その70仁鮒七座林鉄2004.10.20撮影
秋田県二ツ井町 仁鮒 



 以前、当ミニレポの「その56」にて紹介した七座林鉄は、“東洋一の木都”と呼ばれた能代市への最大の木材供出元だった二ツ井町の林鉄網を連結する他に例を見ない大規模連絡線であった。

最終的に、藤里林鉄・上小阿仁林鉄・仁鮒林鉄の三線を連結した連絡線群であったが、このなかでも、仁鮒林鉄へと繋がる路線は「仁鮒七座線」と呼ばれ、大元の仁鮒林鉄同様、二ツ井町にありながら、能代営林署の管轄下にあった。
今回紹介するのは、この仁鮒七座線である。

ものの資料よりその緒元を紐解けば、延長1700m、竣工昭和22年、廃止同41年、一級路線(森林鉄道)とある。
この路線を理解するのには欠かせない、仁鮒林鉄本線についても簡単に紹介すれば、こちらは延長22300mを誇る長大線で、明治40年頃に森林軌道として発足(その少し前に車道として竣工)、明治44年までに森林鉄道に改良(県内最初の森林鉄道である)され、昭和46年全廃(県内で最後から二番目)となっている。

仁鮒七座線は、連絡線の一翼を担う存在として、それまでは内川と米代川の合流点付近にあった筏流し場を終点としていた仁鮒林鉄から分岐する形で延長され、集材などを行わない、純粋な連絡線として利用された。
沿線は仁鮒集落の住宅が連担しており、さながら旅客線のような風景が展開されていたようだ。

県内の林鉄の中でも、一風変わった仁鮒七座線を、ご覧頂こう。





 二ツ井を発し、仁鮒を経由して上流の田代地区に繋がる県道203号線は、途中まで仁鮒林鉄の跡を比較的良くトレースしている。
しかし、仁鮒集落内では県道と軌道跡はほとんど交わらず、別の場所を通っていた。
銀杏橋で米代川を渡り、県道を田代方面へ200mほど進むと、程なく農道のような小道が緩やかなカーブで左へと別れていくが、これが林鉄の跡である。

この道は、歩行者自転車専用と標識にはあったが、区間住人の車は往来しているようだ。




 集落内のみちとしては、何の変哲もない景色が、はじめ200mほど続く。
しかし、よく見ると面する民家の塀がコールタールで真っ黒くなった枕木だったりする。
枕木は非常に太く重量感があるもので、林鉄用ではなかった可能性もあるが。
生憎軒先にはニャしかおらず、詳しいお話を伺うことは出来なかった。




 すぐに、この道がただの町道ではないことをあなたは気がつくだろう。

少なくとも、廃線巡りを趣味にする人であれば、間違いなくここが鉄道由来だと気がつくような景色が、現れ始める。

まずその入り口は、緩やかなカーブで掘り割りに進入していく。
次の景色が堪らなく楽しみなカーブだ。

減速進行!


 集落の山際の田畑を削って、切り通しが続く。
この切り通しは、約300mほど続く。
両側の壁は、かなり風化しているものの、石垣である。

私がチャリで、ここをゆっくりと通行している最中にも、向こう側からママチャリの高校生が通り過ぎていった。
県道が直角カーブで遠回りをしているのに比べ、林鉄跡は近道である。



 石垣をよく見ると、自然石を菱形に整形したものが積み重ねられている。
所々は崩れそうになっているが、決定的に崩壊している場所はなく、コンクリなどで補強・改修されている箇所も見あたらない。
築60年を経ようとしている石垣は、さすがに年季を感じさせるが、まだ現役続行中だ。

ところどころ、山側の畑に向かうために軌道を横断する小道があり、そこには急な階段が石垣に刻まれている。
芸が細かい。




 そして、現存する遺構としては当区間最大のものが、この跨線橋である。

続く掘り割りの終点間際に、下町情緒たっぷりの跨線橋がかかっているのだ。

これは萌えた。

全速前進!



 一応は自動車通行禁止のようだが、高さ制限「3.1m」が掲げられている。
これって、矛盾しているような?(チャリで車高3.1mは難しい)
まあ、町道にまであまり厳しい追及をしても始まらないだろうし、本題はそこにはない。

跨線橋は、この小道が、元は車道ではなかったという過去を暗示する、貴重な遺構である。
そして、近づいてみて分かることは、意外にしっかりした造りの跨線橋だと言うことだ。




 なんとなく、無駄が多いというか、隙間が多いというか、必要以上に細かな印象の下部構造。
このような橋は、見たことがない。
一応は、ガーダー橋に分類されるべき構造なのだろうか?
現在は赤茶けた色だが、もともとは鮮やかな赤色に塗られていたのだろうか。

仁鮒林鉄は、客車の保有数が多かったことでも知られている。
上流の濁川事業区へは、二ツ井市街地から通勤している人も多かっただろうし、濁川の他にも林鉄沿線には無数の集落が奥地まで続いていたので、客車と木材の混合列車が毎日往来していたのだろう。

ここなども、子供達のチョット危険な、でも楽しい遊び場だったに違いない。



 跨線橋を潜ると、突如車道は右に直角カーブで反れる。
林鉄は真っ直ぐ伸びていたはずだが、軌道由来とは思えない急な登りに遮られている。
また、これを上ると、さらに一段高い高台が眼前を塞ぐ。
この高台の上は、仁鮒小学校のグラウンドである。

実は、ここには以前は隧道があった。
小学校のグラウンドを潜るという、珍しい街中の林鉄隧道だったはずだが、私が初めて見に来た2002年9月の時点で、もう消えていた。
記載されている旧版地形図などによれば、隧道は200m前後だったようだ。
見てみたかった。

このあと、隧道の反対側まで軌道の痕跡は完全に消失する。





 写真は、2002年9月の跨線橋上の様子。

橋を渡っても、そこには僅かの耕地があるだけだった。

残念ながら、橋名などを知る手がかりはなかった。




 今度は、隧道の南側の坑門と、そこから続く軌道跡だが、2002年9月に取材済みだ。

県道を迂回して、畦道から繋がる、隧道への道を見つける。
民家の庭先になっており、路盤は庭の一部に使われていた。

眼前の高台の下に、隧道はあった。
さらに進んでみる。





 物置の裏で涼をとっていた犬に吠えられ、ただですら暑いのに、激アツ沸騰状態のまま、苛立ちの激藪へ突入。
この9月という時期は、一年で最も草藪が元気で、こういう廃線探索には全くもって不向きだ。





 かきわけかきわけ行くと、頭上に倒木が倒れかかっていた。
そして、いよいよ軌道跡が極まるその場所が、藪の奥に見えだした。
地面は、湿地となっておりぬかるむ。
まさに、隧道直前の様子としてありがちな展開だ。
反対側の閉塞は既に承知していたが、せめて片側の坑門でもあってくれ!
俺にも、涼をとらせてくれ!!


だが、無情にも…・。



 ガッツリ!コンクリの壁で坑門は塞がれていた。
というか、坑門の形は既に無く、切り通し共々埋め戻されているのかも知れない。
僅かに垂直に残るコンクリの壁は、高さ1m程度に過ぎず、これだけで坑門を塞げるわけがない。
壁の向こうは、斜度60%ほどの、夏草の生い茂る土の斜面になっており、もはや探す意味もない。

残念ながら、仁鮒隧道(仮称)は完全に埋め戻されてしまったようだ。
小学校のグラウンドの底に、封じられた空洞が眠っているのだろう。




 高台から廃線跡を望む。

足元に隧道の塞がれた壁があり、奥へと真っ直ぐ路盤の跡が続いている。
この先、現在の県道に合流するのは、800mほど先だが、そこまでは畦道としてしか残っていないようである。
まだ調査の余地はあるが、県道との合流点付近が、元来の仁鮒林鉄本線と、この仁鮒七座線との分岐点でもあったのだろう。

これにて、仁鮒七座線のレポを終了する。
特に切り通し区間の印象が強い、なごみの廃線跡であった。






 <オマケ>

仁鮒から県道を、かつての軌道跡に概ね則して進むこと3kmほどで、集落も途切れ周りは山間一色である。
そこに、かつての集会場か、恐らく営林署の建物が一棟残っているのだが、沢山の廃材が建物にたけかけられている中に、ある物を見つけた。




 距離標だ!!

このデザイン、間違いなく林鉄の距離標だと思われる。
どの路線で使われていた物なのかまでは分からないが(おそらくは目の前の仁鮒林鉄だろう)、まさに森吉林鉄で目撃したものと同じだ。
森吉では、隧道内でしか見たことがないが、今回初めて地上にあるのを発見した。
ちょうど軒下に置かれているせいか、腐食は色落ちも少なく、良い保存状態である。

これは、思わぬ収穫であった!



2004.10.21作成
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