その71仁鮒林鉄 濁川地区2004.10.20撮影
秋田県二ツ井町 濁川



 能代営林署仁鮒森林鉄道について、「ミニレポその70」から引き続き、紹介しよう。

前回は、その起点である仁鮒地区を紹介したが、今回は最重要な中継地であった濁川地区だ。
仁鮒から濁川までは、約12kmの距離があるが、現在もその軌道跡の道筋がそのまま県道203号線や294号線として利用されており、目立った林鉄遺構は見つけられていない。
(途中で別れる揚吉支線や田代支線(隧道レポ参照)にこそ、発見は多い。)

この濁川は、かつては仁鮒に次ぐ沿線の集落で、仁鮒から濁川の奥地へと全長23km近くあった本線上で重要な中継地であった。
林鉄末期の昭和40年代初頭には、仁鮒から濁川までのレールは撤去され、車道化された。
しかし、濁川には中継貯木場が設置され、昭和46年に県内最後から数え二番目の廃止を見るまで、濁川から最奥の事業地までの軌道が運行され続けたという。

濁川にて、現在の県道が濁川(ややこしいが、これは河川名で内川の上流だ)左岸に有るのに対し、林鉄は右岸を通っていた。
このような「別居」は、仁鮒林鉄としては珍しく、何か残っていまいかと探索した成果を、以下に紹介したい。






 右上の地図の県道314号線というのは、この写真の分岐点を右に曲がることで始まる路線で、このさき濁川に沿って上流へ向かい、最終的には峰越で琴丘町の上岩川へと抜ける県道だ。
途中、濁川集落のすぐ先でダート化してしまう、県内には残り少ない砂利県道である。
一方、私の立っている背後から、T字路の左へと繋がる路線は、県道294号線といい、能代市の桧山から峰越でここに至り、仙の台にて県道203号線に繋がるローカル路線である。
こちらにも、今私の超えてきた峰越区間に、短いダートが残っている。

要は、林鉄が撤去されて久しい山中には、相変わらずほとんど交通量がないと言いたいのだ。
ローカル地名過ぎて、地元の人以外は全然チンプンカンプンだと思うので、これ以上の説明は省こう。
(いずれダート県道として小ネタ扱いするかも)




 さきのT字路にて県道314号線に右折し、平坦に近い山道を数百メートル走ると、県道は谷となった濁川にぶつかって、右カーブを余儀なくされる。
このまま県道はしばらく、濁川の左岸を遡っていくことになる。

だが、この地点こそが、林鉄との別居生活の始まりなのだ。
今までも何度も走っていたが、気にしたことはなかった。
だが、気にするべきものが、そこにはあった。





 谷に面したカーブの外の笹藪に、なんの意味があるのか不明な、謎の工作物。
金属パイプで形成された、まるで何かの入り口のようなデザインと、かつては何かの文字が記されていたであろう、鉄板二枚。
強いて言うならば、採石場とか、建設会社の門に設置されている「安全第一」とか書いてるアーチに似ているか。

この安っぽい物体、今までは気にも留めなかった。
しかし、よく考えると、これは不自然すぎる立地である。
なんせ、この先は断崖であり、橋など無い。

無いはずだった。
以前にサラッと覗き込んだときには、何も見つからなかったはずだ…。




 うわー。
あるじゃないかー!

前見たときは、県道よりもやや低い位置にあるこれら橋脚には気が付けなかったようだが、めちゃくちゃはっきりと存在している。
完全石組みの年季入りまくった橋脚が、淀んだような穏やかな濁川水面と、対岸の葦原に、合わせて3本立ち並んでいる。
いずれも重厚なシルエットである。
そして、一部植生を頂きながらも、3本ともしっかりと屹立している。

この橋脚は、紛れもなく仁鮒林鉄のもので、この場所に軌道が伸ばされたのは明治40年代初頭である。
県内の林鉄遺構としては、最も古い遺構の一つであろう。
素晴らしい発見だった。
というか、今まで何度もここを通りながら、余裕でスルーしていたし…。

 


 土の斜面を、草木を手がかりに谷底まで10mほど降りる。
写真に写っているのは、三本の橋脚のうち、真ん中のものだ。
いままで色々な林鉄の遺構を見てきたが、石組みのこれだけ重厚な橋脚は、田代町の岩瀬林鉄でちらりと目撃したくらいで、かなりレアだと思う。
さすがに、県内林鉄発祥の地の、本線上の遺構である。

木橋でお茶を濁すような真似は、たとえ森の鉄道とはいえども、許さないというような気迫を、勝手に感じてみたりした。





 谷底には平坦地が無く、(いや川底は至って平坦なのだが、入りたくないし)振り返って橋台を見るのも難儀した。
写真では、角度も悪く、藪が濃いためにはっきりとは見えないが、やはり石組みの橋台がしっかりと残っていた。
対岸にも、微かに橋台は見えていたので、3本の橋脚と1対の橋台の全てが現存することになる。

林鉄橋としては規模の大きい、4径間の橋であったわけだが、橋桁がどのようなものであったかは、想像するしかない。



 一番手前の橋脚は、ギリギリの位置で斜面に接しており、一方は陸に、一方は水面に接している。
もっとも、水量は変動するのだが。
そして、その橋脚と斜面の隙間に、たった一本だけだが、レールが落ちていた。
錆び付いているが、間違いなく林鉄のレールである<。
お馴染みのサイズだ。

この仁鮒林鉄では、ごく初期だけ森林軌道として利用されたが、数年で勾配や線形を改めた森林鉄道となった経緯がある。
そうして、県内初の森林鉄道となったわけだが、この流れからすると、ごく短い区間だけ利用された、森林軌道時代の旧線などが存在したのだろう。
レールなども、より頑丈なものに交換されたはずで、この細いレールは、果たしてどっちの時代のものなのかな、そんなことを考えたのである。

仁鮒林鉄、まだまだ奥は深そうだ。





 水面に触れる部分は、多くの石材が欠損している。
しかし、欠損している部分は全体の太さの中ではごく一部であり、強度的には大きな問題はないだろう。
石と石の間には、コンクリか、恐らくモルタルが仕込まれており、丁寧な仕事ぶりである。

濁川という川の名は、非常に水流が穏やかであることからついたものか。
たしかに、淀みが多く、水深は浅い。
そんなプールみたいな水中には、何やら巨大な魚影がウロウロしていた。
鯉かな?

背後の県道には、さっきから車の通る気配もない。
水音もしない、静かな谷底である。



 下端部分で長辺が2m、短辺が80cm程度と思われる橋脚を、その短辺側から見る。
シルエットからも、その風化した様が感じられる。
確かに実態ものその通りで、遠目ではまだまだ健在そうに見えたが、よく見ると、所々石材が欠落し、また風化も進んでいる。
水流穏やかなこの場所では、自重のみで瓦解する日は遠いだろうが、もう充分に耐用年数は過ぎているのかも知れない。



 単純な台錐形と思いきや、上端から1m弱の部分に、縁がある。
あそこには、橋桁の支え木をかけていたのだろうか?
だとすれば、この橋も木橋だったのだろうか。

仁鮒林鉄の場合、本線上に木橋とは考えにくいのだが。
ガーダー橋を想像していたが、果たして真実はいかに。



 最後に、私にこの遺構を気づかせてくれた謎の金属アーチであるが、県道側だけでなく、裏にも何やら文字の記されていた痕跡。
そして、こっちは1文字かはっきりと読み取れた。

「●頓」と読めるではないか。
となると、こちらはおそらく「整頓」だろうな。

そのあと、表側にまわって凝視したところ、しばらくして「●絡」と読めた。
ならば、表側は「連絡」か。

ちょうどこの橋を渡ると、濁川集落なのだ。
その入り口である橋の袂に、日々の作業の安全と祈り、作業者達に訓戒をなした「整頓」と「連絡」の4文字。
毎日ここを潜り、橋を渡って仕事に出たのだろう。
山の男達の直向きさを感じさせる、再発見ではないか。



 濁川地区での発見は、これに留まらなかった。
次回へ続く。



2004.10.23作成
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