「県道佐渡一周線」シリーズも、かれこれ何作目になるだろうか?
今回もこれまで同様、紹介するのは、旧道に存在する隧道だ。
そして、おそらくこれが佐渡に沢山ある隧道で、もっとも短いと思う。
その名は、赤岩隧道。
気になるネタ元は、お馴染み、「道路トンネル大鑑」だ。
道路トンネル大鑑? なにそれ? という人は、今すぐお父さんに聞いてみよう。
……嘘。 多分お父さんも知らないだろうから、こっちを見て欲しい。
で、道路トンネル大鑑の巻末リストに、この赤岩隧道の名前と簡単な緒元が記録されている。
それは以下のような内容だ。
赤 岩 隧 道
路線名:一般県道両津赤泊小木線 箇所名:新潟県羽茂町三瀬 全長:10.0m 幅員:2.8m 高さ:4.0m 竣工:昭和9年
全長たった10mである。
可愛らしい姿が、イメージできただろうか。
小さくて、短くて、古くて、…愛おしいだろう?
以前紹介した、同じ佐渡島にある“トリさんの隧道”……もとい、北狄隧道でさえ、全長22mあったので、こいつはマジで短いぜぇ!! ハァハァ
そして、道路トンネル大鑑に記載されているということは、昭和40(1965)年当時にはまだ現役だったということなのだが、右図を見て欲しい。→→→
昭和28(1953)年版の地形図を見ても、その姿はどこにも見えない。
「赤岩」という地名があるし、隧道があるという県道自体もしっかり描かれているが、隧道だけ描かれていないということは…
短すぎて省略されたんだろうな…。
なお、すぐ近くに以前紹介した、旧野崎隧道もある。こちらはちゃんと描かれている。
というワケで、探索開始。
出発前に「大鑑」を見ていたので、「赤岩の県道か、その旧道にあるだろう」くらいに思っていた赤岩隧道を、実際に見つけるシーンからご覧頂こう。
2013/5/29 12:55 《現在地》
さて、意気揚々とやって参りました。“島暮らし”も早三日目のこの日、
……凄い雨だった。
まあ、探索中の雨は今に始まったことではないし、いずれは降り止むのだろうから、少しばかり「やけっぱち」な気持ちになりはしても、探索を続行していた。島だけに、そうそう再訪しづらいしな。
さて、篠突く雨に煙る景色を見て欲しい。
ここから奥の海岸線が突起している場所(野崎鼻)までが、赤岩という地区の範囲だろう。
赤岩隧道という名前を頼りに隧道を探すわけだが、とりあえずここから見えるのは、野崎鼻に穿たれたトンネルと、その旧道のぼんやりとした姿だけだった。
こいつらより手前のどこかに、目指す赤岩隧道はあると思う。
とりあえず、この右に入る狭い道は県道の旧道っぽいので、地形図には描かれていないが、入ってみよう。
入ってすぐに、既に存在しない村名を書いた案内標識が、進行方向と反対向きに立っていた。
これで私は(ほぼ)確信。やはりここが旧県道だと。
佐渡島の全土が佐渡市に統一されたのはほんの数年前で、それまで多くの市町村に分かれていた。
今の佐渡市大字大杉と、佐渡市大字羽茂三瀬(はもちさんぜ)の境でしかない、地形図にはもはや何の線も書かれていないこの場所は、数年前まで町と村の境だった。
その事を余所者の私に教えてくれる、雨にかすれて消えてしまいそうな、「赤泊村 Akadomari V」には、哀愁が籠もっていた。
集落は、雨の怒号に圧せられているように、静まりかえっていた。
風景が色を失っていた。
生活道路として生きている旧道を200mほど進むと、右から合流してくる道があった。
こちらはちゃんと地形図に描かれている道だ。
合流地点に辿りついた時点の「現在地」は、【ここ】であった。
キタ! 隧道キタ之介!
こいつは短い。
ひと目で分かる、可愛さ。
強雨に打たれている姿は、それなりに悲壮感というか、水墨画にある真剣さを纏わせてはいるが、
快晴の日にこれを見たら、抱きしめたくなるほどに可愛いと思う。
飾らない素朴な素掘り隧道が、陸に上がった海蝕洞さながらに、あった。
陸に上がった海蝕洞みたいだと描いたが、ほんとそれ。
赤岩という集落は、長い弓なりの浜の中央を二つに分けられた両側に暮らしている。
その分かれ目にあるのが、この隧道がある小さな岩の出っ張りだった。
これは本当にささやかなでっぱりだが、かつては真剣な障害物だったのだろう。
左に見える現県道は、高い防波堤によって拡張された陸の際を悠々と走り抜けているが、その場所はかつての砂浜に違いない。
現状では容易に迂回できる小さな岩の出っ張りが、厳しい障壁であった時代が長くあったのだ。
隧道の存在が、真剣さを伝えていた。
全長10mの赤岩隧道。
その短い洞内には、しかし想像以上の恵みがあった。安堵があった。
洞内は、乾いていた。
私は今さら雨宿りをする意味がない濡れ方をしていたが、それでも昨日までの乾いた温かな空気を保管していた洞内に、ホッとした。
実は今日いっぱいで島を離れることにはなるのだけれど、時間ギリギリまで、雨に負けず佐渡を味わい尽くそうという気力が湧いた(そしてそれは現実になる)。
予告無く、隧道は封鎖されていた。
理由も明記されず、立て看板ひとつ無く、ただやる気のないコーンとポールバーが塞いでいた。
理由は一目瞭然で、最後まで完全で純粋の素掘りであった隧道は、自然の岩山と同じように崩れていた。
そんな崩れた岩屑が、何年分か、何ヶ月分か、路上にいくらか堆積していたけれど、まだまだ通行は可能な状態だ。
雨宿るのは、私だけでなかった。
壁の下に居並ぶ、この風化した白い岩たちは…………、ろくじぞう?
六地蔵だろうな。どれもこれもヒトの型を失っていたけれど、お供えの箕笠よりはもっと確かな屋根に守られて、見えない眼差しを往来へ向けていた。
六地蔵にはお墓とセットのイメージがあるが、ここに墓所は見あたらない。
考えてみれば、隧道内で六地蔵を見るのは、初体験かも。
だが、設置者にとって、隧道内ということには、それほど深い意味はない気がする。
ここは土地の人にとって、お地蔵さまが濡れにくいというだけの、ただの集落内の路傍に過ぎないような気がする。
そのくらい、隧道は気安く、地上の家並みと接していた。
封鎖された隧道の前後とも、すぐに家が並んでいる。
まるで、家、家、家、隧道、家、家…という、そんな街並みが平然とあった。
地名になった「赤岩」は、もしかしたらこの岩のことかも知れないと思わせた、西口の風景。
隧道が掘られているのは大きな一枚岩だ。
その岩にはほとんど草木がないから、手に取るように全体の形を見られた。
なんか、盆栽に置かれた岩みたいな、かっこいい造形だ。
13:00 《現在地》
地形図に道は描かれているのに、隧道は省略されているのであった。
それが、事前に隧道を見つけられなかった真相だった。
余りにも短く、県道から一瞥だけで全貌を把握したような気になるだろうが、ちゃんと立ち寄った人だけが、隠れたお地蔵さまの存在を知るのであった。
現県道から見る、赤岩隧道のある大岩の側景。やっぱり赤っぽい。
岩の両隣には民家があり、仲良く旧道沿いに並んでいるのが微笑ましかった。
「大鑑」では、隧道の完成は昭和9(1934)年とされているが、明治39(1906)年には、この海岸に最初の車道が開通した記録がある。もしかしたら、隧道もその頃からあるのかも知れない。
また、旧道になった時期もはっきりしない。
昭和51(1976)年の空中写真では、まだ今の県道は影も形もなかったので、バスもトラックも、みんなこの小さな隧道を潜っていたのだろう。
地図になくても、見つけるのは超簡単!
ゴツゴツした素掘りの外見だけど、印象はとーっても優しい、可愛らしい隧道だった。
レポート公開してから5年経った昨年の暮れ、地元にお住まいのガンさんという方から、次のようなメール(一部再構成)を頂戴した。
生粋の佐渡人から送られてきたメールだった。
私が大雨の中、簡単に済ませてしまった隧道を振り返らせるに十分な、貴重な証言。
隧道は、バスを通すために拡幅を受けたことがあるという。
また、隧道完成以前の旧々道が、いまの県道がある岩場の海側にあったそうだ。これは情報がなければもう確かめようがないことだけに、とても興奮した。
何より私を熱くさせたのは、添付してあった1枚の古写真だ。
なんと、隧道完成当時の写真だという。
……ご覧いただこう。
こんな機会がなければ絶対に見ることはなかった、超貴重な写真だ。
うわー! かっこいい!
俺たちが掘ったぜ!
そんな誇らしげな声が聞こえてきそうな、いかにも戦闘力の高そうな屈強な男どもが、まさに制した大岩の前に集合している!
情報提供者と、写真に写る人物の関係は分からないが、
離島の小さな隧道。
おそらく報道によって内地に伝えられることもなかった、ささやかな開通式。しかし、赤岩集落にとっての輝かしい1日だったろう。
全体に赤茶けた写真が、大鑑により伝えられた昭和9年開通から経過した長い年月を物語っていた。
これを、ほぼ同じアングルで撮影した現在の写真と重ねてみると、感動は一入だ。
コブのついた大岩の形が不動であるさま。
日本海の激風と不毛の土壌により、決して巨木に育つことが出来ない岩上の松も、密かな代替わりを続けているようだ。
大岩は不動だが、周囲の景色は大いに変化している。前後に家が隙間なく建ち並び、道は舗装され、なんと不動の象徴であるはずの海が新たな道路に置き換えられた。
隧道に焦点を当てると、証言の通り、確かに拡幅を受けていることがはっきり分かる。
隧道の断面が、かなり大きくなっている。
素掘り隧道だと、こうした拡幅を壁面の状態から見抜くことはほとんど不可能だが、高さも幅もおおよそ1.5倍程度に拡大していることが、はっきりと見て取れた。
(←)
そしてこれ。
分かりにくいが、証言にあった幅3尺ほどの旧々道に違いない。
以前紹介した、すぐ近くにある野崎隧道の探索で見つけた旧々道と、同程度の規模の道に見える。
これも野崎隧道のレポートを書く時に調べたことだが、明治35年から39年に建設・全通した郡道前浜線(大正12年に県道昇格)が、これらの旧々道の正体で、後に赤岩隧道や野崎隧道が建設され、自動車が通れる程度に整備されていったのだろう。
大鑑にある野崎隧道の竣工年は昭和5(1930)年で、昭和9(1934)年とされている赤岩隧道とは近い。
また、証言にあった路線バス開通を目的とした拡幅の時期だが、前浜線に路線バスが運行を開始したのは昭和28年ということが分かっている。
ガンさん! すばらしい写真をありがとうございました!
最後に、もう一つ追記。
探索当時は、昭和43(1968)年に刊行された『道路トンネル大鑑』しか見ていなかったが、後に『平成16年度道路施設現況調査』を確かめたところ、既に旧道化して佐渡市道となった後の赤岩隧道のデータが記載されていた。
そして、両者のデータを比較してみると、だいぶ違いがあることが分かった。
以下に、主なデータの比較を掲載する。
資料名 | トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 幅員 | 高さ | 舗装 |
道路トンネル大鑑(昭和42年度末) | 赤岩隧道 | 一般県道 両津赤泊小木線 | 昭和9年 | 10m | 2.8m | 4.0m | 未 |
平成16年度道路施設現況調査 | 佐渡市道 | 大正9年 | 9m | 4.3m | 3.5m | アスファルト |
名前以外、全部のデータが違う。
これじゃまるで、別の隧道だが、まあ同じ隧道なんだろう。
おそらく、全長、幅員、高さのデータの違いは、拡幅によるものなのだと思う。
高さが縮小しているのは不自然だが、測り方の違いか。
拡幅工事の時期は昭和28年と推測されているので、昭和42年度末のデータである大鑑が拡幅前なのはおかしいが、拡幅後10年以上もデータの更新が行われていなかったのかも知れない。
いずれにせよ、新旧写真の比較と対応するのが、これら2本のデータであるように私には見える。
現状、トンネルの全長は二桁ではなく、9mだけになっていたのだ。
さらに、これら拡幅による変化では解決できないのが、竣工年の違いである。
これがまた、昭和9年と大正9年という違い方が、憎たらしい。
数字の部分が一緒で年号だけが違っているのだが、「平成16年度道路施設現況調査」は年号を1〜4の数字で表わしていて、1が明治、2が大正、3が昭和だが、この数字の誤記があれば容易く昭和と大正が入れ替わってしまう。
果たしてこれは資料の誤記なのか、実際に赤岩隧道は大正生まれなのか。
ガンさん氏の意見も伺ってみたいところだが、今のところ未解決である。
完結