森林鉄道の痕跡が鏤められた仁別地区に、現時点では何に供されたものかが分からない、謎の巨大な橋台が発見された。
皆様からの情報の御提供を頂きたく、ここに紹介するものである。
まずは、右の概念図をご覧下さい。
秋田市に端を発する仁別林鉄は、太平山地一帯からの木材切り出しを目的に敷設されたものである。
その路線名にもなった最大の中継地である仁別は、3つの路線が合わさる要衝である。
今回紹介する橋台跡は、この仁別の片隅にある。
その構造などから林鉄用のものと思われるのだが、古い地形図などにもこれを利用する路線が見つからない。
その存在に気が付いたのは、2003年5月のことである。
仁別から太平山の登山口である旭又へと伸びる仁別林道の入り口に、それはひっそりと偉容を潜めていた。
写真は、仁別林道の入り口となる分岐。
右がそれで、正面は五城目町へ繋がる中ノ沢林道である。
仁別林道は、一本の橋で始まる。
それが、この高橋である。
高橋とは、まるで人名のような変わった名前だが、れっきとした橋の名前である。
そして、この橋の上に立って見下ろせば、この橋の名前が実感できるのである。
それは高所恐怖症のお人には、まったくオススメできない眺めである。
ほぼ垂直に切り立った岩肌の底に、清冽な流れを見せるのは、仁別沢だ。
その水面までの高さは、ビルの4階か、5階にも相当するだろうか。
何の変哲もない欄干から半身を乗り出して下を眺めれば、切り立つあまりに年中薄暗い谷底の異様な雰囲気に圧倒されるのだ。
この眺めは、橋の上から上流を見たもの。
下流方向も同様の眺めだが、予想外の人工物が目に飛び込んでくる。
仁別は私にとっては第2の故郷のような“山チャリ発祥の地”であり、この10年間に数十回はこの橋も通っていたが、気が付いたのは、意外に最近のことあった。
高橋から5mほど下流側に、谷底からすっくと立ち上がる2本の橋脚が認められる。
両岸から張り出した木々に半ば隠されており、盛夏では見つけにくいだろう。
そしてその天辺の高さは、高橋とほぼ等しい。
写真はその内の一本、左岸のものだ。
その橋脚は、天辺から20mほど下方で切り立った斜面にぶつかり、その下は垂直の石垣となっている。
石垣は河床の僅かな平坦部に乗せられており、すぐ傍を淵に洗われているのだ。
橋台と橋脚の両方を合わせれば、その高さは谷の深さと等しい。
目測だが、30m程度はあろう。
右岸の袂は車道から近く、容易に接近できる。
写真は、そこから撮影したものだ。
対岸の橋脚の土台の石垣の緻密さは間違いなく目を引くが、両岸からそれぞれ近い橋脚までの3mずつほどには当時の橋桁がそのまま残っており、この形状から林鉄由来のものと断定した。
この短い橋桁は、突端まで行くことも出来る。
慎重に慎重を重ねて渡り、突端へ向かう。
すると、やっと谷底の石垣の存在に気が付いた。
ご覧頂いている写真が、それである。
“H”形の軽量な印象のコンクリ橋脚の基礎となっているのは地山ではなく、ほとんど地山と一体化しているような苔生した、しかしその存在感は計り知れない、石垣である。
石垣は、谷底まで高さ10m近いように見える。
両岸は手がかりに乏しい決定的な断崖で、しかもその様な状況は両岸とも長く続いており、河床に降りて全容を見ることは叶わない。
それだけに、一体どのようにして、誰がいつ、この橋台を拵え、橋を建設したのかがとても気になる。
ましてや、後述するが、用途不明な橋梁だとなれば、尚更である。
次からは、2004年の9月に撮影されたものだ。
遂に、この断崖を一部降りて撮影することに成功した。
左の写真が、見にくくて申し訳ないが、強引に写真を切り貼りして作った全体像だ。
私自身もこの作業を通じて、一枚の写真になった橋脚を見て、改めてその巨大さに驚いた。
橋脚は全部で右岸と左岸に一本ずつあるのだが、私が以前そこに乗って撮影した右岸側は高さ3m程度に過ぎないのに比べ、左岸のものは圧倒的に高い。
両岸共に切り立ってはいるが、左岸はその垂直ぶりが尋常ではないのだ。
右岸とて、橋台の先は垂直に落ち込み、それ以上に降りることは出来ない。
結局、私はこの写真を撮るために右岸の橋脚の袂までは降りられたが、それ以上降りて、この石垣に迫ることは出来なかった。
なお、このとてつもなく高い左岸の橋脚へも、左岸からコンクリの橋桁が繋がっている。
しかし、流石にこの“平均台”をこなす勇気は私にはなかった。
勘弁して欲しい。
そしてこれが、この橋脚最大のキモである、橋台部の石垣だ。
木々が邪魔でどうしても全体像を一望にすることは出来ないのだが、その巨大さや、丁寧に一つ一つ積み上げられた紋様が、私の心を掴んだ。
このような人跡未踏といわれても信じてしまいそうな谷底に、これほどの石垣が存在するというのは、驚くべきことだ。
なお、これと上の写真は、かなり明度を上げている。
そのままでは薄暗すぎて、良く判別できなかったからだ。
谷底は、それほどに暗い。
さて、これまでに紹介したのが、「謎の橋台」とさせて頂いているものなのだが、何が謎かと言えば、
それは、
由来が分からない
ということである。
昭和40年頃までの地形図には、一帯に枝葉を伸ばす林鉄線が描かれているが、そのどれもが、この高橋の脇を経由していないのだ。
一番怪しいのは、約200mほど下流を渡っていた「砥沢線」なのだが、それとて明らかな位置の違いがある。
無論、すぐ脇にある高橋の旧橋である事も考えたが、高橋は間違いなく車道橋で、この車道「仁別林道」は、林鉄「旭川線」の撤去(昭和43年)とほぼ同時期に開設されたものである。
当時の地図にも、この橋は車道共々記載されていない。
そもそも、現在残る部分の形状から、これが車道橋由来であるとは考えにくい。
もし砥沢線に路線の付け替えがあったとしたらどうだろう。
地形図にも反映されないような短期間の付け替えなどにより、このような「幻の」物件が生ずることは、ままあることだ。
実のところ、現時点ではこの可能性が一番高いと思われる。
砥沢線は、正式名称「仁別中ノ沢砥沢線」といい、昭和27年開設、昭和40年廃止となっている。
そして、路線付け替えがもしあったとしたら、その犯人はきっと、すぐ上流の旭川と砥沢合流部に建設された、旭川治水ダムであろう。
林道はダムにより大きく路線を山際に求めたし、砥沢に沿った部分もかなり上流まで、林道は谷底から少し距離を置いている。(地図参考のこと)
肝心のダムの建設時期なのだが、昭和42年計画決定、竣工は昭和51年と、遅い。
砥沢線の現役時代と、ダムの工事時期とは重なっていないことになる。
やはり、この付け替え説も否定されるのだろうか…。
現在知られている路線以外の路線が存在した可能性もあるが、一時的な作業支線に供される程度の構造物とは、とても思えない。
果たして、地形図の単なる誤記なのか?
或いは、ダム工事とも関係しない、何らかの橋梁付け替えの名残なのだろうか?
必ずしも「謎の橋台」が付け替え“後”とも限らないわけだ。
今後、砥沢線の車道とは重なっていない部分の踏査や、皆様からの情報提供が解明の決め手となる可能性が高い。
(ただし、踏査については冬季以外は考えられない…なぜなら現地はヒルの超発生地帯…)
はたして、林鉄に稀に見る巨大橋脚。
その正体は?!