2010/8/23 17:42 《現在地》
[こんな坂道、見たこと無い!]
などと、また煽ってしまった。
数分後に多数の読者さんが落胆し、或いは怒っているような事にならなければいいのだが…、今回はいちおう大丈夫だと思う。
ミニレポ史上最大級の衝撃を…
少なくとも私は
受けた。
…そんな風景が、この変哲ない道の先に待っていた。
現在地は片品川左岸に広がる段丘の上の畑で、たしか中学校の教科書かなにかでは、典型的な河岸段丘として片品川が紹介されていたと思う。
そして写真は川の方向を撮影したもので、深い谷の向こうに太陽が沈んだばかりの武尊(ほたか)前衛の山々が、おそろしく黒くそびえている。
地名的には群馬県沼田市利根町追貝(おっかい)といい、尾瀬や丸沼、金精峠などの観光地に恵まれた片品村は、このすぐ北に接している。
ここも数年前までは利根村とよばれ、市になったいまでも幹線道路を少し離れれば、こんな純農村的な風景が広がっている。
この段丘の上は水利があまり良くないのだろう。
水田はほとんど見られず、ジャガイモやトウモロコシの畑が見渡す限りに広がっていた。
この数平方キロはあろうかという段丘上に全く独りであるという実感は、やや遠い蝉の声と相まって、少し私を不安にした。
とりあえず今は、私がここにいる理由は述べない。
述べないが、私には辿るべきルートの想定はあって、このどちらとも取れるような分岐が現れたときにも、左にゆくことを即断した。
ここは段丘の上に立ってから700mほど北上した分岐で、左の道をとればすぐに段丘斜面をくだって、支流泙川(ひらかわ)沿いの集落へ着くはずだ。
そしてここから始まる坂道が、今回の主役。
「トンデモナイ!」と私に言わしめた坂である。
「坂」で「トンデモナイ」といえば、まず急坂である事を想像されるかと思うが、ここは違う。
確かに相当に急なところもあり、また急でなければこれほどのインパクトも無かったはずだが、真に驚いたのは急さではなく、道の“つくり”の異様さである。
坂を下り始めると、即座にこの浅い堀割が始まる。
より正確な表現をするならば、
開渠のような(すなわち、水路のような)道である。
舗装された路面に残されたタイヤの跡は、迫り上がった両側のコンクリートウォールに今にも擦りそう。
実際に擦ったような跡もある。
ここは車道としては限界に近いくらい狭い道であり、かつ坂道であり、そしてそのまま…さらに不可思議な状況になる。
車一台分しかない開渠のような道は、
下り始めて10mほど進んだところで、
本物の水路になった。
私としても、流石に最初は信じがたかった。
だが、大雨で川の水が道路に流れ込んでいるのとは事情が違うのである。今は何日も続いた晴れの後だし、地は乾ききっているはずだ。
それにこの地形的には決して必然と思えない道路両側のコンクリートウォールだが、ここが水路だったとなれば、全く常識的な設備ではないか?!
←これを見て欲しい。
水は明らかに意図的に、道路と思われた水路へと導かれていた。
自然の沢の水が流れ込んでいるのではなく、正真正銘の開渠(水路)が合わさってきている。
その上部は深い藪のため確認できないが、人家などはなく、台地の畑を潤す余水であるらしい。
そして路上に放たれた水は、その水量が道幅の全て満たすにはやや足りないこともあって、いささかだらしなく無造作な感じに流れている。
そこがまた、ここが水路なのか道路なのかを確定させ難い、何とも面白いところなのである。
水路なの? 道路なの?
しかもこの“道水路”の野郎ときたら、
ぐんぐんと勾配を増していくんだから、さあ大変!
これじゃあまるで、遊園地にある…
ウォータースライダーじゃないか!
→【動画】←
(※動画の中で「片方しかブレーキが効かない」と嘆いているが、この日の探索で前輪のブレーキワイヤーが切断していた)
坂道は、ほとんど真っ逆さまといっても良いくらいの勢いで、一気に段丘の斜面を駆け下っている。
コンクリートの堀割は最初のうちだけで、途中からはいつでも路上から水を逃せそうな地形になるが、
それでも敢えて水を路上に満たしているのである。
そしてこんな風に水が常に流されているのだから、路面がヌルヌル滑るのは当然である。
私には、自力でこの坂道を登りきる自信がない。
特に自転車ではちょっと…無理かも…。
なんてことを考えながら、効かないブレーキを懸命に操作して、
半ば過ぎまで下ったところで、緊急事態発生!
私の存在などお構いなしといわんばかりに、
水満ちる路面を爆走していった、一台の軽トラ。
これでまったく疑う余地は無くなった。
確定的に、ここは道路だ。
…了解した。
だが今の遭遇には、ひとつだけ腑に落ちない事があった。
それは、
今の軽トラは、果たして私を避けるというか、停止できるつもりがあったのかということだ。
動画の最初に私が必死にしているのは、濡れて滑る路面から路外の法面に自転車ごと逃げ出すという、
おおよそ一般の道路であれば歩行者に求められない、過剰といえる待避行動であった。
だが、そんな私の行動を彼が確認した上で、
下り坂でも全く速度を緩めるどころか、
“スプラッシュマウンテン”よろしく水飛沫を上げて走り去ったのだろうか。
カメラを向ける私に、気前よくアピールしてくれたのだろうか。
…そうならば良いのだが、夕暮れで微妙にカーブもしているという視界の悪い中、
彼の車の速度は正直私の理解を超えていた。
もし私が待避に失敗して路上で転倒したり、中途半端に路端で待避しようとした場合、
直前でも停止できたのだろうか。
私が自転車の後輪ブレーキを全力で仕掛けても、容易に停まれない路面で。
車輪が回転をやめてもヌルヌルと滑り、停まれないこの路面で。
この問いの答えは、まだ出ていない…。
一瞬の嵐のような車の来襲に直前までの疑問(この坂道を自転車で逆走できるだろうか)もすっかり忘れてしまい、後はただ、重力に従って下るだけの自転車人形になった。
車道であることはもはや疑いないが、いくらでも水捌けを良くできる状況なのに敢えて路上に水を通している事にも、確実に理由があるはずだと思った。
しかしその明確な答えを得られぬまま、再び前方に平らな開けた畑が見えてきた。
まもなく段丘崖を下りきるのである。
左側の空き地は最近出来た、新しい道路用地であった。
砂利が置かれていて、工事用の杭も立てられているが、とりあえず工事は止まっているようだ。
これは後で分かったことだが、ここで未成になっている道路用地は、私が通ってきた坂道を拡幅するもののようだ。
ここより下側はほぼ完成していて、舗装を待つ段階になっていた。
つまり、この世にも珍しい“水陸両用坂道”は、いつ消滅してしまうか分からない。
17:53 《現在地》
先ほどの段丘より一段下位の段丘面に辿り着いた。
しかしここもまだ片品川の水面よりは一段高く、先ほどと同じように周囲を蒼い木立に囲まれた耕地が広がっていた。
また耕地の様子も先ほどとは微妙に異なっており、畑に水田が混じるようになる。
そしてこれらの水田を潤しているのが、私の足元を流れる水なのではないかと思った。
地形図ではこの場所に分岐は描かれていないが、実際には地図にない道が多数分岐していた。
ひとつは右に向かう、行き先不詳の舗装路。
ひとつは左に向かう、未成の道路敷きを持つ幅広の砂利道。
そしてもうひとつが、私の進むべき直進の道だ。
そしてある意味道の行き先以上に関心深かったのが、ここまで私の足元を潤してきた水の行き先である。
ここでなんの宛もなくただ川に放流されるようであれば、これまでの風景は全く意味不明ということになってしまうが、幸いそうはならず側溝という名の農業用水路に受け止められていった。
ただしこの側溝や集水渠も未成道の一部であって、本来はこういう形ではなかったのだろうが、以前の形は知りかねる。
左に別れた未成道を無視して直進すると、先ほどまでと同じ幅(軽トラスペック)の農道のような道が再開した。
そしてその路面の下には、ザーザーという水の音が付きまとう。
…間違いない。
まだ水は、この道と共にある。
おそらく暗渠から沿道の水田へ分水されるように仕組まれているはずだ。
時期的に今はそれを確かめられないが…。
道幅の半分もある巨大な暗渠を中央に従えて、再び道は段丘の外れに差し掛かる。
そして今度の坂道では、幸い水が路上を占拠することはなく、ザーザーと騒ぎながらも地下にいる。
なぜ先ほどの区間だけ、路面を水が流れるようになっていたのかは永遠の謎だが、とにかくここはただの道ではなく、農業用水路を兼ねていた事が確定的だ。
こんな風に路上を流れる水で作られたお米は、オブローダーにとって特別な付加価値があるかも知れない。
しかもこの道の正体というのは… (後述)。
先ほどと同じように急だが、落差は全然短い2度目の坂。
数十メートルで下りきると、道は直角に折れるものと、直進するものに別れた。
水路の方は左に折れているが、私は正面を進路とした。
しかし実はどちらを選んでも、50〜100mで“同じ道”に合流して終わりである。
水路がいなくなれば、車一台分の平凡すぎる未舗装農道だ。
むしろ、あぜ道という言葉の方がしっくり来る。
畑の中を横切って、最後は家並みに囲まれた舗装路に合流。
今回の短いレポートの終点となる。
17:58 《現在地》
下り着いたのは泙川沿いを通る1.5車線幅の舗装路で、国道120号につながる道だ。
今回は2階分の河岸段丘を下るだけという1km少々の短い行程であったが、全く想定外の“道路状況”に驚かされた。
今まで数多くの道を走ってきた私だが、あれだけ堂々と水路と道路が同居しているというのは初めて見た。
今回の水量が平時に比べて多いのか少ないのかも分からないが、路面が凍結する冬場などはどんな光景になっているのだろう。
また、豪雨の時は本当に“ウォータースライダー”になっているかもしれない。
それを確かめる為だけにここに来るには馬鹿らしい気もするが、愛嬌溢れる変わった道であった。
(もし訪れるなら、下ってくる軽トラには要注意だ…。)
という具合にレポートは終わりだが、今回辿ったルートにはじつは秘密がある。
そもそも私がなぜ、少なくとも地図上では至って没個性的な農道やあぜ道を、迷いもせず走り抜けたのか。
いったい何を目的にして幹線道路から外れた段丘に上り下りしていたのか。
…という問いへの答えだ。
右の地図は最新版の地形図で、今回辿ったルートを図示している。
スタートからゴールまで、二階の段丘を通過しているのがお分かりいただけるだろう。
このうち最初の段丘崖を下る区間が、“道水路”だった部分で、それ以降はゴール近くまで水路が道路の地下に埋設されている状態だった。
ここで“道のある位置”を記憶していただき、それから次の地図(↓)を見て貰いたい。
左の地形図も上と同じ範囲であるが、時代をさかのぼって「昭和27年応急修正版」である。
太く描かれているのは、当時の「県道沼田若松線」であり、「国道401号」の前身である。
「あれ?120号じゃなくて?」と思われるかも知れないが、この辺りの国道120号は国道401号との重複区間である。
(ちなみに国道401号の指定は昭和56年と、さほど昔のことではない)
もちろん注目していただきたいのは、今回辿ったルートがどのように描かれているかだが…
…確認していただけただろうか?
利根村の前身である東(あづま)村の中心部である追貝地区でこそ現在と異なるところを幹線道路が通行しているが、私が辿ったルートのほうは“二重破線の道”。すなわち“町村道(間路)”という、あまり重要ではない道の描かれ方である。
だが、これで終わりではない。
さらに時代をさかのぼり、最も古い「大正4年製図版」を見ると、事態は一変する。
…お分かりいただけただろうか?
今回辿った段丘を上り下りするルートは、大正時代には幹線道路(県道…現在の国道120/401号の前身)だったのだ!
2代前の道(旧旧道)ということになる。
旧化するたびに道路としての重要度も減ってきて、今ではあんな(道路としては)屈辱的な状況に置かれているのだろうか。
それでも当時としては、現在の沼田市北部(旧利根村)や片品村にとっての唯一の車道だったはずだが、流石に大正時代にまでさかのぼるとなると、相当に大変な道であったことが伺える。
現状では、道幅くらいしか当時の状況を伝えていないであろう。
以上、山行が初の片品川流域からレポートをお伝えしました。
探索から12年が経過した現在、本道路がどう変化しているかは未確認だが、その後の調べによって、道路が水路を明示的に兼ねる構造が存在することが分かった。
そのものずばり水路兼用農道と呼ばれるもので、平成19(2007)年に農林水産省農村振興局が制定した『土地改良事業計画設計基準及び運用・解説計画 ほ場整備(畑) 』という技術基準の「排水路の形状・構造と適用条件」のページには、右図のような図と共に解説が述べられていた。冒頭を抜粋すると……
農道が、降雨時に雨水が集中し排水路となる場合は、排水路と農道を区分してそれぞれ整備するよりも排水路の機能と農道の機能を兼ね備えた一体の施設として整備した方が有利な場合がある。水路兼用農道は、排水路として配置された位置に農道を設けたいという要望から、広幅水路に多少の土砂が滞積しても排水能力がある水路の形をした農道として生まれたものである。
水路兼用農道は、農道にのみ制度として明示的に存在しているもののようで、他の道路、例えば一般的な道路法の道路や林道では、こうした制度は確認されていない。
道路法の道路には道路構造令、林道には林道構造令がそれぞれの技術的規範として存在するが、それらに水路兼用という考え方は見られず、あくまでも排水は側溝などを使って路面の外で行なうものと考えられているのである。
水路兼用農道の考え方は、いかにも水と親しむ位置で営まれる農業らしい柔軟さが感じられる。
もっとも、上記は一般的な農道としての話であり、ここで取り上げた沼田市利根町追貝の道が、実際に水路兼用農道としての技術的基準の範囲内で整備されたものだとは考えていない。
そもそも、現地が農道であるかどうかも確定していないし(たぶん農道だと思うが)、降雨時の排水を目的としている感じでもなかった。降水と関係なく通水する灌漑用水路が道路を兼ねているように見えたのである。
ちなみに、水路兼用農道という考え方自体は新しいものではないらしく、『農業土木学会誌』平成2(1990)年8月号の記事「農道整備の実際(その8・最終講)」(今井敏行著)に、次のような解説を見つけた。
水兼農道:承水路兼用農道、保全農道等とも呼ばれ、傾斜地において水路と道路を兼用した構造で建設されている道路である。小林が昭和58年度に全国(内地)で農用地開発を実施している42地区を対象に調査したところ、約24%の10地区で水兼農道を施工しており、西日本に多かった。神奈川県では樹園地とくにミカンを植えた農地の保全のため、昭和38年に侵食対策と用地節約を目的に広い水路として整備したことが始まりであった。
このように、昭和30年代後半から各地で水路兼用農道は整備されてきたらしく、意外にも珍しくない構造だったようなのだ。
今回探索した道についても、このような水路兼用農道の仕組みを理解した上で整備されたものなのではないかと思う。
農道だとしても、一般の車両に開放されている道である。その路上をこれほど大胆に水が流れ続けている状況は、誰かが突然に思いつきではじめたことではないのだろう。仕組みとして広く認められたものだからこそ、長く存続できたのだと考えている。
とても地味な存在に見えて、農道もまた奥深いようだ。
完