者。
特にその道の“素性”に深い興味を持つ者にとっては、非常に重要な手掛かりとなる。
その表面に道路管理者である自治体名がペイントされていることが多いからだ。
さて、これにはなんて書いているだろう。
「魚沼市」という可能性は限りなく低いだろう。だってほんの数年前までここは北魚沼郡守門(すもん)村だったのだから。
でも、私の期待はそのどちらでもない…。
新潟県
間違いなくそう書いてます。
滅茶苦茶薄くなってて元の塗料は全然残ってないけれど、むしろ周りの汚れに対し白抜きみたいにして、明朝体で記された「新潟県」の文字が読み取れた。
この文字が意味することは、地図には無色で示されている本道が、昔は県道(ないし国道)であったということだ。
地図に書かれた小さな“ヒゲ”を見て、もしかしたらそんなこともあるかなって、そう思ってきたのだが、ズバリどんぴしゃだったらしい。
こうなると、いよいよ一つの仮説が現実味を帯びてくる。
どうやらこの無駄に2車線の道、県道だった過去があるようだ。
後ほど北側のヒゲも見たあとに、私の仮説を紹介しよう。
まあ、もったい付けるまでもなく、おそらくあなたの想像通りなのだが。笑
そんなこんなで進んでいくと、いよいよ地図上での太い道の終わりが近づいてくる。
この場所が、地図上での太い道の終点である。
ここから道は二手に分かれるが、どちらもこれまでの太い道ではない。
右は小さな橋を渡って、皿津沢川の源流へ伸びる林道。左もやがてそれと一本になる林道である。
どちらも私の目指す道ではない。
起点から約500m。
なんにもない終点だった。
うら寂しい快走路を引き返した。
今度は北側のヒゲへ向かうぞ。
南側のヒゲの入口から北側のヒゲの入口までは約1.6km。
この短距離で二度も、平行する破間川を大きな橋で渡ることになる。
この如何にもコスト高そうな道路線形に、ヒゲの秘密も隠されているような予感はあった。
写真は三渕沢橋。
上路トラスと桁橋を組み合わせた橋で、乗っている道はゆったりとカーブしている。
変わった親柱のデザインは、酒を仕込むための樽であろうか。
旧守門村といえば、雪中貯蔵酒の名産地である。
そんな親柱に埋め込まれた銘板によれば、橋の竣工は平成6年。比較的新しい。付近に旧橋らしい者は見あたらない。
橋上から上流を眺めると、切り立った断崖絶壁に静まり返った水面。そして、遠くに谷を塞ぐ藪神ダムが見えた。
それほど規模の大きくない藪神ダムだが、昭和16年という早い時期に発電専用ダムとして建設された。そして現在も現役である。
大きな川の中流にありながら魚道もない造りは人間本意というか実用一辺倒というか、とにかく時代を感じさせる構造物である。
三渕沢橋を過ぎるとすぐに、このカワイイ雪だるまの親柱が目をひく大滝沢橋が架かっている。
この親柱以外は特筆すべきものはないが、いやはや、これだけでもうインパクト十分である。
歩道側の親柱二基がこのデザインだ。 傑作!
そして、この区間で最大の橋がこの大倉沢大橋。昭和63年竣工の下路式ローゼ桁橋だ。
こんな名前だが下を流れているのは破間川の本流である。藪神ダムの貯水池だ。大倉沢はここの地名である。
橋の袂から対岸を見ると、ものすごい防災工事の痕がある。
しかも、その下を通る道は長いスノーシェッドの中である。
如何にも雪崩が多発しそうな急斜面であるから、素人目にもかなりの難路だったことが容易に分かる。
やって来ました北側のヒゲ。
地名は先ほどと字が変わって、魚沼市須川である。
こちら側の道の短さは失笑を誘う。
さあ、見てくれ!!
これがその入口の全景。
右が県道で、私が来たのもこの道だ。
で、ヒゲは左。
T字路というか、三叉路の形で分岐している。
これから詳しく見ていこう。
分岐点の中央からヒゲ側を中心に据えて見る。
やっぱり地図の通り、こちらも2車線道路だった。
ただ、南側同様に白線は消えている。
消えているのだが、二世代分の白線の痕が見て取れた。(画像にカーソルを合わせてください)
推論に過ぎないが、おそらく一番最初にこの2車線路が作られたときには、左のヒゲがメインだったのだろう。
全く無理のない奇麗なカーブで左に舗装と中央線痕のアスファルト継ぎ目が続く。
そのあとで右の道がメインに変わったのだろう。いくらか色合いの残った白線痕が、急カーブを描いてヒゲに続いている。
いずれにしても2車線の幅は確保されている。
ヒゲ側から県道を振り返る。
路肩がゼロなのが泣かせるが、取りあえず2車線は確保されている。
南側が鋭角なT字路で接続していたのに較べれば、この北側でのヒゲの扱いは、まさに“本線”級である。
この角向かいの民家のガレージに住人らしき男性がいたので、このヒゲについて聞いてみたのだが、「昔からある」と言うことのほか、特に有力な情報は得られなかった。
さて、ヒゲを進んでみる。
が、
驚くほど早く2車線路は終わる。
起点から見えるカーブ一つだけで終わりだった。(笑)
まあ、地図通りと言うことだ。
100mない。
終わり方も侘びしい。
2車線路が突然狭まると同時にコンクリート舗装の潜水橋だ。
渡った先はもっと狭い!
少しだけ先へ行ってみたが砂利道になったし県道と無関係なので引き返した。
なお、この左の藪には戦国時代の山城があったらしく、峯崎城址との古びた標柱が2車線部分の最後に立っていた。
無理矢理言うなら、この城跡へのアクセス道路としての2車線舗装路か。 ありえん!
これが北側の2車線道路ヒゲのほぼ全容だ。
実地での探索はこれで完了したのだが、机上で面白いものを見付けた。
平成3年に発行された道路地図帳だ。
2本のヒゲ。
南側のヒゲには県道だった証も残っていた。
そして、この二つのヒゲを結びつけるのが、この古い地図である。
ヒゲの仮説とは、藪神ダムを山側に迂回して両者を繋ぐ県道のバイパス(トンネルだろう)が、かつて計画されていたのではないかということ。
そして、実際に取り付け部分が2車線舗装路として完成していたのだろう。
地図上に緑の点線で描かれたルートはおそらく正確ではないにせよ、山側に新道を作る予定があったことを示している。
そう言えば全長22kmある本県道「小出守門線」のうち、平行する破間川の対岸を通るのは、三淵沢橋〜大倉沢大橋までの700mだけである。
元々は全線左岸に作ろうと考えていたとしても不思議はない。
何らかの理由でトンネル計画は挫折し、三淵沢橋を架け替え、大滝沢橋を新設、大倉沢大橋を県道に転用する現道ルートに計画が変更されたのだと思う。
南側で見た、たった一つだけのデリニエータ。
これが決定打になった。
しかし、何で一個だけあったんだろう。
もしかしたら、見付けて欲しかったのか…。
県道としては誰にも顧みられなくなった、そんな自分を。
……感傷に過ぎるか。
でも、あるんだよ。
道路趣味にはこういった、それを求める者だけに見えてくる、深い感動がね。
ミニレポで語るようなことじゃないか。
きっと、こんな道になるはずだったんだろうなー。