ミニレポート 第94回 JR釜石線 陸中大橋駅

所在地 岩手県釜石市
探索日 2006.02.28
公開日 2006.03.15

巨大鉱山の玄関口

 個人的に大好きな街、釜石。
道路も面白いし、鉄道も面白い、鉱山(ヤマ)も面白いといった感じで、私の冒険心をいつ何時でも刺激してくれるこの街の、愉快なスポットの一つを、紹介しよう。
 内陸側から釜石へと鉄道で足を踏み入れたときの玄関口となる、JR釜石線の陸中大橋駅である。
と同時にここは、かの釜石鉱山の積み出し駅としても栄えた場所であり、当時の沿線では釜石駅に次いで活気溢れる駅だったという。

 その今を、お伝えしよう。



   もしあなたがこの陸中大橋駅で列車から降りたとする。
そのとき、駅の出口をくぐって最初に見る駅前の景色は、おそらくあなたの想像していた通りの景色だろう。
前提としては、あなたが釜石について、既に廃山になっているという最低限の事前情報を持っていた場合だが。

 駅前には、もう二度と満車になることがないのではないかと思えるような、奇妙に広く、しかも未舗装の駐車場がある。
その先には大橋地区のメーンストリートがあるが、さもそれが当然であるかのように車通りは稀で、その対面に見える商店も、一軒としてシャッターを開けてはいない。



 私は、他所から車で来て、この駅へと立ち寄った。
駅前の景色は前述の通りのもので、これは想像していたとおりだったのだが、駅自体の佇まいについては、私の想像を超えるものがあった。

 閑散とした駅前駐車場の向こうには、なにやら新幹線の高架橋のような不思議なオブジェが建っている。
そこには、全くもって景色にそぐわない、はっきり言って私の目には雑音のようにしか見えない巨大な看板。
しかも、恥ずかし気も無く、釜石の素晴らしさをせつせつと謳っている。
 わざわざこんなしょうもない宣伝のためにビルのようなコンクリートの骨組みを作ったのなら余りにも愚かだが、そうではない。
これは、(残念ながら現役当時の姿を私は知らないが)釜石鉱山の鉱石を貨物に乗せて積み出すための「ホッパー」の跡だと言われている。
ほんの数十年前までは現役で稼働していた。


 ようは、この駅の繁栄していた当時の名残を、宣伝に再利用しているというリサイクル看板なのである。

 失礼だが、情けないとしか思えない。

 再利用するのは良いのだが、こんな使い方しか出来ないのだろうか?
部外者の私の雑音を真剣に聞く人はないだろうが、言わせてもらえば、街の繁栄を素直に懐かしむ為に使えないのだろうかと思う。
お世辞でなく、日本の近代化を支えた釜石鉱山であり、日本で3番目という早さで鉄道が敷かれた歴史的な終着駅(明治13年、官設釜石鉱山鉄道開業、当時の終点は大橋…この付近にあった)である。
これだけ立派なホッパーの跡という産業遺構があるのなら、その意義を隠すような飾り付けではなく、素直にその特別さを来訪者にアピールしても良いのではないか。
ガイドブックの拡大コピーのような宣伝で、いまさら旅行者の財布のひもが緩くなるなどと思っているのだろうか。

 街を支えた廃墟を隠すというのは、何か意味のあることなのだろうか。



 いきなり辛口とも言えぬような愚痴でレポートをはじめてしまって申し訳なかった。
釜石への勝手な思い入れゆえ、少し力みすぎてしまった。

 さて、駅のレポートを続けよう。

 ……が、この駅には特にこれと言ったものはなにもない。
聞くところによると平成8年ごろまでは立派な駅舎が残されていたそうだが、現在は島式のホームにポツンと小綺麗な待合室が乗っかっただけの、何所にでもありそうなローカル駅となっている。
ただし、今も島式のホームの両側のレールは黒光りしており、行き違いの施設は生きているし、JR職員の詰め所のようなものもあって、普段は無人なのだろうが、私が訪れたときにもちょうどJRの作業員が何やら出入りしていた。
この駅は、仙人峠越えというJR釜石線最大の難所を控えた峠の駅でもある。



 釜石線はいちローカル線に過ぎないが、岩手県の内陸と沿岸とを結ぶ3つの鉄路の一つであり、道路が未発達だった時代に果たした意義は大きい。
全線が開通したのは昭和25年で、特にこの大橋のすぐ西に位置する仙人峠の突破は難工事であった。
結局、仙人峠そのものの貫通は隧道が余り長くなるなど弊害が多く、仙人峠より南よりの土倉峠の直下をくり抜く隧道を主として、幾つもの隧道とカーブで峠を越えるルートが選ばれたのである。
特にこの大橋駅を出て直ぐにある「オメガカーブ」は鉄道好きには有名なスポットで、大きな半弧を描く隧道によって、高度を稼ぎつつ進行方向を大橋駅の前後で180度かえている。




 陸中大橋駅には、今は使われていない側線も何本か撤去されぬままに残されている。
宣伝に使われているものの他に、ホームの少し北側にもホッパーの残骸が残っている。
こちらはほぼ形を留めており、私の気持ちを満足させてくれる。

 右の写真は当駅の雰囲気をよく伝えているかと思う。
幾筋かの側線(本線も写る)にホッパーの残骸、そして、行く手に見えるトンネルはオメガカーブで有名な「第2大橋トンネル」である。
イメージすることしかできないが、このトンネルは向かって左側の山の地中に、おおよその半径250mの半弧を描きつつ、さながら螺旋階段のように高度も稼いでいるのだ。
なお、目の前に聳える山は雌岳(海抜1291m)で、釜石鉱山の全長1500kmと言われる坑道の巣のような山だ。



 それはそうと、私は思いがけぬものを発見してしまった。

 最初は複線のトンネルなのかと思っていたが、その片側にはレールが続いていないではないか?!


 こ、これって、廃線?!廃隧道?!

 おもわず歩みを早める。




 こっ、
  これはッ?!




 短ッ。




 残念ながら、それは隧道と呼べる代物ではなく、奥行き10mほどの突っ込みトンネルだった。
果たしてそれがなんなのかについては、残念ながら今は分からない。
ホッパーに続く部分にあるので、積み込み中に機関車なりがいくらか余裕を持って前進後退するための与スペースだっただけかも知れない。
このトンネルの坑口上部にも、なんらかの積み込み器が設置されていたような気配はあるが、痕跡は乏しく判然としない。
 あなたのご意見、そのものずばりの答えでも良いので、お待ちしてます。



 大橋第2トンネルの中に入ればオメガカーブを体験できるだろうが、さすがにそこまでお馬鹿じゃないので、ここは潔く撤収。

 この景色だけ見ると目の前の高い山並みを貫通していくように見えるが、実際にはそっぽを向いて反対の山を貫くのだから、設計した人の苦肉の策ぶりが窺える。

 なお、この両側の石垣の上にも、往時には様々な建物が軒を連ねていたし、頭上にはガラガラと轟音を立てながら鉱石を流す巨大ベルトコンベヤーが稼働していて、ホッパーへと供給を行っていたらしい。
まさにこの静けさが、今の釜石を最も良く物語っている。




 これで駅の紹介は終わりなのだが、一度釜石で車を降りてしまうと、次から次へと見たい行きたいが生まれてきて際限がない。

 例えば、駅の敷地の隅のバラストが積まれているあたりからは、所在なさげな階段が伸びていたりする。
上ってみても空き地があるばかりなのだが、その階段の広さや、手摺りがあることなどから、かつてはそこそこ往来のあった通路だと想像されたりするから、また面白くて深みに嵌る。





 おもわず駅を離れ、かつての鉱山街のメーンストリートをそぞろ歩いてみれば、早速現れたる、謎の穴。

 これはもう、どこからどう見ても、謎の穴というより他はないだろう。

 あたりに何の案内もなく、唐突にこんな穴が街角に口を開けているのが釜石鉱山街である。
私が心底好きだと思う理由も、頷いていただけるだろう。




 別に入るなとも書いてないので躊躇わず入る。

 すると、ちょっと今時こんな場所があったのかと驚きを覚えるほどの、とてつもない怪しげな通路。
一応は照明も点いているが…、なんだか数十年前の場末の街路にでもタイムスリップしたようなイメージだと言えば分かり易いだろうか。
当然、人の気配などは全くない。



 穴の中では無敵を誇ると自負する私が、思わず不安になって振り返るとそこには、平和といえば平和、だが余りにも街と言うには寂しすぎる並木道が、昔の駅の改札口のような互い違いの柵の向こうに見えていた。
そこを跨ぐ小さな溝の側溝もまた、時代を感じさせる造りである。

 なお、この街路樹の道は、昭和40年まで鉄道の通り道だった。(或いは鉄道と道路が平行して存在していたのかも?)
昭和25年に釜石線が全通したのは先に述べたとおりだが、その前から釜石と大橋を結んでいた釜石鉱山社線が、この坂道を上ってから、さらにスイッチバックで社線の大橋駅に辿り着いていた。
おそらくいま私がいる通路は、その当時からここにあったことだろう。




 さて、勇気を出して薄暗く狭い通路を進むと、5mほどで直角に折れた。
そして、その先には急な階段が地上へと続いていた。

 何のことはない、壁の上下を繋ぐ連絡通路だったようだ。
人の暮らす場所にしてはあまり殺風景な景色だが、確かに私が小さい子供だった20年前の街中には結構こんな場所があったなと思い出す。
住人が極端に減ってしまったこの辺りでは、時間が閉山のまま止まっている……?



 地下通路はかなり古そうだったが、その地上部分にある屋根やそれを支える土台のコンクリートはまだそう古くないように見える。
だが、おそらくこの冬を越冬してきただろう出入り口前の小さな雪原には、我々以外の足跡は一切無く、この通路を使う人が殆どいないことを暗に伝えていた。




 ここは、どうやら学校だったようだ。
2階建ての母屋に背の低い体育館らしい別館、そして遊具の全て取り外された中庭と小さな校庭が、狭い敷地に集まっている。
背後には国道283号線の急坂があって、そこだけは今も慌ただしく時が流れているようだった。

 この地下通路がどんな風に使われていたのかを考えるが、どうしても子供達の明るい笑い声とは重ならない。
だが、かつて鉱山(ヤマ)の栄えていた頃、街には昼夜無く光が溢れ、男達の喧噪と女達の嬌声が混ざり合い、今とは全然違う空気が流れていたに違いないのである。

 この街にも時は流れていたのだ。


数名の読者さんからこの建物について情報を提供いただきました。
実はこの建物は学校ではなく、集会場だったとのこと。
名前は「明道館」といって、柔道場と卓球場が中にあるそうです。
鉱山街に住む人たちの憩いの場所だったのですね。