伊豆半島南部の港都、下田。 (下田市の位置)
稲生沢川の河口に位置するこの街の中心部は、天然の良港として名高い下田湾を抱きかかえるような形になっている。
下田湾は奥行き1.5km、幅800mほどの小さな湾だが、湾内にはいくつかの小島が浮かんでいる。
犬走(いぬばし)島も、そのひとつだ。
犬走島は、下田湾口のほぼ中間に浮かぶ周囲300mほどの小島だが、現在は西の「和歌の浦」側の陸地と、長さ350mほどの防波堤でつながっている。
したがってこの防波堤を通れば、船を用いずに島へ上陸することが出来る。
島は無人だが、東に30mほどの海上に「下田犬走灯台」が設置されており、和歌の浦と犬走島と灯台は全て防波堤でつながっている。
そうして全長500m近い波よけを形作り、下田の街の中心部を高波から守っている。
1/25000地形図では島に道路は描かれていないが、「スーパーマップル・デジタル11」など、さらに縮尺の大きな地図を見ると、島の中央に1本のトンネルが存在することが分かる。
島を防波堤が貫いているように見えるが、その貫かれた部分が短いトンネルになっているのだ。
このトンネルの存在が気になった私は、なんとなく鮮やかな夕日に期待して、夕方に行ってみた。
もちろん上陸手段は、前述した防波堤歩きだ。
…ちょっとばかり、来る時間が遅すぎたかも。
近くの下田市立図書館が閉館してから来たのだが、すでに太陽は洋上遙か彼方に没した後で、冬の宵空はしんと静まりかえっていた。
あくまで海が穏やかなのは救いだが。
写真は、和歌の浦側の渡島口から下田湾口部を臨んでいる。
対岸に見えるのが須崎半島。
この位置で、左に45度向きを変えると…。
あれに見えるが、
犬 走 島!
…ちょっと余計に盛り上げてみたが、まあ小さな島である。
でも、確かにトンネルがある!
島の形はフタコブラクダのようで、大きなコブと小さなコブの間の鞍部の下、
海面とほぼ同じ高さに素堀と思しきトンネルの姿が確認された。
そのトンネルは相当に短いらしく、透けて対岸の海岸線が見えていたが、
くぐってみたいという気持ちに変わりはなかった。
防波堤は、和歌の浦と犬走島がもっとも接近している部分に渡されている。
海峡の幅は330mほどだが、防波堤は中央でくの字に屈曲しているために、島まで350mほどの長さである。
写真右側が外湾で左側が内湾だが、この日は波がとても低く、海面の様子に違いは見られない。
私は「神新汽船」の船着き場がある内湾側のたもとに自転車を停め、防波堤を歩き出した。
防波堤の上には、いくつかの舟を繋ぐ突起(ビット)があるだけで、がらんとしていた。
私が島に向かって歩いている最中、島から戻ってくる中学生くらいの少年数名とすれ違った。彼らは釣り竿を手にしていた。
なるほど、釣りをするには都合の良い防波堤であろう。
私も昔は釣り好きだった。
17:24 《現在地》
陸を離れて(防波堤を歩く行為が“陸上でないか”といわれると、ちょっと微妙だが)2分後。
私は島までのほぼ中間である、防波堤の折れ曲がる地点に達した。
この先は防波堤の造りが変わっていて、上下二段になっている。
下の段はほとんど海面と高さの差がなく、遠くの方は浸水しているのが見えたから、上の段を歩くことにした。
もしかしたら私が歩いたときは満潮に近かったのかも知れない。
もしこの潮位で波がそれなりにあったら、島までたどり着けなかっただろう。
島まであと80mくらいだが、ここでさらに一段と防波堤は狭く、そして低くなっていた。
陸上に出ている部分の幅は70cmくらいで、本来は内湾側の浅く浸水しているところが通路なのだろう。
そこを通れば車でも島まで行ける造りではあるが、ヌルヌルしていそうで、歩くには流石に気持ち悪い。
そして、ここまで来ると意外に潮風が強い。
外湾から下田の街に向かって、海面を滑るような風が常に吹いている。
波は依然として低いし、風の吹き方も定常的なので吹き飛ばされる危険は高くないと思われたが、不安を感じないではなかった。
…どきどきする。
早くも私は陸が恋しくなっていた。
寒々とした海風に身を丸め、下田湾内方向を撮影。
天然の良港といわれる場所は大抵こういう地形だが、湾の周囲は山に囲まれて風波を遮るようになっている。
そして山の斜面は海底まで続いており、深い。
山が中央で分断されているところを稲生沢川が流れており、その河口に街の中心部がある。
この街の広がりは地形的な制約によって、明治頃の地形図と現在とでほとんど違いが見られない。
中央の右側にどっしりと高みをつくっている山は「寝姿山」といい、下田の代表的な観光地だ。
そして左から奥へ連なる高い山並みは天城山脈で、雲の下に主峰部が見えている。
この眺めを見るためだけに島へ来ても、後悔はしないと思う。
17:27 《現在地》
浪間の道は、終盤に行くほど濡れていて、私を急かした。
そして歩き出して5分後、ついに…
「山行が初の島」に上陸した。
下田湾上に浮かぶ、岩ばかりの小島。
――犬走島。
この変わった名前の由来は分からないが、犬が走り回るくらいの小さな島と言うことだろうか。
小さいとは言っても、見上げる大きさ。
目指すトンネルは間近だが、これまた思っていたよりは“ちゃんとした”ものだ。
たった5分だが、この間で一気に暗くなってきた。
振り返り見る和歌の浦は、ほとんどシルエットだけの存在に。
防波堤とトンネルは、本当に一続きになっていた。
トンネルの周囲の岩場だけがモルタルの吹き付けで固められているが、もとはただの海崖だったのだろう。
坑口の本当に直前まで防波堤が続いており、両側は波消しブロックが置かれた海岸線である。
まさに「とりつく島もない」、尖った岩の島だった。
したがって、“上陸”と断言出来るのは、トンネルの中に入ってからかもしれない。
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トンネル右側から、不思議なくぐもったような波の音が聞こえると思えば、そこにはトンネルより一回り小さな海蝕洞が口を開けていた。
ザザーン ザザーン と、外海に面した側から届く潮の声は少し怒っているようで怖い。
島の一番高い山を貫く位置に、トンネルよりも長い海蝕洞が存在していたことは、私を驚かせた。
或いはトンネルも小さな海蝕洞を拡幅したものなのかも知れないが、今のところ開削の経緯まで調べがついていない。
さて、これが今回の目的であったトンネルだ。
名称は不明。
道路台帳にも載っていないので、一般道路(市町村道)ではないのだろう。
長さは約10m、高さ3.5m、幅2.5mと目測され、内壁は素堀にコンクリートを吹き付けている。
海水の侵入や地下水の漏洩もなく、トンネルの中は至って平凡。どこにでもありそうなトンネルだ。
しかしこのトンネル、もしかしたら、(トンネルのある島としては)日本一小さな島のトンネルかもしれない。
なおこの通り、車も通れるサイズだが、現在は防波堤の入口に車止めがあるので車で来ることは出来ない。
トンネルの東口。
西口にくらべて天井が高く、歪な形をしている。
このことも、元来は海蝕洞だったのではないかと考える根拠だ。
こうしてトンネルの探索をしている最中も、風と潮騒が常に耳の中にある。
日中だと気持ちのいい音も、今は私を怖じ気づかせるに十分だった。
たとえ地続きであっても、波や風が強まれば途端に孤立する場所だ。
長居は無用というものであろう。
トンネル東口、すなわち犬走島東岸より、再び防波堤が始まる。
こちらもくの字に折れているが、長さは40mほどと短く、突端に白タイル張りの灯台が建っている。
灯台まで行ってみよう。
ネットで調べてみても、この灯台が「下田犬走灯台」という名前であることくらいしか分からなかった。
防波堤の終点にある、高さ8m(目測)ほどの緑色灯の灯台である。
現在の“下田水道”は、この灯台と対岸の須崎半島の間の400mほどの幅となっている。
橋を架けられない距離ではないが、そんな計画を聞いたことはない。下田の街を迂回する橋など必要ないと考える人が大半なのだろう。
それはさておき、トンネルの掘られた経緯を想像してみたい。
それは、防波堤が和歌の浦から犬走島に伸びてきて、やがて島を通り越し反対側に延ばされた時期と一致するはずだ。
おそらく、灯台が建設された時期と一致すると思うが、経緯をご存じの方がいたら教えて欲しい。
なお間接資料であるが、昭和27年の地形図では影も形もなかった防波堤が、52年の空中写真だと現在と同じ姿に出来上がっている。
したがって、この時期の間に建造されたことは、ほぼ間違いないと思われる。
トンネルは、防波堤や灯台の工事用道路だったのだろう。
灯台から臨む外湾。
右の大きな影は犬走島で、
奥に赤根島(砂洲で陸につながっている)が孤島のように見えている。
私の初めての島旅は、夜に急かされるように終わった。
今日の犬走島は、釣り人の他に訪れる人も少ない地味な島であるが、実は下田の名前を日本中に広めるきっかけとなった、大きな歴史的事実と密接に関わっている。
下田といえば、幕末の嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結された際、箱館とともに開港地に指定された“黒船の港”だ。
このときアメリカ側の代表となったハリスペリーは、恐ろしい天狗のような人相で描かれ、歴史の教科書の悪戯書き担当と決まっている。
この日米和親条約のなかで、下田湾内の小島を中心に周辺7里内(約28km)の遊歩権(外国人が自由に往来できる権利)の保障が定められていたのだが、この下田湾内の小島というのが犬走島であったという。
結局下田が開港地であった時間は6年と短かかったが、この間に外国人にまつわる様々なエピソードが生まれ、一足早く開花の気風を育んだことは、日本の歴史上特筆される。
その開港地下田の“中心”が、犬走島だったのだ。
完