そのような事例はおそらく全国でもここだけと思われるのが、県都の中心駅が終点となっていた仁別森林鉄道。
廃止されてもう久しいが、今もそのほぼ全線をサイクリングロードとして辿ることが出来る。
山行がでも部分的に紹介してきたが(起点部分となる「旭又インクライン」や「旭川ダム直下部分」など)、今回は、沿線最大の集落であり中間土場ともなっていた仁別駅と一つ下流の集落であった藤倉までの区間に潜む奇妙な隧道を紹介したい。
秋田市民ならばその存在を知っている方も多いことだろう。
だが、その正体をご存じの方は少ないはずだ。
山間の村であった仁別地区も、太平山の観光開発に伴って大きく地図が塗り替えられている。
集落の南側の山間部は広大な公園となっており、様々な施設が憩いを提供している。
かつての森林鉄道は、現在の県道15号線(主要地方道秋田八郎潟線)とは並走するがその多くの部分で重ならず、代わりに雄和仁別自転車道(県道401号線)として鋪装されている。
今回紹介する隧道があるのは、太平山前衛の山並みに挟まれて旭川が谷間を曲流する、上台と呼ばれる地区である。
家から近いこともあり、今までも何度となく訪れている場所だが、今回は2003年頃に撮影した秋と冬の写真で紹介しよう。
チャリで仁別駅側から軌道跡のサイクリングロードを下っていくことにする。
いまも広々とした空き地が残されたままの仁別駅跡。
太平山の登山基地としてもかつては栄え、私が中学生の頃にはまだ民宿の建物が多く残っていたりもした。
さらに前にはホームの跡なども判然としていたと言うが、私は気が付かなかったし、今は跡形もない。
小さな標識に従って自転車道に入る。
全てのシーズンを走ったことがあるが、近年は通る人も少ないのか補修の手も余り入らず鋪装が荒れてきている。
特に下草が多い夏場は視界が余り良くない。
軌道の幅を彷彿とさせる狭い自転車道だから、夏の訪問は余りオススメしない。
だが秋や新緑のシーズンは至って快適なサイクリングを楽しめる。
仁別で自転車道に入り旭川沿いに緩やかに下っていくと、間もなく旭川は対岸の妙見山の険しい山裾にぶつかり谿流が始まる。
さらに進むと自転車道は相次いで2本の橋を渡る。
始めに現れるのがその名の通りひょろ長い印象の「長橋」と、次いですぐに「洞門の橋」とかかれた標識が立つ橋である。
奇妙な橋の名前を訝しく思ったとしても、そのまま前だけを見て走っていくと、その名前の意味は分からないままで終わってしまう。
橋を渡り終えたところで後ろを振り返ると…。
このように目立つ穴が口を開けている。
軌道跡を利用した自転車道は隧道へは入らず、直前で右に曲がって橋に進む。
この橋は「洞門の橋」と標識が付けられており、目の前の隧道(洞門)にその名の由来があることは明らかだ。
見ての通り、完全に素堀のままの隧道だが、大きな崩れもなく、立ち入ることを防ぐような物も何一つ無い。
人知れず山中に口を開けている隧道ならいざ知らず、自転車道の脇にこれだけ堂々と廃隧道が口を開けているのに、「立ち入り禁止」の立て札一つ無いというのは、なんだか珍しい感じがする。
かといって、これが観光名所として使われている様子もなく、現地にはこれがなんなのかを示すものはない。
なんと、隧道の出口はそのまま旭川の淵に口を開けている!
そんな不注意なサイクリストはまずいないと思うが、隧道の直前の右カーブを見落として真っ直ぐ隧道へと進んでしまえば、出口でそのまま川に飛び込むことになる。
左の写真は、「洞門の橋」から隧道のある岩盤を写したもので、写真中央やや右よりの窪んだような場所に、隧道の出口はある。
初めて見た頃は、一体何のためにこの隧道があるのか、皆目見当が付かなかったものだ。
ここからは、2003年の冬の写真でレポートを続けたい。
もちろん自転車道路は除雪されないから、写真は積雪40cmくらいあるところをチャリを押して強引に通り抜けたときのものだ。
このように、出口の先には谷が口を開けているばかりで、どこにも道はない。
閉塞はしていないが、行き止まりの隧道である。
隧道を背にして、さらに自転車道を下流へと進むと、旭川の流れが急に広くなり、葦の茂る湿地のような川となる。
これは、明治44年に完成した藤倉水源地の藤倉ダムで、昭和48年に廃止になるまで60年以上も秋田市民の水甕として利用され続けた。
現在は取水はされていないが、湖はそのまま残されている。
歴史の古さを象徴するように、複雑な形状をしている藤倉ダム。
本堰堤やそれに続く副堰堤、美しいスロープ状の放水路などがある。
これら主要な構造物はすべて石造であるが、写真は本堰堤を跨ぐように設置されたトラス橋(管理用人道橋)である。
一連の遺構は、平成5年に国の重要文化財「近代化遺構」の第一番目として指定を受けている。(群馬県の碓氷峠鉄道施設と同時指定)
自転車道(軌道跡)は、放水路の描くカーブに沿って通っている。
放水路の浅い水底には小刻みな凹凸が沢山あるために、流れは真っ白に泡立っている。
夜半までの雪が穏やかな朝日を浴びてキラキラと輝き、木々を彩る雪片が生き物のように飛び跳ねてはさらさらと地上へと注いでいた。
水の音だけがいつまでも続く中、私はしばし見とれてしまった。
やがて自転車道(軌道跡)は巨大な堰堤の真っ正面へとさしかかる。
堰堤を跨ぐトラス橋は、明治44年製の下路曲弦ワーレントラスで、橋長は30.6mである。
国内現存明治期道路橋の10傑に入るといわれ、「日本の近代化土木遺産」にも指定されている。
ダムを脇に見ながら、気が付くと県道が頭上に覆い被さってくる。
合流地点の付近では、県道の路肩の下に自転車道のコンクリート洞門が埋め込まれた2階建て構造となっており、無理矢理だが「県道15号線と401号線の立体道路」だと言えなくもない。(こう書くとなんだか都会的だが…)
軌道跡を利用した自転車道は一旦は県道に吸収されるが、100mほど秋田市街側でふたたび山側に分岐するのである。
写真は、自転車道との分岐地点を振り返って撮影。
奥の方で立体的になっているのが見えるだろうか。
これでレポを終わると余りにも隧道の印象が薄いと思うのだが、実は私も、あんまり自宅に近いし、景色に溶け込んで存在していることもあって、この隧道がなんなのかを真剣に考えないままに最初の遭遇から10年以上を経過してしまった。
「考えるも何も、軌道の隧道の跡でしょ」 と、そう思う読者が多いだろうが、そう話は単純ではないのだ。
軌道が昭和43年に廃止された当時、この隧道が軌道に使われていなかったと言うことが知られている。
そのことは、例えば秋田魁新報社刊の『秋田橋物語』には仁別森林鉄道の話しに関連して「この洞門の中では、レール上に撒いてブレーキの効きを良くするための砂を焼いていた。」ということが、当事者によって語られているし、やはり昭和30年代の地形図などを見ても、隧道は描かれていない。
また、実際に洞門の天井や洞床には炭によって黒く変色した箇所が今も見られ、軌道が自転車道と同じように隧道をかすめて通っていたことは間違いないようである。
だが、それでは何のために隧道が掘られているのかという疑問に答えられない。
この谷間の道は軌道が通った時に開削されたのが最初のようであるし、わざわざ砂を焼くためだけに洞穴を掘ったとも考えにくいではないか。
私は、やはりこの隧道もまた、軌道が通っていたのだと考える。
ただし、途中でルートが右の地図のように変更になったのではないだろうか。
仁別森林鉄道は藤倉水源地とほぼ同年代の明治42年に完成した極めて古い路線であり、現在残る主要な橋はコンクリート製であるが(自転車道の多くの橋が林鉄用の橋を改造したものである)、完成当初は木橋であった可能性が高い。
上流の務沢付近では、現橋の直下に木製の旧橋脚が残る箇所も発見されている。
さらに、大正末期から昭和初期の地形図では、この部分の描かれた線形は、それ以降のものとやや違う様にも見える。
残念ながら、余りにも短い隧道は描かれておらず確証には至らないのだが、おそらくは、昭和のある頃までは、この隧道を実際に軌道が通っていた。
そしてそこから続く部分には木橋が架かっていたのではないかと想像するものである。
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