宮城県仙台市泉区上谷刈3丁目のマンションが立ち並ぶ一角に、地図にも載らない小さな神社がある。⇒【所在地】
だが、その神社の名は世界におそらく二つと無い(グーグル参考)、大いなる名である。
その名も、道路神社という。
これが、道路神社の神域の全貌だ。
境内には小ぶりな鳥居とイチョウの巨木、それに社務所というか倉庫のような木造の建屋(写真に写る建物)が一棟、後の方に古碑が幾つかある。
敷地は“くの字”型に道に囲まれた一角だが、取りたてて「道路」を祀るという立地には見えない。
全体的に見て、いたって平凡な小社である。
神社の前面はマンション群に囲まれている。
ここは表通りに面しておらず、また通りに看板なども無いために、地元の人でなければほとんどその存在を知らないだろう。
また、鳥居に扁額もないから、これが「道路神社」という名前であることを知るためには、注意深く境内を観察する必要がある。
鳥居の脚に社名の刻まれているのを発見。
これを見て、初めてこの神社が道路神社であると確信することが出来た。
ちなみにもう一方の脚には大正の年号が刻まれていた。
この鳥居が寄進された年を示しているのだろう。
この小社が、おそらく日本唯一の「道路神社」である。
オブローダーはもちろん、道路に関するあらゆる趣味人、仕事人が参詣するに最も相応しい神社であると確信するが、その存在は余りにマイナーである。
無学のため神社建築を語る言葉を持たないが、
さほど古くもなくかといって新しくもないだろう、平凡な本殿である。
この左手の背後に江戸時代のものを含む馬頭観音碑など、いくつかの古碑がある。
私は社殿の前に進み出ると、作法にのっとって祈願をした。賽銭は五円。
『 これからのオブローディングが、安全でかつ成果深いものでありますように。 』
そのあと、ガラスのはまった扉から中を覗くと、薄暗い中に二つの神棚が並んで置かれているのが見えた。
また、「道路神社」と書かれた棟札のようなものもあった。
神社自体の訪問レポとしてはこれ以上なんとも語りようがないのだが、郷土誌などから私が調べた範囲で少し解説を加えたい。
まず、ありそうで無かった「道路神社」の名前だが、もともとは「道六神社」と呼ばれていたらしい。
それが、明治あるいは大正期に(どういうわけか)改名されたという。
(余談だが、江戸時代には「道路」という言葉は使われていないと思う)
道六とは道陸神すなわち道祖神のことであり、結局は旅や道(道からもたらされるもの)の安全を司るものである。
その意味で、道路神社というのは突飛な改名ではない。
次に、この道路神社の由緒についてだが、江戸時代はおろか中世にまでさかのぼる事が出来るという。
この近くに街道を作るための測量に使った縄を奉納したことがその起こりだとされている。
道路神社の起源は、やはり“道づくり”にあったのである。
ますます、道六神社よりも道路神社という名前が相応しいものと感じられる。
国土交通省とか土木事務所のお偉いさんにこそお参りしてもらいたい神社である。
なお、道路神社がある場所に現在なんら幹線道路らしいものは見あたらないが、中世…平安時代あたりにこの付近を通行していた重要な街道の存在が擬定されている。
地元ではそれを「秀衡街道」と呼んでおり、すなわち平泉の藤原黄金文化が東北一円に張り巡らせた「奥大道」と呼ばれる交易道路網の一部であると考えられる。
付近で近年発見された「沼遺跡」では中世の道路跡が発掘されているし、このルートの擬定地上には「板碑」と呼ばれる中世の古碑が多く発見されているのである。
17世紀初頭に伊達政宗が街道を「奥州街道」として東に置き換え、現在の道路網はおおむねこれを元にしているが、それ以前に利用されていた古い街道上に道路神社の原点はあったのだ。
決して名前負けなどではない、非常に由緒深い神社なのであった。
さあ、君もお参りしよう!
完