前回は、男鹿森林軌道の起点付近の男鹿山中の一部と、そこから滝沢沿いを下っていく部分の序盤を紹介した。
今回は、その続きである。
一気に終点(起点?)である男鹿線の羽立駅まで紹介したい。
紹介も駆け足だが、実際の探索も訳あってもの凄く急ぎであった。
調査としては乱暴だが、ミニレポと言うことで許して欲しいのだ(笑)
さて、探索のタイムリミット(ズバリ帰宅して仕事に行かにゃならんのだ!)が刻一刻と迫る中、藪に埋もれた区間の探索は放棄し、そこを迂回して、再び車道として軌道が復活する場所を求めることとした。
廃橋を戻り、チャリに再び跨ると、畦道程度の泥っぽいヘアピンカーブを駆け下り(ここも車はちょっと無理っぽい)、小さな用水路のようにしか見えない滝沢を木橋で跨ぐと、林鉄とは対岸の左岸沿いに、平坦な畦道が続いていた。
この畦道は、比較的新しい轍があり、現役の畦道らしい。
写真は、迂回路として利用した畦道から、藪化してしまった軌道跡が残る斜面を望む。
痕跡は、確かに僅かな平場としてここからも見えた。
なお、私が下ってきた畦道は、写真右のスロープになっている部分だ。
で、畦道を500mほど走ると、良い具合にまた滝沢を渡って林鉄のある高度へと自然に戻っていくようだった。
これは僥倖とばかりに、私は道なりに林鉄跡へと、戻ることが出来た。
この畦道は、林鉄跡の車道を補完する役割を元は担っていたのかも知れないが、通行量が少なすぎるのか、そもそも通行需要が少ないのだろうが、いずれにしても、完全に間道になってしまっている。
乗用車は、ちょっと無理だ。
写真は、再び滝沢を渡る場面で、二本並んだ橋。
左が現橋で、右は旧橋の跡っぽい。
なかなか、味がある橋だ。
河岸の急な坂を20mほどのスロープで登り切ると、軌道跡の平坦部に合流する。
写真は、正面に軌道跡の藪を振り返っている。
右の小道から、登ってきたのだ。
この藪の区間は、前回の最後に紹介した車道改築橋まで、おおよそ400mほど。
そして、私の背後にはいよいよ軌道跡が、待望の車道として再開した。
(純粋に純度の高い林鉄跡を求める心理からすれば、車道化は忌むべきものだが、さらりと流し探索にしたいときは、ホットするのもまた事実だ。)
さきには、このような景色が展開している。
早速現れたふたつめの現存橋。
そして、その先の軌道敷きは一旦森に呑まれるが、だいぶ先で再び鮮明な平場として視界の果てまで続いているのが見えた。
おおよそ1kmの区間が、一望の元にあった。
気持ちスッキリである。
さあ、どんどん進むぞー!
そしてこれが、早速現れた林鉄橋梁である。
本橋も鋼製ガーダーにコンクリ板を乗せただけの簡易な構造であるが、目を引くのはその中間にて地上に足を降ろす、一本の橋脚だろう。
橋脚は、かなり石灰分の析出が見られ、危険な兆候が現れているものの、現状ではその可愛らしい姿を留めている。
また、この橋を一言で形容するなら 「模型的」。
なんというか、別にわざわざこの橋がある必要性が感じられないのだな。
橋が跨いでいる沢は、本当にチョロチョロとしか水が流れておらず、暗渠やヒューム管でも余裕だったはずなのだ。
これが、明治42年の作風なのか、或いはコンクリ橋脚の様子から見て、大正以降の改築があったものか。
はっきりとはしないが、景色的な目新しさ、悪く言えば違和感が、かなりある。
何とも言えず長閑で、意味深な風景である。
こんなものが、国道からも県道からも、主要な道からは大きく外れた小さな農地の片隅に、今まで殆ど外部のものに知られることもなく、残存してきたのである。
なんというか、観光地として著明な男鹿のイメージとは大きくかけ離れた、生活の中のリアルな男鹿の姿を、こんな片隅で見た気がした。
いいね、こういうの。
目を惹くコンクリの橋脚。
形状は至って模範的。
だが、小さい。
そこが、可愛らしい。
しかし、遠目から見る以上に、近づいてみるとかなり老朽化しているのが分かる。
地形的な穏やかさゆえ、破壊されずに残ったのかも知れない。
ガーダー部分の様子は、このようになっていた。
きわめて、簡易な造りである。
とても梁渡りなどが出来るような複雑さではない。
だが、この程度の橋の長さに、わざわざ鋼製ガーダーというのも、かなり贅沢な気がする。
やはり、男鹿の木材の埋蔵量や、その価値の高さは、往時相当の評価にあったのであろう。
採算性を度外視しても鉄道を引くという概念は、林鉄世界には、まず無いことだから。
ちなみに、橋台も存在するが、ただ自然の地山に石垣を築いただけの簡素なものであった。
しかも規模は小さく、殆ど埋もれており見えにくい。
なかなかの掘り出し物だった橋梁だが、これを渡って先へと進む。
ご覧の通り、軽トラのタイヤと同じ幅で小さな凹みがコンクリ板には刻まれている。
このような施工は、余り見たことがない気がする。
たいした高い橋ではないが、恐らくこの幅だと、車内からは足元の路面は見えないだろうな…。
チャリで通るのはどうって事ないが、車だったら、意外に恐いかも…。
あなた、チャレンジしてみますか?
ここまでは、この先紹介する側からなら容易に乗用車でも来られますぜ。
橋を渡ると、その先は轍もだいぶ鮮明となり、普通の砂利道となる。
そして、杉の林の中にはいると、法面に石垣が現れた。
これは、恐らく林鉄由来であろう。
かなり風化し、苔や羊歯に覆われているものの、決定的な損壊もなく、土留めとしての役割を充分に果たしているようだ。
この石垣が、竣工当時のものだとすれば、明治42年の作。
男鹿林鉄は県内有数の、古い林鉄なのである。
地形に沿って、緩やかな半弧を描き進路を変えていく林鉄跡の道。
写真はふと立ち止まり振り返って撮影。
緩やかな下りになっていることも手伝って、漕いでいればペースはぐんぐん上がる。
なんというか、走っていて気持ちがよい道である。
山チャリ黎明期である学生時代の走りの感触を、ちょっと思い出した。
よくこんな名前もないような、どこへ続くとも分からない砂利道を、何も難しいことを考えず、ただ砂埃をあげ、仲間と疾駆していた時代。
それがいつしかカメラを握り、遺構の発見に神経を研ぎ澄ます道行きに変わってきた。
善し悪しではない。
善し悪しでは…。
ただ
−−変わったな。
どんどん風景は転じていく。
滝沢が何万年もかけて男鹿山から運んできた土砂は、この三森地区でほぼ平坦となる。
川はこのまま東進し、男鹿半島の低い分水嶺に迷いながらも、最終的には北進、男鹿中浜で日本海の一部となる。
だが、林鉄はここで分水嶺の突破を企てる。
大げさでなく、本当に半島の分水嶺を、まもなく越えていくのだ。
海抜700m超と400m超の二山を二天とする男鹿半島の、まるで点のような小さな小さな最低分水界を、林鉄は小にくたらしいほど絶妙に突くのだ!
ほんと、ピンポイントに!
これが、男鹿半島の分水界である。
笑ってしまうほどに、低い。
縮尺の小さな道路地図などでは、もちろんこの山並みなど省略されている。
林鉄は、この分水山脈を、ただひとつの切り通しで貫通していく。
切り通しの直前で、轍の大半は左の畦道に反れていく。
この切り通しにも一応轍はあるが、すぐ北側には真新しい広域農道が豪快に峯を割っており、林鉄跡に積極的な利用意義はない。
長さ50m、深さ20m程度の、切り通し。
男鹿林鉄最大の峠である(笑)
幅はやや広めにとってあり、両側には古そうな石垣が低く連なっている。
古道らしいムードはあるが、些か刈り払われた杉の下枝が五月蠅い。
もう少し林床を綺麗にしてくれれば、もっとムード満点になると思うのだが。
とりあえず、時間もおしてきているので、さらに加速して切り通しを貫通する。
余談だが、当初ここには隧道がある可能性を期待していた、残念賞でした。
滝沢沿いを下るだけ下って、そこから切り通しを潜り抜けてみれば、男鹿半島の南海岸側ということになるが、意外に此方側の河床までの比高は、まだある。
さらに長く緩やかな下りが、今度は男鹿南海岸に注ぐ比詰川の支流に沿って始まる。
河床には、やはり細長い農地が延々と連なっている。
それを雑草の茂る路傍の隙間に見下ろしながら、いかにも鉄道跡らしい築堤と小さな掘り割り経由しながら、徐々に高度を河床に近づけていく。
楽しいなー。
チャリで走るのに最適な廃線跡である。
(ガチガチの山チャリをしたい人には物足りないだろうけど)
切り通しから800mほどで、林鉄跡は巨大な築堤に呑み込まれ、完全ノックダウン。
これが、先ほども少し触れた「広域農道」、通称“なまはげライン”である。
農道的な役割のみならず…いやむしろ、未整備な国道や県道に替わる、男鹿半島の大動脈として機能する半島縦断路線である。
農道を太陽に向けて快走し、間もなく馬生目(まほめ)地区に入る。
村はずれの集落を農道がブツ切りにして進む。
かつてこの線上には、ガソリンカーが木材を満載して往来していたはずだが、全く痕跡がない。
だが、このままでは終わらないのが、男鹿林鉄の意地である。
林鉄跡を放してくれるとも思えなかった広域農道だが、突如T字路にぶつかり終点となる。
ここを左に行けば間もなく国道101号線に合流する。
また、右に行けば5km以内で男鹿駅のある船川港地区に通じる。
いずれも、林鉄とは関係のない道だ。
もちろん、林鉄はこのT字路を直進。
直進ダー!
直進にも、一応舗装路が続いているので、チャリはおろか自動車も一応進入可能だ。
まあ、上の写真を見て頂ければお分かりの通り、どの通行帯から直進して良いのかは、永遠の謎であるが。
さて、終点も間近であるが、再び林鉄の痕跡を感じさせる幅となった。
早速現れるのは、またも橋である。
この橋は、今までの二本の橋よりはいくらかまともだ。
むしろ、何の面白みもない様に思われた。
だが、残り僅かな時間を惜しみながらも、橋の脇に回り込んでみると、なんとなんと、橋台がめちゃくちゃ古そうなんですけど。
石垣じゃあないですか!
石垣の目地の間に、モルタルで補強した痕跡があるが、紛れもなく石垣橋台である。
基礎はコンクリに置き換えられているものの、辛うじて残っていた。
やはり、この橋も林鉄由来で間違いはあるまい。
幅も同程度だし、ガーダーの様子も、上流の残存二本と同程度に見えた。
ここにきて、明治の威厳復活か?!
国道101号線が、このすぐ左側を並走しており、朝のラッシュで車がだらだらと連なっている。
一方、狭いがちゃんと舗装された林鉄跡は、通る者もない。
例外は、自分と、チャリ通の高校生だ。
激しい逆光で写真は真っ赤っか。
田中集落は、比詰の隣だ。
林鉄跡は国道よりも直線的に、田畑と民家を割って割って一直線に駅を目指す。
私の終着地、羽立駅のタイムリミットまで、
のこり5分を切っている!
メチャメチャ疾走中!!
一旦国道に接して、すぐにまた離れていく。
この先の区間は、自転車道と表示されており、許可車以外の自動車の通行は禁じられている。
だが、道幅はますます広がり、普通の1車線の町道と何らかわらない。
のこり、4分!
林鉄跡といわれても、はぁ? といった感じの至って普通の道。
せいぜいかつてここが鉄道だった痕跡としては、妙に直線的なことと、旧家は大概背を向けていることぐらいか。
あふぅ あふぅ あふぅ。
のこり、3分。
マジで会議に遅刻したら、絶対やばい。
しかも、「山さ行ってました」とは言い訳不能だ。
己の足を信じて走れー。
漕げ漕げー。
比詰川を渡っていよいよ比詰集落に入るぞ。
この橋には、銘板があった。
そこには、「一号橋」と記されているではないか!
こ、これは林鉄由来?
だよなー?
自転車道としての一号橋という意味ではないだろう。
最後の最後で、ちょっと意味深な橋の名に遭遇したが、もはやそんな余韻を咀嚼している猶予はないのである。
橋もぶっちぎりだ!
ここは比詰集落内の羽立駅裏の住宅地。
林鉄跡は恐らく直進し、かつてあった駅接の貯木場に通じていたっぽい。
残りは50mを切っている。
残念だが、最後までつきあっていれば、駅裏でジ・エンド!になってしまうので、ここで林鉄とはサヨナラ。
そして、国道を100mほど迂回して、駅へ到着しました。
結果、間に合いました。
ギリギリでしたが。
ちなみに、切り通しからここまで、実探索時間にして18分でした。
あとは、帰宅してじっくり準備して、会議にも無事出席しましたとさ。
めでたし、めでたし。
最後になったが、この林鉄が開通した明治42年当時、まだ羽立駅など無い。
羽立駅を設ける男鹿線(当初は船川線と称した)が開通したのは、大正4年である。
よって、林鉄開通当初の終点が、羽立駅ではなく、付近の別の場所であった可能性もある。
今となっては、判然としない部分ではあるが。
これにて、一応男鹿林鉄についての紹介を、終える。