2011/5/15 18:35 《現在地》
連続する九十九折りで谷底にまで一気に下ると、分岐地点が現れた。
山古志側からここに来ると青看もないのだが、この分岐は県道415号「茂沢竜光線」の終点になっている。
左折するのが県道415号、道なりに右折するのが県道23号続行である。
県道415号の入口には簡単な“Aバリ”(A型バリケード)がひとつ置かれ「冬期間通行止」の状態になっていたが、そうでなくてもこの県道は約2km先から未開通であり、通り抜けはできないようだ。
この不通区間の反対側には、廃隧道ファンには多少知られた“泥濘の殿堂”…旧芋川隧道があるのだが、その話しはまた今度。
分岐を蹴って本線を進むと、間髪入れずに#目的のもの#が、現れた。
地図上で8割方 “そうだろう” と思っていたが、
何となく薄汚れた感じの横顔で9割確信。
さらに正面を見て、10割断言。
未成道☆確定!
もしバリケードや白線が無ければ、自然とハンドルを切りそうな“優先的線形”は、
これが県道23号の正当なる新道であるということを示していたし、
もし現在鋭意工事中であるならば、ここにあって然るべき守衛の姿や立入禁止の柵がないことは、
工事が当分の間止まっており、かつ出来上がった区間だけでも活用したいとする行政の意志があることを示している。
すなわち、未成道である。
当地を管轄する新潟県の出先機関、魚沼地域振興局名義の「進入禁止」の看板。
口では進入禁止だと言いながら、具体的な封鎖に至っていないのは、いかにも未成道的ジレンマのなせる業。
ようは、既成区間の“消極的活用”を図っているということである。
こうしておけば、沿道に山林や田畑がある場合、最悪の事業成績である“便益0(ゼロ)”だけは免れる。
分岐地点の100mほど魚沼側には、未成区間の開通する意慾(見込み)の低さを象徴するような、1枚の青看が立っていた。
開通が遠くない未来に想定されている場合には、青看もそれを見越した作りになる。
具体的には、新道側の行き先表示を予め記入した状態で作成し、開通まではシールで隠しておくのである。
この青看にはそうした予備も、書き足すような余地も見られない。
18:39 《現在地》
それではさっそく、新道区間へ入ってみることにしよう。
新道には旧道にあったような峠越えは無いが、それでも芋川に沿って上流へ進むことになるわけで、ゆるやかな登り坂になっている。
地形図上だと約700m先まで道が描かれているのだが、これは入口の看板で予告された行き止まりまでの距離と一致する。
順調にいけば、ものの数分で終点まで辿り着けるだろう。
なお、最初に渡る橋の上にはセンターラインや路肩などの白線が敷かれていないのだが、その先の路面には綺麗に敷かれていることに気づく。
これはおそらく、ドライバーが誤って新道へ入ってしまわないように、わざとそうしてあるのだろう。
橋は平凡な姿をしており、白線が敷かれていないこと以外は完成しているのだが、親柱などに刻まれた文字情報は、道の素性を知る上での重要なキーとなる可能性があるので、特に注目した。
橋の名前は小芋川大橋といい、渡っているのは芋川。
平成5年7月竣工だから、もう18年も経っている。
また、新潟県の県道以上の橋の特徴として、銘板の1枚に路線名が記録されていることが多いのだが、本橋もそれに習ってはっきりと「主要地方道」で始まる路線名が記載されていた。
この道が県道になろうとしていたことも、これで確定。
なお、右下の銘板は親柱のものではなく、橋桁側面に取り付けられていた建造銘板である。
建造年は1993年(平成5年)1月になっていた。
小芋川大橋の上から現道の方向を見る。
現道にも短い橋が架かっているが、その名は小芋川橋(昭和40年竣工)という。
渡っているのが小芋川なので、特に不自然な名前ではない。
対して新道の橋は小芋川大橋という名前であるが、渡っているのは芋川の本流…。
小芋川は川の名前なだけでなく、この場所の地名自体も小芋川なのだとしたら返す言葉もないが、そうでないとしたら現道に引きずられた、すこし奇妙な命名という感じがする。
些末なことにツッコミを入れながら橋を渡り終えると、夕暮れには惜しいくらいの快走路がずばばーんと広がっていた。
登り坂なので、私の自転車は必ずしも快走出来ていないが、自動車だったら好き放題やれちゃいそう。
当然のように、車も人もだ〜れもいない。
特にアスファルト路面の仕上げは完璧で、震災以前の工事と思われるのに、ひびひとつ見あたらない。
或いは舗装は新しいのかとも思ったが、その割に白線はうっすらと消えかけている。
そして入口から真っ直ぐ200m進んだところで、2本目の橋が見えてきた。
これで芋川を再び渡るのだ。
ということで、飽きずにまたまた銘板コレクション。
余談だが、最近は橋を渡る度に4枚ずつ銘板を撮るのでので、探索中の写真が銘板ばかりになりつつある。
橋の名前は屏風岩橋。
しかし辺りをいくら見回してみても、名付けたくなるような岩場は見あたらず。
そして竣工年、平成7年12月。
先ほどの橋から2年5ヶ月経過しており、これが工事の進捗具合ということになる。
また、路線名を記した銘板の「マル主」という表現が、ちょっと面白い。
主要地方道のことだが、ふつーの人には普通にイミフなんじゃないだろうか。
2本目の橋を渡ると、芋川は道路の左側にやや離れた。
そして道路と芋川の間のスペースに帯状の田んぼが出現し、はじめてこの新道の明確な“受益者”を見る事が出来た。
もっとも、この夕暮れにおいてはここも無人であったのだが。
そんな明るい話題とは裏腹に、予め700mと予告された行き止まりが400m先まで接近したことを、1枚のヘタレた看板が教えてくれた。
あくまでも路面は綺麗だが、看板には未成道の哀しみが。
田んぼは数反だけで、すぐに無くなってしまった。
道路の周辺は木々もまばらであり、時と場合によっては爽快な新道風景も、今は侘びしさだけが募る感じ。
ラスト400mはこうした景色の中、橋もトンネルもなく坦々と続いた。
18:45 《現在地》
入口から700m。
予告されていた行き止まりが、道幅を完全に塞ぐガードレールという形をもって現れた。
地形的にはこのすぐ先に3本目の橋を架け、芋川を渡りたい感じなのだが、工事はここでストップしているようだ。
辺りに人影はもちろん、重機や工事資材など、道路工事の進行を思わせるようなものは見あたらない。
彼らのいない新道行き止まりの光景こそ、未成道の象徴であろう。
さらに終端へ近付く。
雪の重みか、“クシャおじさん”の顔面のように破壊された看板を、力一杯矯正する。
そして、そこに記された84文字を明らかにする。
進入禁止
道路の進入を禁止します
この先はガケで道路はありません
万一事故が発生しても
責任は負えません
新潟県魚沼地域振興局 地域整備部
維持管理課 TEL025-792-1304
なんでここで道が終わっているのかというような、普通のユーザーが気になる部分には一切答えず、あくまでも状況と免責だけを延べている。
未練たらしさはなく、柵の裏側で本当に道は終わっていた。
ほとんど利用者のない既設部が舗装され、ちゃんと2車線分の白線も敷かれているのは、
その全線開通が遠くない将来の盤石な出来事と、信じられていた証かも知れない。
だが、実際にはそうはならなかった。
いったい、何が原因だったのか。
「ガケ」が予告されていた終端に立つと、確かにその先はすっぱりと切れ落ちた崖であり、その底を芋川の濁った流れが静かに潤していた。
対岸には地図に描かれていない砂利道が見えたが、川の周囲で橋脚や橋台の工事が行われた痕跡は無い。
また、この砂利道については謎が残る。というのも、いったいどこから進入出来る道なのか分らないままに終わったのである。新道から分岐していた気配はなかった。
とはいえ、これは新道の工事に関わる道路ではなく、震災後に建造された治山治水用の作業道路だと思う。
こういう地図にない道が方々の山や沢に建設されている光景を、今日一日、至るところで見てきた。
行き6分戻り2分というあっけなさで、未成道の探索は終わった。
しかし、現道の線形を見れば誰しもが新道を欲する区域に、実に非の打ち所のないバイパス建設が進められていた事実が確認された。
残る謎は、このバイパスがなぜ完成していないのか。
そして将来の見通しについてであるが…
机上調査が、その答えも教えてくれた。
開通の見通しは、ほぼゼロです…。
この未成の新道は、新潟県が「地域活力基盤創造公布金事業」によって進めていた「主要地方道柏崎高浜堀之内線竜光バイパス」といい、 平成21年度の事業再評価にて「事業中止」が決定されているので、今後同事業による工事再開は考えられず、劇的に状況が変化しない限り、全線開通の可能性はほとんど無いことが判明した。
新潟県資料によると、竜光バイパスの予定ルートと平成21年現在の工事進捗状況は右図の通り。
全長2060mに9本の橋を架設する予定であったが、供用済み延長は魚沼側760mと小千谷側200mの合計960mで、過半の1100mが未完成。橋は9本中3本が完成しており、6本が「未着手」であった。
同資料の「事業の目的・効果・必要性等」の欄には次のように記載されている。
主要地方道柏崎高浜堀之内線は、柏崎市大字宮川を起点とし、長岡市を経由し魚沼市堀之内に至る広域幹線道路であり、長岡市街地から一般国道17号を介して山古志方面へ至る最短ルートである。
当該区間は丘陵部に位置し、幅員が狭いうえ急勾配及び急カーブが連続するなど交通の隘路区間となっており、バイパス整備により安全・安心な交通の確保を図る。
また、本バイパスの完成により、国道17号及び関越自動車道堀之内インターから山古志方面へのアクセスが飛躍的に改善されるため、観光面においても大きな期待が寄せられている。
文章を読む限り良いことずくめで、決して緊要性も低くなさそうな竜光バイパスの建設は平成元年に着手され、当初年間3億円を超えるペースで順調に建設されていった。用地についても、平成14年までにはほぼ全線が取得されており、同年行われた第2回目の事業評価では「用地買収が概ね完了しており、また冬期間の孤立的状況の解消や産業振興、文化交流の促進、観光支援を目的に事業継続を決定
」と評価された。そして総事業費42億円をもって平成24年度までの全線開通を見込んでいた。
だが、「平成16年には、中越大震災により甚大な被害を受け、災害復旧のためバイパス事業が遅延」したうえに、「バイパス整備予定区間も大きく被災し、事業を継続するには用地境界の確定や震災後の地質調査、計画見直しが必要
」となり、さらに「震災の復旧により、十分ではないが現道の縦平面線形が改良され
」たことに加えて、「近傍の十二平集落は、中越大震災により壊滅的な被害を受け、全村移転となっている
」といった事情もあって…
平成21年度の事業再評価(3回目)では費用対効果の値が急激に減少(前回1.18→今回0.33 費用対効果は1を越えると有益とされる)、総事業費も48億5千万円程度にまで膨らむ見込み(進捗率は事業費ベースで36.1%)となり、完成までにはなお30年を超える時間を要すると想定されたことで、「バイパス事業を継続することは困難であることから、バイパス事業を中止し、現道を局部的に改良する方針に変更する
」、すなわち事業中止が決定された。
…という具合であった。
未成道は数多くあれど、これだけ事業中止に至る経緯が事細かに判明している事例は、あまり多くない気がする。
単純に震災が原因で事業続行が困難になったのかと思いきや、その復旧の過程で現道がだいぶ改良されたことや、沿道人口自体が減少してしまったことが大きく影響したというのも興味深い。
このまま過疎の流れが進行し続ける限り、永遠に未成のままで終わりそうなこのバイパス。
しかし冷静に考えれば、残りの区間はたった1km強である。
適当な木橋と砂利道でも良いから、とりあえず繋げてくれさえすれば自転車や徒歩の旅客には喜ばれそうだが、現代の道路では昔のような村人有志による建設続行といった急展開は起きえず、たった2kmの一見して“有意義そう”に見えるバイパスでも、実際には一筋縄ではいかないのだということを実感する。
なお、完成済みの区間は魚沼市道に移管される見込み(もう既に移管済みか)だというが、銘板に取り付けられた県道名がこのまま残るとしたら、ちょっと悲しい。
完結