ミニレポ第97回 国道115号旧道 欅橋

所在地 福島県相馬市 
探索日 2007.6.13
公開日 2007.6.18

けやき橋の旧橋は現存するのか


 福島県福島市から、ほぼ真東へ阿武隈高地を横断して、太平洋岸の相馬を目指す一本の道がある。
この道は江戸時代には相馬の古名から「中村街道」などと呼ばれ、それは内陸と沿岸とを結ぶ塩の道であり、五十集の道であった。

 【広域地図(外部リンク)】


大日本帝国陸地測量部発行1/5万地形図「中村」明治41年より

 この道が近代交通の恩恵に浴したのは比較的早く、関連する市町村の記録にあたってみると、明治10年代から馬車道への改良が始まっていたようだ。そして、明治26年までには一通りの改良が終わったらしく、福島から中村までの全線が揃って県道「中村街道」に昇格している。そして時代が下ると、やがてこれは国道115号となる。

現在の相馬市域の西端に近い玉野地区の街道が、旧来の卒塔婆(そとば)峠から、玉野川の河谷に面した元ルートに切り替わったのも、おそらくその当時であったろう。
左に紹介した明治41年当時の地形図では、既に現道に近いルートが「県道」の太さで描かれているのが分かる。

 だが、ここで注目したいのは、この当時の道が現在のルートと極めて近接しながらも、玉野川を渡る地点で誤差以上の違いを見せている点である。
(地形図上の赤いマーカーラインは、現在の国道である) 今回は、この一枚の地図から現地の確認を行った。
上手くすれば、明治の道路遺構(橋)にありつけるかも知れない。





 現在、玉野川を渡る地点には、ご覧の長い橋が架かっている。(福島側から相馬側を望む)
この橋は、銘板によると「けやき橋」で、昭和47年竣工。
水面から30mも高い位置に、谷を斜めに跨ぐように架かっており、歩道がないことを除けば、もっと新しいのではないかと勘違いしそうだ。
これは当然、旧橋の存在が疑われる。 というか、その存在自体はほぼ確定だろう。
あとは、その橋がどこにあるかと言うことであるが…。
明治の頃の地形図には、ときおりびっくりするほどの誤差が含まれているから、まだ予断は許さない。むしろこれからが正念場だ。



 古い地形図によると、現在の橋よりも少し上流(南)の谷底に、谷に対し直角の向きで短い橋が描かれている。
しかし、現橋は険しい崖の上に架けられており、谷は深い。
当てずっぽうに谷を下りるのはリスクが高いので、やはり現道と旧道が交わる地点を特定したい。
となると、現橋の北側の地点。ヘアピンカーブを下った先のあたりでぶつかっていそうである。

 早速その場所へ向かおうと思った私であったが、ふと現橋の山側にある空き地に一つの石碑を見付けたので、近づいてみることに。



 その石碑は慰霊碑であったが、橋と直接関係のあるものではなかった。
昭和30年、相馬市内で発生した山林火災の現場に応援に向かった霊山町(現:伊達市)の消防団員一名が、この場所で殉職したという事が書かれており、石碑の建立は平成7年と最近であった。
殉職した理由が分からないのだが、橋から転落したと言うことなのだろうか。
また、事故が起きた昭和30年には、まだ現在地に橋が無かったと思われ、慰霊碑が事故現場に建っていると仮定すれば、慰霊碑の建つ広場が明治の道と現在の道の間に存在した旧道に由来する可能性がある。

 そう思い、平場の奥まで行ってみたのが左の写真である。
結局、現橋の袂から30mほど奥まで広場が続いているが、その突端は谷に急激に落ち込んでおり、そこに何ら橋の痕跡は見受けられない。
明治の道と昭和47年の道との間には、かなりの隔たりを感じるので、ここに2代目の橋が架かっていた可能性は低くないと思うのだが…。



 平場の突端附近から、現道を振り返って撮影。
草で現道が見えにくくなっているが、奥の明るいあたりがそれだ。
また、途中に背の低い慰霊碑も辛うじて写っている。

法面が描く緩やかなカーブ…。
いかにも旧道が好みそうな形なのだが…?



!!

 なんとまあ。
すごい石垣だこと!

今まで私が居た平場の法面は、この大袈裟なほどの石垣によって守られていた。
慰霊碑だとか、橋だとか、下の方にばかり注意しながら歩いていたから、現道に戻ってきて振り返るまで、気がつかなかった(笑)。

慌てて石垣に近づいて、再度周囲を観察してみたが、やはりここが道路跡であったのか、それ以外の何かだったのか。
その答えは分からなかった。
おそらく当時の地図を見ても、現道とこれしか離れていないとなると、その差異を確認することは難しいだろう。
あとはもう、昭和47年以前の事を知っている人に訊くしかないか…。

ともかく今は当初の目論見通り、明治道を捜索しよう。



 現道のけやき橋を渡りながら、近くに別の橋が残っていないか、八方見渡してみた。
その結果、谷底に一条の道を発見。
これは今の地図にない道であるが、明治の地形図を照らし合わせてみると、まさしくこれがそれのようだ。

あとは、この谷底の道へのアクセスさえ発見できれば。

橋を過ぎ、現道を相馬方向へ下る。
間もなく、急な下り坂とともに九十九折りのカーブがワンセット現れる。ここは相馬・福島間では最もキツイカーブで、事故が絶えない場所と聞く。
その解決のため現在、北側の宮城県境山中に、全長10km余りの自動車専用道路「阿武隈東道路」の建設が計画されている。将来の「東北中央自動車道」の一部となるらしい。






 さて、期待通りの場所に分岐は存在した。
九十九折りの下側のヘアピンカーブの突端から、その外側へ分岐する砂利道。
入り口付近は大量の砂利が浮いたようになっており、大概の車なら腹を擦るだろう。
ただ、意外なことに立ち入り禁止などの表示は一切無い。
ともかく進入してみる。



 砂利が敷かれていなければ、とっくに夏草の海の藻屑と消えていただろう旧道。
その砂利上に新しい轍は全くない。
小刻みなカーブと断続的な急勾配でもって、さっき渡ったばかりの橋の下へと戻っていく。
果たしてこれが明治時代に切り開かれた新道なのか。
まだそれらしい発見はない。



 分岐から350mほどで、頭の上を跨ぐ大きな橋。
紛れもなく現道の橋、けやき橋だ。
谷を斜めに跨いでいる様子がよく分かる。
そして、ここではじめて玉野川の水面を見る。ここまでの旧道も川縁の筈だが、樹木が多く見通せなかったのだ。


 大きな影を潜り、旧道らしき道は引き続いて川の右岸を進む。
おそらくもう100〜200mほどで、明治の地形図で橋が描かれている地点だ。
果たして橋は残っているのか。



 と、ここで突然道の様子が変わる。

日向から日陰への変化。それだけじゃない。“古道”が纏う独特の空気がある。
雨水によって深く穿鑿された路面は、砂利敷きの外側にもかなりの余地を残している。
その山側には、随所に水の滴る苔むした岩崖が控え、川側もまた、苔に覆われた石垣が。

 これは、紛れもなく旧道の姿だ!




 いま来た道を振り返る。
左には、玉野川が控えめな水量を太平洋へと運んでいる。
この川べりに、石垣が現存していた。
それは自然石の空積みで、おそらく昭和に入ってからの築造だ。
明治当初の道幅は、かの万世大路でさえ3間(5.4m)程度であるからして、それより格下の相馬街道にあって、これだけの道幅が当初からのものとは考えにくい。
明治に生まれた道が、昭和以降の自動車交通時代に入ってからも改良されて使われていたようだ。



 かつてこの岩崖も人が削り上げたのだろうか。
チロチロと水が滴る苔の壁が、見上げれば遙か彼方、緑に消えてしまうまで続いており、それは思わず溜息が出る美しさだ。

 右の写真は、この岩場の道に立てられていた、朽ちた木製の標柱。
辛うじて読み取れる黒いペンキの文字は、「原町営林署」とあった。
林鉄でお馴染みの原町営林署の林道として、この旧道は余生を送ってきたのか。
いずれにしても、現在は殆ど訪れる人はないようだ。



 あとはいつ橋が現れるのか。
その瞬間を今か今かと待ちかまえながら、川面の上の方に視線を泳がせながら歩いていくと…


 でたっ!!

これは嬉しい!
なんと橋は健在で架かっていた。
コンクリート製ゆえに、これまで形を留めたのであろう。
明治の橋というわけではなさそうだが、地図から完全に消えた廃橋を一本、補足!

写真は、緑の向こうに見えてきたばかりの橋の姿を、望遠にて撮影。



 橋の袂まで来ると、古い轍さえ途絶えてしまい、廃橋として過ごしてきた時の長さを感じる。
だが、それでも橋自体はしっかりと両岸の地平を渡しており、そこに崩壊の危険は感じない。
それは十分に幅の広い、コンクリートの桁橋であった。
路面上にも新緑がこんもり茂り、既に周囲の森と同化しつつある。



 その橋の全容を見たく、路肩から川べりへと下りてみた。

ご覧の通り、二本の橋桁の上に一本の桁を乗せた、単純な構造の橋だ。
だが、軽量化を目的としたものか、補剛桁が波形の形状を成しており、女性的な美しさを演出している。



 橋桁と橋脚はいたって安定しているようだが、橋台の付け根がかなり崩れており、やがては橋だけを残して、取り付け部分の道が川に流されそうだ。

現在はちょうど、空積みの石垣の断面を観察できる貴重な機会となっている。



 橋は全長15m、幅6mほど。
巨岩がごろごろする谷を跨ぎ、簡単に対岸へと連れて行ってくれる。

写真は、橋を渡ってから振り返って撮影。
橋の上も既に藪だ。

 親柱は4本中3本が健在。
一本だけは、谷底に銘板側を下に向けて落下しているのが発見された。
そして、健在である3本の親柱からは、全て銘板が取り外されていた。
その為に、残念ながら、この橋のパーソナルデータは不明のままである。
現道と同じ名前だとしたら、欅(けやき)橋だろうか。
その竣工年は昭和10年代くらいと思われる。



 橋を渡ってはみたものの…


   その先に、道はない。

古い地形図では、橋の袂は両側とも直角カーブとなっていたのだが、橋を渡って約3mで、道を塞ぐ巨大なコンクリートの壁が出来ている。

これは、現道の路肩の下にある擁壁である。
どうやら、ここから上流側へ続いていた旧道は、現道の工事で完全に消失してしまったようだ。



 道は全くなくなっていたが、河原に下りて上流へと進んでみた。

やはり道はない。
岸の上にはすぐに現道の擁壁が迫っていた。





この橋が昭和47年まで使われていたのだろうか。

銘板を確認できなかったのは残念だが、
期待以上に立派な廃橋の発見に、私は大満足して引き返した。










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